北方史の中の津軽

 

藩史「一統志」の流布=131

2014/2/24 月曜日

 

 
「津軽古事伝記」序文(県立郷土館蔵)
 
稽古館旧蔵「津軽一統志」写本(東奥義塾高校蔵)
 
「津軽一統志」安永5年本の奥書(弘前市立弘前図書館蔵岩見文庫)
「封内事実秘苑」の旧記目(弘前市立弘前図書館蔵岩見文庫)

 ▽流布する官撰史書
 家老喜多村校尉(こうい)(政方・まさかた)が立ち上げ、桜庭正盈・相坂則武・伊東祐則らに引き継がれていた津軽家正史の編集事業は享保16年(1731)に終了し、官撰史書(かんせんししょ)「津軽一統志」(以下「一統志」)として、5代藩主津軽信寿(つがるのぶひさ)へ献上された。本書には幕藩国家における津軽家・弘前藩の存在意義を表現しようとする意味合いが込められていたというが(長谷川成一『北奥羽の大名と民衆』)、そのような性格を有する「一統志」は、その後、どのように扱われたのだろうか。
 「一統志」の原本は津軽家が保管したと思われるが(現存せず)、その一方で、多くの写本が藩の内外に流布していた。
 家臣今通麿(こんみちまろ)によって寛政3年(1791)3月に編さんされた「津軽古事伝記(つがるこじでんき)」(県立郷土館蔵)の序文によると、宝暦6年(1756)、通麿は一戸八之丞という人物から「一統志」の写本を借りて写したという。工藤大輔氏が本欄で指摘しているように(第89回、2012年4月2日付本紙)、「一統志」などは、写本の貸し借りを通じて新たな写本が作られていったのである。
 このほか、青森町の商人である滝屋伊東家の嘉永3年(1850)の書籍目録にも、「一統志」の書名が見える。この目録は、単なる蔵書目録というよりはむしろ商品リストというべきものであり(『青森県史資料編 近世2 前期津軽領』)、商人を通じた写本の流通もなされていた。
 ▽各地に広まる写本
 「一統志」の写本は、家臣や商人にのみ流布したのではない。津軽家や弘前藩にゆかりの家・寺・施設なども写本を所有していた。まず、藩校稽古館(けいこかん)には2種類の写本が所蔵されていた(そのうち1種類は東奥義塾高校が所蔵)。また、4代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)を祀(まつ)る高照(たかてる)神社にも写本が所蔵されている。
 藩外に目を向けると、幕末期に作成された旗本那須(なす)家の蔵書目録に「一統志」の書名が見える(大沼美雄「旗本那須家の幕末期蔵書目録」)。17世紀後半以降、津軽家と那須家は縁戚関係を結ぶなど、親交があった。そうした津軽家との付き合いの中で、那須家は「一統志」の存在を知り、同書に関心を抱いたと考えられる。なお、那須家の写本については、現存が確認されていない。
 「一統志」の写本の中には、安永5年(1776)12月の奥書を持つものがある。そこには「十四歳 工藤氏 書之」と記名されていて、幼少期に写されたものであることがわかる。このほか、誤字・脱字を朱書きで指摘・修正するなど、添削の痕跡が見られるものもある。これらは、子どもの手習いの教材として「一統志」が活用されていた可能性を示すものであろう。
 ▽さまざまな活用
 「一統志」は、藩内の地理・名所・旧跡・産物や寺社などをまとめた首巻にはじまり、巻一から巻十に津軽家の先祖である大浦光信から寛文9年(1669)の蝦夷蜂起(えぞほうき)に関する老中奉書や届書類の写しを収め、最後に、伝説・伝承をまとめた附巻で終わる。ゆえに、「一統志」を見れば、17世紀中ごろまでの津軽の歴史と地理を概観することができる。
 「一統志」以後、藩内では、津軽の歴史をより詳細にまとめようと、家臣らが藩史を編さんした。寛政3年「津軽古事伝記」、寛政5年「津軽編覧日記(つがるへんらんにっき)」、文政2年「封内事実秘苑(ほうないじじつひえん)」などがそれである。そうした多くの歴史書において、「一統志」は基本資料として活用された。写本の流布と活用によって「一統志」の存在は広く認識され、内容も広く共有されていたからである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 蔦谷大輔)

 

◆一口メモ 津軽編覧日記
 寛政4年(1792)、藩命により藩士木立守貞(きだちもりさだ)が編さんした官撰史書。翌年2月に完成し、藩に提出された。津軽氏の先祖の系譜について記した「本藩濫觴実記(ほんばんらんしょうじつき)」が、同書とともに提出されている。

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箱館戦争降伏人預かる=132

2014/3/10 月曜日

 

榎本武揚書(青森県立郷土館蔵)
「万国海律全書」フランス語原書(筆者提供)
東京都墨田区・梅若公園の榎本武揚像(筆者提供)

