不撓不屈の魂 五所川原立佞武多運行20年

 

2017/7/23 日曜日

 

 時代とともに、語られることが少なくなった2度の大火。多くの人々の生活と心に深い傷跡を残したが、焼け野原から復興を遂げる不撓不屈の精神も育んだ。運行20年を迎える新作大型立佞武多は「纏(まとい)」。2度の大火にも負けずに立ち上がる五所川原の魂を火消しの姿に重ね、高さ23メートル、重さ19トンの山車が天を突く。8月4日の開幕を前に、五所川原立佞武多を盛り上げようと奮闘する人々の思いを追う。

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大火=1

 

2度の大火を体験し、激動の時代を今に伝える澤田さん

 太平洋戦争末期の昭和19(1944)年11月29日午前0時30分ごろ、五所川原で歴史に残る大火災が発生した。上平井町の木工有限会社第一工場から出火すると、町は瞬く間に炎に包まれ、中心部はほぼ焼き尽くされた。五所川原町役場や郵便局、五所川原駅をはじめ、当時県下一の富豪とされ町の象徴だった布嘉御殿を含む700戸以上が全半焼する大きな被害に見舞われた。
 火元と同じ上平井町に住んでいた澤田長一郎さん(85)の家は呉服やびん付け油、乗馬ズボンなどを扱う有名な大宅だったが、大火で家は全焼し、四つの蔵だけが残ったという。
 当時小学6年生だった澤田さんは「火事だ」の声とともに起こされ祖父母と両親、兄弟らと現在の五所川原高校の敷地に逃げ込んだ。「逃げる途中、空に銀というか白というか火に反射した鳥の大群を見た。『大火になれば火鳥が飛ぶ』という迷信があるが、異様な光景だった」と振り返る。
 火元の裏側に実家があった荒関正昌さん(89)は当時、土浦海軍甲種飛行予科練習生として茨城県にいた。同年12月には家族との面会を控え心待ちにしているさなか、新聞で大火を知った。荒関さんは「面会できるという知らせもできず、とてもつらかった。(家族を思うと)家もなく大変だろうと不安になった」と振り返り、数カ月後に会いに来た母親を見た時の安堵(あんど)感を涙ながらに思い返す。

 そのわずか2年後、再び五所川原を大火が襲った。敗戦後間もない昭和21(1946)年11月23日午後7時40分ごろ、錦町の民家から出火。強風にあおられ幾島町、柏原町、寺町、大町、敷島町、布屋町、川端町、東町などにも広がり、1度目の大火と二重被害になった人や前回被害に遭わなかった人たちにも炎の手が及んだ。青森や鯵ケ沢、藤崎、弘前方面からも応援が駆け付け消火活動に当たったが、炎は町を燃やし尽くし約7時間後にようやく鎮火した。敗戦からまだ1年という食糧、物資不足に苦しむ中での被災だった。
 「2度目はひどかった。新しい家を建て最後の一部屋の壁を仕上げる段階まできていた矢先、また全焼してしまった」と澤田さん。火事では帳簿などを保管する小さな蔵一つだけが焼け残っただけ。家族とも別れて暮らすことを余儀なくされた。
 澤田さんは2度の大火を振り返り、「私たちはまだ小さかったが、復興への気持ちは持っていた。どうにもならないときでもみんなが頑張っていた」と静かに語った。
 2度目の大火を実家で経験した荒関さんは、「とにかく風が強く火の粉が飛んでくる中、家を守ろうと必死だった」と、家族とともに消火活動に励んだ記憶を呼び起こした。
 2度の大火に遭う前の上平井町は、呉服店がずらりと並び、活気と勢いにあふれていたという。大町で荒関生花店を創業し、60年近く街の変遷を肌で感じてきた荒関さん。「五所川原は大火で古いもの全てを失ったが、終戦後の激動の時代に、不撓(ふとう)不屈の精神で復活に向かった気持ちはみんな同じだった」

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軌跡=2

2017/7/24 月曜日

 

