北方史の中の津軽

 

鉄道開通へ住民熱望=116

2013/6/24 月曜日

 

 
金子常光『陸奥鉄道沿線図絵』(大正15年、筆者提供)
 
大正7年の陸奥鉄道開業記念写真(『五所川原市史』資料編3上より)
 
吉田初三郎が描いた奥羽本線の五所川原付近(大正13年『鉄道旅行案内』より青森県立郷土館蔵)

 ▽奥羽線開通と五所川原地域
 奥羽本線の建設にあたって、五所川原周辺の有力者たちは、積極的に誘致活動を行った。この一帯は古くから、津軽地方の穀倉地帯であった。江戸時代、津軽領の米は鯵ケ沢から上方に積み出されていたが、近代に入ると、青森から北海道への積み出しが多くなったため、新たな交通機関が必要とされていたのである。
 明治27年(1894)12月1日、青森・弘前間に鉄道が開通すると、五所川原周辺の人々は、大釈迦(だいしゃか)駅(青森市浪岡)を利用することになった。同駅までは前田野目(まえだのめ)(五所川原市)を通り、難所の七段坂を越える悪路であった。馬車の揺れが激しく、乗客が柱に頭をぶつけることがあった。雨による道路の損傷で通行困難となり、藤崎まで迂回(うかい)を強いられることもあった。それゆえ、この地域への鉄道延伸は、周辺住民の切実な願いとなった。
 明治28年、木造(きづくり)から黒石までの鉄道建設を目的とする津軽鉄道株式会社が設立された(現在、同名の会社が津軽五所川原・津軽中里間を運営しているが、これとは全く別物である)。当時は、日清(にっしん)戦争による好景気の影響を受けた「第二次鉄道熱」と呼ばれる鉄道投資ブームの最中であった。同社の株式全1万2000株のうち、東京の投資家が9000株を保有していた。同30年には青森市の合浦公園で起工式が行われたが、不況の影響で株式の払い込みが進まなかったため、明治32年10月、同社は解散した。
 ▽陸奥鉄道の開業にわく
 大正2年(1913)9月9日、元鉄道院技官佐山政義(さやままさよし)の呼びかけに応えた津軽地域の有力者たちは、奥羽本線川部(かわべ)駅から五所川原を経由し舞戸(まいと)村(現鯵ケ沢町)に至る路線と、藤崎・弘前間、五所川原・金木間の鉄道敷設(ふせつ)について、免許を申請した。この時、陸奥鉄道株式会社の設立も出願された。
 同社は同5年4月12日に発足し、五所川原の富豪「布嘉(ぬのか)」の佐々木嘉太郎(ささきかたろう)が初代社長に就任した。株主には、津軽地方一帯の有力者が名を連ねた。その後、計画は川部・五所川原間に縮小されたが、翌年2月には工事が始まった。施工は弘前市の堀江組が請け負った。用水路の付け替えや橋梁(きょうりょう)の建設など困難な工事ではあったが、翌年9月20日に竣工(しゅんこう)し、同月25日に開業した。営業成績は、全国の私鉄のなかでも屈指の好調さであった。
 ▽路線延長と五能線
 間もなく、この鉄道を秋田方面まで延ばそうという運動が青森・秋田両県で始まった。すでに、奥羽本線の機織(はたおり)(現東能代)から能代(のしろ)までは鉄道が通じていたので、五所川原・能代間の建設を新たに求めたのである。大正8年3月、衆議院でこの路線建設に関する建議が可決され、同11年10月には、五所川原・陸奥森田間が起工した。同13年10月、同区間は鉄道省五所川原線として開業した。
 国の積極的な動きは、陸奥鉄道を刺激した。鉄道省線に両側からはさまれるかたちとなった同社五所川原線は翌年5月、鯵ケ沢まで延長された。経営は好調で、輸送量も年々増加していったが、一方で、小規模な私鉄では増え続ける需要に対応できないため、国に経営移管すべきである、という意見も強まっていった。
 当時の社長であった平山為之助(ひらやまためのすけ)が国会議員になると、国による陸奥鉄道買収への動きが加速した。昭和2年(1927)6月1日、陸奥鉄道は買収され、鉄道省五所川原線に編入された。
 その後、五所川原・能代間の工事が青森・秋田双方から進められた。地盤沈下や風化しやすい地質、トンネル建設などに悩まされて長引いたが、昭和11年(1936)7月30日、最後の区間である陸奥岩崎・深浦間のレールが艫作(へなし)で接続した。五能線(ごのうせん)誕生の瞬間である。
(青森県立郷土館主任研究主査 佐藤良宣)

