北方史の中の津軽

 

「北狄の押」弘前藩=11

2008/9/15 月曜日

 

「津軽一統志」(弘前市立図書館蔵・八木橋文庫)
信寿建立の高照神社本殿(小石川透撮影)
武田源左衛門の墓(弘前市海蔵寺)

 ▽津軽一統志誕生
 享保16年(1731)に完成した『津軽一統志』は、弘前藩が編さんした最初の史書である。津軽家の勃(ぼっ)興(こう)と藩祖津軽為(ため)信(のぶ)による津軽伐り取りの過程から、四代藩主津軽信(のぶ)政(まさ)の治世までを記述する。編さんを命じたのは五代藩主津軽信(のぶ)寿(ひさ)であるが、直前の信政の時代については、寛(かん)文(ぶん)蝦(え)夷(ぞ)蜂(ほう)起(き)に関する記述にほぼ限定されていて、内政面での事績については、いっさい触れられていない。
 ▽信政晩年の混乱
 四代信政は藩政機構の整備、新田開発の奨励、殖産興業の推進、蝦夷地出兵など内外ともに功績をあげ、「中興の英主」と称えられる「名君」であった。しかし、元禄8年(1695)の飢饉以降は、財政の逼(ひっ)迫(ぱく)、家中の困窮、農村の荒廃など多くの問題を抱えた。そこに決定的な打撃を与えたのが、弘前城天守の普請計画であった。
 宝永5年(1708)、信政は寛永4年(1627)に焼失した天守を再建する意志を家中に示した。しかし、財源に確たる裏づけがあったわけではなく、藩士・農民・町人は新たな負担を強いられることになった。さらに普請に消極的な門閥・譜代層と、信政の意向に従う出(しゅっ)頭(とう)人(にん)(信政によって登用された財務や産業振興に力を発揮した者)たちとの間で対立が起こり、藩政は混乱した。
 ▽信政没後の藩政
 宝永7年10月、信政は没した。跡を継いだ五代信寿は、信政晩年の混乱を収束する必要に迫られた。そこで、財政面などで辣(らつ)腕(わん)をふるった武田源左衛門ら出頭人たちを排除し、彼らと対立して処罰されていた元家老らを復権させた。さらに、家中窮乏への対策として地(じ)方(かた)知(ち)行(ぎょう)制を復活させた。すなわち、信政時代に不遇だった門閥・譜代層の意を汲み、彼らの支持による藩運営を意図したのである(浪川健治「宝永期の位置づけについて」)。
 しかし、出頭人を否定したことは同時に、信政が挙げた内政面での業績―新田開発や殖産興業など―まで否定することになる。それゆえ信寿は「名君」の後継者となることはできず(浪川健治「藩政の展開と国家意識の形成」)、独自の方法で権威づけを図る必要が生じた。そこで新たに着目されたのが、「北狄(ほくてき)の押(おさえ)」という認識だった。
 ▽集約される業績
 信政時代の蝦夷地出兵は、弘前藩が自らを「北狄の押」として認識する最初の機会であった。信寿はその認識を深め、家中全体に広げていくことで、求心力を高めようとした。
 後世の編さん物でひんぱんに使われる「狄(えぞ)地(ち)の押(おさ)え」(「北狄の押」と同義)という文言は、実は、享保年間に信寿によって行われた10万石への高(たか)増(まし)運動の中で初めて登場したとされる。幕府と交渉するにあたり、弘前藩の職務=「北狄の押」と位置づけ、蝦夷地への出兵を幕府に対する奉公の実績として、自他ともに認識させようとしたところから出たという。
 その認識が藩内で確立したのはまさしく、『津軽一統志』の編さんによってであろう。同書において寛文蝦夷蜂起に関する記述が詳細を極めているのは、官撰史書の編さんによって「北狄の押」を弘前藩の公的な役割
として確立させようとする信寿の意図が、強く働いているためと思われる。
 言い換えれば、多面的な業績をあげた「名君」信政の人生は、『津軽一統志』の中で圧倒的な分量を費やされた蝦夷地出兵の記録によって「北狄の押」に集約され、以後、藩主に対する家中の求心力を高める役割を担わされることとなったのである。
 後年、信政を祀る高(たか)照(てる)霊(れい)社(しゃ)が藩の祈祷所として北方問題に直面した弘前藩の精神的なより所となったのも、信寿が死後の信政に「名君」の役割を与え、利用しようとしたからと考えて良いのではなかろうか。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

