北方史の中の津軽

 

鉄道建設ブーム到来=6

2008/6/30 月曜日

 

国鉄黒石駅の建設風景(明治末期・青森県史編さんグループ提供)
津軽鉄道の旧芦野公園駅を利用した喫茶店「駅舎」(中園裕撮影)
陸奥鉄道五所川原駅の開業記念絵はがき(大正7年・青森県史編さんグループ提供)

 ▽鉄道事業の開始
 明治24年(1891)、民間の日本鉄道会社によって東北線上野・青森間が開通し、同27年には官設の奥羽線青森・弘前間が開通した。奥羽線は同38年に全通し、本県と首都圏は鉄路で結ばれた。同39年には「鉄道国有法」が制定され、奥羽線を含む主要17の民間鉄道は国に買収された。
 これとともに、地方の路線計画も進んだ。明治29年、木造(きづくり)村から五所川原(ごしょがわら)村を経由して黒石(くろいし)町に到達する津軽鉄道の計画に免許が下りた。この時は資金難で実現に至らなかったが、大正元年(1912)、奥羽線川部(かわべ)駅を起点とする官設の黒石線が開業し、弘前市と黒石町との交通の便が良くなった。
 明治43年、地方交通の伸展と私設鉄道の振興を図る「軽便(けいべん)鉄道法」が公布され、これに基づいて大正7年9月、五所川原と川部を結ぶ陸奥(むつ)鉄道が開業し、奥羽線と接続した。昭和2年(1927)に陸奥鉄道が国に買収されると、多額の売却益を得た陸奥鉄道の株主らは五所川原と中里(なかさと)を結ぶ津軽鉄道の建設に着手し、昭和5年に開業した。
 ▽幻の岩木鉄道
 大正7年には私設鉄道指定業者が皆無となり、従来の「私設鉄道法」は空文(くうぶん)化した。そこで大正8年、私設鉄道事業の適切な監督を目的とする「地方鉄道法」が公布され、「私設鉄道法」及び「軽便鉄道法」は廃止された。しかし、補助事業そのものは継続され、民営による局地的な鉄道建設ブームは、なおしばらく続いた。
 例えば大正10年には、弘前市と西目屋(にしめや)村を結ぶ岩木鉄道株式会社の設立趣意書が、発起人の藤田謙一らによって提出されている。計画自体には免許が下りたが、創立事務所が東京市に仮置きされたため、同12年の関東大震災による混乱の影響を受けた。そのため、敷設(ふせつ)工事施行認可期限の延長申請が5回も提出された末、免許は返納され、失効となった。
 大正13年には弘南鉄道期成同盟会が組織され、熱心な請願活動が実って、同15年に鉄道省から工事認可が下りた。その趣意書には、南津軽郡大光寺(だいこうじ)村及び尾上(おのえ)村(いずれも現平川市)はリンゴ・米・藁(わら)工品の生産が盛んであるが、交通機関が未整備であるため貨物集散に支障を来していると述べられている。弘南鉄道は昭和2年(1927)9月に開業し、津軽尾上駅・平賀駅・舘田駅・新里停留場・松森停留場・弘前駅を結び、1日6往復で運転された。
 ▽相次ぐ開業申請の却下
 軽便鉄道は設立用件が軽易であったため各地で出願が相ついだが、多くは却下された。その背景の一つに、昭和4年7月に成立した浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の緊縮財政が挙げられる。発展主義の政友会(せいゆうかい)から民政党(みんせいとう)に政権が移ったことで、既存鉄道の改良による経費節減が方針として打ち出されたのである。
 昭和10年、目屋鉄道敷設期成同盟会により、岩木鉄道の請願活動が再開された。同会は、大正11年の「全国鉄道敷設法」で岩木鉄道が予定線に指定されていると主張し、早期達成を請願した。また昭和16年には、非常時局国防国家の建設を理由に、海軍大臣及川古志郎にも陳情した。
 翌17年、この予定線を五能線岩崎駅もしくは深浦駅まで延長する「日本海貫通鉄道」の構想が持ち上がった。これは岩崎・深浦が朝鮮や満州、果てはウラジオストクに向かう最短航路として軍事的に重要な港であり、沿線に鉄や石炭などの地下資源が埋蔵されているという理由によるものであった。急ぎ仙台鉱山監督局に資源調査が依頼されたが、弘前以西の砂子瀬(すなこせ)付近から先の日本海までは険しい山地が続き期待が薄いとして、むしろ弘前・砂子瀬間を重点的に考慮すべきと報告された。
 昭和4年と同7年には、弘前市と藤崎(ふじさき)町を結ぶ弘藤鉄道の敷設申請がなされたしかしこの路線は既存の奥羽線や五能線に平行するものであり、しかも弘前・藤崎間に乗合(のりあい)自動車(バス)路線が営業しているという理由で申請は却下された
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆一口メモ 軽便鉄道
 小規模・小範囲の鉄道で株式会社である必要がなかった。停車場・標識・車両などの設備も軽易で済んだ。軌間(きかん)寸法も自由に設定して良く、曲線や勾配(こうばい)の制限も厳しくなかった。