 

◆一口メモ 鉄道院・鉄道省

 鉄道院は国有鉄道の運営と運輸行政を扱う官庁で、明治41年(1908)に発足した。前年に行われた鉄道国有化に対応したものである。大正9年(1920)に鉄道省となり、鉄道網の拡大に取り組んだ。以後、数度の統合を経て、昭和24年(1949)に日本国有鉄道(国鉄)へ業務を引き継いだ。

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北辺のロシアと接触=117

2013/7/8 月曜日

 

 
「久奈尻島ニ而魯西亜船打払ノ図」(県立郷土館蔵)
 
ディアナ号を描いた「ロシア船図」(県立郷土館蔵)
 
ディアナ号の副官リコルド(県立郷土館蔵)

 ▽ロシア使節レザノフの思惑
 寛政年間以降、幕府は異国船への警戒を強め、諸大名に沿岸警備の強化を命じた。弘前藩・盛岡藩には蝦夷地警備も課したが、弘前藩はこれを公務として重視し、寛政9年(1797)、箱館(=函館)への派兵を開始した。同11年、幕府は松前家から東蝦夷地を上知(じょうち)させて直轄地(ちょっかつち)とし、サワラ(茅部郡森町砂原)に弘前藩兵を、クスリ(釧路市)に盛岡藩兵を配置させ、やがて永久勤番とした。
 文化元年(1804)9月、ロシア使節ニコライ・レザノフがナジェージダ号で長崎へ来航し、幕府に通商を求めた。レザノフは、寛政4年に根室へ来航したラクスマンが幕府から受けとった入港許可証を携えていた。
 レザノフは、アラスカ~アリューシャン列島~カムチャツカ半島~千島列島の毛皮交易で発展した露米会社(=ロシア領アメリカ会社)の経営者でもあった。同社はロシア政府の後押しで大きな力を持ったが、一方で、管理地域の肥大化、止まらぬ乱獲、密貿易の横行、冬期の深刻な食糧不足などに悩まされた。日本との通商はその打開策で、食糧問題が解決できれば会社経営は保てるというのが、レザノフのもくろみだった。
 ▽フヴォストフの番屋襲撃
 しかし、半年後に出された幕府の回答は、ロシアとの通商は拒絶するという内容だった。文化2年4月、食糧や装備を調える間もなく出港を余儀なくされたレザノフは、交渉成功への自信を打ち砕かれたこともあって大いに憤慨し、「幕府を武力で脅す以外、日本は開国しない」という強烈な手紙を本国に書き送った。