 ▽榎本らへの降伏勧告
 明治2年(1869)5月11日未明、新政府軍は旧幕府軍の支配下にあった五稜郭・箱館を攻撃した。箱館山からの砲撃ポイントを確保した新政府軍は、翌日、米国製の最新鋭鑑「甲鉄」(旧名ストンウォール・ジャクソン号)に五稜郭や弁天岬砲台を艦砲射撃させる挟み撃ち作戦を採り、圧倒的な火力を駆使して勝利を確定的にした(『函館市史通説編第二巻)
 同12日夕方、鹿児島藩の池田次郎兵衛は、箱館病院に居た会津藩の諏訪常吉を訪ね、和平交渉の仲介を持ちかけた。重傷の諏訪は翌日死亡したが、代わって病院長高島凌雲(たかしまりょううん)と事務局長小野権之丞が計らい、旧幕府軍総裁の榎本(えのもと)釜二郎(武揚・たけあき)に降伏勧告書を送った。榎本は勧告を拒絶したが、所持していた貴重書『万国海律全書』の行く末を案じて新政府軍へ送り届けた。榎本の人柄を示す有名なエピソードである。
 ▽箱館戦争の終結
 同15日に弁天岬砲台が、16日には中島三郎助(元浦賀奉行与力)が詰める千代ヶ岱(ちよがたい)砲台が落ちた。新政府軍は榎本に『万国海律全書』の答礼として酒5樽を贈り、両砲台の陥落を通知して、総攻撃の意志を伝えた。進退窮まった榎本は、責任を一身に負う決意で切腹を図ったが押し止められ、けっきょく、降伏勧告に応じることにした。
 17日朝、副総裁松平太郎(正親)とともに亀田会議所へ出頭した榎本は、新政府軍の増田虎之助・山田市之允(いちのじょう=顕義)・黒田了介(清隆)らと対談した。あれこれと言い訳するくせに一向に謝罪を口にしない榎本の態度を不遜に思う面々もあったが、翌日、新政府軍は正式に降伏を受け入れた。
 ▽首謀者の東京移送
 指導的立場にあった榎本・松平及び荒井郁之助(いくのすけ=顕徳)・大鳥圭介・相馬主計(かずえ=肇)・川村録四郎(正直)・永井玄蕃(尚志)・松岡四郎二郎の8名は同20日、ヤンシー号で箱館を出帆した。青森からは陸路となり、熊本藩の護衛の下、網乗物(あみのりもの=士分以上の重罪人を護送する駕籠で、上から網をかけてある)に乗せられて東京へ向かった。
 同22日に弘前に入った榎本は、宿の平野屋に詩文を与えたといい(旧『弘前市史』藩政編)、その実物と思われる書幅が県立郷土館の所蔵となっている。そこに書かれた七言絶句には「光も入らない部屋に囚われ、あの夢のような戦いを思う。今はただ、裁決のため東京に向かうだけだ」と、榎本の澄んだ心映えがのぞいている。
 ▽降伏人の処遇を気を遣う
 弘前藩は、五稜郭に籠もっていた1000人余のうち600人余を預かることになった。彼らは5月21日にアルビオン号で青森へ向かい、常光寺・蓮心寺・正覚寺・蓮花寺に滞在した後、6月に弘前へ移った。その内訳を、楠美太素(くすみたいそ)『弘前藩記事』は最勝院・薬王院・貞昌寺・真教寺・本行寺・耕春院・徳玄寺で576名としているが、内藤官八郎『弘藩明治一統誌』は最勝院・薬王院・貞昌寺・真教寺・本行寺・法源寺で672名としており、一致しない。
 明治2年6月に耕春院が作成した「降伏人止宿寺御用留」(弘前市立弘前図書館蔵)には最勝院・薬王院・貞昌寺・真教寺・本行寺・耕春院・法立寺で583名とある。これによれば、降伏人には1日に玄米1升が割り当てられたが、菜銭は士分が9銭、雑卒が4銭と差があった。内容も、士分は朝1汁1菜、昼・夜1汁2菜で、雑卒は朝・昼1汁と漬け物、夜は1汁1菜とある。寺や時期によっても多少の違いはあったようだ。
 降伏人らは保養のため寺の中の歩行を許され、警備のために設けられた囲いもやがて取り払われた。負傷者や罹病(りびょう)者は病院に入れられ、寒さ厳しい時期には筒袖(つつそで)や綿入れも支給された。赦免・解放された雑卒があると、藩は野内(のない)の関所まで送ってやったりした。
 十分とは言えないまでも、弘前藩が降伏人らの処遇に気を遣ったのは確かである。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

