北方史の中の津軽

 

武道確立は明治以降=21

2009/3/2 月曜日

 

弘前藩當田流剣術の伝書(筆者蔵)
當田流棒術(清水宏二・加川康之による演武)
現在の「北辰堂」

 ▽「武道」研究の難しさ
 文部科学省は、伝統と文化を尊重する教育を実現するため、「武道」を中学校の必修科目にするという。しかし、「武道」という呼称や剣道・柔道の基本技術が整備されたのは、明治以降である。
 それ以前の「武道」は、武士の行動規範全般を意味した。武技は「兵法」「武芸」と呼ばれ、特定のルールはなかった。剣、槍(やり)、薙(なぎ)刀(なた)、棒、十(じっ)手(て)、小(こ)具(ぐ)足(そく)など多様な武具を用い、体術としての柔(やわら)を交え、時には呪(じゅ)術(じゅつ)まで取り入れ、流派独自の技法を開発した。
 「武道」の実像は、遥(よう)として知れない。歴史学的には学芸の分野に位置づけられ、思想・学問・兵学などの書物研究は多いが、身体技法や身体知に関する分析は少ない。武芸は文字に頼らない「不(ふ)立(りゅう)文(もん)字(じ)」の伝承体系であり、その習得には、口頭や身体の動きによる「口(く)伝(でん)」が重視されるからだ。さらに、流派の伝承は秘密主義を原則としてきたため、民俗学的な聞き取り調査の段階にさえも至らないことが多い(小山隆秀「身体技術伝承の近代化」)。
 ▽弘前藩の武芸改革
 弘前藩にも様々(さまざま)な武芸の流派があったが、明治以降、大半は全国式の剣道・柔道に統合されていった。剣術の場合、竹刀(しない)の登場がそのきっかけと言える。
 文化2年(1812)、九代藩主津(つ)軽(がる)寧(やす)親(ちか)の高覧仕合で、初めて「しない」が用いられた。4年後、一刀流の武田弥学の門弟が「頬(ほお)面(めん)」を着けて仕合をした。この時「しない」が壊れたので木刀で続けたが、今度は拳を痛めたので、「細キ手袋」(=小手)を装着して高覧に臨んだ、とある(「御用格」)。
 文政3年(1820)には木刀にタンポを付け、頬面と小手を着用した高覧仕合が行われた。同7年には、「仕合は生死を分ける死合である」と竹刀を忌(き)避(ひ)してきた當(とう)田(だ)流剣術までが、小手や竹具足を用いた仕合をはじめた。
 「素(す)面(めん)稽(けい)古(こ)の達者」を自認していた梶派一刀流の須藤半兵衛は「道具附き稽古」で小野派一刀流の山鹿高厚と立ち合い、「帰りには手足が痛くて自分で帯が結べない」ほどの手ひどい敗北を喫した(弘前図書館蔵八木橋文庫「弘前藩武芸資料」)。しかし、山鹿の稽古法に心酔した須藤は、竹刀稽古が流行していた江戸へ出て、後に藩内の竹刀稽古推進派の中核となる。
 文久2年(1862)、十二代藩主津軽承(つぐ)昭(あきら)は、藩内の全流派に「一統面小手稽古」を命じた。藩士には「面仕合稽古道具」が支給され、「修武堂」に集められて、流派を越えた合同稽古が行われた(弘前藩「御国日記」)。それは承昭が学ぶ小野派一刀流、および幕府の講(こう)武(ぶ)所(しょ)式稽古法への統一を意味した。そのため、各流派から「流祖の教えに相違する」と抗議の声が上がったが、やがて受け入れられていった。
 ▽近代の「武道」へ
 幕末になると、弘前藩の軍制は西洋式銃砲術がメーンとなり、歴代の武芸師範らは解任された。しかし、「武道」の灯は消えなかった。明治14年(1881)、小野派一刀流の工藤貞三郎は、かつての武芸師範らを招いて、弘前市笹森町に道場「北(ほく)辰(しん)堂(どう)」を開設した。同市の元寺町柾(まさ)木(き)座(ざ)には、武芸や面仕合を見せ物とする一行が仙台から毎年やってきて、撃(げき)剣(けん)(=竹刀稽古)が大ブームとなった。
 青森市浜町でも乗田庄作が「小野派一刀流面仕合」を教え、警官などが集まって賑(にぎ)わった。こうしたイベントが津軽地方に受け入れられていった状況は、全国の動向と一致する。その後、京都で結成された全国組織「大日本武徳会」が竹刀稽古を中心とする「剣道」の新理念を整備し、普及を進めた。明治28年のことである。
 このように、今日、我われが思い描く「武道」のイメージや基本技術は、必ずしも不変の伝統ではなく、幕末から明治・大正期にかけての多くの取捨選択の中から形成されたのである。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀)

