北方史の中の津軽

 

海峡を往来する商人=111

2013/4/1 月曜日

 

「弘前藩庁日記」御国日記・元禄4年4月14日条より「松前江御買物之覚」(弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書)
「弘前藩庁日記」御国日記・宝永5年11月8日条より松前藩から青森本陣役への物資調達依頼(弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書)
『東蝦夷日誌』初編よりオットセイの図(青森県立郷土館蔵)

 ▽弘前藩と松前買物役
 弘前藩では、藩内で消費する物資として、また、幕府への献上や諸大名家への贈答品として、松前・蝦夷地の特産物を購入していた。その際、弘前藩の依頼を受けて買い入れを行なった津軽領や松前城下の商人たちを、松前買物役(まつまえかいものやく)と呼んでいる。
 松前買物役がいつごろから活動を開始したかははっきりしないが、寛文年間(1661~72)には、「弘前藩庁日記」(御国日記)などの記録に表れる。取り扱い品目は、延宝年間(1673~80)までは主として菓子昆布(かしこんぶ=上等な昆布)が、貞享年間(1684~87)には、献上・贈答品として珍重され入手困難だった膃肭臍(おっとせい)の比重が増す(『新青森市史』通史編第二巻)。さらに元禄年間(1688~1703)には、「松前江御買物覚(まつまえへおかいものおぼえ)」として、膃肭臍・数の子・身欠きニシン・昆布などが定められていた。
 一方、松前買物役の商人は、寛文9年(1669)に起きたアイヌ騒擾(そうじょう)事件(寛文蝦夷蜂起)の戦後処理の過程で、情報収集も命じられている。すなわち、松前での物資調達とは別に、松前藩政にかかわる情報の調査といった役割も与えられたのである。
 ▽特権商人工藤家
 元禄年間になると、松前買物役は、松前常在の弘前藩御用達(ごようたし)である工藤家が独占的に引き受けるようになっていた。
 弘前藩と工藤家との関係は、寛永年間(1624~43)頃にまでさかのぼる。青森湊における松前藩関係の「御免船(ごめんせん)」(物資にかかる関税を免除された船舶)には、藩主・重臣の持ち船とともに、当時の工藤家当主である忠兵衛の持ち船が数えられていた。
 工藤家は松前城下で抜群の物流能力を持つことから、松前藩が求める物資の輸送・保管を担い、領内流通の中核的役割を果たしていた(浪川健治『近世日本と北方社会』)。忠兵衛は寛文蝦夷蜂起に際し、松前・蝦夷地の情勢を何度も、弘前藩に報告している。松前藩は工藤家を津軽家の家来同様の者と認識し、工藤家も、その点は松前城下商人の間では周知のもの、と認識していたという。
 弘前藩は、自藩と工藤家との従来の関係に加え、松前における工藤家の立場も利用して、重要物資や貴重な情報を得た。工藤家も、松前買物役を一手に担うことで弘前藩の威光を負うことができ、商業活動を有利に展開したとみられる。工藤家は、津軽と松前との間を取りもつ特権的商人であった。
 ▽松前藩と青森本陣役
 松前藩主が参勤交代する際は、青森湊の有力町人の屋敷が、青森本陣(藩主宿泊所)として利用された。元禄期には、松前藩御用達を務めていた宮原庄左衛門の屋敷が本陣となっていた。宮原家は松前藩の重臣のなかだちで聟(むこ)を取るなど、松前藩と強い結び付きを持っており、松前藩も宮原家を通じて、津軽産物の調達に便宜を得ていた(『新青森市史』通史編第二巻)。
 宮原家の後は村元家が、松前藩の青森本陣役を担った。村元家は、津軽産の米・もち米・卵・油粕・生鱈を調達するなど、松前藩が必要とする物資の確保に大きな役割を果たした(「弘前藩庁日記」御国日記)。このため松前藩は、藩主が青森を通行する際、青森町奉行らとともに村元家へも下賜品を施し、これに報いたという。
 松前藩は、青森本陣役との強い結び付きを維持することで、津軽領からの物資確保や、藩どうしの交際の円滑化など、利益を得ていた。松前藩にとっての青森本陣役は、松前城下で弘前藩の松前買物役を務めた工藤家と、同様のものであったといえる。
 このように、津軽海峡を挟んだ弘前藩と松前藩の交渉・物資調達・情報収集など多方面にわたって、地元の有力町人の力量が大いに発揮されていた、ということができる。
(札幌大谷中学校・高等学校 市毛幹幸)

