「津軽さくら物語」 誕生秘話

 

植樹続けた親友の死=1

2017/2/18 土曜日

 

 芸能生活40周年を迎えた歌手川中美幸さんの新曲「津軽さくら物語」が22日、弘前さくらまつり100年を控える絶好のタイミングでリリースされる。平川市のこども園あらや園長斎藤千恵子さんが他界した親友への思いを込めた歌詞に、むつ市出身のシンガーソングライター板橋かずゆきさんが曲を付けたもので、大物歌手がCD化するという大きすぎる夢の実現には「亡き親友が導いてくれた」(斎藤さん)と思わせる奇跡のような物語があった。(以下文中敬称略)

2007年5月に道の駅いなかだてで桜の植樹を行った須藤詩子さん(右から2人目、遺族提供)

 斎藤には保育園長、声優、劇団代表―と多彩に活躍するアクティブな印象があるが、20年近く前に心労が重なって弘前市内の医院に入院したことがある。後ろ向きになりがちだった斎藤を親身になって励ましたのが、婦長の須藤詩子だった。
 須藤はボランティア団体「桜舞くらぶ田舎館」代表として田舎館村の道の駅で桜の植樹活動を続けていた。優しい看護師姿と地域活動に励む姿から、斎藤は「ナイチンゲールのような人」と尊敬。次第に信頼を深め、互いの活動を応援するようになっていった。
 ところが2007年12月ごろから突然、須藤と連絡が取れなくなった。年末に須藤からの電話で、すい臓がんで入院していると聞かされ、すぐに見舞いに行った斎藤。須藤から「悪い所を全部取ったから大丈夫」と聞いたのに加え、退院後の08年春も植樹を行ったことを知り安心した。
 斎藤への手紙に「健康を祈って植樹した。桜を植えることは、命を植えるのと同じと聞いたことがある」という内容がしたためられていた。元気だった06年、須藤は本紙取材に「植樹を通じて、子どもたちに命の大切さを学んでもらいたい」と話している。どちらも看護師として尽くしてきた人らしい言葉だ。
 植樹の約3カ月後、須藤は他界した。最後に植えた桜に、自身の命を託したと考えることもできるが、斎藤の見解は違う。子どものことを心配し、死ねないという気持ちが大きかったのを知っていたからだ。桜と一緒に生き続けようと病魔と闘った姿が、斎藤の頭を離れなかった。

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つづった思いに曲を=2

2017/2/19 日曜日

 

須藤詩子さんの写真を眺め、当時を思い出す斎藤千恵子さん

 斎藤千恵子は入院中の心の支えで、退院後に声優という新しい世界へと背を押してくれた掛け替えのない親友を失った。もともと感受性が強く涙もろい斎藤である。心の穴は決して小さなものではなかった。
 須藤詩子が亡くなった翌2009年。「桜が好きだった彼女(須藤)への思いがあふれてきた」と、斎藤はペンを手にした。道の駅を桜でいっぱいにしたいと活動していた姿を思い起こしながら、須藤への素直な気持ちを文字にしていった。「桜が咲いたよ 君の好きな」「桜の街には愛がある そういう君は 頬そめる」
 そして「桜羽(さくらばね)で降りて来い もう一度逢(あ)いたいよ」と続く。須藤が命を込めて植えた桜花の羽を背に、大好きな桜を見に舞い戻ってきてほしいというかなわぬ願いが、切なくつづられている。
 斎藤は「盲目のシンガーソングライター」として知られる板橋かずゆきに「つたない歌詞だが、曲を作ってほしい」と依頼した。斎藤は板橋の音楽活動を支援するなど交流があった。作曲を快諾した板橋。受け取った歌詞を読んだ第一印象は「亡くなった恋人との、弘前さくらまつりの思い出かなと思った」と明かす。
 作曲作業は1週間悩み続けることもあるというが、この曲は1日で作ることができた。斎藤が歌詞に込めた「大切な人」への気持ちが、板橋の心の中にストレートに伝わったようだ。これまで500曲ほどを作曲しているが、基本的には自身が歌うためのフォーク調やロック調の曲ばかり。しかし、この曲はそうならなかった。
 歌詞や斎藤のイメージから出来上がったのは自身のスタイルとは違う演歌調。デモテープを渡すと斎藤は「私の思いに沿って作ってくれた。これで詩子さんが曲の中で生きてくれる」と大いに喜んだ。
 板橋は「僕がライブで歌ったり、CDにしたりする歌ではない」とステージで披露することなく、「津軽さくら物語」はお蔵入りになった。それでも「親友との思い出になれば」と考えていた斎藤にとっては十分だった。(敬称略)

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初披露が運命変える=3

2017/2/20 月曜日

 

作曲した板橋かずゆきさん。演歌調の曲になり、当初は「大物歌手が歌ってくれればとは思ったが、夢のまた夢」と語っていた(板橋かずゆきオフィス提供)

