北方史の中の津軽

 

新教育を11校で研究=126

2013/12/2 月曜日

 

山口小学校発行『経験を中心とした教育計画』(個人蔵)
昭和23年度「社会科問題一覧表」(「経験を中心とした教育計画より作成」一部抜粋)
文部省発行『新教育指針』第一分冊と付録(個人蔵)

 ▽教育の民主化
 GHQ(連合国総司令部)の戦後民主化政策は教育分野にも及んだ。まず、昭和20年(1945)10月の「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」により、極端な軍国主義者や超国家主義者は教職から追放され、その上で、教育関係者の資格検査が行われた。さらに、学校行事としての神社参拝の廃止等が指令され、学校奉安殿(ほうあんでん)や神棚は撤去された。
 教育内容については、修身(しゅうしん)・日本史・地理の授業停止と教科書回収の指令が出された。また、文部省の指示で、生徒は教科書の軍国主義的な記述箇所を墨で塗りつぶして使用した(墨塗り教科書)。
 昭和21年5月には、文部省が「新教育指針」を発行した。教師のための新しい教育の手引き書である。これに基づき、来たるべき新学制への準備がなされた。
 ▽新しい学校制度
 昭和21年3月5日にアメリカ教育使節団が来日し、その勧告を受けて、日本国憲法の精神に基づく教育基本法・学校教育法が制定された。教育基本法では、教育勅語(ちょくご)に示された天皇の臣民(しんみん)形成という目的に代わって、個人の尊厳の尊重、平和主義、民主主義の3原則が教育の価値であることが確認された。
 翌年に発足した6・3・3・4制の新学校制度により、義務教育は小・中学校の9カ年に延長され、高等学校3か年、大学4か年、男女共学が原則となった。従来の国民学校は小学校と改称され、国民学校高等科は義務制の新制中学校に移行した。これにより、中学校の建設が間に合わず、やむをえず小学校に併置されるケースが多発した。そうした小学校では仮教室や二部授業を余儀なくされた。
 ▽実験学校の指定
 昭和22年5月、県教育課は東津軽郡山口小、西津軽郡森田小、中津軽郡致遠(ちえん)小、南津軽郡黒石小・東英小、北津軽郡板柳小、三戸郡地引(ちびき)小、下北郡大平(おおだいら)小・易国間(いこくま)小、上北郡三沢小・七戸小の11校を「実験学校」に指定した。青森県独自の構想に基づき、新教育における教育方法上の問題の研究に取り組むためである。
 指定校には、実験調査の成果の公開、授業の公開、研究会や討論会の開催、巡回指導の実施等が課された。各校の研究テーマはカリキュラム編成や社会科教育に関するものが多く青森県における新教育の推進に大きく貢献した
 ▽山口小学校の取り組み
 戦後教育改革では、民主社会の形成者としての資質を育成するため、新たに「社会科」が設置された。もちろん、法律的には他教科と同等かつ並列的と位置づけられていたが、旧西平内村立山口小学校のように、この新教科を重視し、積極的に扱うケースもみられた。
 山口小は社会科を「各教科を総合統一する教科」「元来生活カリキュラムを基礎として作られる教科」と認識し、「如何に実生活に直結させ、なすことに依って学ばせる」かを主眼に置いて実践される教科、とした。職員は、先進校の視察やアメリカ等の各学校の文献資料の収集、カリキュラムに関する書籍の購入に余念がなかった。3年間の取り組みの成果は、『経験を中心とした教育計画』(昭和25年発行)として公表された。
 山口小はさらに、社会科・理科・家庭科を中核教科とするコアカリキュラムを採用した。職員は西平内村の実態を知るため、生産・消費分配・資産保護保全・人間性の発達・政治・交際・交通・通信・厚生・娯楽の10項目について調査を行い、郷土社会が何を求めているかを把握することから始めた。例えば「人間性の発達」については、学校、教養施設、青年団体、婦人団体、教養に対する村民の関心程度、宗教等が調査対象とされた。
(青森県立郷土館学芸主幹 竹村俊哉)

 

◆一口メモ アメリカ教育使節団
 GHQの要請で来日した、アメリカ教育界の代表者27名による使節団(団長ジョージ・D・ストダード博士)。1カ月間滞在し、日本側の代表者とも協議して、戦後日本の民主化教育実現のため重要な提言を行った。昭和25年8月に再来日し、提言の実践が進んでいるかを確認している。

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リンゴ販路拡大に力=127

2013/12/23 月曜日

 

昭和10年度『東京・横浜両市に於ける青森りんご宣伝記録写真集』表紙(筆者提供)
サンドイッチマン(写真集より)
りんご宣伝会(写真集より)
試食懇話会の様子(写真集より)