 

◆一口メモ 膃肭臍
 アシカ科の海獣。正式には膃肭(おっと)または膃肭獣だが、臍(せい=オスの陰茎)を「たけり」と称し、強壮剤として珍重されたことから、しだいにオットセイが呼び名となった。江戸時代は、噴火湾から奥尻島あたりでアイヌが捕獲し、松前藩や弘前藩へ渡されて、献上品や贈答品に用いられた。

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弘前藩に東照宮本殿=112

2013/4/22 月曜日

 

東照宮本殿(弘前市教育委員会提供)
葉縦院が眠る長勝寺の明鏡台(弘前市教育委員会提供)
「弘前惣御絵図」に描かれた東照宮と薬王院(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽東照宮本殿を巡る動向
 最近、世間の耳目を集めた弘前東照宮(とうしょうぐう)本殿だが、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、弘前市が所有することとなった。保存と活用に必要な境内地の一部の公有地化なども行われ、弘前という城下町の成り立ちに大きく関わる文化財建造物の保護に、ある程度の道筋がついた。
 東照宮は、徳川家康を祀(まつ)るものである。弘前東照宮は元和(げんな)3年(1617)の勧請(かんじょう)というがこれは家康の死(元和元年)の直後である全国的に見ても最も早い時期に勧請されたものとして知られており、それが余計に注目を浴びるきっかけとなったともいえるだろう。
 ▽「御由緒」による東照宮勧請
 本州の北辺に東照宮が存在し得えた要因は、様々である。
 昭和45年(1970)の大修理に関する『重要文化財東照宮本殿修理工事報告書』では、弘前藩における東照宮の勧請及び本殿の建立について「元和3年、日光山東照宮の分霊が弘前城内に勧請され、天守の傍らに小祠を設けたことにはじまり、のち寛永元年に現在地に移し、同5年、社殿を改めて建立した」と説明されている。一般的にはこれが、弘前藩における東照宮勧請の経緯として認知されていよう。
 「津軽一統志」やそれ以後の編年史料にも、ほぼ同様に記録されている。それらによれば、この時期の勧請は、日光山のほかには全国でも6カ所しかなく、津軽家は「御由緒(ごゆいしょ)」によりその中のひとつとなった、とされている。すなわち、家康の養女として弘前藩2代藩主津軽信枚の正室となった満天(まで)姫(葉縦院・ようしょういん)という「御由緒」により、弘前への東照宮勧請が、全国的にも最初期になされたという認識である。
 ▽天海が推薦した「祈祷僧」本祐
 信枚は家康のブレーンだった天海(てんかい)と天台宗を通じた師弟関係を結んでおり、これも「御由緒」であったことは、よく知られている。
 津軽家の江戸における菩提所(ぼだいしょ)としては、津梁院(しんりょういん=台東区上野桜木)や常福寺(台東区浅草寿町)などがあるが、両寺の開基となったのが、天海の弟子である本祐(ほんゆう)であった。江戸に菩提所を設けることを計画した信枚が天海に相談し、かねてより信枚と親交のあった弟子の本祐が推薦されて師檀(しだん)契約を結んだ時から、2人の関係が始まるとされる(「御屋舗江常福寺御由緒略覚」)。
 信枚は本祐を陣中に同行させたり、祈祷(きとう)を受けたりした。寛永元年(1624)に天海から血脈(けちみゃく)・法印を与えられた際は、本祐が「取次(とりつぎ)」を行ったとされる(「浅草常福寺口上書」)。また、寛永5年の弘前東照宮本殿建立の際は、本祐が津軽に下向して「地鎮安鎮」の祭祀を行うなど、実質的に信枚の祈祷僧として活動していた(山澤学「上野東叡山における弘前藩津軽家御廟所祭祀の確立過程」)。
 信枚と天海の師弟関係が政治的意図によるものと考えられるのにくらべ、信枚と本祐とは、祈祷という行為を通じて精神的に深く結びついていたのではないか、と推測される。
 ▽第三の「御由緒」
 ところで前出の「御屋舗江常福寺御由緒略覚」は、東照宮勧請の年を、寛永元年としている。その際、同時に「岩鬼山叡平山東照院」という別当寺(のちの薬王院)を置くことになったが、その開基は本祐である。また、その後、高岡城(弘前城)は焼失したが、寛永5年に御宮を再建した、ともある。
 勧請の年が通説と異なるのは、信枚の血脈を受け継ぐ別当寺院の創建年に合致させることで、より記念碑的な意味づけをなそうという意図があったのではなかろうか。とすれば、弘前東照宮の実際的な運営の開始は、寛永元年からだったと思われる。
 なお、弘前藩「御国日記」には「東照宮の祭礼は葉縦院が指図し、死後は薬王院が行った」とあり(延宝6/1678年9月8日条)、葉縦院が寛永15年に死去した後は、本祐が東照宮の運営に指示を出していたと考えられる。このことからも、本祐は、葉縦院や天海と同じ「御由緒」のひとつとして、弘前東照宮の勧請時期を支えていたと見ることができよう。
(弘前市教育委員会文化財課主査 小石川透)