 

◆ひと口メモ ◇企画展のご案内
・「サムライ・チャンバラ博覧会―武の実像と虚像」
・3月3日(火)~5月6日(水)・青森県立郷土館
 珍しい武具や縄術人形、赤穂義士人形などの歴史資料が展示されるほか、各種の演武会、ワークショップ「黒頭巾をつけてみよう」など、多くの催しがあります。

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『弘前に津波』大騒ぎ=22

2009/3/16 月曜日

 

「大石転びの図」(弘前市岩木・葛原町会蔵)大石ころびの図(葛原町会)
「津軽編覧日記」クリンケンベルグ彗星(弘前市立弘前図書館蔵)
「金木屋日記」ドナチ彗星(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽弘前城下と津波
 天変地異はしばしば、人心を左右する。そこからさまざまな風聞が生まれるが、そのすべてを荒(こう)唐(とう)無(む)稽(けい)と斬(き)りすてることは正しくない。迷信・妄(もう)信(しん)と決め付けられないものもあり、むしろ当時の人々の精神生活を知るうえで、格好の教材と言うべきだろう。
 明和3年(1766)正月28日(新暦では3月8日)の大(おお)地(じ)震(しん)は、津軽一円に大被害をもたらした。その折、弘前城下で奇妙な事件が持ち上がった。余震が続く正月晦(みそ)日(か)の夕方、下(した)町(現在の鷹匠町)の住民が大騒ぎし、女の子が数人、泣きながら、素足で上(うわ)町(城郭方面)に逃げてきた。津波が来る、と聞かされたという(「津軽編覧日記」)。
 弘前城下は海岸から遠い内陸に位置しており、津波の被害にあうとは、およそ考えられない。後で、まったくのデマと分かったが、当時の人々は恐怖を覚えたのである。
 ▽転び上がる石
 江戸後期、岩木山は立て続けに噴火した。天保4年(1833)、弘化元年(1844)、同2年、安政3年(1856)と噴火があり、地震がひん発した(「津軽地方災害年表」)。
 安政2年3月15日の昼近く、岩木山で地震による落石があった。後日、現地を見に行った葛(くず)原(はら)村(弘前市岩木)の庄屋半四郎は、その様子を一枚の絵図に残した(旧岩木町葛原町会資料)。そこには高さ1丈(約3メートル)、周囲14間(約25メートル)の大石が描かれているが、おもしろいのは、その脇に「ころび参上り」と記されている点である。つまり、下から転び上がってきた、というのだ。
 この石は「去ル戌年二月」(嘉永3年か)に山頂近くの「後ろ倉」方面から、葛原村の上方600間の「石倉」付近に転げ落ち、さらにこの地震で16間(約30メートル)ほど転び上がった、とも書かれている。
 物理的には信じがたく、半四郎が前にこの石を見たことがあって、その場所を勘違いしたとも考えられるが、可能性そのものは否定できない。
 ▽記録された天文現象
 古記録には、天文現象に関する記事が多くみられる。例えば、清少納言「枕草子」に出てくる「よばひぼし」(婚ひ星)が流れ星を指すことはよく知られているし、近いところでは、江戸時代後期、幕府天文方の高(たか)橋(はし)至(よし)時(とき)と間(はざま)重(しげ)富(とみ)が外出中、木星食に偶然気が付き、銅銭とこよりで振り子を作って、振幅数を数えながら帰ったというエピソードもある(斉藤国治『星の古記録』)。
 特に不吉なものとされた彗(すい)星(せい)は「稲(いな)星(ぼし)」「五光星」などと呼ばれ、しばしば絵入りで描かれた。津軽地方の記録でも、
(1)延宝8年(1680)11月
 キルヒ彗星(「津軽編覧日記」)
(2)延享元年(1744)正月
 クリンケンベルグ彗星(同)
(3)明和6年(1769)7月
 メシエ彗星(「封内事実秘苑」)
(4)安政5年(1858)9月
 ドナチ彗星(「金木屋日記」)
などの彗星名が特定できる(小田桐茂良「青森県内の古文献にみられる天象」)。
 幕末の弘前にあって津軽国学グループの指導的役割を果たした平尾魯(ろ)僊(せん)は、自著「幽府新論」の刊行を計画して、江戸・平田家の気(い)吹(ぶき)舎(のや)に原稿を送り、論評を頼んだ。これに応えて慶応3年(1867)9月、平田延(のぶ)胤(たね)(銕(かね)胤(たね)の子)は魯僊に書簡を送ったが、その中で「日食・月食は凶事があるという天の戒めと言われるが、そうではないので、この部分は再考した方がいい」とアドバイスしている(国立歴史民俗博物館蔵平田文書)。科学的・合理的精神を取り入れることの重要性を説く延胤のことばは、保守的な学問と見られがちな国学のイメージとは正反対のもので、新しい時代の到来を感じさせてくれる。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

