続々俗 まちネタ散歩!陸奥新報

 

棟方志功と市民会館=5

2016/1/10 日曜日

 

本紙創刊25周年を記念して運行された棟方ねぷた
市民会館落成記念の小冊子
棟方志功が緞帳の意匠を快諾したことを伝える本紙
志功のユーモラスな発言を報じた本紙

 陸奥新報社の数多い文化事業の中で、「世界のムナカタ」自らが二〇年以上も審査員を続けた版画展。今なお、その魂を受け継いで、子どもらの創作意識を魅了していますよねっ。
 その志功の巨大な作品といえば、創刊二十五周年記念で運行された『棟方ねぷた』と、市民会館の緞帳かな。
 昭和三十六年九月には『市民会館はどこに建つ』の見出し。
 元寺町の市役所跡地は、交通の便はよいものの、芸術・文化活動に利用される大講堂の静粛性を保てるか、との難点があるんだね。
 第二候補の公園テニスコートは、追手門を玄関にする適地で、将来、県立博物館を誘致できれば、図書館・市民会館という文化センターに。しかし史跡の保存や観光上の観点も考慮せねばならぬ。
 やがて十一月には、『単に会館を設計するだけでなく環境整備を合わせて考える』という前川國男氏の談話を前振りに、『総工費三億円の大会館 三の丸は文化センターに』。
 市民会館の建設時点で、将来は野球場を移転させて、別の場所に総合運動公園を設けるという、壮大な計画が打ち立てられたのだ。 現在は、追手門から市民会館に向かうと、まず左にテニスコートがあるけれど、かつてはバレーボール場とか相撲場があったなんてのは、きっと昔話ねぇ。
 斯界の権威、前川國男の見識と藤森睿市長の構想が一致し、市民会館の建設は進んだ。やがて三十八年十一月に『志功画伯が意匠 弘前市民会館のどん帳郷土のためと快諾』。
 石橋ブリヂストン社長が、緞帳用にと五百万円の寄附を寄せた謝辞で上京した市長。前川を訪問した折に、棟方に原画を依頼することを推挙された。早速に鎌倉に棟方を訪問したところ、快諾いただいたんだって。へぇ、こうして原作者が決まったとは、知らなかった話でありまする。
 やがて三十九年五月一日の観桜会の最中、落成式を迎え、『出ベソが私の作品 棟方画伯に満場のかっさい』。『わたし自身、これを誰がかいたかと疑ったくらい。いまみてビックリ。本当です。これはわたしの作というより、美を愛する人たちの結晶です。芸術の極致は西欧も日本も同じで、ミロのビーナスもこのひひたちの図も芸術も、いわば世界の美がこうあらわれたものです。ただ、ミロのビーナスにはヘソがないが、わたしの作、出ベソです』。
 モノが人の手を経て伝わっていくことは、もちろん大事ですが、その心とか、託した想いというのも忘れたくないですよねぇ。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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貴重な連載・津軽ご家中=6

2016/1/11 月曜日

 

山口壽氏連載の津軽ご家中噺
昭和35年に弘前公園三の丸に新築の弘前図書館。前列中央が山口館長
弘前文化財案内。右下に山口氏のサインがある

 当初の本紙は、菊判の二ページ。昭和二十五年二月十四日号は、発刊一千号。記念の特別大サービスで、一日だけのブランケット判。
 やがて貴重だった紙もキチンと供給されるようになると、紙面が大きくなって、記事だって充実してきます。
 そんな四月にスタートしたのが、『津軽ご家中噺』。のちに市立図書館長もされる山口壽氏が、抑留中に書かれたのを推敲し連載。
 ご家中は『津軽で言う旧士族のこと』で、氏の随筆とも、小説と読んでいただいて結構という語りが軽妙。
 大正十年、弘前に官立の第十六番目の高等学校が開校し、全国から書生が集まった。彼らは、ご家中のおばさ達の使う言葉に苦労した。トンボを『あけつ』と言い、チョウチョを『てこなコ』と、まず名詞が違っている。
 『さアさ、おみおびをゆつたどして…』が、帯をゆるりと緩めて、おくつろぎをの意味だったり、『そうでごいしてこいすがア』のように、妙な繰り返しが続くことも、難解さに拍車を掛けたのだと。
 殿様が城中の女中を集めて、「なにが良い心持ちであるか」と尋ねたそうで。この話を語った老人が言うケリは、『毎晩寝る前に熱いお湯を頂戴して、これでゆつくりお湯を使う時でございます』。
 お湯を使うとは『腰湯』のことで、山口氏の祖母は『脚を洗う』との言い方をしたと。嫁入りで持参した黒漆塗のタライは、湯殿でほかの用途には一切使わなかったものだ。
 どんな縁なのか判らないが、『煎餅おどさ』という老人がいた。米の粉をこねて、丸形の薄い煎餅にして、乾燥させた後に、炭火で加減しながらあぶると出来上がり。『孔あきせんべい』といって、真ん中に藁などを通していたから、「あぶせんべい」のことだね。
 藩学校のお雇い教師のウオールが語った、珍田捨巳氏の思い出も秘話風。『ミスター・チンダは立派な青年である。然し、彼のブツクは或る種の食べ物の臭気がするので困る』とは、沢庵好きなのか。
 懐から英語の辞書を離したことのない珍田は、紙でぐるぐる巻きにした沢庵も一緒に入れていたのだった。
 耳の垂れた犬のことを「カメ」と呼ぶのだそうで、犬が洋種か和種の区別は、耳で判断する。むかしは西洋人が犬を飼っていて、犬を呼ぶ『カムイン!』が、『カメン』に聞こえて、『カメ』と記憶されたのだと。これはさるおんべ婆様の話。
 山口館長のベレー帽姿は、とてもお洒落で、さすがに旧藩士族様の末裔は、歴史や文化に造詣が深いのでした。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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弘前市は躍進する=7

