続々俗々 まちネタ散歩!陸奥新報

 

続 つわものどもが…=3

2016/9/20 火曜日

 

第八話登場のかつての師団司令部
御幸町の偕行社

 むかしに「弘前の軍都・学都ツアー」をしたことがある。その後、この企画がどうなったか、教えてくれないから、止めたのかもね。
 この連載は、ツアーの際に紹介もしたし、意外とご存じかなぁ。
 さて、第八話は師団司令部。百二十年前の明治二十九年に、師団の設置が決定され、翌三十年に総司令部が出来てから、経理部の建物が火災で焼失した以外、弘前大学農学部が使用していたってさ。
 ささやかな疑問ですが、なぜ師団長官舎が公園の傍なのに、司令部が文京町と離れているんだろう。その答えとは「最初は公園に白羽 断わられ今の場所に」の見出しです。
 九話は、この北側にあった憲兵隊。現在は外国人教師館が移築された場所に建っていたのが、憲兵隊官舎。
 原ヶ平の弘前射撃場が次に登場し、輜重隊がお次の話題。なかなか読みにくい漢字が並ぶが「しちょう」ね。
 兵舎は第四中学校の第二校舎になったが、その前は清水中学校の校舎にも使用された。
 第十一話は被服敞。文京小学校地になっているけど、記事には『弘前実業高校と千年中の校舎になっている』と記しているから、なおさら場所がわかりにくいかもねぇ。
 もう残りはあと四話ってところで、歩兵隊というザックリの取りあげ方だね。市立第四中学校から県立弘前南高校に向かって、金属団地に曲がる西側手前が東奥義塾のグラウンド。ここいらの一帯も練兵場で、一番に活用したのが歩兵隊だと。
 その歴史は古く、明治四年に、旧弘前藩士を中心に編成された、仙台の東北鎮台第一分営がその始め。師団設置によって、歩兵第三十一聯隊が清水に設置され、のちに桔梗野の旧歩兵第五十二聯隊の兵舎に。桔梗小学校や市営住宅がその場所。
 続く話題は御幸町の偕行社。重要文化財に指定され、今は保存修理が行われています。
 『将校達の遊びの花形はビリヤード(玉突き)一つの部屋を独占して深夜まで突き合った。その台はつい最近まであったがいつの間にかなくなった』とのとおり、台を置いた痕跡が修理工事で確認されたというのが凄い。
 残りの一つは、弘前衛戌病院で、国立弘前病院。偕行社に隣接し、憲兵隊の向かいの場所に現在もあるよね。
 そして締め括りが、菊池別邸。記事の当時は「弘前修道院」で、『秩父宮のご仮邸 いまは弘前修道院に』の見出し。歩兵第三十一聯隊第三隊長として、昭和十年に来任されたのが、昭和天皇の次弟の秩父宮だったのね。おぉう、また宮様話題。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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弘前のラジオ小史=4

2016/9/21 水曜日

 

玄関に貼られた聴取章
第二放送開始を報じる本紙

 絶対唯一無比…なかなかこんなものに出会うことはできないし、多くの場合には、選択肢があった方が楽しいといえるでしょうね。
 弘前でラジオ放送が始まったのは、昭和十三年二月二十一日の午後六時のこと。日本放送協会弘前放送局から全国最小の五十ワットの出力で、県立弘高女・私立弘女・和洋女などの皆さんによる、君が代斉唱が流れたって。
 ニュースが身近になる一方で、国策による新聞統制が行われ、弘前新聞も十六年末には廃刊になってしまう。
 そうして、戦後の昭和二十一年九月一日から発行されたのが陸奥新報なのですよねっ。ですから、ラジオ放送開始の記事はないのですが、『弘前放送局 第二放送局あすから開始』の記事は、二十五年四月に登場します。
 この記事に注目するのは、放送が始まって以来、十三年間の歴史を要約しているから。
 弘前放送局の建設は十二年五月十一日から着工し、十月二十二日に竣工。本放送は五月二十八日からなんてのは、普通の年表じゃぁ書いていないでしょ!
 また、東北で秋田・山形に次いで放送を開始した最小規模の弘前ですが、これは放送協会の緊縮政策によるもので、同時開局の釧路・松本が小さい局舎。
 その後に開局した盛岡・福島・郡山・青森・鶴岡は、設備的に有利だったらしい。
 開局当時の聴取者は四千にも満たなかったが、いまでは四万五千戸、二戸に一戸の割合で普及したそうです。なぜラジオの普及率がわかるかって?テレビのように受信料を支払わないといけなかったし、聴取章というのを玄関に貼ったんだよ!
 それではどんな番組だったかというと、希望の多かった野球中継や、宗教の時間、女性の時間、学生の時間とか演芸会などでした。
 放送時間は午前六時から午後十一時までなのですが、『弘前放送局から電波を折り込むのは九時三十分からの告知板』というのも、なかなかの表現ねっ。
 ここで問題になったのが、手許のラジオで放送が聴けるかと。
 古いラジオでは混信してしまうために、調整が必要ですと説明。
 そこに『弘前こども会 千葉壽夫』が安心感を与える寄稿かな。『私のラジオは太平洋戦争初期に三十五圓(だったと思う)で買った甚だ安物のラジオである。(どうせ、まわしたって、安物のラジオでは第一放送以外の放送が入る筈がないのだ)と思っている私同様のラジオの所有者はダイヤルをまわして「ふう~ん」と悦に入る楽しみも増える…」、期待感がわかります。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載 この商売をまもる=5

