北方史の中の津軽

 

政権の思惑に揺れる=16

2008/12/1 月曜日

 

津軽為信坐像(複製・青森県立郷土館蔵)
「関ケ原合戦図屏風」に描かれた卍幟(大阪歴史博物館蔵)
津軽右京大夫(為信)あての豊臣秀次朱印状。文禄2年5月15日付。肥前名護屋に在陣する為信への見舞い(津軽家文書)

 ▽津軽為信と肥前名護屋
 天正15年(1587)5月、豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)は、対(つし)馬(ま)の領主宗(そう)義(よし)調(しげ)・義(よし)智(とし)父子に対し、朝鮮王国を日本に服属させるよう命じた。中国明(みん)王朝の征服を目(も)論(くろ)む秀吉は、その途中にある朝鮮を対馬の属国と考えていたのである。
 天正19年、秀吉は中国遠征の前線基地となる肥(ひ)前(ぜん)名(な)護(ご)屋(や)(佐賀県)に築城を始め、翌文禄元年(1592)3月には、集結させた6万の兵に朝鮮への渡海を命じた。
 津軽為信は文禄元年から翌2年まで、名護屋に参陣した。その陣屋は名護屋城、さらには五奉行の一人である浅野長政の陣屋のすぐ隣に位置していた。秀吉は、奥羽最果ての大名である為信を近くに置くことで、すべての大名を公(こう)儀(ぎ)の名のもとに動員し得る政権の実力を誇示し、統一のシンボルとしようとしたのではなかろうか。
 文禄2年3月、秀吉は朝鮮南部の慶(キョン)尚(サン)南(ナム)道(ド)にある晋(チン)州(ジュ)城(ソン)を攻略するため新たな軍団を編成し、奥羽勢を配した。しかし津軽氏と、すでに釜(プ)山(サン)に渡っていた伊達氏は、この編成から除かれた。直後、奥羽勢の朝鮮入りは取り止めとなるが、このときの軍団編成のありようは後々まで、統一政権による軍役賦課の土台となっていった。
 ▽関ケ原の戦いと為信
 江戸時代中期に編集された弘前藩の正史『津(つ)軽(がる)一(いつ)統(とう)志(し)』によれば、為信は関ケ原の戦いに際し、美濃国大(おお)垣(がき)城攻めに参加したという。しかし、新(あら)井(い)白(はく)石(せき)がその事実を疑い(『藩(はん)翰(かん)譜(ふ)』)、津軽家自身も証拠立てができないなど、何かと問題があったしかし近年江戸時代初期の作とされる「関ケ原合戦図屏風」に描かれた「卍印の幟(のぼり)」の分析から、この幟を用いた軍勢は津軽氏であると考えられるようになった(長谷川成一『弘前藩』)。
 すなわち津軽氏は、奥羽勢の多くが参加した上(うえ)杉(すぎ)景(かげ)勝(かつ)(西軍)包囲網から、独り外されていたことになる。もちろん、津軽氏が上杉氏と境を接していないという事情はあっただろうが、先の朝鮮出兵時の軍役が、秀吉から家康への政権移行期にも引き続き連動して賦課されたと見ることができるのである。つまり、晋州城攻めから外された津軽氏は、必然的に上杉氏包囲網からも外され、政権直下の大名として関ケ原に参陣させられたということになろう。
 ▽夷島の軍役を考える
 津軽氏に賦課された軍役のありようは、夷(えぞが)島(しま)の領主蠣(かき)崎(ざき)(松前)氏が賦課された軍役を考えるための手掛かりともなる。
 文禄2年正月2日、蠣崎慶(よし)広(ひろ)は名護屋で秀吉と謁見(えっけん)し、8日には「鎮(ちん)狄(てき)」を命じられ帰国したという(「新羅之記録」)。実はこの前年、加(か)藤(とう)清(きよ)正(まさ)が兀(オ)良(ラン)姶(カイ)に侵攻したため、慶(よし)広(ひろ)は、そこが「蝦夷」に近いという観念を利用して朝鮮行きを回避するため、自発的に名護屋に出向いたのだともいう。
 しかし、清正は文禄元年9月、秀吉の馬廻頭木下吉隆に、兀良姶は朝鮮の2倍ほどの広さの国土であるなどと報告しており、そうした情報は、その時点で秀吉の耳に達していたはずである。よって、慶広の行動を「外交手腕」の高さと評価するのは、いささか過大のようで、蠣崎氏への「鎮狄」命令は同氏に賦課された軍役であったと、素直に考えるべきであろう。
 蠣崎氏は関ケ原戦の際、豊臣・徳川いずれにも与(くみ)せず「日(ひ)和(より)見(み)」を決めこんだという。しかし慶長6年(1601)、慶広の子盛(もり)広(ひろ)は国元へ戦後の状況を伝え、その中で、家康の側近本多正信から「指南」を受けていると述べていることから、蠣崎氏はすでに家康の指揮下にあったとも考えられる。
 津軽氏よりも遠方の大名であることから出陣を見送られたか、あるいは朝鮮出兵の時と同じく「鎮狄」の役割を担ったのか。いずれにせよ、津軽氏に課せられた軍役のありようは、蠣崎氏と統一政権との関わりを考える上でも、学ぶべきことが多い。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