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変化し続けるネプタ=7

2008/7/21 月曜日

 

近代のケンカネプタ(竹森節堂「ねぷた風物詩」昭和41年作、弘前市立博物館蔵)
ケンカバヤシを競う(つがる市木造、2007年7月、小山隆秀撮影)
ネプタの前を走る門付けの少年(黒石市、2007年8月、小山隆秀撮影)

 ▽近世の「ねむた」
 津軽のネプタ・ネブタは海外でも有名になった。七(たな)夕(ばた)行事や眠り流しがルーツとされるが、現代のスタイルはそれのみでは説明できないほど変化している。我々のネプタはいつ、どのように誕生したのか。
 近世のネプタは「祢むた」「祢ふた」などと表記される。町人の祭りで、藩は治安維持の視点から、違反や騒乱を中心に記録した。享保13年(1728)、子供の「ねむた流し」は暮れ前に帰るよう命じられたが、子供持ち灯籠(とうろう)が切り落とされる事件が起きた。
 数年後には大人の喧嘩(けんか)が加わり、1770年代には町同士の対立となった。藩士の2・三男や召使いも加わり、木刀・棒・鳶口(とびぐち)などを持って喧嘩口論をするようになる。そのような状況は寛政4年(1792)ごろまで、毎年続く。
 一方、同時代に菅(すが)江(え)真(ま)澄(すみ)は大畑(むつ市)、木(き)造(づくり)(つがる市)、驫(とどろ)木(き)(深浦町)で子どもの「ねぶた流し」を記録した。18世紀、ネプタは都市祭礼と、子供たちのねむり流しと、二極化していたことがわかる。
 城下では寛政5年に大型ねふたが登場し、やがて三尺以上のネプタ、一尺以上の太(たい)鼓(こ)が禁止される。しかし、十代藩主津軽信(のぶ)順(ゆき)が有力な町組や商家に推奨したことから、巨大で装飾を凝らす違反ネプタは、幕末まで引き継がれる。慶応3年(1867)、壮年者がリーダーとなって他町へ門(かど)付(づ)けする「組祢婦た」や2・30人持ちの「大振り祢ふた」、子供の「組合ねぷた」が出現し、取り締まりの町役と対立した。町(ちょう)人(にん)町(まち)の自治機能の高まりを、ネプタは反映していた。
 ▽近代のケンカネプタ
「昭和初期、夜8時頃(ごろ)、新坂で扇ネプタがぶつかりあい馬屋町で乱闘する。逃げた若者を朝まで隠した」という。弘前のケンカネプタは、明治17年(1884)ごろの新聞記事に初めて登場し、昭和9年(1934)まで毎年発生した。闘争では場所・匿(とく)名(めい)性・戦術など互いに一定の様式が了解されており、これは近世以来の伝承であった。機動性が高く、修理が簡便な扇ネプタが多用され、現代につながる。
 一方、喧嘩には、しだいに不特定多数の観客や市外の住民が飛び入り参加し始めた。これは自由参加で「する側」と「見る側」の区別がない現代の祭イベント、青森ネブタのカラスハネト問題とも類似する。
 ▽ネプタ統制
 大正3年(1928)、喧嘩防止のため合同運行方式が導入され、警察の組織力強化で喧嘩は鎮圧されていく。
 弘前の町にはバス・タクシー・電灯が普及していたが、その中でネプタも「電話交換操作に支障をきたす」と批判される。当時は、欧米の価値観をベースに伝統的な日常行為が軽犯罪として取り締まられ、各地で見られた若者の儀礼的暴力も解体された。ネプタも大きく変化せざるをえなかった。
 ▽地域に息づく伝承
 これらの歴史的要素の中には、現代に伝承されているものもある。例えば他町までの門付けは、近世に「喧嘩に関(かか)わる」として禁止された習俗だ。また、集団で大型ネプタを運行する近現代のスタイルは、幕末に生まれた違反行為「組ねふた」に始まる。扇ネプタも、近代のケンカネプタから定着したものである。観光客に「見せる」意識は大正期の合同運行制度をきっかけに、昭和40年代後半の審査制度整備とともに各地で流行した。
 子供が家々を回るローソクもらいの習俗や、子供だけでネプタを製作し運行する行為は、都市祭礼化以前を考える上で貴重である。ケンカネプタの投石も、昭和3・40年代まで各地で発生した。現在も鯵ケ沢町やつがる市では、喧嘩太鼓やケンカ囃(ばや)子(し)でネプタ同士が競う場面がある。
 このように現代の我々がイメージするネプタは固定した存在ではなく、近世から近代に、違反行為などのさまざまな要因や変化の中から生まれてきた。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀)

