絵はがきと古写真で見る 櫻と弘前公園

 

下乗橋の変遷=2

2017/4/21 金曜日

 

 弘前公園の撮影スポットの代表といえば、どなたにも朱色の下乗橋から眺める白壁の天守と納得いただけましょう。
 でも明治時代だって、下乗橋は朱赤ではなかったし、親柱に下乗橋の名乗りを書いていた訳じゃぁないのであります。
 明治二十八(一八九五)年五月、弘前公園の開園にあたり、梁・桁材は旧藩のままながら、長さ八間、幅三間の敷板と欄干の取り替え後の絵葉書があります。
 このときの親柱は角柱で、手彩色の資料を見ても木肌地の仕上げで、擬宝珠も取り付けられていないんですね。
 同四十一(一九〇八)年九月には、公園の雅名である鷹揚園の名付け親になられた大正天皇がお出掛けされ、当時の絵葉書には、「皇太子殿下台覧 公園旧城天守閣」と誇らしげに添えられました。
 いまのように朱赤になって、丸柱に擬宝珠があるのは、大正四(一九一五)年四月の架け替えによるもの。九月には、かつての東宮殿下が大元帥陛下として、特別陸軍大演習の統監のために来弘されるから、思いっきり張り切っちゃった。
 下乗橋北側の近くには桜がまばらで、その奥の二の丸丑寅櫓の方には、紅白の幕が回されて賑わいを感じさせます。
 下乗橋の次の架け替えの写真は、昭和二〇(一九四五)年というのを持っていますが、ほかに工事をしたのかなぁ?

∆ページの先頭へ

杉の大橋の変遷=3

2017/4/22 土曜日

 

 あまた溢れる、弘前公園の観光絵葉書ですが、いくらかでも撮影時期が特定でき、時代の変化を辿れるのが杉の大橋。
 下乗橋に次ぐ撮影スポットで、明治三十九年(一九〇六)九月に開催された、藩祖津軽為信公三百年祭の和徳町の行列絵葉書が有名です。これにより、三本の橋脚には筋交いがあって、欄干は飾り気のない、横木を渡したものでした。
 また三の丸側の堀端には、支柱を添えられた桜の若木も見てとれますし、現在の市民広場側に土塁が巡らされていて、そこに松が植えられていたんですねぇ。
 やがて橋脚が四本に増え、欄干に筋交いが入れられますが、実は欄干の筋交いだけが白く×印のようで、手すりが赤く塗られた絵葉書もあるんですねぇ。
 昭和十五年(一九四〇)四月、本丸に格式を付けるのだとの理由で、下乗橋と鷹丘橋だけが朱色のペンキで化粧直し。
 そして杉の大橋は、桜との調和を考えた結果、空色にされたと新聞記事にあるのですが、もう一枚がその光景。再び朱塗りに戻るのは、十四年後かしらん。
 また東側だけではなく、西側から杉の大橋を手前に写し込んで、三の丸の兵器敞を臨む写真も多く見られます。これらのいずれも、背景には背の高い立派な松があり、公園が明治時代に「松の城」と称されていたこと、納得できましょっ。

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5 6 ... 11