 

◆ひと口メモ 兀良姶
「オランカイ」「オランケ」と読み、現在の中国東北部(旧満州)一帯を指す。17世紀にはこの地の女真族(ツングース系)が勢力を増して南下し、明朝を倒して清朝を建てた。

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キリシタンの流刑地=17

2008/12/22 月曜日

 

取り締まり強化を命ずる幕府老中の条目(弘前市立弘前図書館蔵・津軽家文書)
伴天連市左衛門の自白状の写(弘前市立弘前図書館蔵・津軽家文書)
アンジェリスの「エゾ地図」(イエズス会蔵)

 ▽禁教令とキリシタンの津軽流刑
 16世紀後半の戦国乱世のなか、仏教界は民衆に救いを与える力を失っていた。一方、キリスト教宣教師たちは、慈善・社会活動を通じて民衆の支持を得た。宣教師らは日本の支配層と南(なん)蛮(ばん)諸国の商人とを仲介したため、戦国大名らは物資の入手を目的に、民衆の入信を奨励・黙認した。
 しかし、天下統一を果たした豊臣秀吉や徳川家康は、南蛮諸国による領土簒(さん)奪(だつ)の気配に危機感を抱き、しだいにキリスト教を禁圧するようになっていった。慶長18年(1613)12月、家康は禁教令を発令し、翌年1月には、宣教師の国外追放と京都・大坂のキリシタン摘発を始めた。なかには、有名なキリシタン大名高(たか)山(やま)右(う)近(こん)らも含まれていた。幕府は彼らを「転(ころ)」ばせ(=棄教)ようとしたが、応じなかった右近はフィリピンのマニラへ追放された。同年2月には、「転」ばなかった京都・大坂のキリシタン70人余が、津軽流刑に処された(「当代記」)。
 当時、津軽は北方における日本と異域の境界、最果ての地と考えられており、重大な政治犯の流刑地であった。津軽へ流刑となったキリシタンのなかには、高貴な身分の武士も含まれていたという。彼らはいくつかの集落に分かれて居住させられ、弘前藩の監視のもとに置かれた(H・チースリク編『北方探検記』)。
 ▽外国人宣教師の津軽来訪
 元和元年(1615)と翌年、津軽地方は大凶作にみまわれた。しかし、こうした窮状のなかでもキリシタン流刑者は信仰を維持していたようである。その背景として、夷(えぞが)島(しま)(北海道)への布教を目的とするジェロニモ・デ・アンジェリスやディエゴ・カルバリョ(カルワーリュはスペイン語読み)などのイエズス会宣教師が、津軽に来訪したことも、大きく影響したであろう。彼らは元和年間に数度、流刑キリシタンの集落を訪れて信者を援助し、秘(ひ)跡(せき)を授け、祭儀を行い、告(こっ)解(かい)を聴くなどの慰問活動をした(『北方探検記』)。
 元和6年に夷島・松前へ渡航したカルバリョは、帰途、金(かな)掘(ほり)人(にん)夫(ぷ)(=鉱夫)に変装して津軽領に入った。当時は日本各地で鉱山開発が活況を呈し、新たな稼ぎの場を求める労働者の移動が盛んであった。鉱夫姿は、厳しい弾圧にさらされた外国人宣教師にとって、格好の隠れ蓑(みの)となったのであろう。
 高岡(弘前の古名)周辺のキリシタン集落に潜入したカルバリョは、熱心な信者「リョウキュウ」宅を拠点として布教活動を行った。前年に秋田領と津軽領の藩境が画定し取り締まりが厳重であったため、陸路での津軽入りを断念したカルバリョであったが、帰路は首尾よく念願を果たしたのである。彼は「元来、日本中のその関のうちで通るのに最も困難な一つとされ、世のことわざにも津軽の関といわれるほどのその関」(『北方探検記』)とされた碇(いかり)ケ(が)関(せき)を越えて出国したが、その際、津軽の流刑キリシタン慰問の達成感と、神の恩(おん)寵(ちょう)への謝意とを書き記している(本田伸『弘前藩』)。
 ▽津軽でのキリシタン弾圧
 アンジェリスの報告書には、元和3年、津軽で6人のキリシタンが処刑されたとある(『北方探検記』)。また、島原の乱の翌年に当たる寛永15年(1638)には、津軽でキリシタン73人が火あぶりに処せられたという(「封内事実秘苑」)。同16年にはキリシタン取り締まりが強化され(『青森県史 資料編 近世1』)、さらに幕府から、領内のキリシタン詮(せん)議(ぎ)を強化するよう命令される(同)など、津軽領のキリシタン弾圧は苛(か)烈(れつ)なものとなったことが推測される。以後、津軽におけるキリスト教信仰は、たび重なる宗(しゅう)門(もん)改めや類(るい)族(ぞく)改めを通じて厳重な取り締まりを受け、やがて、その火は失われていくのである。
(青森県史編さんグループ嘱託員 市毛幹幸)