 

◆一口メモ 津梁院
 東叡山36子院のひとつ。上野の津軽家屋敷地内に置かれた本祐の庵室が基となった。津軽信枚は天海から血脈を承け「津梁院殿権大僧都寛海」の号を与えられている。津梁院はその号に由来する。

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近衛家に系図加筆依頼=113

2013/5/6 月曜日

 

「庶子」への変更を認めた近衛家書状の写し「近衛様江御庶子之儀御願一件」(弘前市立弘前図書館蔵)
 
幕府からの問い合わせと回答を写した「系譜御尋御答書」(弘前市立弘前図書館蔵)
 
大浦政信を近衛尚通の「庶子」と記した「近衛殿・御当家両統御系譜」(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽近衛家を宗家と仰ぐ津軽家
 17世紀半ばに編さんされた「寛永諸家(しょか)系図伝」(以下「系図伝」)によって、江戸幕府は津軽家を五摂家(せっけ)筆頭の近衛(このえ)家の流れであると、正式に認めた。しかし、血統の問題について編者の林羅山から疑義が出されたため、津軽家は、始祖である大浦政信を、近衛尚通(ひさみち)の「猶子(ゆうし)」(血縁の有無にかかわらず子と認めること)という曖昧な位置づけにせざるを得なかった。この点を気にした津軽家は、近衛家に対し、両家の関係を系図に書き加えてくれるよう依頼した。言わば後付け的に、血筋の正統化を図ったのである。
 藩主の代替わりの際、津軽家の使者は行列を組んで京都の近衛邸に系図を運んだ。この行事は「系図道中」と称される。「基煕公記(もとひろこうき)」や「近衛家雑事日記(このえけざつじにっき)」(ともに陽明文庫蔵)によると、1670年代にはすでに「系図道中」が実施されていたようである。運ばれた系図には、近衛家当主が直々に津軽家当主の名前を書きこみ、証明の印判とともに使者に返した。
 津軽家は系図への加筆御礼として、金品を献上した。時候の挨拶や出産祝いなどの際の献金・献物などを含め、莫大な資金を、近衛家との関係維持のために費やした。
 ▽2度目の諸家系図編さん
 寛政11年(1799)、若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)や儒学者林述斎(はやしじゅつさい)らによって、新たに諸家系図の編さんが始まり、10数年の作業を経た文化9年(1812)12月、全1530巻が完成し、11代将軍徳川家斉(いえなり)に献上された。いわゆる「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」(以下「寛政譜」)である。
 「寛政譜」編さんにあたって幕府は、「系図伝」編さんと同様、諸大名・旗本に系図や関連資料の提出を求めた。津軽家も寛政11年中に系図などを提出したようである。
