続々俗々 まちネタ散歩!陸奥新報

 

2016/9/1 木曜日

 

 70年の歴史を有する陸奥新報のさまざまな記事から当時の世相や文化、人々の生活を切り取る「まちネタ散歩!陸奥新報」。元弘前図書館長・宮川慎一郎氏の軽妙な語り口でその時々の弘前、津軽の息吹を今に伝える本紙の名物企画で2013年10月の第1弾登場後、第3弾まで掲載され、人気を博している。どうぞお楽しみください。

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読みたくなる図書の紹介=特別編1

 

一戸謙三著「ねぷた」
薄田斬雲著「希望の弘前」
「希望の弘前」を吉川英治が評価したことを伝える紙面

 『ほとけの顔も三度まで』というご時世、第四弾の始まり。
 これも『本紙は純粋な郷土史としての使命から郷土に埋もれている幾多の史実や文化的資料を広く紹介すべく努めて来ました…』という、思し召しでありませうねっ。
 あまり使われなくなったかなぁと思われる津軽弁。この方言詩の代表的な書籍「ねぷた」の著者は、一戸玲太郎こと謙三ですね。
 昭和二六年の紙上には、『秩父宮様へ方言詩集 殿下のご希望で献上』と、誇らしげな見出しが踊ります。
 この本は昭和十一年に、東京市の十字堂書店が発行し、土手町の神書店が発売したもので、二科会の棟方寅雄が装幀と挿絵を担当。
 当時の殿下は御殿場で静養中。ご機嫌伺いに参上した紺屋町の福士龍之助さんに対し、『戦災で焼いたが弘前に今でもあったら一部欲しい』と、十五年も昔の本を所望された。
 秩父宮殿下は、歩兵第三十一聯隊大隊長として、ご夫妻で菊池別邸に滞在なされ、弘前へのご愛着もひとしおだったのでしょうね。
 本は神書店から成田図書館長の手を経て、お手許に届けられるようになったそうです。
 秩父宮両殿下は、しばしば弘前公園の桜を愛でられたり、市民にとっては親しみに満ちた宮様でありました。
 それから三年後に、『吉川英治氏も激賞 斬雲翁(弘前出身)著「希望の弘前」』が紙上に登場であります。
 吉川英治といえば、宮本武蔵や私本太平記など、歴史小説で大人気を博した大家。その人が、「時折ゴルフを一緒にする石川達三君にも声を掛けて」というのですから、著者を知らずとも、こりゃぁ一読せねば時代遅れ。
 明治十年に生まれ、『骨と皮だけで出来て居る侫武多と凧の風化を多分に受け、中身がない人間になった』と自嘲的に後書きに書くが、なかなかの硬骨漢。
 郷里の弘前を離れ、東京に戻った薄田斬雲だが、一時疎開の昭和二五年に出版した痛快な切り口が満載です。
 津軽弘前は、住みよい、美しい、有利な場所ではないにしても、寒冷という欠点を補ってあまりある日本一というべきものがある。
 津軽の林檎、岩木山の麗容、弘前城址公園、公園の桜花、弘前の菊花、十和田の水光、ヒバ材の七つがそれ。
 読んでいて嬉しくなる郷土自慢から始まるが、気象も経済も文化にも、気合いを込める渾身の一書でしょ。
 キチンと記者が相手のことを知って、その上で購読者に向けてのメッセージをハッキリ書き込む姿勢は、学びたいモンですよねぇ。

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地元の古老が語る民話=特別編2

 

連載「津軽藩昔がたり 堀越敬老史談会から」
藩祖三百年祭の蓬莱橋方向を、下土手町側から臨む。左に高札場、上方に派出所附属の火の見櫓(明治39年)
弘前名所「弘前師團通里(り)松原」(絵はがきから)