 

◆ひと口メモ エゾ地図
 J・アンジェリスによるローマ・イエズス会本部への報告書に付けられていたもの。写しで現存する。宣教師の夷島渡航の目的の一つに、ヨーロッパでは未知であった日本の地理情報収集があったことをうかがわせる。

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乳井貢の「宝暦改革」=18

2009/1/12 月曜日

 

平成14年に発見された「標符」(弘前市個人蔵)
「山機録」に描かれた尾太鉱山(弘前市立弘前図書館)
昭和10年建立の乳井貢顕彰碑(西目屋村川原平・小石川撮影)

 ▽破綻(はたん)する藩財政
 18世紀に入ると、幕藩体制には様々(さまざま)な矛盾が見え始めた。東北地方でも大規模な飢饉(ききん)が相次ぎ、経済や社会に影響を与えた。
 弘前藩では、廻米を担保とした上方商人からの融資によって財政を運営してきたが、凶作のたびに借財は膨んだ。宝暦4年(1754)には、歳入の二倍に匹敵する35万両もの借財を抱え、破綻寸前であった。
 その状況を立て直すため白羽の矢を立てられたのが、乳(にゅう)井(い)貢(みつぎ)(市郎右衛門建福(のりとみ))という武士身分の儒学者だった。
 ▽「学者」と「山師」の接点
 乳井を中心とする「宝暦改革」は、経済統制を強化して財政再建を進めようとするものだった。
 乳井は算学や農学など実学に熟達し、朱子学から発して、独自の思索を深めた。多くの著作を残したが、机上の学問に留まらず、理想実現のために行動した。徹底した実用主義者であった乳井にとって、改革そのものが、自らの思想を実践する場となったのだろう。 「学者」乳井が改革を推進していく上で手を組んだのが、他国出身の「山師」商人である足羽(あすわ)父子であった。父子の財力は御用達(ごようたし)商人の中では最低レベルだったが、その才幹と人脈とで御用
達の筆頭にまでなった(「高岡霊験記」)と評されているように、父次郎三郎は「惣御用達」を務め、子長十郎は物資の流通をつかさどる「運送役」の元締(もとじめ)となるなど、改革の実務の中枢を担った。
 次郎三郎は大坂で銅・鉛の売却を担当し、強大な力を持つ大坂銅(どう)吹(ふき)屋(や)仲間や豪商たちとわたりあい、住(すみ)友(とも)泉屋をはじめとする上方の商人資本との関係を深めることに成功した。尾(おっ)太(ぷ)銅山の経営を任されるや、幕府銀座銅方との交渉を一手に引き受けるなど、多面的な活躍をしていた(長谷川成一「足羽次郎三郎考」)。さらには、豪商飛(ひ)騨(だ)屋(や)久兵衛の人的ネットワークに組み込まれていた形跡があるという。そうした全国的な商人資本との