2016/1/12 火曜日

 

合併10年の記念特集号「市議座談会」
弘前高等学校(開設準備の段階は官立第十六高等学校)の落成記念絵葉書から
市制施行70周年記念祝賀会。奥が分庁舎

 昭和三十年四月一日に、中津軽郡十一か村を合併した旧弘前市。合併十年の記念特集号を、四十年四月に発行していますが、その雰囲気は見出しからも感じてもらえましょう。
 いわく『今までは基礎固め 多方面で着々成果』『将来は中郡三村も 観光行政で共同歩調』『こじれた感情問題 高い税金で二の足』『発展のカギ握る農政 地場産業の育成政策考えよ』。
 この紙面は『市議座談会』と銘打って、編集局次長のあいさつから始まります。『この二十二日にはめでたい記念式典を行うことになったわけ、いうなれば弘前市は合同結婚式を挙げてから今年で十年目、この合同結婚後十年間どのような歩みをしてきたか、またこの結婚生活をますます固めるという意味で、これからどうあらねばならないか』でした。
 いまでも、このようなリードで記事を書きこなせましょうかな。これは、私たち読者にも向けられた問いかけでありましょう。
 半世紀も前に『岩木あっての弘前、弘前あっての岩木だ。相馬にしても…』という発言や、『市街地は、周辺の農村地帯がくしゃみをすればカゼをひくのだから。(笑い)』は、いまも変わらぬ卓見。
 第二面では『躍進へ更に努力』と、藤森睿市長や、『これからが大切』の雨森良太商工会議所会頭の談話。
 粛々と十年間の政治史を要約しつつも、『充実した弘前大学』に続く記事に衝撃です。『「学都弘前」の名前は戦後の二十四年に弘前大学が発足してからのことばである』だよ。
 そうなのかぁ、官立第十六高等学校を誘致した大正時代からではなかったのだ。まさに戦後の弘前は、軍都から、学都に変換すべく喘いで生き抜くのね。
 第三面は『市政を推進する 庁内幹部人物ガイド』。まるで市庁舎の課室案内で、廊下の右・左と幹部紹介。
 まぁ、いまでも人事異動の際には紹介記事が掲載されるが、なにやらその根底の想いは変容しているのかも。
 いまもそのままの市役所本庁だが、旧師団長公舎の場所には、弘前市警や水道部で使用した分庁舎があった。正面一階には教育長室や、教育委員会事務局があり、奥には中央公民館日本間の別館も。ここでは、見栄で借金をする披露宴より、会費制で新たな旅立ちの二人を祝福する、公民館結婚式も開催ねっ。
 新聞はキチンとした場所に保管され、ちゃんと情報が提供されれば、残酷なくらいに、その時代の息づかいさえも伝えてくれる。
 記者のご労苦、大変なことと思いまする。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載から出版へ 貴重な記録集①=8

2016/1/13 水曜日

 