 市町村といった規模ではなく、もっと身近な地域の伝説などを、記憶し記録しましょ。
 そんな温もりが感じられる事業を紹介したのが『津軽藩昔がたり 堀越敬老史談会から』の連載なんだなぁ。
 古老が記憶をたどりながら語った話題は、『郷土の面影をしのぶよすがとして興味深い物語』でありまする。
 『蓬莱橋には、そのむかし“舘場”(いまの土手町派出所―青和食堂のあたり)と称した今でいえば、駅があった。舘場は道中旅の荷物扱いをはじめ、旅人の求めに応じ荷馬、客駒の用意などもあって交通の要所、通信の連絡所で繁華を極めたものと思われる』。
 高札場があった程度の説明ならば目にするけれど、舘場なんて知らなかったもんなぁ。
 『松森町は松でも森でもなかった』。つまり松原の松を保護する役目付「松守」の役場が、木内病院あたりにあった…。いまでは、この病院の場所はどこあたりなのでしょう。
 ここから枡形に向かうのが新町で、富田では枡形の盆踊りが話題となって、囃し言葉が面白い。『しんちょの品物、門外の化物、踊らば踊れ、品よくおどれ』で、チャンと解説が付いております。
 『しんちょの品物とは新町の茶屋で享楽する者、門外の化物は、当時の首切り場のことで、いわばこの盆だけは悪にそまった道楽者でも、罪深い亡者達でも、ともに楽しくおどり過せ、これが一番の供養だという』。
 松原は道幅が五間もあったそうで、左右に三尺の土手を築き、それぞれに千本の松並木が碇ヶ関まで続いたというほどの景勝街道。
 参勤交代の折、お殿様が追手門を出るときから、藩境の矢立峠を過ぎるまで、茂森町にあった芝居小屋の大太鼓を、ドンドンと叩いたなんて話も風情っ。
 『津軽の里に悪婆ァの汚名を残している“大光寺の婆ァ”』も、ここで知った話です。
 人心を惑わした邪教を信じたというので、はりつけになったというのですが、実は国禁のキリスト教徒だと。
 このお婆さん、十字架を持って布教していたことがお役人に聞こえ、捕まってしまう。大光寺には多くの信者が居たのだが、これを秘して『キリスト信者は自分一人、どうぞ極悪人の私だけを処刑してくれと頼んだ』と。
 しかも『十字架にしばられ、非人が槍を交えると、「おや、さっぱりして気持ちよい」といい、また「小比内、外崎、目の下だ」と朗らかにいって落ちついた最期をとげた』。
 地域で語り継いできた逸話が、消え去るのは、もったいない!

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姿を消した建物=1

2016/9/18 日曜日

 

旧市庁舎と旧玉成校の解体を伝える本紙
久一土蔵の消失を報じる本紙

 昭和三十六年の夏といえば、弘前市内から特徴的な建物が姿を消した年といえる。
 まず六月には『姿消す久一の土蔵 寺の付属建物に』の見出し。久一とは、大正時代にかくは・かくみと並び称された三大呉服店。
 上和徳町に大正二年に建設された白壁まばゆい土蔵造りの店舗は、建坪が二百坪を超える間口二十九メートルもの巨大な二階建の豪華版で、四万円の工事費を費やしたという。
 大正十年には、誘客のために電気仕掛けのマネキン人形を先駆けて飾り、お盆や正月の大売り出しには、景品欲しさも相まって、長蛇の列。花嫁衣装の買い付けに訪れた馬車が列を作ったと、往時の語り草になった。
 やがて繁華街が土手町に移ると、下土手町に店舗を移転したが、配給制度によって昭和十九年に廃業。建物は弘前米穀株式会社で買収して利用していた。
 それが、このたび青森に運ばれて再利用されることになったと。
 翌月の紙上には『姿を消す二つの建物 市庁舎と旧玉成校』が。
 市庁舎は元寺町の緑地になっている場所に明治二十三年に建設されたから、この当時でも七十年以上親しまれてきたもの。
 昭和三十四年の旧弘前市の市制施行七十周年を記念して、市庁舎は白銀町に新築され、市立図書館、社会保険出張所、心配ごと相談所などが寄り合い所帯で利用してきた。
 木造のバルコニーが特徴的で、この材料は向かいの田中屋に再利用されているんだね。
 なお、市庁舎の新築に際しては、隣接する公会堂を解体して用地を確保した。公会堂の解体材がどう使われたのかというのもチャンと記事になっていて、さすが郷土の新聞社。
 なんと、六畳と八畳の二間を有する民家になっていたんだねぇ。旦那さんが出稼ぎに行って、行方知れずとなった子連れの家族を支援するため、町会の尽力で家をプレゼント。
 続く旧玉成校とは、明治三十二年に清水村など十一か村の組合が設置した「玉成尋常高等小学校」のこと。
 和徳中学校となり、同校が弘前第一中学校に統合されると、県立中央高等学校の校舎として使用された。
 中央高校のテニスコートの南西脇に、記念碑が建立され、面影を伝えておりまする。
 この一画は弘前藩の家老、大道寺の屋敷で、漢学尞が置かれたし、お向かいの文化センター敷地に、時敏小学校があったのを記憶される方も多いはず。県の合同庁舎はかつて市立女子高校があったからここは文教地区の歴史が長いんだねぇ。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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つわものどもが…=2

