絵はがきと古写真で見る 櫻と弘前公園

 

蓮のないハス池=15

2017/5/4 木曜日

 

 かつては辰巳櫓の下にも、ハスが咲き誇ったから、本丸西側の池だけの専売特許じゃない。しかし、馴染んだ名前なので、こう呼ばせていただきましょうよ。
 でもここですら、ザリガニの食害で全滅しかけたのですから、公園の整備に日々の苦労が尽きないのです。
 一枚目の絵葉書は、南側から護国神社方向を眺めたものですが、右の本丸側の土手は、チョット盛り過ぎかと思えるくらいに、ピンク一色に仕上げています。
 紅白の幕を飾った池の端の料理屋からは、さぞ見事な景色だったでしょうね。また北側の杉木立も、高く色濃く聳えていて、静寂な深山の趣きだったかも。
 二枚目は「弘前名所」の名で、昭和三年(一九二八)ころ、弘前市役所や髙橋写真館が発行人となったもの。もっともこの頃は、売れ筋の写真は何度も使用しているので、セット写真でも同一時期の撮影と決められないんだね。
 長坂の途中より、旧天守台下の北西を眺める光景で、左に広がる展望が半端じゃぁない。更に、満々と水を湛えているように感じるのは、右の汀線と岸に段差がなく、奥に伸びるからでしょうか。
 そして、蓮池の西側土手は、背の高い松並木ばかりが目立って、不思議なことに、満開であろう桜はないのかなぁ。
 チョイと謎っぽい絵葉書でしょ。

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追手門附近の変遷=16

2017/5/5 金曜日

 

 追手門そばの堀は、名残りの花筏でも知られる撮影スポットになっています。でも、一枚目の絵葉書を見ても、外堀に桜は植えられていなかったのですねぇ。
 明治四十一年(一九〇八)四月の新聞記事の『朝の公園』は、大手門を入れば古松が風を呼んで、西側の火薬庫の土居にはフキノトウの蕾が萌え出でるが、東側の兵器支敞の田打ち桜の芽は、まだ硬いといい、桜のコメントはないのです。
 また、かつて第八師団長官舎が建てられていた市役所本館の向かいの堀端は、桜がなくて、昭和三十六年(一九六一)に植えられました。ですから、旧公会堂前と比べると、太さが違っていますよ。
 二枚目の「総天然色」という雰囲気は、まったく自然じゃないけど、このように見えて欲しいという願望の表れですな。
 史跡標柱が建てられていないし、堀端も未整備。三の丸に図書館もバレーコートもなさそう。車止めもないし、土居にシダレ桜も植えられていないなら、いったい何時ころになるんでしょうかねぇ?
 堀端に、時計付きの看板が立てられたり、大型の園内案内図が設置されたりするのですが、この基本情報がないから、時期を特定できないでいます。
 観桜会の一世紀に合わせて、公園の移り変わりや、まちや人々の暮らしのことも、キチンと知りたいもんですねっ!

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三の丸南側の変遷=17

2017/5/6 土曜日

 

 

追手門から園内に進み、辰巳櫓の前を西に曲がって、杉の大橋を眺めた光景。
 中堀手前に柵もなく、花を咲かせた桜の間には、等間隔で植え足した若木がありますが、こちらに花はないようすです。
 更に、二の丸側の土手の中ほどにも、桜が植えられているのが見えますね。
 杉の大橋の橋脚が四本に増加し、筋交いも変わり、足もとは丈夫に補強。欄干も新しくなりました。この整備の契機は、明治四十一年(一九〇八)九月の、東宮殿下の東北行啓しかないでしょう。
 二枚目の絵葉書は、三の丸の兵器支敞側を眺めたもの。右側に電信柱が建ち並び、人混みの奥に木造の兵舎と歩哨所。
 桜は、天を突く勢いで枝を伸ばして、鈴なりに花を咲かせているし、土居の老松は、古城に古武士の風格を添える。
 振り袖姿のお嬢ちゃん、袴を身につけて制帽を被る兄弟など、子どもの姿も多く見られるし、ご婦人方は、定番のパラソルをかざしてのお花見なんですね。
 これには大正十三年(一九二三)四月と思われる、中国大連の消印がありまして、年賀の挨拶とともに転居を知らせる内容なんですね。中国大陸にいる同郷の友人と、故郷の観桜会の思い出を分かち合った、素晴らしい賀状でしょっ。
 私製の絵手紙や絵葉書でも、チョット書いてみようかなって気分にさせます。

 

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標準木のある内北の廓=18

2017/5/7 日曜日

 

 

 

 明治四十四年(一九一一)四月の新聞には、「大日本武徳殿青森縣支部演武場」と長い名前で紹介されています。
 開設当時の武徳殿に関する映像では、このほかに建物正面と、北側から敷地を撮影したのが知られているのです。
 旧藩時代には、四代藩主信政公の生母が住まいした御殿がありましたが、後に米倉が建ち並ぶ場所に変わりました。
 冠木門の両側に土居を巡らし、チョイと厳めしさを感じさせるここが、桜の開花を判断する標準木エリアなのです。
 この写真の中ほどを左手に曲がると、本丸へと渡る鷹丘橋が見えてきますが、その古写真が二枚目です。
 橋には欄干もなく、質素に素木で仕上げられており、本丸に平屋の店がみえるほか、端の右手が若木の桜なのでしょうから、大正時代の始めころかなぁ?
 左手には、内堀を距てて南内門を臨むことができる、なかなか凝った構図なので、別の種類の手彩色もあるほどです。
 また鷹丘橋自体も人気の撮影スポットで、館神跡や、その反対側から数多くの写真があり、見比べると、チョット不思議な感じがするのです。実は、むかしの鷹丘橋はもっと本丸側が高かったのか、内北ノ郭側が嵩上げされたのか、もっと急勾配に見えるのですがねぇ。
 公園の不思議が、ここにもあります。

 
※詳しくは本紙紙面をご覧ください。

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本丸でのお花見=19

2017/5/10 水曜日

 

 昨今では、企業の慰労会が行われているものか、よくわかりません。しかし、かつては花見に出掛けるのも、新聞記事になったものでした。
 観桜会が始まった翌年、大正八年(一九一九)八月に開業した、陸奥製糸株式会社。社長の福島藤助は、弘前商工会、弘前電燈株式会社、福島醸造など多方面に大活躍で、これらはすべてが観桜会に直接関係したものばかり。
 やがて大正十四年(一九二五)には、「陸奥製糸觀櫻會」「製糸場假装行列」などの見出しで紹介され、これを見物に出掛ける花見客も多かったはずですね。
 なおこの写真は、観桜会だけでなく、官立弘高開校式などでも人気を博した、高橋写真館の撮影なんですねぇ。
 お次は昭和三十二年(一九五七)ころの本丸光景。右手の丸太で組んだ仮設に張り巡らされた「吉野櫻」の幕の中が、公設の予約席、『団体接待場』でした。
 主なお客さんは、秋田や北海道からの企業や学校の団体さんで、まずは車座で座れる場所を確保できますよ、の趣向。
 すぐ脇には、家族連れや仲間同士での花見客が、持ち込んだ料理で宴会を開き、三味線を持った芸人も流しております。
 天守の窓が開いていますが、「弘前城史料館」として、郷土史ゆかりの品々が展示され、大人の入場料が三十円かな。

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