 その後、レザノフは船長クルーゼンシュテルンと対立して船を離れたが、配下のフヴォストフは同3年9月、カラフト・エトロフ島の松前・南部・津軽番屋を襲った(文化露寇(ろこう))。不意をつかれた警備兵らは逃げまどい、盛岡藩の砲術師大村治五平(おおむらじごへい)のように、捕虜となった者も出た(のち松前で解放)。事態を重く見た幕府は、文化4年、盛岡・弘前両藩に西蝦夷地の永久勤番を追加した。
 ▽ゴロウニン船長を拘束
 文化8年5月のゴロウニン事件はまさしく、番屋襲撃事件の余波だった。蝦夷地警備の一員として箱館にわたった弘前藩士横山武薫(たけしげ)(1752~1820)は、松前やカラフトに関する地図、大砲図・鉄砲図、外国艦船図などを写し取ってきたが、その中に、ゴロウニンが乗るディアナ号(初代)がクナシリ島で盛岡藩兵に砲撃された場面を描いた図がある。ディアナ号は箱館に回航させられ、ゴロウニン以下8名が拘束された。
 ディアナ号側は報復として高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえ、人質交換を迫った。嘉兵衛にはとんだとばっちりだったが、その胆力と誠実さで、ディアナ号の乗組員の心を魅きつけた。嘉兵衛と副官リコルドとの交流を描いた司馬遼太郎『菜の花の沖』では、別れ際に嘉兵衛が乗組員から「ウラァ、タイショウ」と呼びかけられる感動的な場面が用意されている。
 ▽津軽海峡の海防と異国船
 嘉兵衛は北前船「観世丸」の船主で、津軽・松前と関係が深い。深浦町の円覚寺には、弟の金兵衛が兄の無事を祈って奉納した願文がある。また、文化10年9月に解放された嘉兵衛は、感謝の意をこめて、ロシア製のシャンデリアなどを円覚寺に奉納した。
 ゴロウニン事件の後は緊張が少し解(ほぐ)れたが、諸藩はいつでも兵力を動員できるよう、万一の事態への準備を怠ることはできなかった。津軽領の海防はさらに強化され、遠見番所(とおみばんしょ)や大砲台場(だいば)が整備された。天保5年(1834)、津軽半島の袰月(ほろづき)海岸(東津軽郡今別町)にロシア人が、嘉永元年(1848)、藤島村(東津軽郡外ケ浜町三厩)にアメリカ人が上陸するなど、異国船は津軽海峡を縦横に往来していた。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆一口メモ ロシア領アメリカ
 享保17年(1732)以降、ロシア帝国は北米大陸に植民地を建設した。最も重要だったのがアラスカの植民地で、毛皮交易の前進基地の役割を果たしたが、経営はしだいに行き詰まり、明治3年(1867)、アメリカ合衆国に720万ドルで売却した。