2016/9/19 月曜日

 

第二話に登場した弾薬庫解体作業の写真
騎兵第八聯隊兵舎の正門

 弘前のイメージは、「お城と桜とリンゴ」が代表的なものかと思うのですが、歴史的には第八師団が置かれた軍都であったことも、重要なキーワード。
 そんな視点で連載をしているのが、『兵どもが…』の全十六話。回数が半端だね、なんて与太を入れる余地がないほどに、充実した内容なのです。
 やはり初回は主要施設と云うことで、師団長官舎。そうです、いまでは市役所脇の喫茶店になっている建物。
 『八師団のシンボル市長公舎として残る』の見出しは、現在でもインパクトが強い。
 二話は弾薬庫だが、すでに弘前市営野球場になっていて、かろうじて撤去を免れていた三棟の弾薬庫は、市民会館建設のために解体工事が行われる予定。
 なんでも、この西側には深い井戸があり、夜警の覗き込んだ瞬間に、釣瓶の桶がガラガラと上がる音がして、中から女の顔がのぞいた、という怪談話。
 第三話は三の丸にあった兵器庫で、四話が護国神社と、公園内がその舞台に。
 護国神社の前身は、招魂社と云って、戊辰戦争の慰霊のために、宇和野に建立された。 だから、最後の弘前藩主となった、熊本細川家出身の津軽承昭の願いを受けて、助勢に駆け付ける途中で、海難事故にあった熊本藩士も祀っているお社。
 記事は、歌人の宇都野研の歌碑を紹介し、『戦没者の慰霊碑にはさまって、わずかに叙情味を漂わせている』とし、『神社のいわれは知らなくても、アベックの天国として知る若い人が多い』だと。
 第五話からは場所を市内に移動させ、忠霊塔の見出しの『戦後にやっと完成 仏舎利塔として残る』は見事。
 第六話は野砲隊。市立第三中学校や愛成会病院などの場所に兵舎があった。話題は午砲のこと。『正午十分前、野砲隊の当番兵が担当上官の前に集合、かけ足で号砲台にむかう。(中略)当番兵はまず師団司令部向いの富田郵便局で時間を合わせる。ここの時計の正確さは定評があり、ほとんど一秒と狂わなかったという。郵便局で時間を合わせてから号砲台に行き、さて本番と云うことになり、打ちはじめるわけだ』。
 号砲台のことは以前のまちネタ散歩で書いたが、市民は「ドン」と呼んで親しんだ。
 第七話は騎兵隊で、『当時の兵舎はいまも松原に残っている。弘南バス松原停留所にある。現在、弘南バスの車庫になっているのがそれである』。レンガ造の屋内馬場はいまでも残るが、『馬のかわりにバスがつめられる時代になった』と。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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