つながりによって培(つちか)われた知識が、乳井に多大な影響を与えたと思われる。
 ▽「標(ひょう)符(ふ)」の混乱
 宝暦5年、弘前藩は大凶作に見舞われた。上方商人資本への依存体質から脱却することを目指した経済政策が順調に動き出した矢先の、まさしく非常事態だった。凶作による打撃を立て直しつつ改革を進めるため、乳井によって、大胆な政策が打ち出された。それが、すべての商取り引きを金銭ではなく「標符」という通帳で行わせるという金融・流通統制だった。
 乳井は領内の有力農民や町人の財産を藩庫に納めさせ、商家に対しては、取り扱う品物を一つに限定した。同時に商品の値段も一定にし、米・金の相場を固定化するなどの方策を立てた。
 物資の流通は、足羽長十郎を頂点とする運送方が引き受け、「標符」を介して統制した。だが藩庫への物資の集中を強力に推し進めた結果、領内の経済は大混乱に陥り、乳井や足羽父子は失脚して、改革は頓(とん)挫(ざ)した。
 ▽強烈な使命感
 こうして、弘前藩の宝暦改革は失敗に終わった。しかし、藩財政を強くすることなくして、寒冷な自然環境のゆえに頻発する凶作への対応はできないのだという、乳井の強い想(おも)いが貫かれていたものだったと言えるのではなかろうか。
 乳井は著書「志学幼弁」の中で「国を豊かにし、窮民を救い、主君を安泰にすることが武門に生まれたものの使命である」と記している。使命を果たすためならば非難も賞賛も瑣(さ)末(まつ)なことで、やれることを徹底的にやりきるだけ、という覚悟があった。その強烈な使命感こそが、毀(き)誉(よ)褒(ほう)貶(へん)を超えて、乳井の改革に今なお、鮮烈な印象を与え続けるのである。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◇ひと口メモ 飛騨屋久兵衛

江戸時代の豪商。大畑村(現むつ市)に出店し、材木業で巨富を得た。四代久兵衛の倍行(ますゆき)は蝦夷地の場所請負人となるが、寛政初年のクナシリ・メナシの乱で莫大な損失を受け、当地から撤退した。

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三厩の本陣宿山田家=19

2009/1/26 月曜日

 

三厩から松前・箱館への航路を記した「南部津軽松前浜通絵図」(県立郷土館蔵)
松前藩へ援助を求める明和3年「口上之覚」(県立郷土館蔵)
伝馬の準備を求める「雇人馬先触」(県立図書館蔵「松前様御下向留帳」から)