 

◆ひと口メモ 彗 星
太陽系内で運動し、特に、太陽の反対側に向いた尾を伴う天体。明治43年(1910)のハレー彗星は、八戸の時計店主前原寅吉が観測に成功している。

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内容異なる『高屋本』=23

2009/3/30 月曜日

 

正徳2年写「東日流記」(弘前市立弘前図書館・一般郷土資料)
「高屋本」に見える津軽家歴代の当主名と高屋家の由緒(弘前市立弘前図書館・一般郷土資料)
別系統の「高屋本」写本(弘前市立弘前図書館・岩見文庫)

 ▽最も古い「弘前藩史」
 弘前藩の史書として最も有名なのは、享保16年(1731)に完成した『津(つ)軽(がる)一(いっ)統(とう)志(し)』であろう。しかし、これを70年余りさかのぼった寛文4年(1664)、古来よりの重臣で名門である高(たか)屋(や)豊(ぶ)前(ぜん)浄(きよ)久(ひさ)の手によって「東(つ)日(が)流(る)記(き)」という一書が著わされた。別名を「高屋家記」といい、津軽為(ため)信(のぶ)以来の津軽氏の歴史を記したものとしては、最古のものである。
 さて、弘前市立弘前図書館には、「東日流記」の異本で、正徳2年(1712)、木村某によって書写されたという「東日流記」がある。この写本は高屋家旧蔵といい、やはり高屋豊前の手によって著された可能性が高いものである(以下、「高屋本」と呼ぶことにする)。
 「高屋本」は私たちが通常目にする「東日流記」の本文とは、異なる部分が多い。しかも、高屋家の由緒とでもいうべき記述があり、必ずしも、津軽氏の歴史に特化して記されたものとはいえない側面がある。
 また、「高屋本」の本文は明暦4年(1658)ころに成立した可能性が高い。この成立時期は注目に値する。次に見てみることにしよう。
 ▽津軽信(のぶ)政(まさ)の修史事業構想
 弘前藩四代藩主津軽信政は、二代藩主津軽信(のぶ)枚(ひら)が蒐(しゅう)集(しゅう)した古記録類を、江戸の屋敷へ運びこんだ。これは、信枚がめざしていた史書編さん事業を引き継ごうとしていたといわれるが、明暦3年(1657)の江戸大火で、これらは焼失してしまったという。
 そこで信政は再び旧記類を蒐集し、自らこれを10冊にまとめ、さらには家中諸家の先祖名や事蹟などの調査を、生涯かけて続けたという。信政は単なる興味本位ではなく、本格的な修史事業の必要を感じ、構想していたからであろう。
 「高屋本」の成立はまさにこの時期で、信政による旧記類の再蒐集に合わせて編集されたと見ることが可能である。
 ▽記されない御家騒動
 さきに述べたように、「高屋本」には、「東日流記」の本文とは異なる部分が多い。両者を比較してみると、例えば、「高屋本」には秋田領との境である矢(や)立(たて)峠(平川市碇(いかり)ケ(が)関(せき))の整備や為信による猿(さる)賀(か)神宮寺(平川市尾上)十二坊の破却といった、天正13年(1585)以後の津軽地方に関する記述が見られない。
 さらに特筆すべきは、「高屋本」には慶長17年(1612)の高(こう)坂(さか)蔵(くら)人(んど)の乱といった「御(お)家(いえ)騒(そう)動(どう)」的な記述が、いっさい見えないということである。
 幕藩体制の成立期において、藩主家(この場合は津軽家)には、幾度の危機を乗り越えることによって大名領主権力を確立させたという認識があった(長谷川成一『弘前藩』)。ゆえに、「藩史」を記録する際において、御家騒動はむしろ、積極的に記録されるべきテーマであったろう。しかし、「高屋本」の本文は、そうした藩の意向が入り込む以前に成立したと考えられるのである。
 つまり、「高屋本」は、藩の意向(「弘前藩史」としての側面)が入り込む以前の「東日流記」、すなわち、原(げん)「東日流記」とでもいうべき存在であるといえよう。
 実は、ここでは紹介できなかったが、「高屋本」とよく似た本文を持つ写本がもう一つ確認できる。こちらの写本は、本文系統としては「高屋本」に先行する可能性が高い。
 これら原「東日流記」の存在は、後に編さんされた多くの「弘前藩史」を読み解く上で、重要な手がかりを与えてくれるのではないかと思う。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

 

◆ひと口メモ 明暦の大火
明暦3年(1657)正月18日から同20日にかけて起きた、江戸時代最大の火災。江戸の6割が焼失し、焼死者10万人余を出した。振袖火事とも。

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指導力買われた信英=24

2009/4/20 月曜日

 

