桜と生きて 弘前観桜会100周年

 

2018/4/25 水曜日

 

  駆け足でやってきた100周年の春爛漫(らんまん)。1世紀の長きにわたり連綿と紡がれてきた祭りの歴史を、咲き誇る桜を守り、祭りを支えてきた人々に焦点を当てながらひも解いてみる。

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桜を未来へ・上=1

 

〝弘前方式〟を新たな段階へと導き、今日に至る桜の景観を生み出した小林範士さん=2018年3月20日

 「私は、弘前公園に長年勤務して、ソメイヨシノの寿命は考えなくともよいのではないか、とさえ考えるようになった」(1989年開催、第8回サクラ研究会・小林範士氏の基調報告より抜粋)。
 52品種約2600本もの多彩な桜が存在する弘前公園は、桜全体の65%をソメイヨシノが占める。樹齢100歳を超えたものに至っては400本を超え、歴史を重ねたソメイヨシノが若木に負けないほどの花を毎年咲かせている。
 まさに、寿命を感じさせないソメイヨシノの管理方法。それは、リンゴの剪定(せんてい)技術を応用した「弘前方式」といわれ、半世紀前に偶然生み出されたものだった。
 日本の桜の代表としてイメージされることの多いソメイヨシノだが、品種としては実は若手だ。江戸時代末期、江戸の郊外にあった染井村(現・東京都豊島区)の植木屋が「吉野桜」として売り出したのが始まりとされ、明治政府の推奨により、全国に広まったとされている。ソメイヨシノの〝寿命60年説〟がにわかにささやかれ出したのは明治時代に植栽された桜が目に見えて衰えてきた昭和20年代ごろ。そして、それは弘前公園も例外ではなかった。
 「桜切る馬鹿(ばか)、梅切らぬ馬鹿」の定説が当たり前に信じられていた当時。公園管理事務所(現・市公園緑地課)の初代所長だった工藤長政氏は、作業員のとある行為に怒りをあらわにしたという。実家がリンゴ農家の作業員が弱るシダレザクラを見かねて枝をばっさり強剪定し、根元に肥料を入れてしまった。
 元来、桜は切り口から病気が入りやすく、強い剪定は御法度とされていた。だが、翌年には切り落とした枝先から若芽がひょっこりと顔をのぞかせ、徐々に樹勢が回復。工藤所長はリンゴ農家に教えを請い、自らも研究を開始。桜とリンゴは同じバラ科であり、日本一のリンゴ生産地弘前ならではの「弘前方式」が育まれていった。
 桜守の系譜は工藤所長から次の石戸谷恵二郎所長、小林範士さんへと受け継がれ、範士さんの弟の小林勝さん、そして現在はチーム桜守が継承している。
 現在の「弘前方式」を体系づけた〝立役者〟の範士さんは1973年に公園管理事務所に配属され、桜との関わりが始まった。観光課勤務時の91年に樹木医制度がスタートし、同年に1期生となる資格を取得。92年に再び公園緑地課へ異動となって以降、桜の管理技術の体系化に尽力してきた。
 県樹木医会発行のテキスト「さくらの管理」「技術・図解編」(1995年)を自らまとめ、桜の樹勢診断や根の病気、土壌改良の必要性や剪定する際の枝の切る位置などを、図説とともに詳細に掲載した。病気になった桜の根を取り除く〝外科手術〟にも初めて踏み切るなど、弘前方式を体系付けながら新たな風を吹き込んだ。
 2000年に体調を崩し、現在、自宅療養を続けている今年68歳の範士さん。「花芽が膨らんでくると、そわそわするんだ」とにっこり。「公園の桜の管理技術が次の世代に引き継がれ、今年もきれいに咲いてくれるのはうれしい」と豪華絢爛(ごうかけんらん)に咲き誇る桜に感慨もひとしお。
 「弘前方式がここまで有名になるのは本当にうれしいことだね」と妻貴代子さん(63)が問い掛け、範士さんが「そうだ」とうなずく。例年、桜が咲く頃になると弟の勝さんと開花時期について盛んに議論を重ねている。
 範士さんは、弘前方式のバイブル的テキスト「さくらの管理」の冒頭でこうつづっている。「この『さくらの管理』を読んで、たったこれしきのことか―と感じる人も多いことでしょう。しかし、これを一つ一つどこまで実行できるかどうかが大切なのであります」。

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桜の未来へ・下=2

2018/4/26 木曜日

 