 ところが、津軽家は文化7年と同9年の2度にわたり、系図の疑問点について問い合わせを受けた。その内容は、(1)「津軽」の名字を称した時期、(2)政信から2代藩主信枚(のぶひら)までの姓名・事跡・死去年月日・年齢・法名、(3)嫡子(ちゃくし)以外の子女の詳細(特に娘の嫁ぎ先について)、(4)上野国(こうずけのくに)勢多郡(せたぐん)の飛び地が成立した経緯や範囲など、多岐にわたった。
 津軽家は、江戸屋敷と国元にある旧記類や藩庁日記などを確認し、関連部分の写しを添付して回答した(「系譜御尋御答書」)。当然ながら、政信については、近衛尚通の「猶子」として届け出た。しかし津軽家は、決してこの表現を良しとしていたわけではなかった。
 ▽「猶子」から「庶子」へ
 弘化4年(1847)8月、津軽家は近衛家に対し、これまで政信を尚通の「猶子」として幕府に届け出ていたが、本来は「庶子(しょし)」(血縁関係がある子)であるので証明書を用意してほしい、と依頼した。津軽家はこの時、幕府から系図の提出を求められており、これを好機として、「系図伝」以降用いられてきた「猶子」という位置づけから、「庶子」への変更を図ったのである。
 近衛家側は、「系図伝」編さんの際に「政信は尚通の猶子である」という近衛信尋(のぶひろ)の証明書を幕府に提出していたから、変更は拒否した。しかし、それ以後、津軽家は近衛家への金品の献上を増やし、たびたび使者を送っては、「猶子」から「庶子」への変更を迫った。さらに、変更を認めてくれれば、これまで毎年助力していた冥加金(みょうがきん)に60両を追加して渡す、とも約束した。最終的に近衛家は要求を受け入れ、嘉永3年(1850)11月、近衛忠煕(ただひろ)は「政信は尚通の庶子である」とする証明書を発給した。
 津軽家が「庶子」への変更を求めたのは、蝦夷地警備の功績により、文化年間の高直りや官位昇叙(しょうじょ)を果たした点が、背景として挙げられる。すなわち、家格の上昇が血筋の「格上げ」につながった、とも言えよう。近衛家の「御威光」によって家が成り立っている(「近衛家雑事日記」)、と認識していた津軽家にとって、後ろ盾たる近衛家との間に築いた密接な関係を確認し続けることは、必要不可欠な作業だったのである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 蔦谷大輔) 

 

◆一口メモ 近衛家雑事日記
 近衛家の家政全般をつかさどる家司が書き留めた公務日記で、近衛家の公務に関する動向や幕府・諸大名・公家らとの贈答・往信、冠婚葬祭、近衛家内部の動静など、様々な情報が記されている。

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改葬された松前徳広=114

2013/5/20 月曜日

 

発掘された松前徳広の墓所(弘前市長勝寺、2012年7月、弘前市教育委員会文化財課提供)
橋本玉蘭斎「新刻松前全図」(青森県立郷土館蔵)
「松前志摩守様落城御領内江立退之一件」(青森県史編さん資料)