 ◆一口メモ 北狄の押(ほくてきのおさえ)

 北狄とは、中華思想における北方の蛮族や土地を意味する。本州最北端に位置する弘前藩は、自らを蝦夷地に有事があった際の最前線基地と位置づけた。

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欧州情報入手に成功=12

2008/9/29 月曜日

 

弘前藩が手に入れたヨーロッパの地図(国文学研究資料館蔵)
ユーラシアの地図(国文学研究資料館蔵)
欧州情勢を伝える書付(国文学研究資料館蔵)

 ▽津軽家とナポレオン戦争
 最近東京都立川(たちかわ)市に移転した国文学研究資料館に所蔵される津軽家文書に、文化4年(1807)に描かれたヨーロッパ・ユーラシア大陸の地図と、当時の欧州情勢を記した書付(かきつけ)が存在している。
 寛永年間(1624~44)に日本がいわゆる「鎖国」体制となってから、海外情報は基本的に「四つの口」(長崎、薩摩(さつま)・琉球(りゅうきゅう)、対馬、松前)から入ってくるもののみとなった。中でも長崎のオランダ商館長が定期的に提出する「風説書(ふうせつがき)」は、ヨーロッパ・中国・インドの動静を記し、量的には最大の海外情報だった。「風説書」に接することができたのは幕府首脳部と一部関係者(長崎通詞(つうじ)・長崎奉行所役人など)だけだったが、「コネ」によって、内々に情報が漏洩(ろうえい)される人々も存在した。
 情報入手の経緯を記した弘前藩江戸留守居(るすい)役の書状によると、ヨーロッパの地図や書付は、オランダ領東インド(現インドネシア)に伝えられた欧州情勢を、長崎通詞(通訳)が日常行っているオランダ商館長ドゥーフとの接触から聞き出し、幕府に報告したもので、いわばオフレコ情報だった。津軽家では情報を得た関係者に接触し、入手に成功した模様である。
 ▽ナポレオン下の欧州情報
 当時のヨーロッパは、ナポレオンの絶頂期だった。1804年(文化元)12月、ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、翌年、英国・ハプスプルグ帝国・ロシア・プロイセン・スウェーデンなどが、対仏大同盟(第三次)を形成した。しかし、アウステルリッツの戦い(三帝会戦(さんていかいせん))でハプスブルグ、ロシアの両帝国が敗北し、1806年には神聖ローマ帝国も解体された。ナポレオンはさらにプロイセン軍を撃破し、同年10月にはベルリンを占領した。11月には英国商品の締め出しを目的に「大陸封鎖令」を発動している。
 津軽家が知り得た欧州情勢は、(1)フロイス国(プロイセン)・ドイツ国(神聖ローマ帝国)・スウエーデ国(スウェーデン)による同盟形成(対仏大同盟を指す)
(2)ドイツ国の敗北と領土割譲(3)フロイス国・スウエーデ国の敗北という内容である。さらに、フランスはロシアの首都にまで進撃するのではという観測も見られる。
 実は、オランダは既にフランスに占領されていたが、フランスはカトリック国であり、キリスト教禁教下の日本との通商に差し障るのを恐れて、そのことは秘密にされ、ナポレオン情報も隠匿(いんとく)された。そのため、欧州情勢の捕捉(ほそく)は困難だったとされる(岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』)。
 ▽北方情勢と欧州情報
 しかし、この絵図と書付からは、ロシアの南下政策によって、北方における海防問題に直面していた幕府が、ロシアを取り巻く情勢を知るために、「風説書」の情報のみに信を置かず、長崎通詞を情報入手に活用していた様子が浮かび上がる。確かに「ナポレオン」という名詞は見えないが、変動する欧州情勢の情報は、かなり的確に把握されていたようだ。
 ところで、津軽家はなぜ、この情報を必要としたのだろうか。
 この時期の弘前藩の主要課題は、蝦夷地(えぞち)警備の遂行だった。寛政9年(1797)以降、幕府から警備を命じられ、現地派兵を行っていた。弘前藩は、最大の脅威ロシアの動向はわずかなことでも察知したかったはずだ。手掛かりを求め、関係者と接触して得たのが、ロシアを取り巻く緊迫した欧州情勢の情報だったのだろう。弘前藩では欧州・ロシア・日本の位置関係を把握し、知り得た情報を的確に判断するため、ユーラシアの地図を描き情報に添付した。
 この情報を弘前藩がどのように受け止めたのか、また蝦夷地警備に反映させることができたのか、その点を明らかにする史料は今のところ見あたらない。しかし、ナポレオンが席捲(せっけん)した欧州情勢を、このような形で弘前藩がつかんでいたことは、実に興味深い。
(青山学院大学非常勤講師・千葉一大)