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国絵図は権威の象徴=8

2008/8/4 月曜日

 

「陸奥国津軽郡之絵図」より弘前城下(青森県立郷土館蔵)
夏泊半島の「狄村」(青森県立郷土館蔵)
松前領の表現(青森県立郷土館蔵)

 ▽津軽領の正保国絵図
 徳川幕府はたびたび、諸国の国(くに)絵(え)図(ず)を徴収した。特に、正(しょう)保(ほう)・元(げん)禄(ろく)・天(てん)保(ぽう)のものが有名である。正保国絵図と元禄国絵図の場合は、幕府が保管する清(きよ)絵図(正本)と国元に置いておく控図(副本)が作られたので、後者は今でも、各地に残っている場合が多い(川村博忠『国絵図』)。
 陸奥国は広大なので分割で作成するよう指示があり、弘前藩は自領の分を担当した。
 青森県立郷土館所蔵「陸奥国津軽郡之絵図」は正保国絵図の系統に属し、現存する津軽領最古の国絵図として、極めて貴重な大型絵図である。393センチ×488センチと巨大なもので、「正保二年乙酉年十二月廿八日差上御公儀候控写也、貞享二乙丑年三月廿六日」の裏書があることから、国元にあった控図を貞享2年(1685)3月に写したことが分かる。
 正保国絵図では通常、黒い太枠の四角形で城郭を表現するが、「陸奥国津軽郡之絵図」では黄色い下地を黒い太丸で囲み、「弘前」と書きこんである。津軽半島と夏泊半島の計五カ所にアイヌ集落を意味する「狄(えぞ)村」「犾(えぞ)村」の字句を載せてあるのも、他領の国絵図にはない特徴である。
 ▽元禄国絵図は未発見
 ところが、正保国絵図の約50年後に徴収された元禄国絵図については、津軽領関係のものは全く残っていない。盛岡藩や秋田藩と取り交わした縁(へり)絵図(領境の絵図)があるぐらいで、津軽領全体を描いたものは見つかっていないのである。ただし「弘前藩庁日記」や、元禄国絵図の関係資料である変地帳・郷帳などの記録によって、作成状況はほぼ判明している。
 例えば、正保国絵図に描かれていた渡(お)島(しま)半島(松前領)の表現を削るよう幕府から指示されたことや、盛岡藩との摺(す)り合わせで境目のずれが発見され、全体に少し縮めて修正したことなどである(本田伸「消えた松前」)。
 弘前市立弘前図書館所蔵の「郷村帳并絵図改覚書」によれば弘前藩は享保10年(1725)郷帳を改訂し、その際、元禄国絵図を参考にして新たな領内絵図を作成した。そこには作業の様子がかなり具体的に書かれていて、作業場として弘前城三の丸が宛(あ)てられたこと冬は寒気のため作業が中断されたこと村々を色分けする際従来の「せうゑんじ」(腥(しょう)臙(えん)脂(じ))色ではなく「肉色」(ピンク色)を用いたこと、美濃紙で裏打ちをしてから彩色したことなど、これまで知られていなかった事実が見えている。
 ▽性格異なる天保国絵図
 それまでの国絵図が諸藩から提出されたのと異なり、天保国絵図は、幕府が自ら作成した。すなわち、幕府がまず元禄国絵図の写しをとって諸藩に配布し、現状との違いを書きこませたものを返させて、新たな国絵図に仕立てたのだ。
 弘前市立弘前図書館が所蔵する元禄国絵図の写しは、天保7年(1836)に幕府から渡されたもので、あらかじめ切り分けられていた。南北方向に八等分され、彩色も簡略で、村高・郡高の表示がない。弘前藩ではさらにその写しをとり、作業を進めた(国絵図研究会編『国絵図の世界』)。
 このような手間を掛けてまで、幕府が新たな国絵図を作ったのはなぜだろう。
 ひとつには、正保国絵図や元禄国絵図には地形の歪(ゆが)みがかなりあり、日本全体の正しい姿をイメージさせるものではなかったことが挙げられよう。
 しかし、この時期にはすでに伊能忠敬の精密な測量絵図が完成しており、日本全体を把握するという国絵図の本来の目的は意義を失っていた。
 とすれば、幕府は国絵図の作成を主導することで幕府の指導力を確認し、揺らぎはじめた権威を高揚させようとしたと考えるのが、より自然な見方ということになろう。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

