北方史の中の津軽

 

息づくウトウ伝説=1

2008/4/7 月曜日

 

「津軽図譜」より「善知鳥祠」=県立郷土館提供

 ▽北から見直す日本史
 この地域の最も特徴的な地形である津軽海峡は、あたかも北海道と本州を隔てる溝のように見えるが、視点を変えれば、日本海と太平洋を結ぶ天然の運河として、東西に口を開いている。単なる海ではなく、いわゆる「しょっぱい川」として、この地域の豊かな歴史を支えてきた。

青森とその周辺

 

 日本史の中で、津軽という土地は「辺境」と位置付けられてきた。しかし、円の中心を青森市あたりに持ってくると、半径1500キロの中に朝鮮半島や樺太(カラフト)が、3000キロの中にバイカル湖やカムチャツカ半島が、ほぼスッポリと入ってしまう。
 若手研究者が執筆するこのシリーズを「北方史の中の津軽」と名付けたのは、近年さかんになった北方史研究のキーワード「移動と交流」を意識してのこ とである。津軽の歴史を通して、北方世界との関係に興味を持っていただければと思う。
 ▽雁風呂の話
 昭和48年(1973)に放映された酒造メーカーのCMに、「雁(がん)風(ぶ)呂(ろ)」編というのがあった。北から渡ってくる雁が木の枝を口にくわえ、波間 に浮かべて羽根を休める。津軽の浜辺に着くと枝を 落とし、帰りはまたそれをくわえて飛び去っていく。しかし、落命した雁の分だけ、枝は浜辺に残り、人々の哀れを誘う、という筋立てだった。川合勇太郎『ふるさとの伝説』にも出てくる話だが、そこには、当地に来た幕府の採薬使が書き残したとあるだけで、出典は示されていない。

「津軽図譜」より「善知鳥=県立郷土館提供
ウトウ=県立郷土館提供

 ただし、中国の古典「淮(え)南(なん)子(じ)」や寺島良安「和(わ)漢(かん)三(さん)才(さい)図(ず) 会(え)」には、雁が蘆(あし)の枝をくわえて「射ぐるみ」という糸の付いた矢を避けるという話が出ている。おそらくはこの辺りが、伝説の源ではなかろうか。
 ▽ウトウ伝説
 鳥に関する津軽の伝説としては、謡曲の題材にもなった「善知(うと)鳥(う)」の話が有名である。古川古松軒「東遊雑記」や、菅江真澄「善知鳥考」(ただし未発見)など、多くの文人墨客が、この伝説についての興味・関心を書き残している。
 物語は、立(たて)山(やま)参詣を終えた旅僧を老人が呼び止め、陸奥国外浜に住む、ある猟師の妻子への伝言を頼むところから始まる。老人の着物の袖を証拠として携えた僧が会いに行くと、妻はその老人が亡夫の霊であることを悟り、僧に供養を頼む。すると、読(ど)経(きょう)の声に惹(ひ)かれた亡霊が現れ、生前に多くのウトウを殺したため、地獄に堕(お)ちたこと、今はウトウが鷹になり、雉(き)子(じ)になった猟師を責め立てていることなどを涙ながらに語り、救いを求めてくる。この猟師は、ウトウの親子が「うとう」「やすかた」と呼び交わす性質を利用して、ウトウをだましたのだという。創作ではあるが、面白いエピソードだ。
 謡曲「善知鳥」の作者については長らく世(ぜ)阿(あ)弥(み)(1363―1443)とされてきたが、近年は疑問視されている(齊藤泰介『善知鳥物語考』)。しかし、物語の大筋は、室町時代中期には成立していたようだ。
 そのころは日本海交易の一大発展期で、津軽十三湊の僧快(かい)融(ゆう)が、周防国に旅して、大般若経の筆写に参加した時期(応安4年、1371)に当たる(青森県立郷土館『中世国際港湾都市十三湊と安藤氏』展示図録)。同じ時期に、武家や庶民の手習い教本として流布した「庭(てい)訓(きん)往(おう)来(らい)」にも、金・漆・コンブ・サケなど奥州・蝦夷地の産物が登場する。まさしく津軽は、人々の生活の身近にあった。
 ▽ウトウへの関心
 「弘前藩庁日記」(御国日記)によれば、享保4年(1719)11月、幕府からウトウについて尋ねられ、弘前藩は、寛文6年(1666)2月にウトウを献上したことがあると報告した。
 そこには、松ヶ崎の「しうらき」というアイヌがウトウを捕えたので、御抱絵師(おかかええし)の鵜(う)川(かわ)常(じょう)雲(うん)にその絵を描かせたこと、捕えられたのは4羽だったが、応対した青森本町の惣右衛門のもとに届いたのは1羽だったこと、などが記されている。また、このウトウを見物した者がまだ生きていたので「囀(さえず)っていたか」と聞いてみたが、覚えていなかったともある。
 江戸後期の南画家・百(もも)川(かわ)学(がく)庵(あん)の「津軽図譜」にウトウの図があるが、首が長く描かれるなど、現在のウトウとはだいぶ姿が違う。人々が生のウトウを目にする機会は、さほど多くなかったようだ。
 ▽伝説と史実の間
 ウトウ伝説と関係が深い善知鳥神社(青森市)の縁起によれば、同社は允(いん)恭(ぎょう)天皇の時代に創建され、大同2年(807)、坂上田村麻呂によって再建されたという。平成19年(2007)は再建1200年目に当たる。しかし、田村麻呂が青森県域に来たという史実はなく、各地の神社に見られる田村麻呂創建の伝承も、江戸時代に弘前藩の宗教政策として流布したものであることが指摘されていて(田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』)、本当の創建年代は不明である。
 ただし、文化8年(1811)の「青森記」(弘前市立弘前図書館蔵)を見ると、弘前藩から地名の由来を尋ねられた町年寄の佐藤理左衛門らは「昔は境内にある沼は広く、そこにあった小島にウトウが居た」「親鳥をウトウ、子をヤスカタといい、猟師がこれを取っていたのでウトウの島と呼んだ」などと答えており、伝説は人々の心に深く根を下ろしていたことが分かる。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