 ▽リンゴ移出の始まり
 明治8年(1875)、青森県庁は内務省からリンゴの苗木を受け取り、民間の有志に配布した。リンゴ栽培はその後、弘前周辺を中心に広がり、生産量も順調に伸びたが、明治20年代の中ごろになると、この地域だけで売りさばくのは困難になったため、県外にも販路を広げることが必要となった。この時、最初の県外の移出先となったのが函館であった。
 当時の函館には外国人が多く暮らしていたため、西洋の果物であるリンゴの需要が期待できる土地であった。明治26年9月、敬業社(けいぎょうしゃ)のリンゴが函館に出荷されている。函館からはさらに、海路で横浜・東京方面の大都市圏にも輸送できるので、新たな販路も期待することができた。敬業社の佐藤勝三郎は明治25年ごろ、東京神田にリンゴを出荷したという。最初は運賃の安い船便での輸送が多かったが、やがて貨車での輸送が本格化していった(『青森県りんご百年史』)。
 ▽移出・輸出と産地間競争
 販路の拡大とともに、リンゴの移出業が発達し、国内流通の上で大きな力を持つようになった。最初は大規模栽培者が自ら移出を手がける例が多かったが、やがて仲買人(なかがいにん)が現れるようになり、明治40年代になると主として専門の移出業者が扱うようになっていく。同時に、竹館(たけだて)林檎生産購買販売信用組合(竹館村は現平川市)など、集落ごとに組織された組合がリンゴの販路開拓に力を注ぐようになった点も注目される。
 明治30年にはロシアのウラジオストクへのリンゴ輸出が始まるなど、海外との取引きも行われるようになった。明治42年に設立された青浦商会は、同所へリンゴ輸出を行った会社の一例である。
 ▽効果あったリンゴ宣伝会
 昭和戦前期、青森県はリンゴの消費拡大のため、積極的に宣伝活動を展開した。このころは東京に中央卸売市場が設置されたりしており、リンゴの産地間競争がさらに激しくなることが予想される時期であった。
 昭和10年(1935)11月から翌年4月にかけ、青森県は東京・横浜でさまざまな宣伝活動を行っており、その様子は『東京・横浜両市に於ける青森りんご宣伝記録写真集』で知ることができる。内容は、東京・横浜市内でのアドバルーン、市電・バス広告、首都圏3カ所の劇場での宣伝などで、サンドイッチマンも動員された。
 宣伝活動の中でも特に目を引くのが、東京日本橋の百貨店である白木屋(しろきや)本店(後の東急百貨店日本橋店)で行われた「りんご宣伝会」である。昭和11年3月29日から8日間、ショーウィンドーでの実物展示や宣伝即売が行われた。
 期間中の4月3日には、「りんごデー」という名の一大イベントが行われた。白木屋ホールでは講演会や映画、青森県の郷土芸能が公開され、夜には食堂でリンゴ料理の試食懇話会が開かれた。この催しは、首都圏の人々に対し、より多くのリンゴを利用するように訴えるものであった。
(青森県立郷土館主任研究主査 佐藤良宣)

 

◆一口メモ 敬業社
 明治18年に、岩木川沿いに大規模なリンゴ園を開設した栽培組織。出資者には長谷川誠三や菊池九郎など、キリスト教関係者が多く名を連ねている。経営は良好だったが、同34年、病害虫の発生により打撃を受け、解散した。

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民俗芸能に武士の刀=128

2014/1/13 月曜日

 

県無形民俗文化財「相内の虫送り」で行われる太刀振り(五所川原市、2010年6月、下田雄次撮影)
猿賀神社の鬼面奉射神事(2008年5月3日、筆者撮影)
弘前藩の當田流棒術伝書(小山秀弘家蔵)