 

◆一口メモ 正保国絵図
 幕府が初めて作成基準を示し、規格の統一を図った国絵図。縮尺は六寸一里(21600分の1)と定められ、山川湖沼・名所旧跡・城郭港湾・陸海路を詳細に描き込むものとされた。正保国絵図は「古国絵図」、元禄国絵図は「新国絵図」と呼ばれ、ひんぱんに利用された。

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農閑期見計らい出兵=9

2008/8/18 月曜日

 

大光寺城址(工藤大輔撮影)
大光寺新城遺跡から出土した刀創のある頭蓋骨(「平賀町埋蔵文化財報告書」24、1999年)
田舎館城跡(工藤大輔撮影)

 ▽津軽為信と戦場
 江戸時代中期に編集された弘前藩の正史『津(つ)軽(がる)一(いっ)統(とう)志(し)』によると、津軽為(ため)信(のぶ)が津軽地域を主戦場とした戦は10余りと伝えられている。このうち、天正3年(1575)1月の大(だい)光(こう)寺(じ)城(現平賀町)攻めを除くと、戦(いくさ)は専ら3月末から8月中旬に行われた。特に5月に4例、7月から8月中旬にかけて3例と夏に集中し、しかも、短期間で終えていることがみてとれる。
 16世紀後半における津軽地方の農(のう)事(じ)暦(れき)は分からないが、いま、便宜的に藩(はん)政(せい)時代の農事暦にこの戦の時期を重ねあわせてみると、為信は田植えが終了した時期、もしくは出(しゅっ)穂(すい)から稲刈りが開始されるまでの時期を選んで戦をしているのではないかと思えてくる。為信は農作業が一段落し、農民がひと息ついた時期を選びながら、戦をしていたのではなかろうか。
 同時期の戦国武将である南部信(のぶ)直(なお)の一代記「信直記」(1760~70年ころ成立)には、為信と領民の関係について「為信は津軽三郡の百姓などに兼ねてより仁愛を施し、恩沢を厚くしているので、地(じ)下(げ)・百姓にいたるまで、戦の際には日頃の好(よし)みを忘れず、為信につきしたがっている」とある。
 ここに、津軽地方の戦国領主の一人として、為信が領民への撫(ぶ)民(みん)を尽くした姿の一端をみることができるのではないだろうか。そしてそのことが、戦の場面において、領民を味方とすることを可能にしたといえよう。もちろん、これは為信に限ったことではなく、南部氏においても、秋の収穫期には領民のことを考えて軍を進めることに躊(ちゅう)躇(ちょ)していたようである。
 ▽武装・篭城する民衆
 最近の研究によると、戦の際には城下の民衆が、手に手に武器を持って城に集まった。そこには女性の姿もあり、こうした民衆は城主に歓迎され、頼りにもされていたという。また、民衆は自らの村を守るために、一致団結して領主に抵抗するような行動をみせることもあったという。
