北方史の中の津軽

 

城郭工事の申請で苦慮=121

2013/9/16 月曜日

 

寛永末年頃の「弘前城の絵図」に描かれたたかおか橋(弘前市教育委員会提供)
昭和20年代の杉の大橋(弘前市教育委員会提供)
二の丸の塀について描かれた文政5年「陸奥国弘前城絵図」(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽武家諸法度による城郭工事規制
 大名は、居城を新築・増改築したり修理したりすることについて、武家諸法度により規制を受けていた。どんな些細(ささい)なものでも、居城で行われる工事については幕府に申請し、その許可をもらわなければならなかった。しかし、弘前城内での工事について、弘前藩はそのすべてを申請していたわけではなかった。
 一歩間違えれば、武家諸法度違反として幕府から処分を受けかねない居城の工事許可申請だが、申請する、しないの基準は、どこにあったのだろうか。
 ▽工事内容による申請の基準
 幕府から許可を受ける必要のある工事として武家諸法度に明記されているのは、石垣や土塁などの土木工事(普請)だった。しかし、建築工事(作事)についても、内容によっては許可が必要だった。たとえば、新規の作事は将軍が決裁し、再建作事については、老中の決裁によって許可された。さらに修復作事であっても、18世紀半ばからは届出が必要な場合もあったという(白峰旬『日本近世城郭史の研究』)。
 内容しだいで申請の有無を決定しなくてはならない作事、特に修復作事について、弘前藩は着手前に幕府や譜代大名に問い合わせをしていたことが「弘前藩庁日記」の「江戸日記」や「御国日記」の記事から判明する。
 弘前藩は寛文10年(1670)に、本丸から北の郭につながる橋(現在のたかおか橋)を架設したが、前年中に幕府に申請し、老中奉書による許可を得ていた(「江戸日記」寛文9年5月11日条)。この経験が影響を及ぼしたのか、その後も、正徳元年(1711)の三の丸大手橋(現在の杉の大橋)の架け直しや、寛保2年(1742)のたかおか橋架け替えなどに際して幕閣関係者に問い合わせを行っている。その上で、いずれも「橋の修復程度なら伺いは不要」という回答をもらっている(「江戸日記」正徳元年9月12日条、「御国日記」寛保2年5月2日条)。
 他には、塀の更新なども判断に迷ったようだ。文政5年に二の丸辰巳櫓(たつみやぐら)から未申櫓(ひつじさるやぐら)までを土塀にするため、申請用に作成したと思われる絵図が残っている(市立弘前図書館蔵)が、結局は申請していない。また、嘉永3年(1850)に二の丸の塀を修理した際には、事前に問い合わせした幕府の表右筆(おもてゆうひつ)組頭から「塀ばかりの修理の問い合せは他には無いし、藩として初めての工事でもないのだから、藩内で結論を出してみてはどうか」と、半ばあきれ気味の回答を得ている(「御国日記」嘉永3年2月27日条)。
 ▽許可の有効範囲はどこまでか
 これらからわかるのは、幕府の城郭統制に対して、弘前藩が弘前城内の工事を慎重に取り扱おうとしていたことである。
 しかしその一方で、許可の有効範囲を独自に解釈して、申請しなかった工事もあった。明和3年(1766)の大地震によって城内各所に被害を受けた弘前藩は、同年中に老中奉書を受けて、修復普請に着手した。安永6年(1777)、西郭(にしのくるわ)の蓮池土留の石積(いしづみ)化を計画した弘前藩は、明和3年の老中奉書に記載のない工事にも関わらず、まだ地震の修復工事もすべて終わっていない状態なので新たに申請できないと判断して、申請しなかったのだ。一度幕府から許可を得た工事が城郭内で続いている間は、別の場所で工事が必要となっても申請はできないと考えたのである。結果、蓮池の工事は天明元年(1781)まで待って幕府に申請したのである。
 あまりに遠慮がちな対応だと思われるが、申請の基準に苦慮し続けたということが、必要以上に慎重な判断につながったのだろう。こうして250年間に及ぶ幕府とのやりとりを乗り切って、弘前城は津軽氏居城のまま明治維新を迎えるのである。
(弘前市教育委員会文化財課主査 小石川 透)