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弘前藩による「催能」=118

2013/7/22 月曜日

 

能を鑑賞する人々(弘前市立博物館蔵)
寛文13年「弘前城本丸御殿絵図」の能舞台(弘前市立弘前図書館蔵)
西村十左衛門ゆかりの真教寺(筆者撮影)

 ▽能と藩政のかかわり
 近年、藩政史料に即した芸能史研究が進んでいる。とりわけ、武家の間で好まれた能について、弘前藩には「弘前藩庁日記」「規式帳」(いずれも弘前市立弘前図書館蔵)などの注目される史料が残されている。そこには「式楽」としての能に関して、式次第、番組、招請(しょうせい)客、饗膳(きょうぜん)の献立のほか、能役者と藩とのやりとりなどが詳しく記されている。
 イベントとして能を興行することを「催能(さいのう)」という。弘前城内では、正月3日の謡(うたい)初(ぞ)めや参勤の発駕・着城祝儀などの際に能が催された。江戸屋敷でも謡初め、年始の御振舞(おふるまい)、御年忘や折々の祝儀、幕府の要人・諸大名の接待などの場面で、能が催されている。
 列席の家臣らには、料理・菓子・赤飯が振るまわれた。厳然とした秩序のなか、身分により席次や料理の内容は異なるものの、主君と家臣が共に能を楽しむことは、主従関係を再認識し、互いの絆を深める機会でもあった。
 ▽藩による能興行の後援
 延宝2年(1674)に御舞台が新築されるなど城内では盛んに能が催されたが、城外での催能も人気を博した。元禄14年(1701)の大工町の勧進能(かんじんのう=寺社の造営・修復資金の調達を目的とする)や天明7年(1787)の住吉神社の神事能(しんじのう)では、見物人がいずれも1万人を超えている。
 能道具は非常に高価で、「一仕切八万余金」(『奥富士物語』)といわれたほどあった。その道具や衣装は役者の願い出により貸与された。城外での能興行には、藩の許可に加え、人材や道具などの後援が不可欠であった。天和2年(1682)の下銅屋町の勧進能や享和2年(1802)の青森諏訪明神の神事能でも藩から御役者と能道具が貸し出されたが、藩は役人を派遣し、不寝番(ふしんばん)を付けて道具を管理させている。
 宝永3年(1706)9月、弘前藩のお抱え役者西村十左衛門は、檀那(だんな)寺である真教寺(しんきょうじ、弘前市新寺町)の修復のため、境内での寄進能(=勧進能)を願い出た。その際、能道具・御役者・細工人の拝借を願い出、道具類の管理者である御衣装奉行と御楽屋奉行の派遣も依頼している。
 ▽お抱え役者の生活
 弘前藩は、江戸屋敷や国元での催能のため、江戸や上方出身の役者を召し抱えた。人手不足のため、脇師や装束着せなどの裏方として、弘前の町人が雇われることもあった(「町支配分限帳」)。
 役者の立場や待遇にも高下があった。弘前で屋敷を与えられた者もいたが、江戸や上方出身者は、長屋での単身赴任生活であった。役者の多くは藩主の参勤交代に伴い、江戸と弘前を往復した。藩主の発駕後に出発し、江戸と弘前の間は約15日の行程であった。
 このほか、稽古や技芸伝授のため、師匠の元へ登ることもあった。宝永3年(1706)、高安次右衛門は100日間の暇を許され、家の習い事伝授のため、江戸金剛座の脇師である父高安彦太郎の元へ登っている。また、同4年、上方出身の西村十左衛門は11歳になる息子の謡(うたい)能稽古のため京都に滞留し、同5年に帰弘している。旅費や支度(したく)金、師匠への付け届金などは、役者の願い出により、藩から支給されることが多かった。
 ▽統制された能役者たち
 天保7年(1836)や嘉永3年(1850)の藩通達をみると、藩は役者たちに、稽古に精を出すよう、技芸を錬磨するよう求めていた(『御用格』)。温湯(ぬるゆ、黒石市)や嵩(だけ・弘前市)での湯治や百沢寺(ひゃくたくじ)参詣に出かけることもあったが、その場合は藩に休暇願いを出し、許可を得なければならなかった。
 役者たちは俸禄を与えられ保護されたが、決して自由ではなかった。藩の「式楽」を維持するため、巨額な費用をかけた能道具同様に藩の管理下におかれ、統制されていたのである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 堀内久子)

 

◆一口メモ 津軽信政と能
 延宝2年(1674)11月、弘前藩4代藩主津軽信政は、城内の能舞台新造を祝い、能を催した。翁・高砂・紅葉狩・善知鳥などの番組が演じられ、多くの家臣や町人が見物したが、流人である元対馬藩家老柳川調興にも菊之間での見物が許されたことが、「弘前藩庁日記」に記されている。

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夷島支配した蠣崎氏=119

2013/8/5 月曜日

 

浪岡城(『浪岡町史』別巻1より転載)
 
木造松前慶広坐像(阿吽寺蔵、『松前町史』通説編第一巻上より転載)
 
17世紀中ごろの浪岡付近(県立郷土館蔵「陸奥国津軽郡之絵図より」)