 地元有志が明治期の3枚のモノクロ写真を手掛かりに立佞武多を復活させたのは1996年のこと。その2年後には五所川原立佞武多として市街地での運行を開始。以降東京ドームでの「活彩あおもり大祭典」でも披露され、その圧倒的な迫力で日本の夏祭りの代表格へと躍り出た。
 98年の初運行は五所川原駅付近からロータリーに向かう、わずか200メートルほどのコースだった。96年の復活から立佞武多を見守り、初運行当時は市の観光課で担当していた菊池忠・立佞武多の館館長は「今でこそ2・5キロのコースがしっかり整備されているが、当時は誰もやったことのない暗中模索の状態だった」と記憶をたどる。
 翌99年には駅から大町、中三前などの前を通る1・5キロのコースに延長。この後、電線地中化や路面整備など、祭りのための重点的な取り組みを重ね2005年に現在のコースとなった。
 併せて進められたのが、立佞武多を前面に押し出した街づくり。郊外型大規模店舗の進出やライフスタイルの変化から中心市街地の活気が失われつつある中、00年度に市は中心市街地活性化基本計画の基本目標に「立佞武多に会えるまち」を設定、立佞武多をキーワードとした街づくりが始まった。
 04年には、観光と交流の拠点の役割として、同市大町のデパート跡地に祭りの雰囲気を体感できる立佞武多の館を開館。初年の年間入館者数は18万6000人で、以降も東日本大震災発生までの間、14万人前後をキープし、新たな人の流れを生み出すことに成功した。
 立佞武多の館オープンメンバーの石川マミ子マネジャーは20年間を振り返り、「“ハタチ”の祭りはまだまだ若いから挑戦できることも多いはず」と話し、「県外からのお客さんの認知度が上がってきたと実感できることが増えたが、市民が大事にしないと人気は続かない。地元に愛される祭り、館になるよう頑張りたい」と奮闘する。
 観光客の増加に伴い、祭り自体も変化した。参加する町内や愛好会は祭り期間、点在する小屋から毎日山車を運んできたが、14年には各参加団体の山車を立佞武多の館に集積して展示拠点とし、コース近くの柳町に観覧拠点として桟敷を集中させた。
 市観光協会の島谷淳常務は「地域の活性化、経済波及を考慮すれば、観光面は必要なこと。山車を集中させたことは祭りの大きな変化だった。これからも市民とともに継続できる祭りに育てていきたい」と強調する。
 運行から20年の間、毎年の新作大型だけでなく、「桃太郎電鉄」、「機動戦士ガンダム」などの制作で話題をさらった。15年には、初めて大型が海外進出を果たした。ファッションデザイナーのコシノジュンコさんが立佞武多に感激したことをきっかけに「復興祈願 鹿嶋大明神と地震鯰」がブラジル・サンパウロカーニバルに出陣し世界を魅了。日本の伝統文化の認知度向上に対する貢献が認められ、第7回観光庁長官表彰も受賞した。菊池館長は「いつか世界にとは思っていたがこんなに早いとは。まさに感無量」と祭りの飛躍をかみしめる。
 暗中模索でスタートを切った“祭り”は、20年の歴史の中で全体を五所川原商工会議所、運行を市観光協会、制作を市が担当。参加団体は運行団体協議会をつくり、それぞれが役割を果たして一体となり作り上げてきた。

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技術向上=3

2017/7/25 火曜日

 

7月14日に完成した今年の新作大型立佞武多「纏」

 1998年の運行以来、進化を遂げている五所川原立佞武多。高さ23メートル、重さ19トンの山車がビルの間から顔をのぞかせて街を練り歩く姿は見る人の心を揺さぶり、圧倒してきた。誰もが驚くその威容だが、その高さゆえ、雨天時にはねぷたやねぶたのようにビニールを掛けた運行ができず、制作者たちが苦悩する時代が続いた。
 運行当初、塗料に使っていた染料は光を通しきれいな色彩を生み出していたが雨には弱かった。2001年から運行した「北の守護神」(制作者・三上敦行さん)では雨に強くしようと、塗料とペンキを混ぜたものを使用し試行錯誤するも染料並みの鮮やかさは出せなかった。
 運行から10年目を過ぎた頃、立佞武多製作所の制作者福士裕朗さん(35)が大阪の絵の具メーカー「ターナー色彩」と塗料の共同研究開発を始めた。染料と同じくらい鮮やかな発色で、色落ちせず光の透過性も良く、ぼかしなど繊細な技術に対応できる「ねぷた・ねぶたカラー」が生まれた。
 この塗料とナイロンを一緒にすき込むことで、水に強く光の透過性に優れた紙「ロンテックス雲漢」を使った大型「復興祈願 鹿嶋大明神と地震鯰」が2012年に登場し、立佞武多は新たな時代を迎えた。
 福士さんは「初代制作者の三上正輝さんは復活、三上敦行さんは技術を磨いた。私たちの世代は師匠たちの作り上げた立佞武多を発展させていかなければならない」と話す。
 今年度の新作大型立佞武多は「纏(まとい)」。五所川原を襲った大火で纏を振る勇壮な火消しの姿から、度重なる困難を乗り越える不撓(ふとう)不屈の精神を表現している。送り絵は「八百屋お七」で両脇の袖絵には一対の金剛力士、頭上には火消しが信仰していたとも言われる不動明王が大火を背負い鎮座する。制作者鶴谷昭法さん(35)は江戸時代の浮世絵などを参考に、火消しの服装にこだわり何度も練り直したという。
 赤、黄、緑、紺など約10色を巧みに使い、当時の火消しの姿を再現。火事場の炎を表現するため、あえて雑に赤を薄めて黄色を塗り、顔をりりしく仕上げていった。「原点に返り王道を追求し、五所川原の歴史、その精神を伝えたい」と語る。
 立佞武多はテーマや題材を探し下絵、骨組み、書き割り、ろう入れ、色づけ、組み立てと作業は約1年かかる。最後の工程となる組み立ては7月12日から3日間行われ、クレーンを使い大工、電気関係、とびの職人が技を駆使して36パーツを組み合わせた。
 完成後、鶴谷さんは「(自身の)5作中ではよくできたが、まだまだ技術を磨かないと」と新作を見上げた。
 年中いつでも立佞武多を見ることができる立佞武多の館。開館当初観光客からは「すごい迫力だね」という声が聞かれたが、最近は「なんて奇麗なんだろう」「繊細だ」という言葉も飛び交う。
 中学2年の時に岩木川河川敷で復活を遂げた96年の「武者」に魅了され、高校卒業後すぐに立佞武多の世界に飛び込んだ鶴谷さん。「20年たって技術も上がり、やれることが増えてきた。苦労をかけている人も多いが、さらに良いもの、誇れるものにするために頑張りたい」と笑顔を見せた。