 

◆一口メモ 表右筆
 江戸幕府の役職の一つで、老中奉書や触書など、幕府の公文書作成を職掌とした。城郭修補申請に際しては、表右筆組頭によって事前に絵図など申請書類の記載内容がチェックされた後、改めて担当する老中に清書した書類が提出された。

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堅実だった平尾魯仙=122

2013/9/30 月曜日

 

「貞昌寺方丈」の図と「又五郎孫娘」の図(当館蔵)
 
明治5年「紺屋町見取図」と魯仙の居宅(個人蔵)
 
魯仙愛用の机と文具(個人蔵)

 ▽待望の「平尾魯仙展」
 青森県立郷土館は、今年9月で開館40周年を迎えた。これを記念して開かれている特別展「平尾魯仙~青森のダ・ヴィンチ」は、津軽画壇の重鎮として活躍した絵師・平尾魯仙(ひらおろせん)のマルチな才能がいかにして生まれ、熟成していったかを、多彩な資料によって追ってみようというものである。幕末維新期における本県の歴史・民俗・文化・学問に興味を持つ者にとって、まさに待望の企画と言えよう。
 魯仙についてはこれまでも本欄で触れてきたが、これから3回にわたり、新たに浮かび上がってきたあれこれを紹介したい。
 ▽名声は一朝一夕にはならず
 魯仙は30歳の時(天保8/1837年)に家業を弟の三郎治に譲り、職業絵師として独立した。しかし、当初は貧しく、明かり用の灯油や暖をとる炭にも事欠く生活を強いられた。
 平成23年度に当館へ寄贈された成田コレクションには、このコレクションの土台をつくった佐藤仙之(せんし/蔀(しとみ))が師魯仙から引き継いだと思われる「まくり」が多数含まれている。例えば、竹屋治平(たけやじへい)(=御用研ぎ屋で俳人の三谷坦斎(みたにたんさい))の求めで会合の場面を描いたものや僧侶・神官の肖像、どこかの娘さんの立ち姿など、さまざまな人物が描かれている。
 これらには修正の貼り紙や、着衣の色についてのメモが見られることから、魯仙は下絵を注文主に見せ、要望を聞き、修正を加えてから清書にかかる、というやり方を採っていたと見られる。そこに記された名前を見ると、津軽の各地からさまざまな人々が、時には松前からも、吉兆・神仏に関わるふすま絵や掛軸・肖像画・風景画を依頼していたことが分かる。
 独立したばかりの魯仙は仕事を選ばず、こうした絵の注文で収入を得ていたのである。
 ▽勤勉で規則正しい生活
 魯仙は寸暇を惜しみ、規則正しい生活を送った。朝は午前4時前に起床。北向きの8畳間を居間とし、黒塗りの机を据えて、作画と文筆に励んだ。夜は晩酌と煙草(たばこ)をたのしみ、客がなければ午後9時には寝所に入った。余りにも決まった日常なので「お祖父(じい)様の身の持ち方は判を押したやうだといはれて居ました」と、外孫の土岐(とき)やすは述懐している(中村良之進編『平尾魯仙翁』)。
 健康面では、絵師という職業柄、目を特に大切にした。起床して手を清め、口をすすぎ、その水で目を洗った。厳寒期も決して湯を用いず、冷水で洗顔した。その後、居住まいを正して座り、瞑目(めいもく)の後は拍手して、敬神の誠を捧(ささ)げていたという。朝の洗顔や遙拝(ようはい)の話は魯仙の著書『家訓提要』にもあり、信奉していた平田篤胤(ひらたあつたね)の『童蒙入学門』や『毎朝神拝詞記』の影響を見ることができる。
 ▽信頼厚かった一番弟子
 生活は4~5年で安定し、魯仙は弟子を取るようになった。高弟としては、三上仙年(せんねん)・工藤仙乙・山上仙室(やまのうえせんしつ/魯山)・山形岳泉(がくせん)・佐藤仙之(せんし/佐藤蔀)らが挙げられる。
 一番弟子の仙年は弘前藩士で、本名は栄治という。魯仙の隠居所と家が近く、日常的に交流していた。文久2年(1862)に魯仙が西目屋の暗門滝を見に行った時は付き添っているし、慶応2年(1866)に自身が警備役で京都に上った折には、魯仙が近衛家に呈上していた「安門瀑布図」の現況を確かめるよう依頼されている。
 魯仙は仙年について、10年間「四君子(しくんし)」を描く修業をしたおかげで四季の風物や風霜雨雪の趣を会得(えとく)し、山水画を得意とするようになったと、その努力を称(たた)えている。実物をよく見て写生し、その経験の積み重ねの後に、描き手の意図を加えることが可能になる。魯仙における絵画とは、物を写真のように写しとることではなく、その物の本質を見極めてイメージ化・理想化することであった。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆一口メモ 四君子
 蘭・竹・菊・梅の総称。この4種はそれぞれが春夏秋冬を代表する草木で、気品の高い美しさを持っていることから、君子が備えるべき徳・学識・礼儀のシンボルとして扱われた。絵画の図柄や模様にも用いられ、これらを題材とすることで、基本的な筆遣いをすべて習得できるとされた。