雪深い弘前公園内で行われた桜の剪定作業。こうした管理の積み重ねが〝日本一〟の桜を形成している=2018年2月19日

 半世紀前、日本一のリンゴ生産地で“発芽”した桜管理の道しるべ。そこに先人たちが磨きをかけ積み重ねてきた桜の管理方法「弘前方式」100周年を迎える今年も、先人の志を受け継ぐ3人が桜を見詰めていた。
 「チーム桜守」と称される彼らは、市公園緑地課の職員で、ともに樹木医の資格を有するスペシャリスト。桜を守る最前線に立ち、年間を通じて維持管理にいそしみ、桜の生命力を引き出している。
 「こんな桜、見たことがない」―。祭りに訪れる花見客からは感嘆、称賛の声が幾度となく漏れる。
 小林勝さん(64)、橋場真紀子さん(45)、海老名雄次さん(37)による「チーム桜守」が結成されたのは2014年4月。桜の管理はもちろんのこと、桜の開花予想、開花情報の発信、桜以外の樹木など植物全般が仕事相手だ。
 現在、公園では(1)剪定(せんてい)(2)施肥(肥料を根元に入れる)(3)薬剤散布―の3本柱に基づく“弘前方式”の桜の管理を徹底して実践している。特筆すべきなのは、園内全ての桜を管理対象にしていること。他の桜の名所とされるところでも、これほどの規模で管理体制を敷いているところは珍しいという。
 弘前方式の基本理念は〝若返り〟。弘前公園には樹齢100年を超えたソメイヨシノが多い一方、毎年、花を咲かせる桜のボリュームは、若木に決して見劣りするものではない。剪定すると、植物ホルモンの動きが変化し、新たな枝を伸ばそうとする。その原理を利用し、枯れ枝や隣の木との間隔などを総合的に判断し切り落とす。木の根元の土を入れ替える土壌改良も、木の体力を保つ上で欠かすことができない。
 チーム桜守のメンバーで指導役を務める小林さん。樹木医である兄の範士さんが2000年に倒れたことから後を継ぎ、桜の管理に携わるようになった。「自分ではこうなるとは思っていなかった。一種の運命なんだと思う」と感慨深げに語る。
 11年12月には樹齢100年を超える「二の丸大枝垂れ」が圧雪と根に入り込んだ病気により倒壊。市民や関係者に大きな衝撃が走った。小林さんは病気に侵された根を大胆に切り取り、異なる桜の根をつなぐ新手法「根接ぎ」を実施。そのかいもあり、弱り切っていた大枝垂れは年々、新たな枝を伸ばし、花も回復。今年も倒壊前のような桜色の〝落下傘〟を思わせる花のボリュームだ。
 今後期待すべき桜として、桜守3人がともに取り上げたのが、弘前の名を冠する「弘前雪明かり」だ。
 昨年、園芸品種として日本花の会(東京都)から認定を受けたばかり。開花時は淡紅色の弘前雪明かり。開花が進むにつれてその色は、城下町弘前にしんしんと降り積もる雪のような純白へと変化を遂げ、存在感を放つ。原木も園内にあることから、新たな誘客の目玉として注目される。
 「祭りは100周年だが、桜の本格的な管理が始まってからは50年をやっと超えたほど。祭りが今でも続いているのは先人が(桜の)管理をきちんとやってきたことが大きい。その一翼を自分たちが担っているのは誇り」と桜守3人は語る。
 次の200年、その先へ―。桜守たちの挑戦はこれからも続く。

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桜の系譜=3

2018/4/27 金曜日

 

菊池楯衛が寄贈・植栽したとされる「日本最古のソメイヨシノ」。100周年を迎える祭りを見守っている。今年は21日の開幕に合わせて開花した

 絢爛(けんらん)豪華な桜絵巻で人々を魅了する弘前公園。日本一の桜の名所があるのは、桜を植えた先人たちがいたから。公園北の郭にある武徳殿休憩所内では「桜の恩人」として、菊池楯衛(1846~1918年)、内山覚弥(1852~1933年)、福士忠吉(1881~1957年)が紹介されている。
 1871年の廃藩後、荒れ放題となった弘前城内。その姿を嘆いた旧藩士の内山が1880年、自費で桜20本を植えたとされる。続いたのが「青森リンゴの開祖」として知られる同じく旧藩士の菊池。内山の話を聞き、2年後にソメイヨシノ1000本を寄贈・植樹した。
 ただ、新編弘前市史通史編4(近・現代1)によると、当時は「城の中に桜を植えて、花見酒などとはもってのほか」との批判もあり、切られたり、引き抜かれたり、ほとんどは成木にならなかった。
 それでも、内山は弘前公園が開園した1895年、日清戦勝記念としてソメイヨシノ100本を寄贈。さらに市会議員の在任中、桜の植栽による公園美化を訴え続け、1903年に大正天皇のご成婚記念としてソメイヨシノ1000本を植えさせた。城跡を美しく―。旧藩士の思いが、桜の名所の原点になった。
 「全国から多くの人が訪れ、皆さんに喜ばれているのは一市民としてうれしい」。弘前公園の桜について菊池のひ孫、せい子さん(70)=弘前市=は笑顔で語る。
 菊池は1918年4月8日にこの世を去り、翌5月の第1回観桜会を見届けることはなかった。だが園内では今も、菊池が寄贈した桜が1本、「日本最古のソメイヨシノ」として花を咲かし続け、今年で100周年を迎えた祭りを見守る。せい子さんは「立派に桜を維持管理してくれている人に感謝しているのでは」と、天国の曾祖父に思いをはせる。
 せい子さんの長女、緑川純子さん(47)=同=はこぎん刺しで桜の単体模様を2013年に考案し、「楯衛吉野」と名付けた。
 先祖が弘前公園の礎を築いたことに「たまたまそういう家に生まれただけ」と照れつつも、菊池の功績を広く知らせたい―との思いを込めて楯衛吉野を刺している。
 残る1人の「桜の恩人」の福士。弘前公園に桜の寄贈を申し出て、1955年までにソメイヨシノ1300本などの苗木を植えた。当時の弘前公園は老木が多く、樹勢に衰えが見られていた。市は限られた予算内で補植に取り組んできたが、その窮状に手を差し伸べたのが福士だ。
 弘前市内に住む孫の勝夫さん(78)は「『中興の祖』。忠吉が寄付したことで桜の名所として再び立ち上がった」と、祖父が果たした役割を誇る。
 福士は第1回観桜会開催発起人の1人であり、市会議員を務めた際には公園の桜による観光振興を訴えたという。祖父らが残した桜と祭り。仕事が忙しく、久しく祭り時期に公園に足を運べていない勝夫さんだが、「100周年だから、今年は行きたいね」。一面桜色の園内に心を躍らせる。