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陸奥国の最果ての地=2

2008/4/28 月曜日

 

1550年ごろの「南瞻部洲大日本国正統図」(なんせんぶしゅうだいにっぽんこくしょうとうず)(海野一隆『地図の文化史―世界と日本―』より転載)

 ▽豊臣秀吉と境界
 天正18年(1580)7月晦日、宇都宮に出陣中の豊臣秀吉は、陸奥国・出羽国はいうにおよばず、「津(つ)軽(がる)・宇曾利(うそり)・外浜(そとがはま)」に至るまで妻子を上(じょう)洛(らく)させるよう命じ、「異域」である「蝦(え)夷(ぞ)島(がしま)」にも朱印状を発給して、出仕をうながした。当時「津軽・宇曾利・外浜」は、陸奥・出羽とは区別される境界地域として認識されていたようだ。
 ちなみに、秀吉が朝鮮侵略のための根拠地とした肥前名護屋(現佐賀県)では、大(おお)浦(うら)為(ため)信(のぶ)=津軽為信の陣屋は、秀吉の本陣の直近にあった。あるいは秀吉は、日本の東の果ての大名である為信をもその麾(き)下(か)に置き、天下人の軍勢として全軍を結束させようという視覚的な役割を期待していたのかもしれない。

「日本一鑑」の行基図(『新編弘前市史』資料編古代・中世より転載)

 ▽境界領域としての津軽
 日本列島の境界領域のうち、東のそれは津軽・外浜・エゾが(千)島などと表現され、中世の軍記物などに多くみることができる。
 当時の境界は、かなりの幅と長さをもつものとして観念されていた。特に、津軽などを「東」の境界というのは、現在の私たちの方位観とは、ずいぶんと異なるものになっている。
 古代の人の方位観・地理観として、日本列島は東西に長く延び、陸奥は東方、出羽を北方とする観念が存在していたといわれる。太平洋側の陸奥国をひたすら東上(北上)し、現在の青森県のあたりからぐいっと西へ進むと、たどりつくのは津軽。まさしくこの地は、東方と認識されていた陸奥国の最果ての地とみられ、その観念が定着していった。
 さらに、津軽とエゾが島はセットで把握されていたという。その認識のもとでこの地域の歴史に密接にかかわったのが、津軽十三湊に本拠をおいていた安藤氏であった。安藤氏はエゾが島をも管轄する広範な支配者であり、その認識は、鎌倉時代の北方世界に関する知識の集積とともに、広く民衆世界にも浸透していたという。
 鎌倉時代の初期、幕府の中枢にいた北(ほう)条(じょう)義(よし)時(とき)(1163~1224)の時代から、北条氏の従者たちは地(じ)頭(とう)職(しき)を手に入れ、津軽地方を支配していたようだ。義時はまた、エゾの人と地域を支配する地位についていたともいわれている。安藤氏は、実際にエゾ支配の第一線を仕切った。
 このように、中世における東の境界領域は、北条氏の影響力がこの地域に伸張するとともに、津軽とエゾが島とを併せた広がりのある空間としてとらえられるようになったのではなかろうか。