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宮内庁に魯仙直筆本=123

2013/10/14 月曜日

 

再現された魯仙の仕事場(特別展『平尾魯仙』会場より)
 
『安門瀑布紀行』の開梱(筆者提供)
 
『安門瀑布紀行』の展示状況(筆者提供)

 ▽魯仙の猛烈な勉強ぶり
 平尾魯仙の本業は絵師だが、題材の充実を図るためもあって、多くの書物を読みあさっている。「あなたは文も画もできるのだから、動物・植物の異形(いぎょう)の図に文を添えて世間に示せば、考察の手助けになるだろう」と友人から言われた(『異物図会(いぶつずえ)』序文)ように、「絵画と文章は不可分のもの」という考えが、魯仙にはあった。
 魯仙の勉強ぶりを語るうえで忘れてはならないのが、『宏斎抄誌(こうさいしょうし)』全150巻である。日本や中国の古典の読書記録とも言えるもので、必要に応じて抜き書きしている。友人の岩間市太郎(いわまいちたろう)(滴(したたり))によれば、魯仙の著作・画集は知られているものだけで600冊以上あり、未定稿も相当数あったという。写真技術が発達していなかった時代にあって、魯仙が残した絵画や文章の数々は、考古・歴史・民俗学研究上の貴重な材料である。
 魯仙は周囲によく気を配り、観察を通して物事の本質を見きわめようとした。県立郷土館の特別展『平尾魯仙』で採り上げられている奇譚(きたん)収集、考古学・地質学・動植物や社会風俗への関心、異国への興味、名所への旅などはすべて、魯仙の研究の一部である。
 ▽宮内庁『安門瀑布紀行』の発見
 魯仙は、見たもの・聞いたもの・体験したものはできるだけ、絵画や文章に残すよう努めていた。草稿もきちんと取っておき、丁寧に製本して保存していた。書いたものをおろそかに扱わないのが、魯仙という人である。その積み重ねこそが魯仙の学識を厚くし、マルチな才能を育てたと言えよう。
 文久2年(1862)6月、魯仙は弟子の三上仙年(みかみせんねん)に誘われ、津軽の名所「暗門滝」を見に出かけた。その時の記録『安門瀑布紀行』が宮内庁書陵部(くないちょうしょりょうぶ)の所蔵となっていることを、平成10年、青森県史編さんグループが確認した。魯仙の直筆本で、3冊の画帳と1冊の解説書からなっている。明治28年(1895)、子孫によって皇室に献上されたもので、特別展『平尾魯仙』への出品は、118年ぶりの里帰りということになる。
 画帳には52の場面が描かれ、場所の状況を示す簡単なキャプションが付けられている。解説書の方は旅のようすや感想を記したもので、画帳だけでは分からない細やかな観察と魯仙の思いが詳細に書かれている。両方を見ることで、暗門滝のすばらしさがダイナミックに伝わってくる内容である。
 なお、県立郷土館は『安門瀑布紀行』の写しである『暗門山水観』(魯仙の弟子山形岳泉筆)を所蔵しているが、これには解説書が付いていないので、『安門瀑布紀行』の発見は、いっそう価値がある。
 ▽『安門瀑布紀行』天覧は事実か
 昭和4年(1929)、魯仙の没後50年を記念する祭典と遺墨展覧会が、弘前で開催された。遺族から、魯仙の生涯と事績をまとめるよう頼まれた中村良之進は『平尾魯仙翁』を編集し、参集者に配布した。これによれば、魯仙は、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸に際し、「安門瀑布図」を天覧に供したという。
 しかし、魯仙の子孫家に伝わっている外崎覚(そのさきかく)の書翰には、魯仙の願いは果たされず、最期まで残念に思っていたと、記されている。
 明治天皇は明治9年に青森県東部をめぐり、青森から函館に渡った後、海路で横浜へ戻った。明治14年は主として津軽方面をめぐり、弘前にも宿泊した。試みに、明治9年の下賜金の記録をひもといてみると魯仙の名はないが、明治14年の記録には、弟子の三上仙年が「安門瀑布図」を天覧に供し金7円を下賜されたとある。
 すなわち、『平尾魯仙翁』に記された明治9年の「安門瀑布図」天覧は、実現していなかった可能性が高い。伝記編集の際に、半ば意図的に天覧があったことにされたのではないか、とさえ思えてくるが、その辺りは、今後の研究課題である。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆一口メモ 書陵部
 皇室関係の文書・資料や陵墓の管理を担当する宮内庁の内部部局のひとつ。昭和24年に「図書寮」と「諸陵寮」の職務を合わせて「書陵部」となった。図書課・編修課・陵墓課があり、資料の公開や皇室制度・文化の研究を行っている。