津軽信英画像(弘前市・正伝寺蔵)
明暦の検地帳(黒石市蔵)
黒石神社拝殿

 ▽藩主信政の後見役
 黒石津軽家の祖・津軽信(のぶ)英(ふさ)は元和6年(1620)、弘前藩二代藩主津軽信(のぶ)枚(ひら)の二男として、江戸・神田(東京都千代田区)の藩邸で誕生した。兄の信(のぶ)義(よし)とは異母兄弟であるが、ともに信枚の正室満(ま)天(で)姫(徳川家康養女)を嫡母とし、彼女のもとで養育され、幼少期を過ごした。
 信英は寛永19年(1642)に幕府小姓組に召し出され、三代藩主となっていた信義から1000石の合(ごう)力(りき)米(まい)(手当米)を受けた。正保2年(1645)には幕府からも蔵(くら)米(まい)300俵を支給され、慶安3年(1650)に西(にしの)丸(まる)書(しょ)院(いん)番(ばん)、翌4年に駿(すん)府(ぷ)加(か)番(ばん)、明暦元年(1655)には再び西丸書院番を勤めた(「津軽家系譜」)。このように、信英の身分は幕府の旗本であり、江戸が生活の本拠であった。
 明暦元年、信義が死去すると、幕府は翌年、信義の嫡子信(のぶ)政(まさ)に跡目相続を許した。しかし、信政は数えで11歳の幼年であったため、幕府は新藩主の叔父である信英を後見役とし、藩政を指導させることにした(「津軽家系譜」)。
 初期の弘前藩には家中騒動が絶えず、正保4年には重臣らが信義の不行跡を幕府に訴え、信英を藩主に擁立しようとする騒動が持ち上がったりしていた。それだけに幕府は、信義死後の藩政を安定させ、家臣団を統制する政治力を発揮できる人物を登用する必要がある、と考えたのであろう。将軍家の縁者であり直臣でもある信英は、後見役にふさわしい人物と目されたのである。
 ▽黒石津軽家の成立
 明暦2年、信英は、弘前藩から5000石を分(ぶん)知(ち)された(「寛政重修諸家譜」)。その内訳は、黒石領(黒石市一帯)2000石と平(ひら)内(ない)領(平内町一帯)1000石で、さらに不足分として上(こう)野(づけ)国大(おお)館(たち)領(群馬県太田市)2000石が加えられた。これにより、弘前藩は、信英の領地として内定した土地の検地を行い、検地帳を作成した。津軽家の検地帳ではこの「明暦の検地帳」22冊が、最古である(本田伸『弘前藩』)。
 信英への分知は、本藩の所領を分与する「内分(うちわけ)」であった。領地はあくまでも津軽領の一部で、幕府が諸大名や旗本に課す軍(ぐん)役(やく)も、弘前藩が従来どおりに負担した。すなわち、黒石津軽家は、政治的にも軍事的にも独自性を持っていなかった(『黒石市史』通史編一)。
