開幕と同時に連日大勢の花見客でにぎわう弘前さくらまつり。時を越え、愛される桜と祭りはこれからも続く=4月22日

 100周年を迎えた弘前さくらまつりも会期後半に突入している。今年も弘前公園には多くの花見客が足を運び、日本一と称される桜花の宴に酔いしれる姿が見られる。かつて、地元民にとって祭りは一年の中でも特別な〝ハレ〟(非日常)の舞台だった。時代は移り変わり、人々の祭りへの関わり方、在り方も大きく変容した。だが、決して変わらない「桜への思い」がある。それぞれの時代を生きた人の心に咲く桜色の記憶。祭りの原風景を振り返りながら、この誇らしい宝を未来へつなげたい。
 1918年から始まった祭りは昨年100年目を数え、今年は100周年の節目。2年後には100回目と3度目の節目を迎える。なぜ、ずれが生じているのか。実は祭りは過去3回、中止の憂き目に遭っている。背景にあるのは戦争だった。
 38年、国家総動員法が施行され、娯楽が制限された時代。同年に祭りは名称を「時局と桜の催し」に変更した。県県民生活文化課県史編さんグループ主幹の中園裕さんは祭りの名称変更に、地元の祭り開催への思いがにじみ出ていると指摘する。
 「『時局』というワードを入れることで当時の情勢に配慮しながら何とか祭りを開催したい―という当時の市民の抵抗が表れている」と語る。43年の祭り名称「桜愛護会」も「国家を愛護する」というメッセージを暗に込め当局に配慮したと考えられると分析する。
 地元民の祭りへの関わり方の変化を語る上でキーワードとなるのが昭和30、40年代の「高度経済成長」だと語る中園さん。「祭りに対する心構え、楽しむ姿勢がそもそも違う」と強調する。
 高度経済成長以前、多くの地元民は農業に従事。農家の生活は朝が早く、夜は遅くまでの作業が当たり前だった。普段着は機能的な野良着であったため、年に1度のハレの祭りで身にまとうものは当然、晴れ着やスーツなどの正装だった。それらを一変させたのが、高度経済成長だった。
 弘前の桜が人を引き付けてきた要因については「圧倒的に高い質と量の桜を守るため、弘前市や市民が協力してきた背景がある」としつつ「桜だけでなく、藩政時代以来の老松などが土台にあるからこそ、桜がここまで引き立つ」と〝日本一〟の桜の景観を構成する要素の重要性を語る。
 全国区の知名度を誇る弘前の桜。毎年、花見客を迎える弘前の観光関係者からも桜への思いが聞かれる。
 市観光政策課の後藤千登世課長は「100年後も公園の桜が花を咲かせ、今と変わらずに市民が楽しめる祭りとして続くことを願う」と祭りを見つめる
 「弘前方式」という確固たる桜の管理技術に裏打ちされ、世界に誇る桜の雲海が広がる園内。弘前観光コンベンション協会の白戸大吾観光振興部長は「弘前は桜だけでなく、観光コンテンツが充実している。観光客を取り込むためには市民が主役となって取り組むことが大事」と話した。
 古城を包み込む桜。四季によって趣を変えるその光景は年間を通じて市民の誇りとなっている。弘前方式の創始者で公園管理事務所(現・市公園緑地課)の初代所長・工藤長政氏いわく「サクラは春の花だけでなく、夏の新緑、秋の紅葉も美しい」(1968年4月日付本紙より)。
 未来へ守り、託すべき〝財産〟がここにある。100周年は節目であり、後世へとバトンをつなぐ通過点だ。