2016/9/22 木曜日

 

蹄鉄業を営む福士龍之助さん
人力車の仕事について報じる本紙

 半世紀以上も前に、消えゆく職業を記録しておこうという企画って、お見事でしょ。
 養生中の秩父宮殿下の下に参じた紺屋町の福士龍之助さんは、この連載にもご登場されていたのですよぉ。
 秩父宮殿下が在弘中にお近づきになった、民間人の第一号と評されるほどの方。妃殿下が相好を崩して大声で笑わせたというから、その信は篤かった。
 十四歳で奉公に出され、東京獣医学校の訓練を経て獣医務曹長に進級後に除隊。富士見橋のたもとに開業したのは蹄鉄業なんです。
 本業の蹄鉄業は弟子を三人も雇い、年中忙しかったというが、戦前の春先き、田植え後には一日に五十頭が。冬には、夏用から滑り止めの付いた氷上蹄鉄に取り替えるので、仕事を断ったほど。
 馬がめっきり減ったのは、昭和三十年ころからで、農業の機械化、自動耕耘機の出現が影響したため。砂利採取が盛んになったので、かろうじて仕事になっている昭和三十六年。
 いまでは競馬界の、装蹄師しかないと思うくらい貴重でしょ。
 このシリーズに登場しなかった人力車の話だって、二十五年に記録されているのです。
 『かじ棒握って四十五年 まだ十年は稼げるよ』が見出しだよ。
 組合には二十二歳の若い者から、中畑組合長が六十七歳で、最年長は六十九歳の工藤兼吉さんまで、総勢二十五人が在籍しました。
 むかしのお客は、大旦那や貴婦人だったのが、最近では病人とか荷物を持ったご婦人に様変わりの時代です。
 いまなら観光地で、イケメンガイド…なんて想像しちゃうけど、紙上の外崎柾吉氏さんは大ベテランねっ。
 そんな外崎さんが誉れと思ったのが、弘前駅から茂森の仏舎利塔への行列だったかも。
 建設が全国で行われた忠霊塔。弘前市のは完成が遅れ、二十一年十一月に完成。そこに二十三年に仏舎利を奉安したので改称し、玄奘三蔵の霊骨をも合祀したんですよねぇ。
 以前の「まちネタ散歩」をお読みになったご遺族からは、掲載写真を拝見させていただき、至福の思い出。
 いまや、曳屋の天守が望めるというので、新名所になった禅林広場で、埋もれた歴史を再認識するのもいいかも知れませぬぞぉ。
 ここは、築城の候補地に挙げられたこともあったとか、太郎・次郎の兄弟杉のことや、赤門も実は下寺の黒門と呼ばれていたって、紹介済みだよねぇ。
 キチンとした取材に基づく連載は、時代を超えて私たちに郷土の姿を教えてくれる、偉大な道標です。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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うき世アラベスク=6

2016/9/23 金曜日

 