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体験語る稲生物怪録=124

2013/10/28 月曜日

 

平田銕胤書状より「稲生物怪録」の注文確認の部分(県立郷土館蔵)
 
岩間滴旧蔵の「稲生物怪録」(同)
 
清書本と草稿の比較「すりこぎ手の怪」(上=弘前市立博物館蔵、下=個人蔵)

 ▽津軽に到来した「稲生物怪録」
 絵師であり学者でもある平尾魯仙の教養のベースは漢学だったが、親友の鶴屋有節(つるやありよ)の影響で、元治元年(1864)に江戸の国学塾「気吹舎」に入門し、平田国学を学ぶようになった。平田家は、塾の創設者である平田篤胤(あつたね)の著書を出版し、地方の好学の士に販売した。津軽では鶴屋らが盛んに買い入れており、入金の有無などを、平田家との間でひんぱんに確認している。
 平田銕胤(かねたね)(篤胤の養子)が鶴屋に宛てた安政4年(1857)正月6日付の書状の中に、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」の書名がある。備後国三次(みよし)藩士の稲生(いのう)武太夫(幼名平太郎)が語った妖怪体験を柏正甫という人が筆記したもので、それによれば、寛延2年(1749)7月、肝試しによって妖怪の怒りを買った平太郎は、30日の間、妖怪から様々な嫌がらせを受けたという。平太郎は次々に現れる化け物を退け、魔王のひとり山ン本(さんもと)五郎左衛門からその勇気を称えられた、という筋立てである。
 ▽文章だけだった「稲生物怪録」
 平田家から送られてくる本は鶴屋の勉強会で回覧されたが、読み終えた後は、会員の誰かが保管することになっていたようだ。実は、平成22年度に県立郷土館へ寄贈された成田彦栄コレクションの中に「稲生物怪録」が含まれており、勉強会のメンバーだった岩間滴(いわましたたり)の蔵書印「磐根之舎(いわねのや)」があることから、これが、鶴屋に送られてきた本そのものと考えられる。しかし、この「稲生物怪録」は、文章だけのシンプルな体裁である。
 元々「稲生物怪録」には挿し絵がなかったが、天保年間には、絵入り本が出回るようになったという。東北大学の狩野文庫本は、初の絵入り本とされる「稲生平太郎物語」の系統に属するものだし、国立歴史民俗博物館本も、挿し絵入り「稲生物怪録」として有名である。おもしろい文章があればそれをイメージ化したくなるのは、人情というものであろう。
 ▽挿し絵を頼まれた魯仙
 安政6年、今村真種(いまむらみたね=今村要太郎)は岩間から「稲生物怪録」を借り受けて筆写した。その後、挿し絵が欲しくなり、魯仙に「元の本の意をくんで、その内容を絵にしてくれないか」と依頼した。