 ▽境界の重層性
 当時の境界領域には、エゾが島のような、国境の外にありながらも異国ではない「異域」も含まれている。この点は、青森県と秋田県との県境というような行政的な境界からイメージされるものとは、ずいぶんと異なる。
 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱を描いた『太平記』では、関東の北(ほう)条(じょう)高(たか)時(とき)を「東夷」、河内の楠(くすのき)正(まさ)成(しげ)を「南蛮」と記すことが ある。これらは、京都を中心とした中華思想とでもいうべき表現と言えよう。また、東の境界についても、「夷千嶋」とする写本がある。
 これに対して、「異朝」と表現される異国に相当する地域に対しても「夷」とあてる場合がある。つまり、漢字では同じく「夷」と書いていても、内から外(京都からエゾが島)へと向かう「夷」の概念と、異国を示す「夷」の概念の2つが存在するのである。
 すなわち、このような異なる2つの概念が接触している場が境界領域ということになろう。とすればそこには、内と外とを截(せつ)然(ぜん)と区別できない、いわばグレーゾーンとも呼べる場が境界領域として存在するのではないかと考える。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

中世「日本国」の境界(石井進中世のかたち日本の中世1より転載)

◆一口メモ 宇曾利
 現在の下北半島一帯を指す地名で、16世紀の中ごろには津軽・外浜とならぶ日本の果てとして、当時の人々に認識されていたといわれている。

 

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信枚支えた家康の姪=3

2008/5/12 月曜日

 

満天姫絵像(弘前市長勝寺蔵)

 ▽満天姫の輿(こし)入れ
 慶長12年(1607)12月、津軽為(ため)信(のぶ)は京都で死んだ。為信の跡を継いだ三男信(のぶ)枚(ひら)は家臣団統制を進め、藩主権力の強化を図った。
 信枚が、戦国の遺風吹き荒れる激動の時期を乗り切ることができた背景には、2人の女性の支えがあった。徳川家康の養女として信枚に嫁いだ満(ま)天(て)姫と、信枚の側室として3代藩主津軽信(のぶ)義(よし)を生んだ大館御前である。
 満天姫の実父で下(しも)総(うさ)国関(せき)宿(やど)(千葉県野田市)城主の松平康元は家康の異父弟だから、満天姫は家康の姪(めい)に当たる。初めは安(あ)芸(き)国広島(広島県広島市)城主福島正則の嗣子正之に嫁いだが、正之が早世したため、実家に戻っていた。
 慶長16年6月の満天姫入(にゅう)輿(よ)については、面白い話がある。家康から望みの家へ嫁いでよいと言われた満天姫は、江戸城で能の催しが開かれた折り、密かに諸大名の姿を見ることにした。その中で際立った男振りの信枚に惹(ひ)かれ、津軽家への輿入れを希望したというのである(「津軽編覧日記」)。また、家康の信認厚く幕政に影響力をもち、信枚とも師弟関係にあった天(てん)海(かい)僧(そう)正(じょう)が、この婚姻を取り計らったともいう。

弘前東照宮(市毛幹幸提供)