弘前駅前の客馬車・トテ馬車風景
本紙連載のうき世アラベスク

 この「まちネタ散歩」も、実のところ、モノゴトの新旧というか、対比をしているようなモノであります。
 時の彼方に過ぎ去って、変わってしまったモノもあれば、相も変わらずに繰り返される人生ドラマもある。
 そんな『まゝならぬうき世の裏表』を、ペンとカメラで追ったのが、昭和二十七年正月元旦からの連載です。
 『大きい・小さい』の見出しが、初回の話題。『何時の世も浮世の嘆きは金詰りだがこんな大人達の嘆きをよそに最近軌道に乗つて来た各地の子供銀行』のオーソリテイが、第一大成小学校という。
 現在の預金者は一千百二十七人で、預金総額は百三十三万円余。『一人で子どものクセに一万五、六千円の通帳を持つているのもあつて大人の気も知らぬ気な大景気振り』と。
 まぁ、なんともストレートな記事を締め括るのが成田我洲の句。『金詰りせゝら笑つた子の預金』うぅ~ん。変わらないかもなぁ。
 小さいという話題には、『裏山で猿が戯れる山村にもこの音は絶えないのである』の、パチンコ。弘前市内には約七十軒、三千台があるらしい。しかし、純益は二割で、人が入るほど損をすると。
 残念ながら、新聞が破れていて、記事の全容は確認できませぬ。
 『太い・細い』では、バレエ教習所で「太い」を探す話を『太い奴』と前振り。『バレエをやれば脚が細くなると思つてくる人が多い』が、『バレエはまず腰を細くしますね。そうすれば自然脚も…』だそうでございます。
 『古い・新しい』では、弘前駅前にズラリと並んだ馬車が話題。『ハイヤーやバスには目もくれず真直ぐに馬車に乗り込む異国人も少なくないとか、それに何処の小路でも入つて行つてくれる便利さがある』。へぇ、通路の制限はなかったんだと、思わず新知見だしロケに来た三船敏郎、杉葉子さんもお気に召したとて滞在中は連日この馬車を愛用した、それだけ魅力的なものらしいだってさ
 『廣い・狭い』では、『「きく顔」ではなく「広い顔」』として登場の中原康静さん。
 ご本人にお会いになった方も、いまでは少なくなったろうが、『弘前市下白銀町石中先生行状記の中村金一郎様事中原大親分様』という紹介でご理解を。
 かねてからの石坂洋次郎との縁故で、「石中先生」のモデルとなり彼のいる場所にはいつでも笑い声が響いていたと評された
 かくはのエレベーターガールに、「履物は脱ぐんだべが?」と、声を掛けた茶目っ気の親爺だったなぁ~。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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多様な産品の地場産業=7

2016/9/25 日曜日

 

「前進する地場産業」の「蝶の壁掛け」の回
「前進する地場産業」の「とう製品」

 地域に根ざした特色ある産業を『前進する地場産業』として特集を掲載したのは、もう五十年以上前のこと。実に大変な慧眼であって、風見鶏的なものにならないのがお見事。
 取り上げられた産品を列記すれば、こぎん・づぐり・ねぷた・あけび・こけし・下川原焼き・津軽塗・凧絵というのはお馴染みね。
 そんな中で、蝶の壁掛けなんて、ご存じでした?私は商品の記憶もないのですよぉ~
 製作したのは、黒石市に所在の「みちのく工芸社」。クジャク蝶を捕まえて『展翅(てんし)板に張り付けて形を整え、これをタイルや皿にのせ、その上に時計皿を接着剤でおすという技術』だと。
 ほかの種類の蝶では変色するというので、量産化が困難で、年間三百個ほどの注文をこなすのが実情だって。
 全国的に類のない、優雅で地域性のある土産品で、幼虫の飼育や加工などの課題を克服したら、主婦の副業にいいんじゃないかと。
 お次は、本県輸出品のホープとして脚光を浴びているものなんですねぇ。輸出が伸びており、『将来本県のドル箱になるもの』と絶賛されたのが、北洋硝子工業会社の「装飾用色ガラス」であります。
 昭和三十一年に装飾用色ガラス玉を試作してみたら、これが注目されてカリフォルニア州などから注文が殺到したので、新案特許を得て生産に本腰。
 『いまではアメリカを始めガラスの本場スイスまで進出』で、『この種の色ガラス玉の製作は世界でも青森工場とアメリカの一社だけ』やら、知らなかったことが満載ねぇ。
 さてさて、子どもの頃には「とう製品」の安楽椅子などがあったものだが、この本場が本県だったとは、これまた驚きであります。
 「とう」はジャワ、スマトラ、ボルネオが産地で、これを輸入して加工しているのが、山形と新潟と、青森の三上とう竹工芸店の三軒だけ。しかも三上さんの下で修業をした人が開業しているというのだから、青森はとう製品の本場という理屈なのでありました。
 製品は、全国の有名デパートはもちろん、海外からも高く評価され、装飾品として愛用いただいているとは、嬉しい話。しかし残念ながら、海外からの注文が多いために、全国のデパートからの注文に応じられない状況。
 弘前産のじゅうたんの話を締めくくりに。
 生産二年目を迎えようとしていたのが、村田商店弘前工場。原料を大阪から仕入れ、関西方面や輸出も順調というから、生活の洋風化に伴って、ハイカラ産業が躍進なのだ!
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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