 

◆一口メモ 4つの口

 いわゆる「鎖国」体制のもとで、国外に向かって恒常的に開かれていたと想定される地域。朝鮮・中国(明・清)・琉球といった外国やアイヌ民族との接触の場所・ルートの総称として用いられる。

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景勝地の選定で活気=13

2008/10/13 月曜日

 

昭和戦前期の十和田湖子の口(県史編さんグループ提供)
明治末期の大鰐温泉(県史編さんグループ提供)
昭和戦前期の瑪耶渓(県史編さんグループ提供)

 ▽観光地十和田湖の誕生
 明治41年(1908)、五戸町出身で日本初の総合雑誌「太陽」の人物批評に健筆を振るった鳥谷部春汀(とやべ しゅんてい)は、大町桂月(おおまち けいげつ)を十和田湖に案内した。桂月はこの時のことを「太陽」に発表し、これにより、十和田湖は全国的に知られるようになった。同年、青森県知事に就任した武田千代三郎は「十和田保勝論」(同45年)を発表して十和田湖の重要性を説き、十和田保勝会を設立して、発動機付き遊覧船の就航や観光道路の大改修に着手した。
 昭和2年(1927)夏、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社は鉄道省の後援を得て、全国投票による「日本八景25勝」と「日本百景」を選定した。これは国内における新景勝地の推奨と紹介を目的としたもので、十和田湖は「日本八景」に選定された。このとき武田と共に奔走したのが、観光地十和田湖の整備に尽力した法奥沢(ほうおくさわ)村(旧十和田湖町の前身)の村長小笠原耕一であった。これが弾みとなって昭和11年、十和田湖は国立公園の指定を受けた。
 ▽津軽十景の選定
 昭和3年、「弘前新聞」は1万号記念事業として「津軽十景」を選定した。周辺住民の多大な関心をひいたこの選定事業の結果は、(1)瑪耶渓(めやけい)(西目屋村) (2)座頭石(ざとういし)(弘前市) (3)法峠(ほっとうげ)(黒石市と旧浪岡町の境) (4)弘前公園 (5)乳井(にゅうい)神社(弘前市) (6)岩木山 (7)芦野(あしの)公園(旧金木町) (8)愛宕(あたご)山(旧岩木町) (9)御幸(みゆき)公園(黒石市) (10)久渡寺(くどじ)(弘前市)という順位となった。その熱気は、開票作業に弘前警察署員が立会人として動員されるほどであった。
 その後県内では「新八戸八景」(八戸市)、「平内六景」(平内町)、「深浦12景」(深浦町)、「唐竹八景」(旧平賀町)、「小泊名所12景」(旧小泊村)などが選定された。
 ▽温泉郷の様相
 津軽地方には、全国的に名の知れた温泉郷が点在する。
 浅虫温泉は弘前藩領の温泉18カ所のひとつで、藩主もたびたび湯治(とうじ)に訪れた名湯である。明治時代に入ると湯治客でさらににぎわい、明治24年に東北線の上野・青森間が開通すると、観光地としても発展した。「東北の熱海」というふれこみで、観光客誘致に努めた。大正13年(1924)には東北帝国大学臨海実験所が設けられ、隣接する附属水族館は多くの観光客でにぎわった。
 平川(ひらかわ)の上・中流域は、大鰐(おおわに)碇ケ関(いかりがせき)温泉郷県立自然公園(昭和28年指定)を構成している。大鰐温泉郷は、町の中央を流れる平川の両岸に発達した。西岸を大鰐温泉、東岸を蔵館温泉と呼んでいた。弘前藩三代藩主津軽信義(のぶよし)が鷹狩りの御仮屋(おかりや)を建て、入湯したという。
 碇ケ関は大間越(おおまごし)・野内とともに津軽三関のひとつで、四代藩主津軽信政(のぶまさ)によって御仮屋が建てられた。後には伊能忠敬(いのう ただたか)、古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)、吉田松陰(よしだ しょういん)らもここを通った。
 黒石温泉郷県立自然公園(昭和33年指定)を流れる浅瀬石川(あせいしがわ)の支流には、板留(いたどめ)・温湯(ぬるゆ)・青荷(あおに)・落合(おちあい)などの温泉が分布する。九代藩主津軽寧親(やすちか)は黒石街道を通って温湯へ湯治に出かけたという。
 岩木山中腹の嶽(だけ)温泉は、江戸時代の半ば、百沢(ひゃくざわ)村の長五郎が湯治施設を営業したのがはじまりという。かつては、共同浴場の捨て湯を引いた馬の浴場もあった。
 ▽交通網の整備と観光化
 昭和40年8月、県内初の有料道路として「津軽岩木スカイライン」が開通した。昭和42年10月には、「下北環状道路」や「十和田湖一周道路」も完成した。
 観光客の足の主力である鉄道は、昭和43年10月、東北本線が複線電化された。特急列車の運行で上野・青森間は2時間もスピードアップし、8時間半で結ばれた。昭和46年10月には奥羽本線の青森・秋田間が電化されたが、その陰で、SL(蒸気機関車)は姿を消していった。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆一口メモ 古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)

