絵はがきと古写真で見る 櫻と弘前公園

 

スリや迷子にご注意=10

2017/4/29 土曜日

 

 新聞のコラムで目を引く「スリにご注意」の記事。六〇人ほどの在県A級スリの半数が、花見客の懐を狙って押し寄せるのだとか。昭和四〇年代には女スリが混じる集団もいて、県警の応援を得た専従捜査班が、園内などを警戒しました。
 カモになる人が、そんなに沢山いたのかとも思いますが、一枚目の人出を見れば、納得できそうな気がしませんか?
 こりゃぁ花を観るより、人を見る感じ。
 追手門に劣らず、北門前も大混雑で、玩具の出店に混じって、帽子の販売も。北の廓側に、まずはズラリと地酒の看板が、津軽は酒どころよっと、お出迎え。
 これじゃ、子どもと手を繋いでも離れちゃう。興行街や下乗橋前で、はぐれる子が多く、迷子預かりに出向く羽目に。
 大書で「迷子」の文字が目立ちますが、その場所は下乗橋前、観桜会事務所向かいの「迷子取扱所」なのね。日赤県支部や高校生の奉仕団が、むかしから汗だくの応対に追われておりました。
 それにしても、為信銅像の台座に腰を掛けたご婦人方は、膝に乳飲み子を抱えたり、みなさんお疲れのご様子です。
 きっと津軽のオドらは、カフェや食堂にでも入って、気炎をあげたり、くだを巻いているのかなぁ…消防団の姿があるのは、観桜会の併催行事で恒例の、連合消防演習でもあったのかもね。

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西濠の舟遊び=11

2017/4/30 日曜日

 

 弘前公園に出かける楽しみに、西濠のボートという想い出、ありませんかね?
 青森や八戸と異なり、身近に舟を見かけることもないので、あのボートは格別。
 西濠でいつから営業を始めたか、ちゃんと調べたことがないのですが、昭和二年(一九二七)に『進水式を行つた西濠の遊覧船』の記事がありましたなぁ。
 当初の乗り場は、春陽橋のたもとで、手漕ぎのボートのほか、船頭が操る屋形船風の大型も。こりゃ飲食は無理でしょうが、家族連れや芸者衆を引き連れて…なんて向きには、大層人気があったはず。六艘で始まった舟遊びは、夜十二時まで営業したそうで、この絵葉書は昭和一〇年(一九三五)ころと新聞にみえます。
 その屋根の上にまで乗り込んだ、総勢二〇人ほどのやんちゃな官立弘前高等学校生たち。でも、船頭もカメラ目線で、さほど驚くようすも見えないし、写真屋は手慣れた感じで、シャッターを切る。
 しかし、どこで、どうやって登ったんだろうとかが気になりますが、こりゃぁ恒例ってなもんで、名物船頭さんのサービスだったなんて情報はありませんか。
 この卒業アルバムの一枚は、安齋校長の写真も、前任の校長として収録されているので、昭和十二年(一九三七)前後に入学された方でしょうか。
 若き青春の日、って感じですね!

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児童公園の変遷=12

2017/5/1 月曜日

 

 公園の中で、変化が少ないと思われるのが、丑寅櫓そばの児童公園。絵葉書の丹頂鶴はいませんが、築山には珍しく、二宮尊徳翁の少年像が立っています。
 かつて学校に作られた理由は、寸暇を惜しんで勉強する姿の大切さのほかに、メートル法を体感するため、像の大きさを一メートルにしたなんて話もあります。
 でもこの初代の像は、昭和一〇年(一九三五)四月に、弘前商工會が「公園二の丸小庭園」整備として寄附の唐金製。その高さはなんと七尺、二倍もデカイ。南側から撮影した映像しか知らなかったので、この絵葉書には驚きましたよ。
 昭和三十四年(一九五九)に、緑化計画で池は埋め立てられ、噴水なども姿を消しました。これが大石武学流で知られる外崎寅吉が、想い出に残る庭として語っている当時の姿なのです。なお、築山の東に、当時の銘板だけが残っています。
 もう一枚は、昭和二十八年(一九五三)ころ、北側から南西を撮影したものです。お父さんたちは背広にネクタイ、ご婦人方は髪を結い上げ、子どもらは一張羅の洋服、帽子でおめかし。こりゃ帰りに、写真館で記念撮影しなくっちゃ!当時の写真館では、天守と桜を描いた背景紙を用意して、お客を待ち構えていました。
 園内各所に設置されたベンチなどは、「人研ぎ」という、左官職人の得意技。

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出店風景の変遷=13

2017/5/2 火曜日

 

 いまでもニュースになるのが、観桜会の出店の受付開始。桜の剪定枝の配布に続き、まつり開始も直ぐそこって感じ。
 子どものころ、花よりも出店が楽しみで、貯金箱のマッコを数え直したもの。
 一枚目は東内門番所前で、正面に進むと北の廓の興行街。右の松はないけど、遠望の松には名残があり、いまは右側にオオヤマザクラや生垣がありましょう。
 出店の場所が固定していた方が、目当てのお店に辿り着けると、ここは佐久間製菓お馴染みの場所であったようです。
 左の出店は、映画『火垂るの墓』にも登場の、懐かしいサクマ式ドロップス!子どもたちの服装も、特徴がありますね。
 お次は、本丸の出店の写真。まだ夜間照明灯の鉄塔が残り、ツツジの植栽ないので、園路の整備が始まっていない昭和三十四年(一九五九)以前でしょう。
 キリリと捲いたタオルが似合う、くわえタバコのおっさんが店主かなぁ。何を販売しているのか、「東洋食糧工業株式会社」のビスケットとは思えないのですが、お父さんは興味がありそう。
 紳士諸兄は厚手のオーバーに帽子で、ご婦人は髪を編み込んだり、しっかりとコテを当てたばかり髪型に、羽織を着ての和装。女の子はおかっぱ頭で、男の子は坊主頭というのが、当時の出で立ち。
 なんとも穏やかな日本の春ですねぇ。

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桜のトンネル以前=14

2017/5/3 水曜日

 

 公園の中でも、時代の変遷が整理されていないのが、西濠や二階堰のこと。
 追手門前や本丸・下乗橋附近と異なり、チョイと目立たないというか、馬屋町の旧埋門から園内に入る人は、多くなかったのでしょう。このために、映像資料も少なく、撮影時期もハッキリしません。
 一枚目は南側から「花のトンネル」を眺めたもので、左端から西濠、二階堰、養魚場跡から蓮池の順だと思うのです。
 ここに桜が植えられたのは、明治三十六年(一九〇三)四月、内山覚弥が寄附した百本だといわれていますが、西濠も二階堰も、桜は西側に植えられ、東寄りは古い松並木なんですねぇ。それでも、桜は大きく枝を広げ、天守や城門が国宝に指定された昭和十二年(一九三七)の記念絵葉書附属の花見順路図に、「花のトンネル」が記載されていますよっ。
 お次は、『弘前名勝 美人絵葉書』と銘打った絵葉書で、場所はもう少し北に進んだあたりでしょうねぇ。
 二階堰の岸は、まったく手が付けられない自然のままで、せせらぎの音が聞こえてくるような趣きも感じさせます。
 西の廓へ桜の植栽を拡充させたのは、内山が鍛治町出身との縁で寄附を申し出た、福士忠吉のお陰。昭和二十九年(一九五四)から三年ほどで、千五百本もの植樹をした逸話は、語り継ぎたいですね。

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