 敵が攻めてくるという情報に接すると、民衆は堀を掘って通路を塞(ふさ)ぎ、領主とともに篭城(ろうじょう)の準備に取りかかる。武器を持っている者はもちろん、ない者はナタや鎌などを棒の先に結(ゆわ)えつけ、さらには竹槍を持った者も集まり、雑(ぞう)兵(ひょう)集団が形成される。加えて、衣類などを持ち出しては旗をこしらえ、紙の旗に近辺の武士の家紋を描き、方々に立て、大軍にみせかける。もちろん、篭城に備えて兵粮(ひょうろう)の準備も怠らない。こうした集団のなかには、一向宗徒の影も見え隠れする。
 一方では敵方も、民衆に語らい、味方につけようとする動きをみせる。内(ない)訌(こう)(内応=内部から攻めること)は、味方の戦局に有利に働くからだ。
 もちろん、こうした手立てに靡(なび)かない者もある。『津軽一統志』には、田舎館(いなかだて)の千(せん)徳(とく)掃(か)部(もん)にしたがう「猿(さる)賀(か)村の郷(ごう)民(みん)何某」という人物が典型として載せられており、一種の美談として扱われている。
 ▽一(いっ)揆(き)・地(じ)侍(ざむらい)・「忍びの者」
 為信は、一揆・地侍・「忍びの者」なども軍団に編成した。このうち「忍びの者」は小(お)栗(ぐり)山(やま)左(さ)京(きょう)・砂(すな)小(こ)瀬(せ)勘(か)解(げ)由(ゆ)のほか、少なくとも12名を確認することができる。彼らの中には長期にわたって南部領に潜伏している者もいるが、多くは戦の前に敵の足下付近の村に潜伏し、民衆に語らい、きたるべき戦に備えている。『津軽一統志』は、油(あぶら)川(かわ)城攻め・浪(なみ)岡(おか)城攻めにおける「忍びの者」の活躍を伝えている。為信の戦が短期間で終わっているのは、こうした者たちの、いわば「下準備」が功を奏していたからともいえようか。
 見方を変えれば、この時期の津軽地方における領主権は、未だ成熟していなかったのかもしれない。いずれにせよ、戦国領主にとっては民衆がよりどころであり、彼らとの間に結ばれた信頼関係を無視しては、領主権を確立することができなかったようである。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

 

◆一口メモ 「農事暦」
 農作業からみた農民の年間スケジュール。冷涼な東風(ヤマセ)に見舞われる津軽地方は、稲刈りの時期に、1カ月強もの幅があった。

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相続権利めぐり争い=10

2008/9/1 月曜日

 

津軽信枚画像(高野山・遍照尊院蔵)

津軽信義画像(高野山・遍照尊院蔵)

「津軽一統志」大熊騒動に対する幕府裁定の写し(弘前市立弘前図書館蔵・八木橋文庫)