 ▽知られざる「山田家文書」
 三(みん)厩(まや)(外ケ浜町)の宿(しゅく)は松前渡海の湊として、また、津軽海峡の天候回復・風待ち場として機能し、「家数も多、繁(はん)花(か)の場所」と謳(うた)われた(谷元(げん)旦(たん)『蝦夷蓋(こう)開(かい)日記』)。この地で蝦夷島を商圏とする廻船問屋を営み名主などの村役人も勤めた山田家(屋号は松前屋)は、一方で、松前藩主である松前家や、近世後期に増加した蝦夷地往来の幕府役人が宿泊する本(ほん)陣(じん)でもあった。さらに享保年間(1716~36)には江戸の材木商飛(ひ)騨(だ)屋と連携し、蝦夷地での木材伐採を請け負った(『福島町史』第二巻)。
 この山田家の関係文書が、青森県立郷土館と青森県立図書館に分蔵されていることは、案外、知られていないようだ。本陣宿・廻船問屋の活動に関する史料が多く含まれる「山田家文書」は、津軽と松前・蝦夷地との交流を示す第一級の貴重な史料群である。
 ▽松前藩主の参勤交代
 寛永12年(1635)、三代将軍徳川家光は武(ぶ)家(け)諸(しょ)法(はっ)度(と)を改訂し、外(と)様(ざま)大(だい)名(みょう)に、隔年で江戸に参勤するよう義務づけた(譜(ふ)代(だい)大(だい)名(みょう)は同19年から)。しかし、松前家は例外で、元禄年間(1688~1704)までは概(おおむ)ね3年に一度、以後、文化4年(1807)に陸奥梁(やな)川(がわ)(福島県伊達市)へ転封するまでは5~6年に一度、文政4年(1821)の松前復領後は5年に一度と、時代によって変化した。他の大名並みに隔年参勤となるのは、天保2年(1831)10月からだという(海保嶺夫『近世蝦夷地成立史の研究』)。
 松前藩主の参勤経路は当初、小泊(中泊町)に上陸し、西浜街道~羽州街道~奥州街道を経由するルートをとった。その後、下船の場を三厩に変更し、松前街道(上磯街道)~青森~奥州街道を経由するルートが定着した。松前家の大名行列は、津軽領を通過する唯一のものであった。
 ▽松前家に依存した本陣経営
 「山田家文書」には、先(さき)触(ぶれ)(宿泊先・手配人数の通達書)や留(とめ)書(がき)(参勤交代に伴う松前藩主宿泊の覚)など、松前藩との交渉史料が含まれるが、その中から、天保4年に松前藩主松前章(あき)広(ひろ)が帰国した際の留書「松前様御下向留帳」(県立図書館蔵)をみてみよう。
 奥州街道を北上して津軽領に入った松前章広は、小湊・青森・蟹田・平(たいら)舘(だて)・袰(ほろ)月(づき)に休泊し、3月28日に三厩へ到着した。本陣山田家には章広とその近(きん)習(じゅう)らが宿泊し、脇本陣には家老が、他の随行者は9軒の宿に分宿した。一行は4月7日まで、「御(お)日(ひ)和(より)待(まち)」のため逗留している。
 この年、津軽は天保大飢饉の渦中にあった。そのため松前藩は、山田家の願いに応じて、米50俵を貸与した。山田家は天保7年にも、本陣機能を維持するため、米40俵の貸与を願い出ている(県立郷土館蔵「松前屋庄平願書控」)。
 実は、明和3年(1766)正月28日に発生した明和大地震で居宅や本陣施設が破壊された時も、山田家は松前藩に援助米拝借を願い、仮(かり)屋(や)の建築費用や用材を得たことがあった(県立郷土館蔵「口上之覚」及び「地震年御米願ひかえ」)。本陣宿は、松前藩の参勤交代や藩士の公用旅行に不可欠であり、山田家にとっても、その維持経営を松前家に頼る部分が大きかったのである。
 ▽負担軽減を訴える外浜の民衆
 一般に宿場には、公用旅行の便宜を図るための人足や馬が常備されていた(伝(てん)馬(ま)役(やく))。しかし、大名行列には多くの物資運搬が伴うため、宿場の近隣住民にはしばしば、人足・馬の差し出しが割り当てられた(助(すけ)郷(ごう)役(やく))。
 天保3年8月、外浜一帯の村々の庄屋から、山田家の当主である庄平を通じ、助郷役の軽減を求める願書が松前藩に提出された。天候不順など凶作への懸念もあってのことであろう。弘前藩は庄平の労を評価し、家老名で褒賞した(県立郷土館蔵「津軽外ケ浜村々庄屋共願書控・大道寺治郎市書状」)。
 このように「山田家文書」からは、松前家の参勤交代が津軽の人々の暮らしに大きな影響を与えたことが読み取れる。
(青山学院大学非常勤講師 千葉一大)

 

◆ひと口メモ 本 陣
宿駅において、参勤交代の大名や幕府役人、あるいは貴人が休泊した旅館。問屋や名主の居宅が指定されることが多く、家の造りに一定の格式が必要だった。

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「金の卵」が集団就職=20

2009/2/16 月曜日

 