 ▽蠣崎慶広と浪岡御所
 松前藩の家譜『新羅之記録(しんらのきろく)』によれば、後に初代藩主となる蠣崎(松前)慶広(かきざきよしひろ)は永禄3年(1560)、浪岡御所に「結属」していたという。「結属」は、「けつぞく」もしくは「けちぞく」と読む。国語辞典には出ていない言葉だが、慶広が浪岡御所(なみおかごしょ)に従っていたことを想わせる、歴史学的に重要な文言である。
 蠣崎氏は元祖信広(のぶひろ)の代から、出羽国檜山(ひやま=現能代市)の安東氏を家督(=檜山屋形)として仰いできた。慶広の父季広(すえひろ)が安東氏の諱(いみな)である「季」の字を与えられている(=偏諱(へんき))のは、その表れといえる。それにも関わらず、慶広の代になると突如として浪岡御所との関係性が強調されるようになり、檜山屋形を仰ぐという文言は『新羅之記録』からみえなくなってしまう。この劇的な変化を、どう理解すべきであろうか。
 ▽慶広の家督継承と正広派
 天正10年(1582)、季広は隠居し、三男慶広に家督を譲った。この時、慶広とその弟正広が争ったが、正広は独立に失敗して追放され、その後は、檜山屋形である下国愛季(しものくにちかすえ=安東愛季)に従った。正広と愛季をつないだのは、道南十二館のひとつである茂別館(もべつだて=現北海道上磯町)の下国師季(もろすえ)であったと考えられる。
 蠣崎家内ではこれ以前にも、家督をめぐる争いがあった。『新羅之記録』によれば、季広の長子は女性で、南条家に嫁いでいたが、季広の家督相続については、縁者の蠣崎基広(もとひろ)を推していた。しかし、基広は「陰謀」を企てて季広に討たれたので、この長女は季広の近習に取り入り、弟である長男舜広(としひろ)に「鴆毒(ちんどく)」を与えたという。舜広は永禄4年(1561)に死亡した。
 さらに永禄5年、明石家(季広の妹婿)に縁づいていた季広の二男元広(もとひろ)が、長患いの末に死亡した。季広はわずか2年の間に、嫡男と二男を失ったのである。三男の慶広が季広の後継者に浮かびあがったのは、こうした経過を踏まえてのことであった。
 ▽檜山屋形と浪岡御所
 慶広が浪岡御所へ「結属」したのは、「三男であるため」という理由があった。慶広の「慶」の字は、浪岡御所である北畠顕慶(=具運)から受けた偏諱だったと考えられる。一方、季広の長男舜広の「舜」は、檜山屋形の安東舜季(きよすえ)(安東愛季の父)から偏諱を受けたと考えられる。
 おそらく季広は、長男(もしくは家督継承者)を檜山屋形に、二・三男のいずれかを浪岡御所に縁づかせ、それぞれを交渉の窓口にしようとしたのであろう。戦国武将として、血縁や姻戚関係を活かそうとするのは当然である。しかし、季広のもくろみは舜広の死によってくずれ、その軌道修正として慶広の家督継承が実現したと考えられる。
 ▽対立の背景
 このようにみてくると、慶広派と正広派の対立は、浪岡御所―慶広ラインと、檜山屋形―下国師季・正広ラインの対立に置き換えることができそうである。
 正広は天正6年(1578)8月に上洛し、織田信長から書状を得たが、実はその直前の7月20日、浪岡御所が大浦(津軽)為信によって滅亡させられている。正広派の決起は勢力バランスの大きな揺らぎの中で行われたが、勝ち残ったのは慶広の方であった。正広の追放後、師季とその子式部大輔も松前から追放されるが、その理由はこの一件によるものとみて良いのではなかろうか。
 戦国末期の蠣崎氏は、もとから強く結びついていた檜山屋形ばかりでなく、津軽地方の権威者である浪岡御所との関係性も持ちながら、「夷島(えぞがしま)」における政治的基盤を確立していったとみられる。そして、豊臣政権が北奥羽をその射程にとらえた頃、慶広は南部氏とも好みを結ぶのであった。
(青森市史編さん室事務長 工藤大輔)

 

◆一口メモ 浪岡御所
 室町~戦国期に浪岡に居を構えた浪岡氏は、南朝方の実力者北畠親房の子孫であるという。南部氏の客将として、貴族の身分を保ちながら「御所」の称号で待遇された。なお、川原御所は別家に当たる。

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烏山騒動で津軽家危機=120

2013/8/26 月曜日

 

資徳の那須与一襲名を記す弘前藩「江戸日記」(天和3年7月11日条、弘前市立弘前図書館蔵)
 
烏山騒動に連座して信政が閉門処分になったことを記す弘前藩「江戸日記」(貞享4年10月14日条、弘前市立弘前図書館蔵)
 
元禄6年「本所御屋敷之図」と安政2年「嘉永新鐫本所絵図」の本所上屋敷(津軽家文書ほか)