 ▽発掘された松前徳広の墓所
 県内新聞各紙は、昨年7月20日付紙面で「幕末維新期の松前藩主松前徳広(まつまえのりひろ)の墓所が、弘前市長勝寺(ちょうしょうじ)の境内で発見された」と報じた。
 弘前市教育委員会の発表によると、長勝寺三門(さんもん)から南に80メートル地点を発掘したところ、地下4メートル地点で墓所が偶然、発見された。墓穴は4メートル四方で三重構造になっており、一番外側の枠である木室(もくしつ)と、二番目の枠である木槨(もつかく)の間に木炭が詰められていた。棺は、この木槨の内側に収められていたとみられる。
 ▽混乱した松前藩政と箱館戦争
 徳広は、天保15年(1844)、松前藩11代藩主松前昌広(まさひろ)の長男として生まれた。嘉永2年(1849)に父が隠居すると、幼少の徳広に代わって叔父崇広が藩主に就任し、徳広はその世継ぎとなった。
 崇広は英邁(えいまい)な藩主で、外様大名でありながら、幕政にも参画した。寺社奉行(じしゃぶぎょう)や老中(ろうじゅう)を歴任したが、慶応元年(1865)に兵庫(ひょうご=神戸市)開港問題で失脚し、松前に謹慎することとなった。
 翌年に崇広が死去すると、徳広が家督を継いだが、その頃から、藩の去就をめぐって、崇広を支えてきた重臣層と、「正議派(せいぎは)」と呼ばれる中下層藩士の対立が激化した。明治元年(1868)7月、「正議派」がクーデターを起こして藩政首脳部を一掃し、急進的藩政改革が断行された。
 藩内が混乱するなか、同年10月、榎本武揚(えのもとたけあき)らの旧幕府軍が蝦夷島(えぞがしま)に侵攻した。箱館戦争(はこだてせんそう)の勃発である。松前藩兵の抵抗も空(むな)しく、松前城(まつまえじょう=北海道松前町)や館村(たてむら=同厚沢部町(あつさぶちょう))に築城中の新城が陥落した。徳広一行は敗走し、熊石村(くまいしむら=同八雲町(やくもちょう))に追い詰められた。
 ▽徳広主従、津軽へ逃避
 熊石近隣の関内(せきない)で船を調達した一行は、11月19日の暮六半(くれむつはん=午後6時)頃に出帆し、21日の夜九時(よるここのつどき=午後11時すぎ)に平舘村(外ケ浜町)に到着して、海岸警備のため同所に派遣されていた弘前藩士たちを驚かせた。その折の様子は「松前志摩守様落城御領内江立退之一件」(青森県史編さんグループ蔵)という史料に詳しい。
 一行は疲労困憊(こんぱい)しきっており、前藩主崇広の娘御鋭(おえい・5歳)などは船中で死去したため、平舘の福昌寺へ仮埋葬された(『平舘村史』)。随行した家老の下国民部(しものくにみんぶ)は、弘前藩士との折衝に当たりつつ、蝦夷地での苦戦を語り、感極まって涕泣(ていきゅう)に及ぶなど、主従の逃亡が困難と悲惨を極めたものだったことがわかる。
 ▽謎残る徳広の死
 一行は11月24日に弘前へ到着し、東照宮の別当寺薬王院(べっとうじやくおういん=同市笹森町)を宿所としたが、徳広は29日朝に急死した。松前家が明治政府に提出した「松前修広家譜(まつまえながひろかふ)」(東京大学史料編纂所蔵)は、家臣らに遺言を述べた後に吐血(とけつ)し死去したと記すが、弘前藩の『弘藩明治一統誌(こうはんめいじいつとうし)』(国文学研究資料館蔵)では咽(のど)を突いて自殺したとするなど、記述が分かれている。徳広の跡目は、生前の願いにより嫡子勝千代(かつちよ=修広)が相続した。
 翌明治2年、箱館戦争の終結によって旧領に復帰した松前家は、12月、長勝寺に仮葬した徳広を松前に改葬することとした。その際、「皇朝(こうちょう)の学」(国学・こくがく)を重んじた徳広の遺志により、神式葬祭を願い出て許可されている(「諸願伺届」)。明治3年9月、徳広の遺骸は松前家中に引き取られ、10月、松前家の菩提寺(ぼだいじ)である法憧寺(ほうどうじ)の墓所に改葬された。今回発掘された長勝寺の墓所が空だったのは、このためである。
 長勝寺の徳広墓所は、報恩寺(ほうおんじ=弘前市)の津軽家墓所の発掘例と比較しても、見劣りしない。この時期の弘前藩は箱館戦争の影響もあって混乱していたはずだが、そのような困難な時期にあっても、不遇の他藩藩主を手厚く葬ったことがうかがえる。
(千葉一大 青山学院大学非常勤講師)

 

◆一口メモ 薬王院
 天台宗。寛永元年(1624)に東照宮を弘前城内から移転した際、神社を経営・管理する寺(=別当寺)として建立された。箱館戦争終結後は、旧幕府軍の捕虜も収容している。

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学都弘前のはじまり=115

2013/6/3 月曜日

 

明治17年の弘前市亀甲小学校の卒業証書(当館蔵)
東奥義塾設立許可願(複製、当館蔵)
校名札(弘前高校及び八戸高校蔵)