 黒石津軽家の家臣団は、当初の総数が100人ほどで、家老を筆頭に、町奉行・勘定奉行・平内奉行・大館奉行などの行政機構が組織された。基本的に、武官である「番(ばん)方(かた)」よりも、行政官である「役(やく)方(かた)」と当主の側近である「奥(おく)役(やく)」を中心とした構成であった(長谷川成一『弘前藩』)。
 ▽神として祀られる
 信英は、明暦2年閏4月に弘前城に入り、実質的に政務を執った。この間、領内検地の実施や諸(しょ)法(はっ)度(と)の起草、さらに「弘前藩庁日記」の創設を提起した。四代藩主信政が初めて国入りするのは寛文元年(1661)6月だが、後に「中興の祖」と称えられる信政の藩政は、実は信英によりその基礎が確立していたと言える。
 寛文2年9月、信英は弘前城内で死去した。遺体は黒石陣屋の郭内に、儒道式で葬られた。遺領5000石は長男信(のぶ)敏(とし)が相続した。信敏はさらに弟の信(のぶ)純(すみ)に1000石を分知したが、のちにこの系統は絶えたため、黒石津軽家は4000石の幕臣として存続した。ちなみに、黒石津軽家の三代当主津軽政(まさ)●(たけ)は、正徳元年(1711)、信英の廟(びょう)所(しょ)に頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)を建立している。
 信英の徳を慕う人は多く、長く崇敬を集めた。明治12年(1879)、黒石町を中心とする有志が県に提出した神祭願が、許可された。これにより、信英を祭神とし、頌徳碑を御神体とする黒石神社が創設され、社殿が建立された。信英は、神として祀(まつ)られることになったのである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 市毛幹幸)
※●は凹の下に儿

 

◆ひと口メモ 「弘前藩庁日記」
17世紀後半から幕末までの約200年間の弘前藩政に関する公式記録。弘前城中で記録された「御国日記」3301冊と江戸の藩邸で記録された「江戸日記」1214冊が、弘前市立弘前図書館に収蔵されている。

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「九浦」で流通を統制=25

2009/5/4 月曜日

 

百川学庵「津軽図譜」より「青森海上泛船船中眺望図」(県立郷土館藏)
近世中期のものと考えられる「青森町絵図」(弘前市立博物館藏)
青森湊から松前へ米の移出許可を求める半紙請求状(県立郷土館藏)

