続々俗々 まちネタ散歩!陸奥新報

 

弘前のラジオ小史=4

2016/9/21 水曜日

 

玄関に貼られた聴取章
第二放送開始を報じる本紙

 絶対唯一無比…なかなかこんなものに出会うことはできないし、多くの場合には、選択肢があった方が楽しいといえるでしょうね。
 弘前でラジオ放送が始まったのは、昭和十三年二月二十一日の午後六時のこと。日本放送協会弘前放送局から全国最小の五十ワットの出力で、県立弘高女・私立弘女・和洋女などの皆さんによる、君が代斉唱が流れたって。
 ニュースが身近になる一方で、国策による新聞統制が行われ、弘前新聞も十六年末には廃刊になってしまう。
 そうして、戦後の昭和二十一年九月一日から発行されたのが陸奥新報なのですよねっ。ですから、ラジオ放送開始の記事はないのですが、『弘前放送局 第二放送局あすから開始』の記事は、二十五年四月に登場します。
 この記事に注目するのは、放送が始まって以来、十三年間の歴史を要約しているから。
 弘前放送局の建設は十二年五月十一日から着工し、十月二十二日に竣工。本放送は五月二十八日からなんてのは、普通の年表じゃぁ書いていないでしょ!
 また、東北で秋田・山形に次いで放送を開始した最小規模の弘前ですが、これは放送協会の緊縮政策によるもので、同時開局の釧路・松本が小さい局舎。
 その後に開局した盛岡・福島・郡山・青森・鶴岡は、設備的に有利だったらしい。
 開局当時の聴取者は四千にも満たなかったが、いまでは四万五千戸、二戸に一戸の割合で普及したそうです。なぜラジオの普及率がわかるかって?テレビのように受信料を支払わないといけなかったし、聴取章というのを玄関に貼ったんだよ!
 それではどんな番組だったかというと、希望の多かった野球中継や、宗教の時間、女性の時間、学生の時間とか演芸会などでした。
 放送時間は午前六時から午後十一時までなのですが、『弘前放送局から電波を折り込むのは九時三十分からの告知板』というのも、なかなかの表現ねっ。
 ここで問題になったのが、手許のラジオで放送が聴けるかと。
 古いラジオでは混信してしまうために、調整が必要ですと説明。
 そこに『弘前こども会 千葉壽夫』が安心感を与える寄稿かな。『私のラジオは太平洋戦争初期に三十五圓(だったと思う)で買った甚だ安物のラジオである。(どうせ、まわしたって、安物のラジオでは第一放送以外の放送が入る筈がないのだ)と思っている私同様のラジオの所有者はダイヤルをまわして「ふう~ん」と悦に入る楽しみも増える…」、期待感がわかります。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載 この商売をまもる=5

2016/9/22 木曜日

 

