「アイ染め 津軽の民芸」の連載記事
本紙掲載「アイ染め 津軽の民芸」から

 民衆の生活の中から生まれ、用途の合理性と利便性を追求しながらも、心の余裕がある民藝は、大好きです。
 本当によいものは、手間が掛かり、それを生業として生活してゆくためには、価格が自然と高価にならざるを得ないのです。
 残念ながら、経済的に余裕のない身には、真に一流のものを誂えることもできず、されど、まがい物で誤魔化してしまうのも厭。
 『アイ染め 津軽の民芸 藤崎の唐牛さんに聞く』は、貴重な連載だと思うのです。
 なんといっても、冒頭の『藤崎町はかつて津軽のアイの生産地』ということから知らなかったもんねぇ。
 このお宅は、明治三十五、六年ころまではアイ玉を生産していたという。取材当時で、すでに七十歳の奥さんが、自身の嫁入りの着物を見ながら、「七十年寄りになったいま着てまだ地味なくらい」と語るほど、むかしの着物の染めは質素。
 津軽の農家は、自給自足のためにアイ草を植えたが、大量に生産したのが藤崎町。
 唐牛さんによれば、質が悪いと、よい色に染まらないばかりか、変色しやすく、藤崎の土壌は栽培に適した。
 アイ草はお盆ころが収穫期で、しかも短期に作業が集中するので、お盆休みがなかった。
 『盆ニ休メネ藤崎ダバ嫁ニヤルナ、娘カワイソウダデァ』と、嫁入りを嫌ったという逸話も収録しています。
 アイ草は刈り取って乾燥させ、乾いた葉を粉々にしたのがアイの粉。これを発酵させ、餅のように臼で搗いてアイ玉を作る。
 アイ玉を商いにするには、粉の見分けが重要。畑による違いや最初に刈ったものか、二番目のものかなどを瞬時に見極め、うまく発酵させる技が大事。
 明治三十年、弘前にインド産が入ると、変色しやすいものの安価が魅力で流行。続いて三十六年、ドイツから化学染料が輸入。
 唐牛さんが弘前の紺屋に下宿していた三十八年に、関東から来た旅回りの紺屋職人が、新技術を伝えた。
 当時は、六反の厚物の糸染め賃が四円。化学染料を使うと、一円の経費で済み、その後にアイ染めで仕上げたら、見た目は変わらなかったという。こうして繁昌した紺屋は財を成し、同業が秘密を知ったのは、四年も後。
 青森県民芸協会の相馬貞三氏は、唐牛さんが所蔵しているフトンなどを見て『津軽のアイ染めはいままで世間に知られているものにまさるとも劣らない私は津軽のアイ染めをみなおした』と感嘆。
 ホント、実物に会いたくなっちゃうぞぉ!
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)