 多くの奇譚(きたん)や珍品の書写に励んできた魯仙も、さすがに絵入りの「稲生物怪録」を見たことはなかったようだ。しかし、幽冥界研究の大著『幽府新論(ゆうふしんろん)』を著したほどの博学ぶりで知られ、地獄図絵の傑作「十王図」(鯵ケ沢町高澤寺蔵)を描いた経験を持つ魯仙のことである。文章の内容に合わせて挿し絵を付ける作業が、さほど困難だったとも思われない。巷(ちまた)には鳥山石燕(とりやませきえん)や葛飾北斎(かつしかほくさい)の妖怪画が出回っており、そこから妖怪のイメージについてヒントを得ることもできただろう。
 ▽発見された草稿
 明治3年(1870)9月、魯仙は、今村へ挿し絵を渡した。しかし、今村の事情で文章と挿し絵を合わせる作業は大幅に遅れた。1冊の本として完成するのは明治18年11月のことで、すでに魯仙は他界していた(明治13年2月)。
 この清書本は現在、弘前市立博物館の所蔵となっている。県立郷土館が平成20年(2008)に開催した「妖怪展~神・もののけ・いのり」で初公開され、挿し絵の完成度の高さで注目を集めた。これまでにない新タイプの「稲生物怪録」と位置づけて良いだろう。
 現在、県立郷土館で開かれている特別展「平尾魯仙~青森のダ・ヴィンチ」では、弘前市立博物館本に加え、下書き段階の草稿(個人蔵)も展示されている。特別展の事前調査で発見されたもので、「九月廿三日改写畢」「明治四辛未年夏五月十日製」と記されている。魯仙は下書きをちゃんと取っておき、明治4年5月に製本したのである。しかし、見つかったのは半分だけで、残り半分はまだどこかに眠っている可能性はある。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆一口メモ 稲生物怪録
 「いのうもののけろく」と読むのが一般的だが、「物怪」を「ぶっかい」と読んだ事例に従って「いのうぶっかいろく」と読むべき、とする指摘もある。なお、『源氏物語』には「物の怪」「物の気」という表現があり、江戸時代の『書言字考節用集』にも「物怪」を「もののけ」と読ませた例がある。

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津軽地域3郡の統合=125

2013/11/18 月曜日

 

津軽郡以前の3郡が記された「陸奥国津軽郡之絵図」(部分・県立郷土館蔵)
2つの領知目録と「一円」の有無(上=寛文4年、下=正徳2年、部分、いずれも国文学研究資料館蔵)
「一円之文字被遊御加被下候様ニ」と書かれた「御領知御目録御願之儀ニ付御書付之扣」(県立郷土館蔵)