 ▽刀を振る民俗芸能
 いわゆる「民俗芸能」の定義についてはさまざまな見解があり、定まっていない。一般には、近代以前から伝承されてきた地域性の高い歌舞音曲(かぶおんぎょく)を意味し、獅子踊や神楽はその典型である。注目すべきは、そのなかに、武士のシンボルとされる刀剣を用いる芸能が少なくないことである。
 例えば青森県無形民俗文化財の津軽神楽は、宝剣・弓立・四家舞(しかまい)の際に剣や弓などを持って舞う。山伏神楽が盛んな下北・南部地方の芸能でも、刀を使用する芸態が多い。東通村の獅子舞「虎の口」や「三宝荒神」、法霊(ほうりょう)神楽(八戸市)の「杵舞」では、太刀を激しく振り、曲芸もする。岡三沢神楽(三沢市)の「両剣」では、二人で激しい剣の舞いや相撲のような組み討ちも行なう。中居林太神楽(なかいばやしだいかぐら・八戸市)は、赤い獅子頭をかぶり、脇差を抜いて舞う。青森県無形民俗文化財「岩崎の鹿島祭」(深浦町)や「相内の虫送り」(五所川原市)に登場する「太刀振り」でも、シンボルとしての「太刀」を振り、互いに打ち合うことで、災厄や田畑の害虫を追い払う。
 津軽地方で盛んな獅子踊に武器は登場しないが、石川県粟生(あお)の獅子舞は、太刀や棒で獅子を退治する芸態である。原馬室(はらまむろ、埼玉県鴻巣市)の獅子舞にも、真剣・木刀・棒による立ち回りがある。実は、関東以北の獅子踊りでは棒や太刀の使用例が多く、使用しない地域の方が少数だという(菊池和博「八色木獅子踊りにみる特質」)。
 ▽魔を払う武器
 民俗芸能になぜ、武器が使われるのだろうか。その理由として、宗教者や民衆が、武器を魔除(よ)けや災厄を払い清める呪具、神器として考えていたことがある。例えば猿賀神社(平川市)の鬼面奉射神事では、紙や木板に描いた鬼面を神官が弓で射、刀で割ることで、悪鬼退散と郡中静謐(ぐんちゅうせいひつ)を祈願する。中世から伝わる香取(かとり)神道流(千葉県)には、刀槍(とうそう)の技のほか、狐(きつね)などの魔を払う術もあり、近年まで行われていた。
 ▽民衆と武士の交流
 近世以来、武芸は武士の専売特許と認識されてきた。しかし実際には、さまざまな身分の人びとが武芸習得に励んでいた。寛政3年(1791)、江戸の町人山崎金兵衛利秀は『剣術義論』を刊行し、剣術を護身術として推奨した。葛飾北斎『北斎漫画』にも、手首の関節を極める護身術のスケッチがある。江戸時代後期の剣豪千葉周作の日記『剣術物語』(文政7年)には、武芸を使う「村学究」の者がいたと記されている。そして、福島県いわき市の草棒ササラや石川県金沢市の獅子舞に付く武芸は、武士が民衆へ教えたものである(『金沢市史資料編14民俗』)。
 津軽地方でも、武士と民衆が武芸を共有していた。弘前藩の武芸師範浅利伊兵衛には150名の弟子がいたが、そのうち町人50人に、當田(とうだ)流(戸田流)棒術の「許(ゆるし)」を授与した(太田尚充『津軽の剣豪浅利伊兵衛の生涯』)。近代まで続いた弘前城下のねぷた喧嘩では、下級武士・奉公人・町民が身分を越えて参加し、武装・乱闘して武芸の腕前を試す者もいた(小山隆秀「争うネブタの伝承」)。
 當田流棒術は、藩域を越えてさまざまな人々に受容されていた可能性がある。下田雄次の資料調査によれば、秋田県阿仁(あに)前田に民俗芸能としての戸田流棒使いがあり、弘前藩當田流と同名の技が継承されている。さらに能代の道地ササラには「当流棒序の巻」が伝わるという。
 武芸が身分を越えて共有されてきた点については、断片的な事実が指摘されるのみで、本格的な研究はこれからである。しかし、このことは、歌舞音曲の研究を中心としてきた従来の「無形文化財」観について、再考を促すものとして重要である。民俗芸能の成立に影響を与えた他の技芸についてもとらえ直す、多角的な視点が求められている。
(日本民俗学会・日本武道学会会員 小山隆秀)

 

◆一口メモ 刀と棒
 刀を2本差せるのは武士だけで、その他の者には1本差ししか許されなかった。長さも決められていて、2尺2、3寸を超える長い刀を持つことは禁止された。一方で棒には、そうした制限がなかった。長さ6尺が一般的だが、4尺の杖(つえ)、3尺の半棒など、用途に応じてさまざまなものがあった。

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武家と庶民の「日光」=129

2014/1/27 月曜日

 

赤根沢の赤岩(筆者撮影)
「日光強飯の記」(もりおか歴史文化館蔵)
「日光山絵図」(もりおか歴史文化館蔵)

