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今年、100年の節目を迎える弘前さくらまつり。市民はもちろん、訪れた人すべてを魅了する「櫻と弘前公園」の移り変わりを元弘前図書館長の宮川慎一郎さんが、所蔵する貴重な写真を基に紹介する新連載。存分にお楽しみください。
2017/4/20 木曜日
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今年、100年の節目を迎える弘前さくらまつり。市民はもちろん、訪れた人すべてを魅了する「櫻と弘前公園」の移り変わりを元弘前図書館長の宮川慎一郎さんが、所蔵する貴重な写真を基に紹介する新連載。存分にお楽しみください。
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雪洞と書くというけど、これで「ぼんぼり」とは、なかなか読めないのです。しかし、桜樹の間に立てられた風情は、艶やかな桜の色香を、確実に盛り上げていると思うのですねぇ。
まずは、追手門より園内に入り、左手に折れて、三の丸植物園の方向を振り返る構図の、手彩色の絵葉書をご紹介。
ずらりと並んだ雪洞は、いまとは違った逆台形で、商店名が書かれています。手前は「ライジングサン石油會社」で、青森・野内の石油タンクでお馴染かと。
その奥には、弘前市内に店舗を構えた「髙橋寫眞」。大正一〇年の官立弘前高等学校開校式の写真などで知られますね。
かつての三の丸には、兵舎などが建ち並んでいましたが、右隅には兵器庫正面前の、六角形の白い哨舎が見えます。
やがて見慣れた形になるぼんぼりは、会社名などの宣伝広告が書かれないで、無地の時代が長かったようですぞぉ。
そして西濠に登場したのが、昭和二年に東京市場でキッコーマンと商標統一した、メーカーの広告。お化けだと名物に。奥に見えるのは「弘前觀櫻會」の立看板。昭和二年に弘前駅前に登場し、夜間にはイルミネーション点灯で、一段と華やか。
ここは、消防団の春恒例の放水演習の会場にもなり、勢いよく吹き上げる水柱は、大いに人気を博したものでした。
2017/4/21 金曜日
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弘前公園の撮影スポットの代表といえば、どなたにも朱色の下乗橋から眺める白壁の天守と納得いただけましょう。
でも明治時代だって、下乗橋は朱赤ではなかったし、親柱に下乗橋の名乗りを書いていた訳じゃぁないのであります。
明治二十八(一八九五)年五月、弘前公園の開園にあたり、梁・桁材は旧藩のままながら、長さ八間、幅三間の敷板と欄干の取り替え後の絵葉書があります。
このときの親柱は角柱で、手彩色の資料を見ても木肌地の仕上げで、擬宝珠も取り付けられていないんですね。
同四十一(一九〇八)年九月には、公園の雅名である鷹揚園の名付け親になられた大正天皇がお出掛けされ、当時の絵葉書には、「皇太子殿下台覧 公園旧城天守閣」と誇らしげに添えられました。
いまのように朱赤になって、丸柱に擬宝珠があるのは、大正四(一九一五)年四月の架け替えによるもの。九月には、かつての東宮殿下が大元帥陛下として、特別陸軍大演習の統監のために来弘されるから、思いっきり張り切っちゃった。
下乗橋北側の近くには桜がまばらで、その奥の二の丸丑寅櫓の方には、紅白の幕が回されて賑わいを感じさせます。
下乗橋の次の架け替えの写真は、昭和二〇(一九四五)年というのを持っていますが、ほかに工事をしたのかなぁ?
2017/4/22 土曜日
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あまた溢れる、弘前公園の観光絵葉書ですが、いくらかでも撮影時期が特定でき、時代の変化を辿れるのが杉の大橋。
下乗橋に次ぐ撮影スポットで、明治三十九年(一九〇六)九月に開催された、藩祖津軽為信公三百年祭の和徳町の行列絵葉書が有名です。これにより、三本の橋脚には筋交いがあって、欄干は飾り気のない、横木を渡したものでした。
また三の丸側の堀端には、支柱を添えられた桜の若木も見てとれますし、現在の市民広場側に土塁が巡らされていて、そこに松が植えられていたんですねぇ。
やがて橋脚が四本に増え、欄干に筋交いが入れられますが、実は欄干の筋交いだけが白く×印のようで、手すりが赤く塗られた絵葉書もあるんですねぇ。
昭和十五年(一九四〇)四月、本丸に格式を付けるのだとの理由で、下乗橋と鷹丘橋だけが朱色のペンキで化粧直し。
そして杉の大橋は、桜との調和を考えた結果、空色にされたと新聞記事にあるのですが、もう一枚がその光景。再び朱塗りに戻るのは、十四年後かしらん。
また東側だけではなく、西側から杉の大橋を手前に写し込んで、三の丸の兵器敞を臨む写真も多く見られます。これらのいずれも、背景には背の高い立派な松があり、公園が明治時代に「松の城」と称されていたこと、納得できましょっ。
2017/4/23 日曜日
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弘前公園で、明治時代以降に植えられた桜の古い木は、東内門の番屋そばとか、公園緑地課脇だといわれています。
まずは本丸一帯に桜を植えて、ぱぁ~と華やかにしよう!と思いがちですが、旧城の威容を損なわないように、先人はいろいろと配慮をしたのでしょうね。
一枚目は、観桜会が始まる前年、大正六年の新聞に掲載されている写真に、手彩色した絵葉書です。中央に明治四十二年(一九〇九)九月に除幕式を終えた、藩祖津軽為信公の銅像。左端は大正四年(一九一五)一〇月に建立の鷹揚園碑で、間に夜間照明のアーク灯が立ちます。
本丸の北東や南西隅の桜は、枝を大きく延ばしていますが、園路の整備はなく、銅像東側の桜はまだお若いご様子。
二枚目の絵葉書で、中央の鉄塔に先に見える四角なものは、スピーカーかな?
すでに、昭和二年(一九二七)の観桜会で、「無料の活動やラヂオ」が、お客を呼び寄せたといいますからねぇ。
本丸中央の桜は、傍の松に互して見事に花を咲かせていますから、桜の枝を折る不心得者もいなかったのでしょう。
左のコンクリート製の柵は、二の丸にも設置され、柵木が木材から鉄に変えられるのは、昭和七年(一九三二)の工事から。そして、左官業組合のご奉仕による、モルタル製擬木に変わりました。