 ▽信枚の内(ない)憂(ゆう)外(がい)患(かん)
 当時、信枚の周辺には難問が押し寄せていた。例えば、為信以来の家臣の間に信枚への不満が蓄積し、慶長17年には重臣高(こう)坂(さか)蔵(くら)人(んど)を反逆の疑いで誅(ちゅう)滅(めつ)しなければならないほどだった。
 家康が死去した直後の元和3年(1619)、信枚と満天姫は弘前城内に家康を祀(まつ)る東(とう)照(しょう)宮(ぐう)の建立を願い出て、許された(「津軽一統志」)。東照宮の勧(かん)請(じょう)は全国的に見てもかなり早い時期になされたもので、津軽家と徳川家との関係の深さを示している。
 元和5年(1619)、広島城の無断修築で福島正則が改(かい)易(えき)され津軽への国(くに)替(がえ)が発令されると、津軽家は越後へ転(てん)封(ぽう)させられそうになったが、けっきょく沙(さ)汰(た)やみになったのも、天海の支援や満天姫を通じた幕府との関係があったことは想像に難くない。
 寛永15年(1638)、満天姫は没した。享年50。信枚の死から7年後である。亡(なき)骸(がら)は津軽家の菩提寺長(ちょう)勝(しょう)寺(じ)境内の霊(たま)屋(や)「明鏡台」にある。その扉は葵(あおい)の紋で飾られ、寺の本堂にも、葵の紋を配した位(い)牌(はい)が置かれている。

杉山貞五郎の由緒書(弘前市立弘前図書館八木橋文庫蔵)

 ▽信枚と大館御前
 関ケ原の戦(慶長5年/1600)で、津軽為信が東軍に与(くみ)して参陣していたことは、有名な「津軽屏風」の分析によって明らかになっているが(長谷川成一「弘前藩」)、西軍の旗(はた)頭(がしら)を務めた石(いし)田(だ)三(みつ)成(なり)の末(まつ)裔(えい)が津軽に来たことも、近年知られるようになった。
 三成の次男石田隼(はや)人(との)正(しょう)(源吾)は豊臣秀吉に仕えたが、関ケ原戦後は津軽家の客分となり、杉山姓に改めたという(本田伸「関ケ原残照~石田三成の血脈」)。また、源吾の姉で「太閤の政所の御養女」の辰子は、信枚の側室になった(「津軽藩旧記伝類」)。
 辰子は、関ケ原戦の功で津軽家に与えられた上野(こうずけ)国大(おお)館(たち)領(群馬県太田市)に住み大館御前と称された
 天保4年(1833)の杉山貞五郎「由(ゆい)緒(しょ)書(がき)」には、大館御前の弟八兵衛(吉成)が津軽に呼び寄せられ、襲(しゅう)封(ほう)間もない信義に召(めし)抱(かか)えられたとある。以後は着実に加増され、寛永21年(正保元/1644)には1300石・御証人役加判に列せられた。
 杉山八兵衛は寛文9年(1669)、蝦(え)夷(ぞ)地で勃(ぼっ)発(ぱつ)したアイヌ蜂起(シャクシャインの戦い)において、幕府から加勢を命じられた弘前藩の侍大将として渡海している。その後、幕府から褒(ほう)賞(しょう)を受けるなど、大いに面目を施した(「津軽一統志」)。以後、杉山家は重臣に列し、弘前藩政に大きく貢献することになった。
(青森県史編さんグループ嘱託員 市毛幹幸)

 

◆一口メモ 津軽屏風

 大阪歴史博物館所蔵の「関ケ原合戦図屏風」を指す。満天姫が信枚へ嫁ぐにあたり家康から贈られた屏風絵で、長く津軽家に伝来した。

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中断された石垣普請=4

2008/5/26 月曜日

 

延宝5年「弘前惣御絵図」より本丸の部分(弘前市立弘前図書館蔵)
延宝5年「弘前惣御絵図」より石垣の築きかけ部分(弘前市立弘前図書館蔵)
弘前城の本丸東側石垣(小石川透提供)

 ▽元禄の石垣普請
 ゴールデン・ウイークのさくらまつり期間には、多くの観光客が弘前城を訪れる。下(げ)乗(じょう)橋(ばし)から見上げる天守を背景にしたスポットは、記念撮影の定番である。
 天守台は本丸の南東側に位置しているが、ここから北側へ向かう辺りは、しばらく石垣が積まれていなかった。延宝5年(1677)の「弘前惣御絵図」には「石垣築きかけの場所」と記されている。
 本丸東側の石垣は、元禄7年(1694)7月に御(お)鍬(くわ)初(はじめ)(=起工式)が行われた。実に、築城から80年以上が経(た)っていた。翌年6月には普請が本格化したが(「御城郭廻御作事御修復覚書」)、まもなく中断の憂き目を見る。理由は、弘前藩を襲った凶作であった。