上野駅広小路口広場の「あゝ上野駅」歌碑(本田伸撮影)
青森駅前に集合した「金の卵」たち(昭和41年、青森県環境生活部県民生活文化課県史編さんグループ提供)
プラットホームでの見送り(昭和41年青森県環境生活部県民生活文化課県史編さんグループ提供)

 ▽背 景
 高度成長期、都会の企業は、地方から多くの労働力を受け入れた。さらに、増大する一方の労働力需要をにらんで、年少者の採用を積極的に進めた。
 しかし、生活水準が向上するにつれ、都会では進学率が高まり、就職に回る中学新卒者は減少した。これにより、求人争いでは大企業に勝てない多くの中小企業は、都会の年少者を雇うことが難しくなった。
 このような状況において、集団就職は、企業・労働者双方の希望に応える有力な手段となった。
 ▽始まり
 集団就職の前提に、集団求人がある。昭和29年(1954)、渋谷区公共職業安定所管内の商店連合会が新潟県高田市(現上越市)の職業安定所と提携し、まとまって求人を行った。これが集団求人・集団就職の始まりとされる。
 求人側には、地域的団体と同一業種団体とがあった。例えば、商業協同組合などは前者に含まれ、酒屋・そば屋・喫茶店・食肉店・洋品店など、同一地域の異なる業種が組合を組織したものである。
 対して後者は、織物業なら織物業どうし、理容業なら理容業どうしの、同一業種による団体である。昭和36年には、求人団体の約8割が同一業種団体であった。
 ▽就職列車
 第二次世界大戦後、青森県内の労働力需要は乏しかった。農業後継者はともかく、農家の2・三男や中学・高校の新卒者が県内で就職先を見つけるのは難しかった。そこで彼らは、関東・京(けい)阪(はん)神(しん)方面に赴き、製造業・紡(ぼう)績(せき)業・商業などの中小零(れい)細(さい)業種の労働者となったのである。
 このような事情を踏まえ、県は、新卒者を安全に就職先へ送り届けることを検討し、国鉄と交渉した。その結果、集団就職者専用の臨時列車が青森・上野間の東北本線に、全国にさきがけて運行された。昭和29年4月のことである。
 昭和30年代から40年代にかけ、地方の新卒者が都会の企業に集団就職するようになり、就職列車で移動した。最盛期は昭和39年度で、35の道府県から、7万8407人が専用列車で都会に向かった(歴史学会編『郷土史大辞典』)。彼らは「金の卵」と呼ばれ、高度経済成長期の産業経済を、
そして日本社会を支えた。
 ▽盛 衰
 県外就職の希望者は、年々増えた。昭和37年度を例にとると、求職者のうち県外に就職した割合は、高卒で約40%、中卒で約50%の高率であった(『青森県教育史』二)。しかし、就職先の90%が中小企業で、なかには、就労条件が事前説明と異なるケースがあったりしたため、途中離職者も多かった。
 昭和35年3月、青森県は県内の職業安定所から15~20人の職員を選び、集団就職列車の引率を兼ねて、東京・福井・横浜など就職者の多い地域に派遣した。彼らは一週間ほど滞在し、就職後の定(てい)着(ちゃく)補(ほ)導(どう)を実施した。
 昭和30年代後半、零細企業は労働者を確保するため、賃金・労働時間・厚生施設など福利面の改善を図った。しかし、昭和40年代に入ると産業構造が変化し、求人に対する企業側の考えも一通りではなくなった。また、地方でも高校進学率が高まり、中学新卒=集団就職という構図は成り立たなくなった。こうして昭和50年3月、集団就職列車は廃止された。
 平成15年(2003)、上野駅の広小路口広場に、上野駅開設120周年を記念して、一基の歌碑が設置された。青森県弘前市出身の歌手井沢八郎(本名工藤金一)が歌ったヒット曲「あゝ上野駅」をモチーフにしたものである。集団就職で上京した若者を題材としたこの歌は、まさしく彼らの愛唱歌であった。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ 金の卵

金の卵めったに手に入れることができないものの喩(たと)え。将来性に富む地方出身の中学新卒者を指したことばである。

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