 ▽青森湊は流通の要
 江戸時代は、国内海運が最も発展した時期である。弘前藩も、領内の六つの湊と三つの関所を「九(く)浦(うら)」として整備し、物資の流通を統制した。なかでも青森と鯵ケ沢は、米の積出港として流通の要を占め、さまざまな特権を与えられた。
 九浦制は、青森・鯵ケ沢を「両浜」として流通の頂点に置き、その他の湊に、中継港・避難港・造船場・木材移出港などの機能を担わせることで、流通全体を統制しようとしたものである。陸上交通とあわせ、弘前藩における流通の窓口を編成するためのものであったとされる(難波信雄「津軽藩九浦制小考」)。
 中世以来の日本海海運をベースとして上方への廻(かい)米(まい)を行った鯵ケ沢に対し、青森は主として、太平洋海運に参加した。青森の開港は比較的新しく、弘前藩が幕府から江戸廻米を許可された寛永2年(1625)以後、港湾が整備された。のちには、弘前藩士の知(ち)行(ぎょう)米(まい)を松前・蝦(え)夷(ぞ)地(ち)に積み出し、さらに、同地から北の産物を移入して、北方世界への窓口となっていった。
 しかし江戸中期以降、弘前藩の流通統制はほころびを見せはじめ、九浦制も機能不全に陥る。特に、陸奥湾地域の経済と流通の要であった青森湊では、有力町人らの衰退という形でその兆しが見られるようになる。
 ▽九浦制崩壊の兆し
 青森湊の問屋や船(ふな)持(もち)など資力のある町人たちは、蝦夷地や下北への米の海上輸送を請け負うことを、経営の大きな柱としてきた。しかも18世紀初頭、商(あきない)場(ば)知(ち)行(ぎょう)制を主体としてきた蝦夷地の経済は、鯡(にしん)漁場の経営を主体とする場(ば)所(しょ)請(うけ)負(おい)制への転換期に入っており、多くの出稼ぎ者を働き手として受け入れていた。これによって米の需要が拡大し、蝦夷地に最も近い米生産地である弘前藩にとっては、好機到来のはずだった。
 しかし、元禄8年(1695)の飢(き)饉(きん)以降、弘前藩ではたびたび米の移出が制限されたため、藩米の市場競争力は弱かった。ゆえに、安価で安定的な他地域産米との販売競争に敗れ、蝦夷地の米市場から駆逐されてしまったのである。以後、青森湊の有力町人らは、加速度的に窮乏していった(浪川健治「享保期の藩政と民衆動向」)。
 こうした現象は、弘前藩による流通統制が、全国的な商品流通の伸展に対応できなくなっていたことを示している。
 ▽横行する抜(ぬけ)荷(に)・抜(ぬけ)米(まい)
 寛延3年(1750)、青森湊に出入りする船や荷物に対する統制の強化を目指した達(たっし)書(がき)が出された。荷揚げ場所の規制や、隠し船を防止するための船改め、平内への小(こ)廻(まわ)しにおける抜米の規制、上磯・下磯での抜荷の規制など、達書の内容は実に具体的である。
 そこからは、町人・農民層を中心に、小船や漁船等を用いた抜荷・抜米が盛んに行われていた様子がうかがえる。また、こうした違法行為が常態化し、湊に出入りする船からの役銀徴収が長らく落ちこんでいた状況が見えてくる。つまりは、統制を超えたところでの、民衆レベルによる流通活動が育っていたことを意味している。
 これ以降、藩の統制強化策は再三打ち出されたが、商品流通の広域化と民衆による商品取引の活発化によって九浦制は有名無実なものとなり、領主が主導してきた流通統制は、しだいに機能しなくなっていった。
 陸奥湾地域の人や物が集積する青森湊は、北方世界へ向かうエネルギーが渦巻く空間であった。そのエネルギーは領主の支配領域や統制を超えた経済活動をもたらし、九浦制を解体した。そして最後には、民衆層を主体とした新たな時代を切り開く力、近世から近代へと時代を導く力を芽吹かせたのである。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

 

◆ひと口メモ 「場所請負制」

アイヌとの交易権や交易場所(商場)を所有している松前藩士が、その経営を、商人に請け負わせるもの。鯡漁の伸展により、蝦夷地では請負人による漁業経営が主体となっていった。

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