 ▽国郡制の枠組み
 津軽家の支配領域について、江戸幕府から弘前藩主に発給された領知宛行状(りょうちあてがいじょう=国文学研究資料館蔵)には「陸奥国津軽郡(むつのくにつがるぐん)」と記載されている。8世紀の律令制度(りつりょうせいど)で定められた地方行政区画である「国」「郡」という枠組みは、近世になっても生きていたのである。
 幕府は全国の土地の状況を把握するため、諸大名に国単位の絵図(国絵図・くにえず)や、それに付属する土地台帳(郷帳・ごうちょう)を作成させた。郷帳には国内の郡ごとに、村名とその石高が記載された。ほかに、国単位で臨時に賦課される「国役」という制度もあった。
 ▽「津軽郡」の誕生
 「津軽」という名称を持った郡の誕生は、比較的新しい。律令制の下ではこの地域に郡は置かれず、中世になってようやく田舎(いなか)郡・平賀(ひらか)郡・鼻和(はなわ)郡のいわゆる「津軽三郡」が、史料の中に見えてくる。正保2年(1645)に作成された「津軽知行高之帳」(弘前市立弘前図書館蔵)でも、当地にある郡として記載されたのはこの3郡で、「津軽」はあくまでも地域の総称として扱われていた。
 「弘前藩庁日記」御国日記の寛文4年(1664)5月12日条には、その「御国三郡の分け」につき江戸から通報があり重臣たちが協議した、とある。これにより、郡分けの事情に通じた老人を呼んだり、領内社寺の縁起(えんぎ)・棟札(むなふだ)・文献を資料として収集したりした。
 これらの作業は幕府の領知宛行状発給に伴うものだった。おそらく当初は3郡をそのまま申告したのだが、幕府がその呼称を認めなかったため国元で急ぎ協議し、3郡を統合したかたちで、地域の総称である「津軽」を郡名に採用することにしたのだろう。
 幕府に提出された台帳の控「陸奥国津軽郡高辻村之牒」(弘前市立弘前図書館蔵)では郡名を「津軽郡」とし、旧来の3郡をその下の「庄(しょう)」という区画に転換している。これをうけて幕府が津軽家に与えた宛行状には、「津軽郡」と記載された(千葉一大「『寛文印知』と奥羽地方」)。
 ▽「一円」記載の喪失
 国・郡といった大きな範囲を一つの大名が総合的に支配することを、一円知行(いちえんちぎょう)という。宛行状に付けられる領知目録をみると、一カ国を一円知行する場合は「~国一円」、一つの郡を一円知行する場合は「~国~郡一円」と記載された(国立公文書館蔵「御朱印帳」)。
 津軽家の場合、寛文の領知目録(4代将軍家綱・いえつな)と貞享の領知目録(5代将軍綱吉(つなよし))には「陸奥国津軽郡一円」と記載されたが、正徳の領知目録(6代将軍家宣)には「一円」の文字がなかった。このため、弘前藩5代藩主津軽信寿(のぶひさ)は享保元年(1716)11月、「一円」記載を復活するよう、願書を提出した(国文学研究資料館蔵)。
 ▽「一円」記載を必要とした理由
 津軽家は、幕府老中や宛行状発給を管轄する朱印改奉行(しゅいんあらためぶぎょう)に、新たに発給される領知目録には「一円の文字を加えて」と再三申し入れたが、この時は実現しなかった(「御領知御目録御願之儀ニ付御書付之扣」)。「津軽郡一円」という記載が復活するのは、延享3年(1746)の領知目録においてである。
 正徳の領知宛行状の発給には、新井白石が関与した(新井白石日記)書礼や形式にこだわる白石は、従来とは異なる文言の宛行状を発給させており、その影響が津軽家の領知目録の記載に波及した可能性もある。しかし、津軽家が見せた「一円」という記載へのこだわりは、書式の違いを正すという目的だけではないだろう。
 一円知行は、武家にとって大きな「格」であった。それゆえ、津軽家にとっては、1郡を有する「郡取」の大名だという自己認識に直結する政治的意義を持っていたのである。
(千葉一大 青山学院大学非常勤講師)

 

◆一口メモ 国 役
 江戸時代、幕府が特定の国を指定して課した役負担。堤防を構築する川除普請(かわよけぶしん)や将軍の日光社参(にっこうしゃさん)、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の接待などに必要な人足や費用が割り当てられた。

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