 ▽江戸時代の日光
 日光山(栃木県日光市)は、古くから山岳信仰の場として有名である。中世末の一時期、存亡の危機にあったが、元和2年(1616)に没した徳川家康が翌春、同地に改葬され、新たに造営された東照社(とうしょうしゃ)に東照大権現として祀(まつ)られたことで転機を迎えた。
 東照社は、寛永13年(1636)の大造替で権現造(ごんげんづくり)の社殿を中心とする今日の豪華絢爛(けんらん)な姿となり、正保2年(1645)に東照宮(とうしょうぐう)と改称された。元禄期をはじめ度々行われた社殿などの修復には、塗装材のひとつとして今別町赤根沢の赤土が使われた(弘前藩『御用格』)。
 江戸時代を通じて将軍の社参は合計19回行われた。朝廷からは毎年4月に日光例幣使(れいへいし)が参向し、朝鮮通信使・琉球使節・オランダ商館長の参拝も行われるなど、外交・朝幕関係上も幕府が重要視した、特別な場所でもあった。
 ▽大名の日光東照宮参詣
 日光参詣は大名や旗本などが中心で、通常は東照宮(御宮)と大猷院廟(たいゆういんびょう、3代将軍家光御霊屋)の内見(ないけん)と正式な参拝が行われた。津軽家当主は、寛文元年(1661)に4代信政(のぶまさ)、寛政8年(1796)に9代寧親(やすちか)、弘化2年(1845)に11代順承(ゆきつぐ)などが参勤の帰路に日光へ立ち寄っており、寧親の参詣については詳細な記録が残っている。
 5月の寧親参詣に先だち、3月下旬には御徒(おかち)が現地へ派遣され、街道の状況把握、宿場や人馬の手配、宿坊(しゅくぼう)となる実教院との打合せを進めた。同行する家臣へは勝手に御宮を拝見することを禁じ、身分に応じた服装規定や咥(くわ)え煙管(きせる)の禁止などが通達された。また赤城山と日光山の神の抗争伝説によるものか、江戸赤木明神(東京都新宿区)の氏子は日光山への立入りを控えるよう命じている。
 4月上旬に幕府から日光参詣の許可を得た寧親は、5月3日に江戸を発駕した(「日光山御宮御霊屋拝礼之儀御伺書」国文学研究資料館津軽家文書)。途中の宇都宮に家臣や荷物を残し、一部の家臣と日光街道を進んだ。日光には同6日に到着し、御宮・御霊屋を内見後、強飯式(ごうはんしき)に臨んだ。翌朝には、同所を正式に参拝している。
 服装・下乗(げじょう)場所・拝礼作法などには、参拝者の身分と格式により違いがあった。寧親の場合、内見に麻上下(あさかみしも)、参拝に大紋(だいもん)を着用し、石鳥居前の石垣際で下乗して、陽明門前で供の者に刀を渡した。参拝後は関係者へのお礼と江戸への報告を行い、その日のうちに下山して宇都宮に戻り、帰途に就いた。
 ▽庶民の記録にみる日光
 江戸時代中期以降になると、日光に関する地誌や見聞記、紀行などが多くみられるようになった。後期には、年間約3万人が訪れたといわれている(『栃木県史』)。
 寛政10年(1798)に同地を訪れた五所川原の平山熊之介は、東照宮をはじめとする日光山内の様子について「御宮の素晴らしさは言葉には尽くし難い」と述べている(『平山日記』)。庶民の参詣には確かな身元、堂者引(どうじゃびき=案内人)の同行料金を添え許可を得ることなどが必要で、拝殿階下での内見のみが許されていた。本来は、番所で身元確認や手形発行が行われたはずだが、平山はそのような手続きに触れておらず、時代が下ると規制も緩くなっていたのではないかと思われる。
 藩の記録には、参拝の手続きや作法が詳細に記されている。公用の参考としたのであろう。一方、庶民の日記類は、華麗な建造物に関する記述が主となっている。参拝目的と見物目的の違いであり、そのことは、東照大権現に対する両者の意識差の一端でもあろう。
 平山が当時「石碑より低い」と記した杉並木は樹齢三百数十年を越え、世界遺産となった「日光」に、現在もその姿を留めている。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 堀内久子)

 

◆一口メモ 強飯式
 修験者が頂戴人に飯を強いる儀式で、全国各地でみられる。日光山では日光責とも呼ばれ、東照大権現の神威発揚を目的として行われた。強飯僧の責口上に始まり、配膳・強飯・菜膳・金甲・驚覚の順序で進む。開運を祈る儀式として、現在も受け継がれている。

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津軽近海にも異国船=130

2014/2/10 月曜日

 

 
アメリカ人船頭(青森県立郷土館蔵「異国船出帆之図」より)
 
アメリカ人水夫(青森県立郷土館蔵「異国船出帆之図」より)
 
アメリカ船(青森県立郷土館蔵「異国船出帆之図」より)

