続々俗々 まちネタ散歩!陸奥新報

 

姿を消した建物=1

2016/9/18 日曜日

 

旧市庁舎と旧玉成校の解体を伝える本紙
久一土蔵の消失を報じる本紙

 昭和三十六年の夏といえば、弘前市内から特徴的な建物が姿を消した年といえる。
 まず六月には『姿消す久一の土蔵 寺の付属建物に』の見出し。久一とは、大正時代にかくは・かくみと並び称された三大呉服店。
 上和徳町に大正二年に建設された白壁まばゆい土蔵造りの店舗は、建坪が二百坪を超える間口二十九メートルもの巨大な二階建の豪華版で、四万円の工事費を費やしたという。
 大正十年には、誘客のために電気仕掛けのマネキン人形を先駆けて飾り、お盆や正月の大売り出しには、景品欲しさも相まって、長蛇の列。花嫁衣装の買い付けに訪れた馬車が列を作ったと、往時の語り草になった。
 やがて繁華街が土手町に移ると、下土手町に店舗を移転したが、配給制度によって昭和十九年に廃業。建物は弘前米穀株式会社で買収して利用していた。
 それが、このたび青森に運ばれて再利用されることになったと。
 翌月の紙上には『姿を消す二つの建物 市庁舎と旧玉成校』が。
 市庁舎は元寺町の緑地になっている場所に明治二十三年に建設されたから、この当時でも七十年以上親しまれてきたもの。
 昭和三十四年の旧弘前市の市制施行七十周年を記念して、市庁舎は白銀町に新築され、市立図書館、社会保険出張所、心配ごと相談所などが寄り合い所帯で利用してきた。
 木造のバルコニーが特徴的で、この材料は向かいの田中屋に再利用されているんだね。
 なお、市庁舎の新築に際しては、隣接する公会堂を解体して用地を確保した。公会堂の解体材がどう使われたのかというのもチャンと記事になっていて、さすが郷土の新聞社。
 なんと、六畳と八畳の二間を有する民家になっていたんだねぇ。旦那さんが出稼ぎに行って、行方知れずとなった子連れの家族を支援するため、町会の尽力で家をプレゼント。
 続く旧玉成校とは、明治三十二年に清水村など十一か村の組合が設置した「玉成尋常高等小学校」のこと。
 和徳中学校となり、同校が弘前第一中学校に統合されると、県立中央高等学校の校舎として使用された。
 中央高校のテニスコートの南西脇に、記念碑が建立され、面影を伝えておりまする。
 この一画は弘前藩の家老、大道寺の屋敷で、漢学尞が置かれたし、お向かいの文化センター敷地に、時敏小学校があったのを記憶される方も多いはず。県の合同庁舎はかつて市立女子高校があったからここは文教地区の歴史が長いんだねぇ。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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つわものどもが…=2

2016/9/19 月曜日

 