 東京都渋谷区で川中美幸が営む「Barまいどおおきに」の店内にはライブができるスペースが設けられている。才能がありながら世に出るきっかけに恵まれないミュージシャンら表現者たちにチャンスを与えたいという川中の強い思いを形にしたものだ。
 2014年11月。板橋かずゆきはその会場にいた。友人のライブがあったためだ。ライブ終了後、川中が客として会場にいるのを板橋のマネジャーが見つけた。マネジャーはとっさに川中に駆け寄り「板橋かずゆきというシンガーソングライターがいる。ぜひ、ここで演奏させてほしい」と申し出た。
 大物歌手にいきなり声を掛ける失礼を忘れ、ただ板橋をステージに上げる機会をつくりたい一心だったという。むつ市出身で「盲目のシンガーソングライター」として活動していることなどを説明すると、川中は出演を快諾。マネジャーの機転と熱意で、板橋は思いがけず最初のチャンスを手にした。
 そして翌年4月17日に、単独ライブが実現した。川中は仕事があり、会場にはいなかった。自身の歌を披露していく中で、これまで「演歌調なので、自分が歌う歌ではない」とライブで披露することもなく、作詞した斎藤千恵子も「親友との思い出」として胸にしまい込んでいた「津軽さくら物語」を思い出した。
 「ちょうど桜の季節。大物演歌歌手の店だし、歌ってみようかな」と、ギターを手に初めて人前で歌い始めた。しゃれに近い軽い気持ちだったという。「大物演歌歌手が聴いていると思うと、緊張してしまう」と考えていた板橋が演歌を歌おうと思ったのは、川中が会場にいないからであるのは言うまでもない。
 しかし、実は仕事が早く終わった川中が訪れ、静かに板橋の歌を聴いていた。目が不自由な板橋が客席にいる川中を見つけられるはずはなく、聴衆も板橋の歌に聴き入っていたため気付かなかった。
 川中がいないからと気軽に歌ったことが、この歌の運命を大きく変えることになろうとは予想すらしなかった。(敬称略)

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お蔵入りの歌に光差す=4

2017/2/21 火曜日

 

偶然の縁でジョイントライブを行うようになった川中美幸さんと板橋かずゆきさん(板橋かずゆきオフィス提供)

 板橋かずゆきがライブのアンコールを終えると、川中美幸はステージに向かった。会場にいないはずの川中が姿を見せたのだから「僕もお客さんもびっくりした」。川中はライブの打ち上げにも参加。そこで驚きの言葉を口にした。「いい歌。CDに入っているなら買いたい」。CD化されないことを知り「CDになる、ならないを別にして、歌いたい」と、直感的に思った。お蔵入りの歌に光が差した瞬間だ。
 川中の母の体調が悪く、気持ちが落ち込んでいた時期。しかも芸能生活40周年という大きな節目を控えていた。そして「亡くなった父はどんな気持ちで空から見ているだろう。もう一度、会いたい」と歌詞に気持ちを重ねた。川中の目から涙がこぼれた。
 単独ライブから約半年後、板橋と川中のジョイントライブが始まった。そこで川中による「津軽さくら物語」を披露。ここからCD化の話が一気に進むことになる。川中は「歌うことで、一字一句、深くなっていく自分がいる。今までの作品とは違う」とし、40周年の節目に「新しい川中美幸」を表現できることを喜ぶ。
 偶然の重なりで、つながりが生まれたことを実感し「ご縁ってすごい」と、しみじみと話した川中。心を動かす歌詞を書いた斎藤千恵子の印象を「歌詞から熱い思いを感じる。温かく、懐の深い方」とし、曲を付けた板橋については「良い歌を世に出したいという板橋さんの夢を手伝わせてほしい」と話した。
 縁を感じているのは川中だけではない。斎藤は「須藤詩子さんの力かもしれない。歌でもう一度生きたいと、導いてくれたよう」と。「大物に歌ってもらえればいいな」と冗談っぽく話していた板橋も、自身の曲が初めてメジャー発売されるのだから当然である。
 発売される22日を控え、川中は「1、2回聞いて飛び付き、カラオケで歌われる歌ではないと思う。しかし何度も聞くことで、必ず人の心に受け止められる」と魅力を説明し「大事に長く歌っていきたい」と加えた。春の定番曲になるよう、育てたいと考えているからだ。
(敬称略)

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歌に生き続ける母の姿=5・完

2017/2/22 水曜日

 

きょう22日発売の「津軽さくら物語」のジャケット(テイチクレコード提供)

 「津軽さくら物語」は、川中美幸の芸能生活40周年を記念した「美幸のうたの旅人シリーズ」第1弾と位置付けている。歌詞のきっかけになった須藤詩子の長女雅子は「最初は驚いたが、とてもうれしかった」と、52歳の若さで他界した母親を思い出して涙ぐみながら声を絞り出した。
 須藤は桜への思いが人一倍強く、代表を務める「桜舞くらぶ田舎館」の桜植樹や、姉妹クラブ「桜舞くらぶ」が行う弘前公園の桜の保護・PR活動などに積極的だった。2007年末に胆石の手術を行って初めて、膵臓(すいぞう)がんが見つかった。この時点で他への転移が認められ翌年、看護師として人のために生き、桜でいっぱいの街を夢見た生涯を閉じた。
 「看護師だったこともあるだろうが、自分より他の人を気に掛ける人。家では私たち家族を大事にしてくれた」という。誇りにする母親を失ったショックから立ち直れずにいた雅子だが「母がやってきたことが歌に残っている」と、CD化に関わった人たちに感謝した。歌の中で生き続ける母親を感じたことで、悲しみが和らいだようで「私と同じく、大切な人を亡くした人を元気づける歌だと思う。多くの人に聞いてほしい」と話した。
 弘前市や弘前観光コンベンション協会などが、始まってから1世紀になる弘前さくらまつりをどう盛り上げるか検討している中で決まったCD発売。歌詞に弘前城や長勝寺が登場し、2月22日というリリース時期も春の旅行を計画している人たちへのアピール材料になり得るとみられる。
 同協会は「弘前の桜が前面に出された歌は少なく、しかも川中というビッグネームが歌う効果は大きい」と期待し、初の「推薦曲」にした。弘前の桜を見たことがない川中自身も「プロモーションビデオに弘前の映像があり、私も弘前さくらまつりを見たくなった。この歌でたくさんの人が、弘前に行ってみようと思ってくれればうれしい」と話した。
 多くの縁をつなげ、歌に姿を変えた須藤。この世を去っても白衣の天使として人の心を癒やし、日本一と称される弘前の桜をPRし続けている。

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