 ▽異国船の出没と北奥
 江戸時代後期、幕府はロシア船対策として蝦夷地を直轄化し、弘前藩・盛岡藩に警備の主力を担わせたが、異国船が現れるのは蝦夷地だけではなかったし、ロシア船だけとも限らなかった。
 文政8年(1825)2月、幕府は無二念打払令(むにねんうちはらいれい)を発令した。「二念なく」とあるのは、異国船については、来航の理由を問わず追い払え、という意味である。その直後、八戸藩領中野(現岩手県九戸郡洋野(ひろの)町)の沖合に異国船が渡来し、麦生(むぎよう)浦(現岩手県久慈市侍浜町)や三沢沖にも現れた。7月には有家(うげ)(現洋野町)の沖合に接近し、黒人を含む7人が薪水(しんすい)を求めて小有家川付近に上陸したため、地元民が出て追い返す騒ぎになった。なかには小船で異国船に漕(こ)ぎよせ、見物におよぶ若者もあったという。
 この時は、中野陣屋から大筒や鉄砲を打ちかけて追い払ったが、異国船はその後もしばしば姿を見せたため、北奥諸藩は警戒を怠ることができなかった。
 ▽津軽海峡にアメリカ船
 嘉永元年(1848)3月20日、三厩村の沖に3000石クラスの大船が2艘(そう)現れ、岸から1里ほどの所に碇(いかり)を下ろした。昼ごろには今別村の袰月(ほろづき)沖に、さらに3艘が現れた。どうやら、捕鯨船のようである。急報に接した弘前藩は警戒態勢をとり、物頭(ものがしら)の木村杢之助ら300人余を動員した。
 計5艘の船はいったん竜飛・箱館方面に移動したが、同23日の昼ごろ、三厩近くの宇鉄(うてつ)村の沿岸に再接近した。どこかで合流したのか、5000石クラスの大船も混じっていた。間もなくボートが下ろされ、13人の異国人が上陸した。彼らは村人が逃げ去った後の家に入り、料理や酒を見つけてはしゃいだ。その内に弘前藩の役人や藩兵がやってきたので、空砲を合図に船に戻った。
 なかなか立ち去ろうとしない異国船に対し、弘前藩はいっそう警戒を強め、分家の黒石藩も100人を超す人夫を動員した。25日には、宇鉄村の漁師松吉・万助・太三郎の3名が探査をすることになり船に近づいたが、予想に反して、松吉らは好意的に迎えられた。船の大きさを測ることも許され、乗組員の数もつかめた。3000石クラスの船は長さ20間(約36メートル)・幅4間(約7・3メートル)・乗組員35名、5000石クラスの船は長さ30間(約54・5メートル)・幅6間半(約12メートル)・乗組員100名に及んだ。こうして、アメリカ船である
ことがわかったのである。
 ▽英単語を書き取る
 この時の状況の記録としては「異国人物」(弘前市立弘前図書館岩見文庫)が知られているが、アメリカ人船長や水夫、彼らが使用するボート、星条旗などを描いた4枚組の「異国船出帆之図」(県立郷土館蔵)も注目すべき資料である。画者が誰かは不明だが、デッサン力には確かなものがある。
 船長の図の注釈によれば、酒食を提供したところ彼らは喜び、酒を飲みはじめた。その際、身欠きニシンを「ヘツシヱ」(fish)、握り飯を「ウラヱシ」(rice)、石を「シツトン」(stone)と呼んだ、とある。RとLの発音の違いをちゃんと書き分けているのだから、聞き取り能力もなかなかのもの、と言えそうである。
 藩側は近くの藤島(ふじしま)浜に異国人29名を上陸させた。求めに応じてさらに食料を与えたが、一方で、早く立ち去らないと打ち払う旨を身ぶり手ぶりで伝えると、船は夕刻、西方に走り去った。
 その後も、津軽海峡を通過する異国船は増え続け、嘉永3年(1850)には40艘近くにも及んだ。同5年3月、弘前の儒学者伊東梅軒(いとうばいけん)(祐之)を訪ねた吉田松陰(よしだしょういん)はその足で三厩に赴き、異国船がわが物顔で往来する津軽海峡の状況を深く憂えた(「東北遊日記」)。ペリー来航直前のことである。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆一口メモ 英単語
  日本における英語辞書の刊行がいつになるかは明確でないが、宮永孝によれば、文化5年(1808)のフェートン号事件に刺激された長崎の蘭語通詞らが蘭英対訳の会話書をまとめようとしていた、という(「辞書のかたる幕末の英学」)。なお、ジョン万次郎の英語入門書『英米対話捷径』が刊行されるのは、安政6年(1859)のことである。

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