 ▽元禄の大飢饉
 元禄8年は春になっても寒気が去らずに雪が残り、大風が吹き荒れ、大水となったあげく、ヤマセも吹き続け、夏でも綿入れの小袖を着るほどの寒さとなった。この異常気象が凶作をもたらし、未(み)曾(ぞ)有(う)の大飢(き)饉(きん)に発展した。
 当時、弘前藩の財政は上方の金融業者からの借財に頼っていた。その返済には上方への廻(かい)米(まい)が宛(あ)てられており、凶作であっても、前年の収穫分を根こそぎ移出しなくてはならなかった。全国規模の市場経済に巻き込まれた結果、凶作でも大量の米を領外に出さねばならない「飢(き)餓(が)移出」の状況が生まれていたのである。
 備蓄米がなくなった領内では、翌年までに、人口の3分の1と言われる死者を出した。弘前周辺では、天明の飢饉に次いで多かったと指摘されている(弘前大学人文学部文化財論ゼミナール『津軽の近世墓標』)元禄の飢饉は、弘前藩の財政構造に根ざした人為的なものであったと言えよう。

 ▽北方情勢の変化
 その後、弘前藩は家臣の大量の召し放ち(=解雇)や家臣屋敷の城外移転など、支配機構を再編し、経費節減に努める必要に迫られた。農政の転換や対外関係の見直しも急速に進められた。
 例えば、松前藩との関係も大きく変化した。近世前期、松前藩は「商(あきない)場(ば)知(ち)行(ぎょう)制」とよばれるシステムを確立し、アイヌとの交易を独占して藩財政を支えていた。主な交易品はコメだが、松前藩領に水田はほとんどなく、自前でコメを生産できなかった。そのため、領外からコメを移入する必要があり、弘前藩がその最大の相手先だった。いわば、弘前藩は松前藩のために最低限度のコメを確保し、藩政を保障してやっていたのである(浪川健治『近世日本と北方社会』)。しかし、元禄の飢饉後はこの関係が崩れ、松前藩は羽州の幕領からのコメに依存せざるを得なくなった。
 元禄の飢饉は、弘前藩だけの問題にとどまらず、藩と藩との関係までも変えてしまうほどの大きな影響を与えたのである。

 ▽石垣普請と異常気象
 この時期の石垣普請については「封内事実秘苑」に、如(にょ)来(らい)瀬(せ)村(現弘前市)から石を切り出したところ大風・雨となり、やがて大水が出たと記されている。石垣普請は、凶作の原因である異常気象の発生理由の一つととらえられていた。また、百姓たちが人足として従事したため田畑の仕込みが遅れたという記述が「平山日記」にある。元禄の飢饉を経てもなお、農作業に影響を及ぼすほどの普請を続ける藩政への不信が、石垣普請と異常気象とを人々の記憶の中で結びつけたのではなかろうか。
 元禄12年5月、本丸東側の石垣はようやく完成した。以後、300年以上そびえ続けてきたこの石垣にも、あちこちに膨らみが見られるようになった。今後は調査と修復工事が行われる予定だが、その過程で、新たにどのような「記憶」が蘇(よみがえ)ってくるのか、大いに期待したいと思う。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◆ひと口メモ 商場知行制

土地が少ない松前藩では、蝦夷地の特定の場所(=商(あきない)場(ば))での交易権を知行地の代わりとした。藩主も家臣も自分の商場で品物をアイヌと交換し、経済の基盤とした。

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盛岡藩からのスパイ=5

2008/6/16 月曜日

 

野辺地町彦兵衛の報告書(岩手県立図書館蔵)
彦兵衛と野辺地代官の署名(岩手県立図書館蔵)
笠原八郎兵衛による「御内密調」(弘前市立図書館蔵)