 ◆一口メモ 万国海律全書
 原題「Règles internationales et diplomatie de la mer」(海の国際法規と外交)。フランス人オルトランが弘化元年(1845)に著した、国際法・海事法の原点とも言える書物。榎本が留学時代に手に入れたオランダ語訳本は、黒田清隆の手を経て、現在は宮内庁の所蔵となっている。

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会津の移住で斗南藩=133・完

2014/3/24 月曜日

 

「斗南藩士族よりの頼書」(弘前市立弘前図書館蔵)
『青森新聞』350~355号(当館蔵)
沖津醇の肖像(葛西富夫『斗南藩史』より転載)

 ▽弘前藩に援助頼んだ斗南藩
 明治元年(1868)9月、会津戦争が終結した。会津藩には、藩主松平容保(かたもり)の隠居・養子喜徳(よしのり)の謹慎、家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)の切腹など厳しい処分が下ったが、それでも翌年9月に家名再興が許され、容保の実子慶三郎(容大(かたはる))が数え2歳で新藩主となった。
 藩政を主導する山川大蔵(おおくら=浩)・広沢富次郎(安任)らは新天地への移住を主張し、陸奥国3郡と蝦夷地4郡の計3万石を新政府から与えられた。斗南(となみ)藩の誕生である。藩庁は初め五戸(ごのへ)に置かれ、明治4年2月に田名部(現むつ市)の円通寺に移転した。正確な数は判然としないが、のちに弘前県大参事となった野田豁通(ひろみち)は、明治3年春から閏10月にかけ、17327人が移ったと大蔵省へ報告している(旧『青森県史』6)。
 斗南藩は新政府から米3万石と金17万両を扶助されたが、2万人近い人間を遠距離移動させ、生活の面倒を見るには全く不足だった。明治4年2月29日、山川は農具の購入資金を融通してくれるよう、弘前藩に依頼した。山川は「農具までは手が回らず、汗顔の至りだ」と伝えたが、現実には、その日に食べる米にも窮していたのである。奥羽越列藩同盟からの脱退で会津藩と敵対する立場に回った弘前藩だが、同情心は失っておらず、金1000両と鋤(すき)・鍬(くわ)各1000丁を贈ってこれに応えた。
 ▽辛苦きわめた下北での生活
 下北方面に移った人びとの困窮ぶりは、目を覆うばかりだった。山野草を採り、乾燥させ粉状にした海藻(押布(おしめ))を鍋に入れて量をかせぎ、飼料用大豆や松木の白皮まで食料にした。のちに陸軍大将となった柴五郎は、犬肉に辟易(へきえき)したと述懐している(石光真人編『ある明治人の記録』)。吹き込む隙間風で室内は凍てつき、栄養失調による死者・病人が続出した。
 山川らは、田名部町東部の斗南ヶ丘開拓に乗り出した。妙見平に一番町から六番町まで屋敷割りし、井戸を掘り、約200戸を建てる計画だったが、資金不足と明治4年7月の廃藩置県で頓挫した。苦しさに堪えかねて逃げ出す者は後を絶たず、残った者も、自活の道を探らねばならなかった。
 ▽県教育界への多大な影響
 それでも、斗南藩の人びとは教育の大切さを忘れなかった。司教局(のち学校掛)を設置し、会津藩時代の藩校日新館の蔵書のほとんどを田名部へ運んだ。斗南藩からは、のちに帝国大学総長となった物理学者山川健次郎(山川浩の弟)を筆頭に、三渕忠彦(最高裁長官)南摩綱紀(東京高等師範学教授)広沢弁二(東京獣医学校長)広沢春彦(東京高等獣医学校相談役)根橋禎二(大阪大学工学部教授)などが出た。
 地元に残った人びとの中からも、教育者・言論人が出た。三戸の斗南学校、五戸の中ノ沢塾、鰺ヶ沢の会津塾など、斗南藩の人びとが関わった学校・私塾は多い。北斗新聞・青森新聞・青森新報を発刊して明治期の政治・言論・教育など多方面に影響を与えた小川渉(おがわわたる)は、晩年、青森で漢学・書道の私塾を開いた。
 青森県立師範学校長などを務めた沖津醇(おきつじゅん)は明治19年、学費困窮者のための私塾青湾学舎(せいわんがくしゃ・青森市松森)を開いた。生徒のなかには、板柳町出身の水彩画家松山忠三(明治31年に夜間部入学)などがいる。経営は楽でなかったが、沖津は会津人らしい粘り強さを発揮し、12年間にわたり塾を維持した。明治32年、沖津が健康上の理由で閉塾を決めると、青森市教育委員会は新町小学校で送別会を開き、その功に報いた(旧『青森市史』1教育編)。
 歴史は人によりつくられ、記録される。「北方史の中の津軽」の執筆陣は、そうした記録を丹念に読み進め、歴史の実像に迫ろうと努力してきた。6年間の連載の成果が後世の道標のひとつになるのであれば、これに勝る喜びはない。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

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