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地域も節目を応援=4

2017/7/27 木曜日

 

8月4日の五所川原立佞武多開幕日に纏振りを披露するため練習に励む纏組の団員たち

 運行20年の節目を迎える今年の新作大型立佞武多は「纏(まとい)」。8月4日に開幕する五所川原立佞武多に市消防団の纏組が登場し、「一文字」「津軽奴振り」「木遣り」の三つの演目を披露して立佞武多と共演する。
 町火消しの組の旗印としての役割もあった纏。江戸時代の火消したちは、それぞれが掲げる組の纏に向かって走り消火活動に励んでいた。「纏持ち」は、各組と争うように火事場に駆け付け、纏を掲げて消し口を取ることで目印となり、仲間たちをもり立てた。「纏持ち」は纏を担いではしごを登ったり、屋根の上で大きく振ったりするので、組の中でも体力、威勢ともに優れた者が選ばれていたという。
 五所川原市消防団の纏組で30年以上にわたり纏を振りを続けている兄弟がいる。第一分団分団長で纏組前組長の竹内義博さん(62)、纏組組長の茂さん(59)の二人だ。
 父親の引退とともに、消防団に入団していくのが一般的だった時代に入団した義博さんは「五所川原の“もつけ”たちがたくさんいて消防団はにぎやかだった。纏振りは“選ばれし者”という感じで、振りたくても振れない人が大勢いた」と懐かしみ「憧れだった纏も気が付けば30年以上振り続けているな」とほほ笑む。
 五所川原地区消防事務組合によると、消防団員数は全国的に減少し、五所川原も同様、減少の一途をたどる。市町村合併時(2005年3月28日現在)1011人だった団員数は徐々に減少し、今年4月1日現在では853人に。かつて消防団を束ねていた元団員たちからは「少子高齢化の中、団員の減少に地域の衰退が重なる」と危惧する声が多い。
 纏振りを披露する機会も減ってきた。以前は消防団が火の用心の札を持って病院や大きな店などを巡り纏を振っていたが、現在は観閲式などわずか年2回。茂さんは「街中で纏を振っていた頃は練習機会にもなっていたが今はなかなか。伝統を伝えることも難しくなってきた」と時代の移り変わりを嘆く。
 同消防団の纏組は今年の立佞武多との共演が決まると、当日に向け、8人だったメンバーを増員。28歳から62歳までの21人で練習を開始した。練習も佳境を迎えた7月13日夕方、団員たちが歩幅やタイミングをベテラン団員に確認してもらいながら何度も纏を振る姿があった。
 同消防団の纏は頭に五所川原の「五」の文字があり、その上に消防作業に欠かせない「鳶口」を3本備えているのが特徴だ。重さは9・5キロ。同消防団が管理する10本の纏のうちベテランだけが持つことを許される纏が2本あり、頭の下に垂れ下がる馬簾(ばれん)は2連で重さは12・5キロにもなる。
 茂さんは「当日は纏を振りながらコースを練り歩く。体力勝負。春から加わった団員も練習で成果が出て良い仕上がりだ」と気合十分。
 竹内兄弟の本職は大工で、長年大型立佞武多の組み立てにも携わり、新作大型でも腕を振るっている。立佞武多との共演に義博さんは「面白い。ぜひやりたいと快諾した。20年という節目で纏にスポットライトが当たったことはうれしい」と語る。
 開幕が迫る祭りを前に2人は「『纏』の共演で祭りが盛り上がることを期待している。多くの人が消防団や纏のことを知り、祭りの元気とともに消防団も活気づいてほしい」と願っている。

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