第二話に登場した弾薬庫解体作業の写真
騎兵第八聯隊兵舎の正門

 弘前のイメージは、「お城と桜とリンゴ」が代表的なものかと思うのですが、歴史的には第八師団が置かれた軍都であったことも、重要なキーワード。
 そんな視点で連載をしているのが、『兵どもが…』の全十六話。回数が半端だね、なんて与太を入れる余地がないほどに、充実した内容なのです。
 やはり初回は主要施設と云うことで、師団長官舎。そうです、いまでは市役所脇の喫茶店になっている建物。
 『八師団のシンボル市長公舎として残る』の見出しは、現在でもインパクトが強い。
 二話は弾薬庫だが、すでに弘前市営野球場になっていて、かろうじて撤去を免れていた三棟の弾薬庫は、市民会館建設のために解体工事が行われる予定。
 なんでも、この西側には深い井戸があり、夜警の覗き込んだ瞬間に、釣瓶の桶がガラガラと上がる音がして、中から女の顔がのぞいた、という怪談話。
 第三話は三の丸にあった兵器庫で、四話が護国神社と、公園内がその舞台に。
 護国神社の前身は、招魂社と云って、戊辰戦争の慰霊のために、宇和野に建立された。 だから、最後の弘前藩主となった、熊本細川家出身の津軽承昭の願いを受けて、助勢に駆け付ける途中で、海難事故にあった熊本藩士も祀っているお社。
 記事は、歌人の宇都野研の歌碑を紹介し、『戦没者の慰霊碑にはさまって、わずかに叙情味を漂わせている』とし、『神社のいわれは知らなくても、アベックの天国として知る若い人が多い』だと。
 第五話からは場所を市内に移動させ、忠霊塔の見出しの『戦後にやっと完成 仏舎利塔として残る』は見事。
 第六話は野砲隊。市立第三中学校や愛成会病院などの場所に兵舎があった。話題は午砲のこと。『正午十分前、野砲隊の当番兵が担当上官の前に集合、かけ足で号砲台にむかう。(中略)当番兵はまず師団司令部向いの富田郵便局で時間を合わせる。ここの時計の正確さは定評があり、ほとんど一秒と狂わなかったという。郵便局で時間を合わせてから号砲台に行き、さて本番と云うことになり、打ちはじめるわけだ』。
 号砲台のことは以前のまちネタ散歩で書いたが、市民は「ドン」と呼んで親しんだ。
 第七話は騎兵隊で、『当時の兵舎はいまも松原に残っている。弘南バス松原停留所にある。現在、弘南バスの車庫になっているのがそれである』。レンガ造の屋内馬場はいまでも残るが、『馬のかわりにバスがつめられる時代になった』と。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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続 つわものどもが…=3

2016/9/20 火曜日

 

第八話登場のかつての師団司令部
御幸町の偕行社

 むかしに「弘前の軍都・学都ツアー」をしたことがある。その後、この企画がどうなったか、教えてくれないから、止めたのかもね。
 この連載は、ツアーの際に紹介もしたし、意外とご存じかなぁ。
 さて、第八話は師団司令部。百二十年前の明治二十九年に、師団の設置が決定され、翌三十年に総司令部が出来てから、経理部の建物が火災で焼失した以外、弘前大学農学部が使用していたってさ。
 ささやかな疑問ですが、なぜ師団長官舎が公園の傍なのに、司令部が文京町と離れているんだろう。その答えとは「最初は公園に白羽 断わられ今の場所に」の見出しです。
 九話は、この北側にあった憲兵隊。現在は外国人教師館が移築された場所に建っていたのが、憲兵隊官舎。
 原ヶ平の弘前射撃場が次に登場し、輜重隊がお次の話題。なかなか読みにくい漢字が並ぶが「しちょう」ね。
 兵舎は第四中学校の第二校舎になったが、その前は清水中学校の校舎にも使用された。
 第十一話は被服敞。文京小学校地になっているけど、記事には『弘前実業高校と千年中の校舎になっている』と記しているから、なおさら場所がわかりにくいかもねぇ。
 もう残りはあと四話ってところで、歩兵隊というザックリの取りあげ方だね。市立第四中学校から県立弘前南高校に向かって、金属団地に曲がる西側手前が東奥義塾のグラウンド。ここいらの一帯も練兵場で、一番に活用したのが歩兵隊だと。
 その歴史は古く、明治四年に、旧弘前藩士を中心に編成された、仙台の東北鎮台第一分営がその始め。師団設置によって、歩兵第三十一聯隊が清水に設置され、のちに桔梗野の旧歩兵第五十二聯隊の兵舎に。桔梗小学校や市営住宅がその場所。
 続く話題は御幸町の偕行社。重要文化財に指定され、今は保存修理が行われています。
 『将校達の遊びの花形はビリヤード(玉突き)一つの部屋を独占して深夜まで突き合った。その台はつい最近まであったがいつの間にかなくなった』とのとおり、台を置いた痕跡が修理工事で確認されたというのが凄い。
 残りの一つは、弘前衛戌病院で、国立弘前病院。偕行社に隣接し、憲兵隊の向かいの場所に現在もあるよね。
 そして締め括りが、菊池別邸。記事の当時は「弘前修道院」で、『秩父宮のご仮邸 いまは弘前修道院に』の見出し。歩兵第三十一聯隊第三隊長として、昭和十年に来任されたのが、昭和天皇の次弟の秩父宮だったのね。おぉう、また宮様話題。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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