連載「写真でみる弘前の昔と今」
弘前愛成園・仰徳館
慈善館

 郷土の出来事を報道し、記録し続けてきた新聞社だが、その偉業のひとつとして、昭和三十三年八月から十月まで、四十回にも及ぶ連載を記憶したい。
 題して「写真でみる弘前の昔と今」。この企画は、弘前市の市制施行七十周年を記念したものだった。冒頭、『貴重史料の散逸を防ぐ意味から、明治―大正時代の街の面影を伝える写真を収録現在の街と対比し、県内の人たちに紹介することになった』と宣言する。
 第一回目の見出しは、『ガラリ変った下土手町 今も昔も一流の繁華街』。現在の様子で掲載された写真も、すでに約六十年も前となるのだし、往時の写真は明治三十八年だから、なんと百十年前。
 第二回目は、一番町の坂の上、正面突き当たりにあった警察署。いまは弘前公園の外堀に伸びる、桜大通りになってしまったよね。
 警察制度が出来たのは、明治四年のことだそうで、その七年後に弘前警察署が設置されたという小史も親切。
 『近く取壊される』と、状況を報告されているのが、昭和九年に改築された現庁舎。
 この南側に隣接していたのが、市役所だけど、この紹介は十二回目に登場。その前に、『コミセのあった百石町』や、『モダンになった蓬莱橋』『桜の名所であった富田』などがある中、『転々宿がえした愛成園は出色。
 設立者の佐々木五三郎のことは、弘前人物志などにも収録され、愛成園の記念誌も出されているけれど、ご覧になる機会は少ない。
 『愛成園は本県唯一の孤児保護施設であるがもとは東北育児院とよんだ』と述べ、明治三十五年に本町に開設されたという。往時の写真は、同三十八年に下新寺町に移転したのを掲載。佐々木が愛成園の運営資金を稼ぎ出すために、映画の常設館としたのが慈善館。
 愛成園は、昭和二十二年に富田に移転したが、近況の写真は移転後にアパートに変わった旧育児院を収録ね。
 こんな、細やかな心遣いが見られる記事を出せる社の心意気は、大事だと思います。
 市役所の回は、『ほとんど明治のまま 近く取壊す弘前市役所』が見出しであります。
 明治二十二年(一八八九)に市制施行し、翌年十一月に竣工した当時の写真。七〇年後の写真を見比べても、ほとんど変わらない。
 『現在上白銀町市公会堂跡に工費二億円で新庁舎を建設中でありオンボロ庁舎は近く取壊すが、市役所ばかりかわって街が維新のままでは、進歩がないことははなはだしく、庁舎と同じく街の近代化ものぞまれている』。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載から出版へ 貴重な記録集②=9

2016/1/14 木曜日

 

弘前裁判所
長安倶楽部 西より
火災に遭った津軽病院

 連載で一話読み切りにならず、陸奥新報が見出しに登場している話題は、なにかなぁ?正解は図書館のこと。『明治中期の図書館 石垣だけは今も残る』と、東北電力弘前営業所の場所に開設された「私立弘前図書館」の歴史から紐解きます。
 往時の写真は、ちょんまげ姿を思い起こさせる、創始者の成田果の一枚。『旧藩主の財産管理者も務め、さらに郷土史「鷹ヶ丘城」の著書もあり、明治における郷土の学者である』とは、なかなかに博識な記事でしょ。
 続きの第二話では、『日露戦勝記念に新築 陸奥新報がその跡』なんだよねぇ~。
 追手門広場に鎮座している旧図書館が、場所柄が良く納まっているから、昔からずっとあったかと錯覚する。でも、当初は北に玄関を向けていたから、まさに、陸奥新報の社屋のイメージなのです。
 ご近所の話題で、お次は『おそれられた裁判所 五度も火災に見舞わる』。弘前裁判所は、明治一〇年に青森裁判所を移転・改称したもので、いまの青森地裁にあたり、地裁弘前支部は弘前区裁として、弘前裁判所内に設けられたそうです。
 近況の写真は、『近く完成する青地裁弘前支部の新庁舎』だけどね、その姿もないよ。
 失われたものの話題では、『花やかな市民社交場 長安クラブいまは保健所に変身』も同様で、保健所は移転して、西側の池泉すらも、干上がって大きく変貌。長安倶楽部って、四季醸造を果たした、東北の酒造王 福島藤助が建設したよねぇ。その正面の写真って、みたことがないから、誰か教えてくれませんかねぇ~、ホントに。
 面影もないつながりなら、『面影ない次郎兵衛堤 昔は満々と水たたえる』は、懐かしい思い出なのですよ。
 津軽病院って呼んでいた、市立病院の南東に広がっていたっけ。まぁ、子ども心にも、あの辺は、なにやら近づいてはいけないような、妙な怪しさを感じておりましたぞぉ~。
 『景勝地から学校田へ いま医学部の建物並ぶ』は、南塘の池。
 市街地の同じ場所から撮した写真で、半世紀ほどでこれほど異なるもの、ないかなぁ~。
 鏡のような水面に、静かに写る逆さの岩木山、だから傍には鏡ヶ丘があり、観ていて飽きない日暮橋がある。
 これに続く連載は、『鳩笛の生まれた寒村 いまは住宅地の下川原』と、土淵川を遡ってのご紹介。こんなロケ地の選択も、他所の読者には親切なご配慮ってモンだよねぇ。
 最近の写真に、寒沢町への橋と高谷家附近を選んだのも慧眼!
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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