 江戸時代中期の地理学者。備中(現岡山県)の人。長崎で蘭学を学んだ後、諸国を周遊してその土地の風物や史跡などを研究した。幕府巡見使に随行して東北・北海道を視察し、『東遊雑記』を著した。

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岩木山信仰のルーツ=14

2008/10/27 月曜日

 

岩木山百澤寺御本尊札(弘前市立図書館蔵)
工藤仙来「お山参詣襖図」(弘前市教育委員会蔵)
岩木山神社社務所(小山隆秀撮影)

▽江戸時代に百澤寺が信仰統括
 日本の山岳信仰では、精進(しょうじん)潔斎(けっさい)を行った白装束の男性集団が、成年儀礼として地域の高山や里山へ登拝するケースが多い。本県にも、重要無形民俗文化財である岩木山「お山参詣」や三戸町泉山「月山参り」等がある。
 これらの習俗については、特定の宗教者による先導ではなく、民衆によって形成されたもので、古い基層文化につながるという推論が根強い。すなわち、古代の神話や中世以来の修験を仮定して論議し、近現代の姿を重ね合わせる論が多いのである。岩木山信仰の研究も、明治末期から大正期、または昭和30年代以降の「お山参詣」の記録をベースにしていて、その中に太古の信仰のあり方を見ようとする見解が少なくない。
 しかしその前に、江戸時代に岩木山信仰を統括していた真言宗寺院の百澤寺(ひゃくたくじ)を見詰め直すことが、やはり必要だろう。
 ▽組織的布教形態をベースに教圏
 岩木三所大権現別当であった百澤寺は、津軽領惣鎮守として寺領4百石を持ち、配下に寺庵10坊(12坊とも)と2つの社家を抱えていた。しかし、明治初期の神仏分離令によって10坊とともに廃寺となり(明治4/1871年)、国幣(こくへい)小社岩木山神社に転換した。
 廃寺によって多くの古記録や仏像類が失われ、津軽各地に散らばったが、近年、青森県史編さんグループの調査により、慶長14年から幕末にかけての黒印知行(こくいんちぎょう)目録や廃寺の記録を含む多くの百澤寺旧蔵文書が確認されている。そのひとつ「岩木山三所大権現歳中行事」には、幕末における百澤寺の年中行事が詳しく記されていて、その分析により、18世紀末、百澤寺が布教のために「引札」を配る際、10坊や社家を通じて集落に配布していたことがわかった(小山隆秀「岩木山信仰形成における宗教者の役割と習俗の変化」)。
 2つの社家は藩領北部の広大な新田地帯と岩木山麓~日本海側を担当し、10坊は弘前周辺や藩領東部・南部を担当した。百澤寺自身は、弘前・青森・浦町・黒石などの町場を担当している。大きな寺領を持つ百澤寺と10坊が豊かな地域を、社領の小さい社家が広い地域を担当したのは、それぞれの経済基盤を考慮した上での配分と考えられる。