蹄鉄業を営む福士龍之助さん
人力車の仕事について報じる本紙

 半世紀以上も前に、消えゆく職業を記録しておこうという企画って、お見事でしょ。
 養生中の秩父宮殿下の下に参じた紺屋町の福士龍之助さんは、この連載にもご登場されていたのですよぉ。
 秩父宮殿下が在弘中にお近づきになった、民間人の第一号と評されるほどの方。妃殿下が相好を崩して大声で笑わせたというから、その信は篤かった。
 十四歳で奉公に出され、東京獣医学校の訓練を経て獣医務曹長に進級後に除隊。富士見橋のたもとに開業したのは蹄鉄業なんです。
 本業の蹄鉄業は弟子を三人も雇い、年中忙しかったというが、戦前の春先き、田植え後には一日に五十頭が。冬には、夏用から滑り止めの付いた氷上蹄鉄に取り替えるので、仕事を断ったほど。
 馬がめっきり減ったのは、昭和三十年ころからで、農業の機械化、自動耕耘機の出現が影響したため。砂利採取が盛んになったので、かろうじて仕事になっている昭和三十六年。
 いまでは競馬界の、装蹄師しかないと思うくらい貴重でしょ。
 このシリーズに登場しなかった人力車の話だって、二十五年に記録されているのです。
 『かじ棒握って四十五年 まだ十年は稼げるよ』が見出しだよ。
 組合には二十二歳の若い者から、中畑組合長が六十七歳で、最年長は六十九歳の工藤兼吉さんまで、総勢二十五人が在籍しました。
 むかしのお客は、大旦那や貴婦人だったのが、最近では病人とか荷物を持ったご婦人に様変わりの時代です。
 いまなら観光地で、イケメンガイド…なんて想像しちゃうけど、紙上の外崎柾吉氏さんは大ベテランねっ。
 そんな外崎さんが誉れと思ったのが、弘前駅から茂森の仏舎利塔への行列だったかも。
 建設が全国で行われた忠霊塔。弘前市のは完成が遅れ、二十一年十一月に完成。そこに二十三年に仏舎利を奉安したので改称し、玄奘三蔵の霊骨をも合祀したんですよねぇ。
 以前の「まちネタ散歩」をお読みになったご遺族からは、掲載写真を拝見させていただき、至福の思い出。
 いまや、曳屋の天守が望めるというので、新名所になった禅林広場で、埋もれた歴史を再認識するのもいいかも知れませぬぞぉ。
 ここは、築城の候補地に挙げられたこともあったとか、太郎・次郎の兄弟杉のことや、赤門も実は下寺の黒門と呼ばれていたって、紹介済みだよねぇ。
 キチンとした取材に基づく連載は、時代を超えて私たちに郷土の姿を教えてくれる、偉大な道標です。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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うき世アラベスク=6

2016/9/23 金曜日

 

弘前駅前の客馬車・トテ馬車風景
本紙連載のうき世アラベスク

 この「まちネタ散歩」も、実のところ、モノゴトの新旧というか、対比をしているようなモノであります。
 時の彼方に過ぎ去って、変わってしまったモノもあれば、相も変わらずに繰り返される人生ドラマもある。
 そんな『まゝならぬうき世の裏表』を、ペンとカメラで追ったのが、昭和二十七年正月元旦からの連載です。
 『大きい・小さい』の見出しが、初回の話題。『何時の世も浮世の嘆きは金詰りだがこんな大人達の嘆きをよそに最近軌道に乗つて来た各地の子供銀行』のオーソリテイが、第一大成小学校という。
 現在の預金者は一千百二十七人で、預金総額は百三十三万円余。『一人で子どものクセに一万五、六千円の通帳を持つているのもあつて大人の気も知らぬ気な大景気振り』と。
 まぁ、なんともストレートな記事を締め括るのが成田我洲の句。『金詰りせゝら笑つた子の預金』うぅ~ん。変わらないかもなぁ。
 小さいという話題には、『裏山で猿が戯れる山村にもこの音は絶えないのである』の、パチンコ。弘前市内には約七十軒、三千台があるらしい。しかし、純益は二割で、人が入るほど損をすると。
 残念ながら、新聞が破れていて、記事の全容は確認できませぬ。
 『太い・細い』では、バレエ教習所で「太い」を探す話を『太い奴』と前振り。『バレエをやれば脚が細くなると思つてくる人が多い』が、『バレエはまず腰を細くしますね。そうすれば自然脚も…』だそうでございます。
 『古い・新しい』では、弘前駅前にズラリと並んだ馬車が話題。『ハイヤーやバスには目もくれず真直ぐに馬車に乗り込む異国人も少なくないとか、それに何処の小路でも入つて行つてくれる便利さがある』。へぇ、通路の制限はなかったんだと、思わず新知見だしロケに来た三船敏郎、杉葉子さんもお気に召したとて滞在中は連日この馬車を愛用した、それだけ魅力的なものらしいだってさ
 『廣い・狭い』では、『「きく顔」ではなく「広い顔」』として登場の中原康静さん。
 ご本人にお会いになった方も、いまでは少なくなったろうが、『弘前市下白銀町石中先生行状記の中村金一郎様事中原大親分様』という紹介でご理解を。
 かねてからの石坂洋次郎との縁故で、「石中先生」のモデルとなり彼のいる場所にはいつでも笑い声が響いていたと評された
 かくはのエレベーターガールに、「履物は脱ぐんだべが?」と、声を掛けた茶目っ気の親爺だったなぁ~。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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