 ▽津軽家、松前に派兵
 弘前藩と北方世界とのつながりをみる上で重要なのは、江戸後期の蝦(え)夷(ぞ)地警備という役割の大きさである。藩兵の派遣と駐留を軸とする「蝦夷地勤番」体制が始まったのは、寛政9年(1797)9月のことである。幕府は弘前藩に、箱館(現函館市)警備のため300人程度を派遣するよう命じた。弘前藩は、留(る)守(す)居(い)組(くみ)頭(がしら)(山田剛太郎勝(かつ)承(つぐ)を士大将とする295人の部隊を編成した。11月には相次いで弘前を出発し、青森に滞在した後、翌年正月に三厩(現外ケ浜町)から箱館へ渡海した。8月に二番手部隊と交代するまで、箱館警備にあたった。
 ▽野辺地から来た男
 岩手県立図書館(盛岡市)に「松前箱館江津軽より御人数被遣(つかわされ)候ニ付物(もの)聞(きき)被(おおせ)仰(つけ)付(られ)被遣見聞仕候書上帳」という長い題名の史料がある。山田隊が青森に到着・滞陣した際の記録である。記録したのは野辺地の彦兵衛という男。その内容は、山田隊の構成、兵に支給される手当の額、青森湊から箱館に移出された兵糧・兵(へい)站(たん)物資の数量、さらに箱館警備に関する風聞にまで及び、詳細を極めている。
 この記録の末尾に、当時の盛岡藩野辺地代官の署名・捺印がある。その宛(あて)先(さき)は、盛岡藩内の監察にあたる役職の目付…。
 実はこの彦兵衛、盛岡藩から「物聞」のために送りこまれた密偵=スパイだったのである。いったいなぜ盛岡藩は、極秘に弘前藩兵の情報を得ようとしたのだろうか。
 ▽隣藩への関心
 盛岡藩は弘前藩と同時に箱館警備を命じられ、形勢しだいでは明年、津軽兵と交代で派兵を命じる旨の指示を幕府から受け取っていた。弘前藩の軍事情報は、盛岡藩が自らの動向を決める上で必要な情報だったというわけだ。
 弘前藩と盛岡藩には、領境や住民感情など対立する問題があった。陸続きで境を接している以上、津軽領の出来事が南部領に影響をもたらす可能性は、常にある。否が応でも、隣藩の動向に関心を持たざるを得なかった。
 元禄15年(1702)に盛岡藩主南部行信が死去した際、弘前藩が情報収集を行った(長谷川成一『北奥羽の大名と民衆』)ように、両藩は互いの動向について常に注意を払っていた。領内の藩士・領民を監視する上でも、領外の情報は貴重であった。
 こうした諜(ちょう)報(ほう)活動は隠密に行われるため、その全(ぜん)貌(ぼう)を知ることは難しい。しかし、隣藩への強い関心の跡は、両藩の史料の中に垣間見える。
 ▽「津軽風説書」の世界
 最前線にあたる野辺地代官所は、奥州街道筋の領境を固めるとともに、越境人や物資の移出入を監視する馬(ま)門(かど)の口(くち)留(どめ)番(ばん)所(しょ)を管轄していた。野辺地代官の勤務日誌である享保8年(1723)、「野辺地官所雑記」(岩手県立図書館蔵)に、野辺地代官が商人の奉公人を津軽領内に密偵として潜入させたり、津軽領から来て野辺地に宿泊した旅人の話を情報として収集させたことが記されている。
 こうした情報は「津(つ)軽(がる)風(ふう)説(せつ)書(がき)」として、盛岡にもたらされた。文化4年(1807)に行われた黒石領主津軽親(ちか)足(たり)の平内視察や、同10年に津軽領で発生した「民(たみ)次(じ)郎(ろう)一揆」、さらには、弘前藩十代藩主津軽信(のぶ)順(ゆき)が幕府から逼(ひっ)塞(そく)処分を受けた文政10年(1827)の「轅(ながえ)輿(ごし)事件」の情報も、「津軽風説書」に書かれている。
 弘前藩も、文政4年(1821)の相馬大作事件の際、用人笠(かさ)原(はら)皆(とも)当(まさ)(八郎兵衛)が「早道之者」と呼ばれる隠密を盛岡藩領・仙台藩領に送りこみ情報集めを行っている。
 北奧における諜報活動は、深く静かに潜行しつつも、実質はかなりホットなものだったのであり、野辺地の彦兵衛の派遣も、その一環と位置づけることができる。
(青山学院大学非常勤講師 千葉一大)

 

◆一口メモ 轅輿事件

 十一代将軍徳川家斉が太(だい)政(じょう)大(だい)臣(じん)に昇進する儀式の際、津軽信順が、使用できないはずの轅輿に乗って江戸城に登城し、70日間の逼塞処分を受けたもの。

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