 ちなみに久栗坂(くぐりざか)村(青森市)の漁師金太郎は、神主からもらった「岩木山三所権現」の厚紙にシトギを供えて拝んでいたという(鶴舎有節(つるやありよ)「岩木山神霊記」)。
 岩木山信仰は、美しい山容に向けた民衆の崇拝から自然発生したと解説されてきたが、少なくとも近世以降は、百澤寺が醸成した組織的布教形態をベースに、時代の変化を受けながら教圏が形成されたと言えそうである。
 ▽コケの実を採る「お山参詣」
 近世の「お山参詣」では、開山前に御蔵庄屋から村中へ諸々のきまりが惣触(そうぶれ)された。それには、「導者」は参拝者から賄(まかない)料・宿泊料を3文取ること、木賃宿(きちんやど)は1文とすること、8月朔日(ついたち)は藩主の「御代参」のため行列の前を先駆けしないこと、「導者」といえども風体の悪い者や不浄の者は登山を禁じることなどが示されていた。
 藩主「御代参」には、百澤寺住職の次席である方丈に10坊と社家が加わり、護衛の足軽らとともに登った。山頂で祭祀(さいし)を行い、「御苔実」なるものを採種するのが目的であった。それを美濃紙に包み、目録を添えて、藩主一家や家老・御用人・寺社奉行・最勝院(=八幡宮別当・社家頭)へ献上した。
 この「苔之実」は民間でも売買されていたようで、禁令まで出されていた。このコケの実がどの植物に該当するのかは明らかでないが、近代初頭には岩木山の名物として列記され、昭和50年代の記録ではフクベに入れた酒に入れられるなど、お山参詣の習俗の一部として伝承されてきた。
 なお、百澤寺旧蔵文書に「御来光」を拝む記述は確認できず、いつ頃(ごろ)からの習俗なのかは、今後の検討課題である。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀)

 

◆一口メモ 百澤寺(ひゃくたくじ)
 延暦15年に開基、寛治5年に現在地に移動したとされ、南部領の天台寺の管轄下にあったという。天正17年(1589)正月に焼失したが、慶長6年(1601)9月に津軽為信が再建。その棟札は長勝寺(弘前市)が保管している。現在の岩木山神社社務所は、旧百澤寺の本坊である。

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北辺へ道を開いた旅=15

2008/11/17 月曜日

 

近藤重蔵「千島列島全図」(弘前市立図書館蔵)
伊能忠敬研究会編(「忠敬と伊能図」より 一部改)
青森県における忠敬の足跡(伊能忠敬研究会編「忠敬と伊能図」より 一部改)

