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津軽為信坐像(複製・青森県立郷土館蔵) |
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「関ケ原合戦図屏風」に描かれた卍幟(大阪歴史博物館蔵) |
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津軽右京大夫(為信)あての豊臣秀次朱印状。文禄2年5月15日付。肥前名護屋に在陣する為信への見舞い(津軽家文書) |
▽津軽為信と肥前名護屋
天正15年(1587)5月、豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)は、対(つし)馬(ま)の領主宗(そう)義(よし)調(しげ)・義(よし)智(とし)父子に対し、朝鮮王国を日本に服属させるよう命じた。中国明(みん)王朝の征服を目(も)論(くろ)む秀吉は、その途中にある朝鮮を対馬の属国と考えていたのである。
天正19年、秀吉は中国遠征の前線基地となる肥(ひ)前(ぜん)名(な)護(ご)屋(や)(佐賀県)に築城を始め、翌文禄元年(1592)3月には、集結させた6万の兵に朝鮮への渡海を命じた。
津軽為信は文禄元年から翌2年まで、名護屋に参陣した。その陣屋は名護屋城、さらには五奉行の一人である浅野長政の陣屋のすぐ隣に位置していた。秀吉は、奥羽最果ての大名である為信を近くに置くことで、すべての大名を公(こう)儀(ぎ)の名のもとに動員し得る政権の実力を誇示し、統一のシンボルとしようとしたのではなかろうか。
文禄2年3月、秀吉は朝鮮南部の慶(キョン)尚(サン)南(ナム)道(ド)にある晋(チン)州(ジュ)城(ソン)を攻略するため新たな軍団を編成し、奥羽勢を配した。しかし津軽氏と、すでに釜(プ)山(サン)に渡っていた伊達氏は、この編成から除かれた。直後、奥羽勢の朝鮮入りは取り止めとなるが、このときの軍団編成のありようは後々まで、統一政権による軍役賦課の土台となっていった。
▽関ケ原の戦いと為信
江戸時代中期に編集された弘前藩の正史『津(つ)軽(がる)一(いつ)統(とう)志(し)』によれば、為信は関ケ原の戦いに際し、美濃国大(おお)垣(がき)城攻めに参加したという。しかし、新(あら)井(い)白(はく)石(せき)がその事実を疑い(『藩(はん)翰(かん)譜(ふ)』)、津軽家自身も証拠立てができないなど、何かと問題があったしかし近年江戸時代初期の作とされる「関ケ原合戦図屏風」に描かれた「卍印の幟(のぼり)」の分析から、この幟を用いた軍勢は津軽氏であると考えられるようになった(長谷川成一『弘前藩』)。
すなわち津軽氏は、奥羽勢の多くが参加した上(うえ)杉(すぎ)景(かげ)勝(かつ)(西軍)包囲網から、独り外されていたことになる。もちろん、津軽氏が上杉氏と境を接していないという事情はあっただろうが、先の朝鮮出兵時の軍役が、秀吉から家康への政権移行期にも引き続き連動して賦課されたと見ることができるのである。つまり、晋州城攻めから外された津軽氏は、必然的に上杉氏包囲網からも外され、政権直下の大名として関ケ原に参陣させられたということになろう。
▽夷島の軍役を考える
津軽氏に賦課された軍役のありようは、夷(えぞが)島(しま)の領主蠣(かき)崎(ざき)(松前)氏が賦課された軍役を考えるための手掛かりともなる。
文禄2年正月2日、蠣崎慶(よし)広(ひろ)は名護屋で秀吉と謁見(えっけん)し、8日には「鎮(ちん)狄(てき)」を命じられ帰国したという(「新羅之記録」)。実はこの前年、加(か)藤(とう)清(きよ)正(まさ)が兀(オ)良(ラン)姶(カイ)に侵攻したため、慶(よし)広(ひろ)は、そこが「蝦夷」に近いという観念を利用して朝鮮行きを回避するため、自発的に名護屋に出向いたのだともいう。
しかし、清正は文禄元年9月、秀吉の馬廻頭木下吉隆に、兀良姶は朝鮮の2倍ほどの広さの国土であるなどと報告しており、そうした情報は、その時点で秀吉の耳に達していたはずである。よって、慶広の行動を「外交手腕」の高さと評価するのは、いささか過大のようで、蠣崎氏への「鎮狄」命令は同氏に賦課された軍役であったと、素直に考えるべきであろう。
蠣崎氏は関ケ原戦の際、豊臣・徳川いずれにも与(くみ)せず「日(ひ)和(より)見(み)」を決めこんだという。しかし慶長6年(1601)、慶広の子盛(もり)広(ひろ)は国元へ戦後の状況を伝え、その中で、家康の側近本多正信から「指南」を受けていると述べていることから、蠣崎氏はすでに家康の指揮下にあったとも考えられる。
津軽氏よりも遠方の大名であることから出陣を見送られたか、あるいは朝鮮出兵の時と同じく「鎮狄」の役割を担ったのか。いずれにせよ、津軽氏に課せられた軍役のありようは、蠣崎氏と統一政権との関わりを考える上でも、学ぶべきことが多い。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)
◆ひと口メモ 兀良姶
「オランカイ」「オランケ」と読み、現在の中国東北部(旧満州)一帯を指す。17世紀にはこの地の女真族(ツングース系)が勢力を増して南下し、明朝を倒して清朝を建てた。