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祭りの醍醐味=4

2018/4/28 土曜日

 

時代とともに変化を続けながら、祭りの風景を彩ってきた出店や見せ物の数々

 弘前さくらまつりの主役である桜とともに、祭りの風景を彩ってきた出店や見せ物は祭りの醍醐味(だいごみ)。1918(大正7)年の第1回観桜会では「芸者たちの手踊りが観客を集め、山車・自転車競争・相撲大会・花火打ち上げ等々、多種多彩な余興も繰り広げられた」(新編弘前市史通史編4近・現代1)。翌年の第2回から早くもガサエビ(シャコ)やバナナ売りが目立つようになる。ここに津軽の春の風物詩、トゲクリガニを加えた3品が大正期以降、観桜会の“食の三大名物”として長く親しまれた。
 「ガサエビとカニは衛生面などの問題で出せなくなった。殻がそこらじゅうに落ちて『刺さるから危ない』と言われた」。出店者で構成する弘前桜まつり協賛会専務理事の山崎勝男さん(64)が当時を振り返る。行商人だった祖父母の代から祭りが身近にある環境で育った。「確かに出店や見せ物の中身は時代とともに変わってきたけれど、お化け屋敷や食堂など当時から変わらないものもある。今だっていろんな店があるからね」と胸を張る。
 お化け屋敷は現在、東京や大阪などの4団体が1年ごとに巡業する。今年は前身の見せ物小屋から100年以上の歴史を誇る名古屋の安田興行が担当。代表の安田春子さん(85)は10代から呼び込みを務め、今も「昔ながらのお化け屋敷」を率いて全国を巡る。「観桜会は最初の頃から参加していたはず。昔はお客さんの馬車が北門の辺りにずらりと並んで、情緒があった」と回顧しつつ、「奈良や愛知の桜もきれいだけど、ここの桜を知ったらよそは見れない」と“日本一の桜”に太鼓判を押した。
 創業100年余り、映画「津軽百年食堂」のモデルとしても有名な弘前市の三忠食堂も観桜会の初期から出店。看板メニューの津軽そばは、だしに使う焼き干しの仕込みなどに手間がかかる。4代目店主の黒沼三千男さん(69)は「祭り期間中は寝ないで働くこともあるが、帰省した人などに『そばを食べてさっぱりした』と懐かしんでもらえるとうれしくて。今後も頑張らなければ」と老舗としての責任感をのぞかせた。
 現代の弘前さくらまつりの名物を問われ、悩んだ末に山崎さんが答えたのが「嶽きみの天ぷら」市内で飲食店「なじみ」を営む奈良正則さん(58)が店のメニューとして開発。9年前、祭りに出店するやいなや人気に火が付いた。しかし数年前に体を壊し、今は長男の隆輝さん(32)が現場を切り盛りする。隆輝さんは「油の量や衣の付け方など試行錯誤を重ねてきた。やり方をめぐって父と何度けんかしたことか」と振り返り、「だからこそ品質には自信がある」と頼もしい表情で語った。
 食の三大名物の中で、現在も唯一残るのがバナナだ。バナナが貴重品だった時代、年に1度の観桜会で買ってもらうことが子どもたちの楽しみだった。しかし現在、バナナを販売するのは1950年創業の青果卸売「笹喜代二商店」(弘前市)1店舗のみ。2代目店主の笹直正さん(64)は「私が小学生の頃はたたき売りも含めて二十数軒バナナを扱う店があったが、バナナは珍しくなくなった」と時代の変化を語る。
 それでも伝統を絶やさない姿勢を貫くのは、Uターンした次男の仁志さん(27)の存在が大きい。今年店に立った仁志さん。「僕自身、この商売で父に育てられた。その父が『店は先代から預かっている』と口にするのを聞くと、今度は自分が預かる番だと気が引き締まる。これからも伝統を守っていければ」と継承を誓った。
 いつの時代も桜の風景とともにあった商人の魂は、未来へと引き継がれていく。

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