 ▽津軽政直、那須家の養子となる
 天和3年(1683)、津軽家の12歳の少年が5代将軍徳川綱吉に拝謁し、ある名門の養子となることを許された。少年とは4代藩主津軽信政の3男政直(まさなお)で、名門とは烏山(からすやま)藩(栃木県那須烏山市)の那須(なす)家である。同家は「平家物語」の「扇の的」のエピソードで有名な那須与一宗隆(むねたか)の直系である。
 当初、烏山藩主那須資弥(すけみつ)は正弥(まさみつ)を世嗣としていたが、寛文2年(1662)、正弥を西尾(にしお)藩(愛知県西尾市)の増山正利(ますやま まさとし=資弥の実兄)の養子に出してしまった。しかし、資弥には次の男子ができず、自身も病に倒れたため、急きょ養子を迎える必要に迫られた。
 津軽政直に白羽の矢が立ったのは、母不卯姫(ふうひめ=信政正室)が増山正利の長女だったからである。政直は大叔父に当たる資弥の養子となり、貞享4年(1687)8月25日に烏山藩を相続して、以後、那須与一資徳(よいちすけのり)と名のった。
 ▽烏山騒動と津軽家
 ところが、そのわずか2か月後、資弥の隠し子である福原資寛(ふくはらすけひろ)が、この相続に異議を唱えた。那須家一門や親類は必死に資寛を説得したが納得しないため、烏山藩は幕府老中に事情を報告した。
 資徳については、若年で事情を知らなかった点は考慮されたものの、改易(かいえき=取りつぶし)は免れず、領地没収の上、津軽家にお預けと決定された。また、増山正弥をはじめ他の関係者も連座して処分された(長谷川成一『弘前藩』)。いわゆる「烏山騒動(からすやまそうどう)」である。
 津軽信政は、資徳を養子に出した経緯を説明し、隠し子の存在は知らなかったと弁明した。しかし幕府は、信政が事情を知りながら資徳を養子に入れたとし、その不調法に対して閉門(へいもん)を命じた。
 ▽閉門中の津軽信政
 信政は、江戸神田の上屋敷(かみやしき)に戻ると外部交渉を一切断ち、これ以上の落ち度を追及されないよう、細心の注意を払った。国元でも、藩主にならって謹慎した。
 しかし、江戸藩邸では閉門当初から、財政難など厳しい状況が懸念されていたのに対し、国元では近日中の赦免実現を期待するなど、閉門という幕府裁決と謹慎の現状についての認識には、かなりの落差があった(岡崎寛徳『改易と御家再興』)。
 半年後の元禄元年(1688)4月、信政の閉門は解けた。それでも信政は、出仕を遠慮するなど恭順(きょうじゅん)の姿勢を見せ、将軍綱吉への拝謁という社会復帰への手続きを経て、改易の危機を乗り越えた。
 ▽その後の資徳と那須家
 しかし、その4カ月後、信政は神田上屋敷や浅草中屋敷を召し上げられ、本所(ほんじょ)への移転を命じられた。当時の本所は未開の湿地帯であり、この移転には、烏山騒動に関係した懲罰的意味合いがあったという。当時の大名評判記『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』は、信政について「なまじ知恵が働くから、那須家を断絶させ、自身も閉門させられる羽目になるのだ」と厳しい論調である。
 一方、改易となった資徳は津軽家に戻り、弘前藩の江戸藩邸や国元で浪人生活を過ごすことになった。元禄13年(1700)、那須家は旗本として再興され、翌年、資徳には旧領のうち1000石が与えられた。加えて、宝永5年(1708)には那須党上座(なすとうかみざ)・老中支配という交代寄合(こうたいよりあい)の家格を認められた。資徳はその2カ月半後に37歳の若さでこの世を去った。
 那須家は以後も津軽家と縁戚関係を結びつつ、幕末まで家格を維持して明治維新を迎えた。
(札幌大谷中学校・高等学校 市毛幹幸)

 

◆一口メモ 交代寄合
 知行高1万石未満の旗本並みではあるが、通常の若年寄支配ではなく、老中の支配下に置かれて、大名と同等かそれに準ずる待遇を受ける家。参勤交代の形式により表御礼衆と四衆の別があったが、那須家は江戸城御廊下で将軍に拝謁する四衆に属した。

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