 ▽乏しい北辺の情報
 天明5年(1785)、蝦夷地調査に赴いた最(も)上(がみ)徳(とく)内(ない)は、知り合いになった船頭新七に招かれて南部領の野辺地に移り住み、地元の商人島谷家に婿入りした。その後、何度も蝦夷地に入り、寛政10年(1798)には、近藤重(じゅう)蔵(ぞう)の調査隊にも参加した。
 この時期、北辺の情報は量的に乏しく、人々に取捨選択の余地はなかった。例えば、天明8年に当地を歩いた古(ふる)川(かわ)古(こ)松(しょう)軒(けん)は、現地をじかに見ていないとして、林(はやし)子(し)平(へい)「三国通覧図説」の不正確さを批判したが(「東遊雑記」)、当時の旅行事情を考えれば推測・憶測・伝聞が多くなるのはやむを得ないところだろうそれだけに徳内や重蔵が作製した蝦夷地の絵図は価値あるものとなった。
 ▽伊能忠敬の登場
 松平定(さだ)信(のぶ)の寛政改革(1787~93)は、飢民対策や風俗引き締めで成果を挙げたが、長年の課題である財政立て直しは果たせなかった。加えて、ロシア船やイギリス船が日本近海に出没して食料・燃料の補給を要求するなど、外国の脅威が迫っていた。
 こうした情勢を見て、幕府天(てん)文(もん)方(がた)の高橋至(よし)時(とき)は上層部に、蝦夷地測量の必要性を訴えた。「正確な地図が手に入る」との触れ込みの陰に、「緯線一度の距離の算定」という真の目的があったという。しかし、現代のような精密測量機器がない時代の話である。多くの困難が予想される中、至時はこの重大な役目に、伊(い)能(のう)忠(ただ)敬(たか)(勘(か)解(げ)由(ゆ)、三郎左衛門)を抜てきした。
 忠敬は利根川沿いの佐原村(千葉県)の酒造家で、名主も務めた人である。寛政7年、50歳で隠居して江戸に行き、至時に師事した。入門時点で既にある程度の学力は身に付けていたようで、1年後には、極めて難解とされる『暦象考成後論』の修得に取り組んだという(伊能忠敬研究会編『忠敬と伊能図』)。
 二人には19もの年齢差があったが、推(すい)歩(ほ)術(天体観測や暦計算)に打ち込む忠敬の姿に感心した至時は、親しみをこめて「推歩先生」と渾(あだ)名(な)した。学問に対する真(しん)摯(し)な態度を買っていたのである。
 ▽青森県と伊能忠敬
 第一次測量は寛政12年。閏(うるう)4月19日に江戸を出て、26日に仙台、5月3日に盛岡へ入っている(「蝦(え)夷(ぞ)于(う)役(えき)志(し)」)。北の早い冬の到来を意識しての急ぎ旅だ。6日に三戸、9日に青森、10日には津軽半島北端の三(みん)厩(まや)へ達し、ここから蝦夷地の吉岡へ渡った。南岸一帯の測量を終え三厩へ戻ったのが9月18日で、江戸へは1カ月後の10月21日に帰着した。
 180日に及ぶ測量の成果は小(しょう)図(ず)1枚、大(だい)図(ず)21枚に仕立てられ、至時に提出された。その出来栄えは幕閣を驚かせ、さらに調査を続けるよう命じられた。ちなみに、幕府が支給した手当は1日当たり銀七匁(もんめ)5分で、合計22両。残り80両ほどは忠敬の持ち出しとなったが、作業の喜びと達成感は、何にも勝った。
 享(きょう)和(わ)元年(1801)の第二次測量では下北半島を訪れ、同2年の第三次測量では津軽領内を初めて本格的に回った。秋田~能代~弘前~青森を通り、三厩・小(こ)泊(どまり)を抜けて引き返すルートである。
 同年8月8日、弘前城下へ入った忠敬は散々な目にあった。宿では薄汚れた夜着をあてがわれ、役人も挨(あい)拶(さつ)に来ない。10日は新城(青森市)に泊まり、明日は青森という段になって、藩主が来ていて混雑しているからと手前の大浜(青森市油川)に止宿させられた。
 11日に青森で用人山(やま)鹿(が)八郎左衛門に面会した忠敬は、不満をぶつけた(「沿海日記」)。しかし、この間も測量は丁寧に続けている。初めは「測量試み」と、さながらボランティア扱いで始まった忠敬の旅も、成果が上がるにつれて格上げされ、支援も手厚くなっていた心の中では幕府の重要な御用を務めているとの自負が確固たるものになっていたのだろう。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

 

◆ひと口メモ 伊能図
 伊能忠敬らが作製した地図の総称。大図(36000分の1)・中図(216000分の1)・小図(432000分の1)の3種のほか、特別大図・特別小図・特別地域図・江戸府内図など、約440種が作製された(現存が確認されているのは220種余)。

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