 ▽藩を揺るがす御家騒動
 江戸時代初期、諸大名家では御(お)家(いえ)騒(そう)動(どう)がひん発した。藩政の主導権をめぐって藩主一族、その縁類、有力家臣らが争い、それを理由に改(かい)易(えき)(取り潰(つぶ)し)された。
 弘前藩でも、二代藩主津軽信(のぶ)枚(ひら)・三代藩主津軽信(のぶ)義(よし)の時期には騒動が絶えず、苦(く)悶(もん)を強いられた。
 慶長12年(1607)、藩祖津軽為(ため)信(のぶ)が京都で死去した。長男信(のぶ)建(たけ)・次男信(のぶ)堅(かた)は既に死去していたため、幕府は三男信枚に為信の跡目相続を許した。しかし翌年、信建の子大(おお)熊(くま)は、信枚の相続により「庶子之国」になったと非難し、「惣領之筋目」である自分に相続の権利があると幕府に提訴した(『大日本史料』十二編之五)。
 「大熊騒動」と呼ばれたこの事件は、慶長14年大御所徳川家康・二代将軍徳川秀忠の意向をうけた幕府の裁定により、信枚に支配権が認められた(「津軽一統志」)大熊は後見人の津軽左馬助(建広)とともに大光寺城(現平川市)に籠(こも)ったが、重臣高(こう)坂(さか)蔵(くら)人(んど)らに鎮圧され、領外追放となった(本田伸『弘前藩』)。家督相続をめぐる御家騒動の典型である。
 慶長17年には、「大熊騒動」の収拾に功績のあった高坂蔵人が信枚に対する不満から津軽家退転・南部家仕官を企てていたことが発覚し、成敗されるという事件が起こった(「津軽一統志」)。
 戦国期には、ひとたび主君と折り合いが悪くなると簡単に主家を去り、さらに重く取り立ててくれる主君に仕えることで意地を貫こうとする者が多かった。そのような武士のあり方が、戦国の気風が色濃く残るこの時期の家臣団統制を難しいものにしていた。
 ▽御家騒動はやまず
 三代藩主信義の代にも、御家騒動が起きた。信義は寛永8年(1631)、13歳で家督を相続したが、この幼主の側近として重用されたのが、新参の船橋半左衛門(長真)である。船橋一派はのちに津軽伊豆(=兼平信孝)・津軽美(みま)作(さか)(=乳井建定)ら譜代家臣と対立し、寛永11年、幕府に訴えられた。いわゆる「船橋騒動」である(「津軽一統志」)。
 幕府内には津軽家への厳しい処分を求める声もあったが、将軍家光の側近である天(てん)海(かい)僧正の働きかけもあり(長谷川成一『弘前藩』)、信義の藩主存続を認めた。しかし、船橋一派・譜代家臣ら双方とも他藩へ預けられるなど、処罰を免れることはできなかった。
 正保4年(1647)、信義の器量が藩主に相応(ふさわ)しくないと判断した重臣たちは、「御家之大事」に至る前に信義を強制的に隠居させ、信義の弟で江戸で旗本となっていた津軽信(のぶ)英(ふさ)を、新藩主に擁立しようとした(「封内事実秘苑」)。この計画は、立案にかかわった一門の津軽百助(信隆)らの密告で発覚した。百助はお咎(とが)めなしで知(ち)行(ぎょう)を加増されたが、一方で、ここまで藩政を支えてきた多くの重臣らが処罰されることになった。
 ▽御家騒動の克服
 御家騒動は、大名家の改易による牢(ろう)人(にん)(浪人)の大量発生という社会問題と関係がある。安定を望む者と、混乱を期待する者と、この両者の思惑が絡み合って引き起こされたともいえる。それは、藩政全体を揺るがす危機であった。
 これらはいずれも、藩主を支持する勢力により鎮圧されるか、もしくは幕府内部の有力者の後援を得て収拾された。そしてその過程で、藩政の新たな核となる家臣層が形成され、家臣団の再編成がはかられていった。津軽家の場合も、信義の代に、有力家臣を戦国期以来の領地から切り離し、新たに知行地を与えて移転させるなど、強力な藩主権力が確立した(長谷川成一『弘前藩』)。
 すなわち、こうした御家騒動を乗り越えて固まった藩内の結束こそが、明治維新に至るまで藩体制の存続を決定づける要因となったということもできるのである。
(青森県史編さんグループ嘱託員 市毛幹幸)

 

◆一口メモ 藩と家中
 大名を中心とする支配機構や領地を「藩」と称する。「藩」は明治維新政府の政策によって公称となったが、江戸時代には「津軽家家中」「南部家家中」のように「家中」と称するのが一般的だった。

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