 ▽学制公布と小学校の設立
 明治5年(1872)8月、日本の近代学校教育制度の基本法令である学制(がくせい)が公布された。全国を8大学区に分け、1大学区を32中学区に、1中学区を210小学区に分けて、大学校・中学校・小学校を1校ずつ設置しよう、というものである。これにより、明治6年には、青森県内に24校の公立小学校が設置された。下北郡の大畑小学校のように、4つの私塾を統合して開校した小学校もあった。
 当初の校舎は、民家や寺社、旧代官所の建物が利用された。私立小学校の設立も盛んで、明治7年には本県で50校が認可され、そのうちの23校は弘前に開校した。
 ▽教育令と中学校教育の展開
 学制は明治12年9月に廃止され、代わって教育令(きょういくれい)が公布された。学区制をやめて小学校を町村単位で設置し、地方の実情に合わせて、学校設立や教育方針を自由に裁量できることになった。
 小学校教育が普及するにつれて、中学校設立の気運が高まった。本県最初の中学校は、明治11年3月に発足した東奥義塾(とうおうぎじゅく)中学科である。さらに、同12年から同13年にかけ、東津軽郡中学校(大野村)・仰高(ぎょうこう)中学校(木造村)・弘前中学校(弘前亀甲町)・南津軽郡中学校(黒石内町)・北津軽郡中学校(五所川原村)・上北郡中学校(七戸村)・致道(ちどう)中学校(田名部村)・三戸郡中学校(八戸鳥谷部町)の8つの各郡公立中学校が設立された。青森町には、明治17年8月制定の青森県中学校規則に基づき、中学科4か年・高等中学科2か年からなる「青森県中学校」が設立された。
 ▽小学校令の公布
 明治19年、学校制度を種別ごとに整備するため、帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令が制定された。小学校令では、小学校を尋常小学校4か年と高等小学校4か年に編制し、尋常小学校を義務教育とした。
 初代文部大臣森有礼(もりありのり)は、自分の意図した教育方針が定着しているかを確認するため、各地の学校現場をまわった。本県には明治21年10月に訪れ三戸小学校野辺地小学校、青森小学校、青森県尋常中学校、青森県尋常師範学校を視察した。
 ▽中学校令の公布
 中学校令では、中学校を府県立の尋常中学校と官立の高等中学校の2等に分け、尋常中は各府県1校に制限することとされた。本県でも郡立中学校を廃止し、青森県中学校を「青森県尋常中学校」と改称して存続させた。ところが、明治21年の通常県会で、「青森県尋常中学校」の弘前移転が可決され、青森町からは尋常中がなくなることになった。背景に、弘前の政治家の力があったという。同校は翌年、弘前市元寺町に移転したが、同25年に校舎が全焼したため、同26年、新寺町に新築された。
 尋常中の移転により、三戸・上北・下北郡の子弟の進学は困難になった。そのため、明治26年に「青森県尋常中学校八戸分校」が設置され、同28年に昇格して、弘前校と同格の独立校となった。これにより弘前校は「青森県第一尋常中学校」と、八戸校は「青森県第二尋常中学校」と改称された。この時期の校名札は、弘前高校と八戸高校に現在も残っている。
 ▽女子教育のはじまり
 本県の女子教育のはじまりは、明治19年6月に弘前元寺町の弘前教会内に開校した「来徳(らいと)女学校」である。同15年にメソジスト派外国伝道教会が函館に開設したキリスト教主義女学校「遺(い)愛(あい)女学校」の第1回・第2回の入学生がすべて弘前出身であったことから、牧師の本多庸一(ほんだよういち)が「遺愛女学校」の経費の一部を使って開設したのである。教科内容は尋常小と同じであった。その後、本格的な女学校にしようと、同22年に弘前元大工町に校地を求め、「私立弘前女学校」として開校した。弘前学院聖愛高校の前身である。
(青森県立郷土館学芸主幹 竹村俊哉)

 

◆一口メモ 東奥義塾
 明治5年11月、旧弘前藩士の菊池九郎が、藩校「稽古館」の督学(=学事を監督する人)を務めた兼松成言らと協議の上、私立の外国語学校として開設したもの。後に私立中学校に転身した。

 

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