続々俗 まちネタ散歩!陸奥新報

 

貴重な連載・津軽ご家中=6

2016/1/11 月曜日

 

山口壽氏連載の津軽ご家中噺
昭和35年に弘前公園三の丸に新築の弘前図書館。前列中央が山口館長
弘前文化財案内。右下に山口氏のサインがある

 当初の本紙は、菊判の二ページ。昭和二十五年二月十四日号は、発刊一千号。記念の特別大サービスで、一日だけのブランケット判。
 やがて貴重だった紙もキチンと供給されるようになると、紙面が大きくなって、記事だって充実してきます。
 そんな四月にスタートしたのが、『津軽ご家中噺』。のちに市立図書館長もされる山口壽氏が、抑留中に書かれたのを推敲し連載。
 ご家中は『津軽で言う旧士族のこと』で、氏の随筆とも、小説と読んでいただいて結構という語りが軽妙。
 大正十年、弘前に官立の第十六番目の高等学校が開校し、全国から書生が集まった。彼らは、ご家中のおばさ達の使う言葉に苦労した。トンボを『あけつ』と言い、チョウチョを『てこなコ』と、まず名詞が違っている。
 『さアさ、おみおびをゆつたどして…』が、帯をゆるりと緩めて、おくつろぎをの意味だったり、『そうでごいしてこいすがア』のように、妙な繰り返しが続くことも、難解さに拍車を掛けたのだと。
 殿様が城中の女中を集めて、「なにが良い心持ちであるか」と尋ねたそうで。この話を語った老人が言うケリは、『毎晩寝る前に熱いお湯を頂戴して、これでゆつくりお湯を使う時でございます』。
 お湯を使うとは『腰湯』のことで、山口氏の祖母は『脚を洗う』との言い方をしたと。嫁入りで持参した黒漆塗のタライは、湯殿でほかの用途には一切使わなかったものだ。
 どんな縁なのか判らないが、『煎餅おどさ』という老人がいた。米の粉をこねて、丸形の薄い煎餅にして、乾燥させた後に、炭火で加減しながらあぶると出来上がり。『孔あきせんべい』といって、真ん中に藁などを通していたから、「あぶせんべい」のことだね。
 藩学校のお雇い教師のウオールが語った、珍田捨巳氏の思い出も秘話風。『ミスター・チンダは立派な青年である。然し、彼のブツクは或る種の食べ物の臭気がするので困る』とは、沢庵好きなのか。
 懐から英語の辞書を離したことのない珍田は、紙でぐるぐる巻きにした沢庵も一緒に入れていたのだった。
 耳の垂れた犬のことを「カメ」と呼ぶのだそうで、犬が洋種か和種の区別は、耳で判断する。むかしは西洋人が犬を飼っていて、犬を呼ぶ『カムイン!』が、『カメン』に聞こえて、『カメ』と記憶されたのだと。これはさるおんべ婆様の話。
 山口館長のベレー帽姿は、とてもお洒落で、さすがに旧藩士族様の末裔は、歴史や文化に造詣が深いのでした。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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弘前市は躍進する=7

2016/1/12 火曜日

 

合併10年の記念特集号「市議座談会」
弘前高等学校(開設準備の段階は官立第十六高等学校)の落成記念絵葉書から
市制施行70周年記念祝賀会。奥が分庁舎

 昭和三十年四月一日に、中津軽郡十一か村を合併した旧弘前市。合併十年の記念特集号を、四十年四月に発行していますが、その雰囲気は見出しからも感じてもらえましょう。
 いわく『今までは基礎固め 多方面で着々成果』『将来は中郡三村も 観光行政で共同歩調』『こじれた感情問題 高い税金で二の足』『発展のカギ握る農政 地場産業の育成政策考えよ』。
 この紙面は『市議座談会』と銘打って、編集局次長のあいさつから始まります。『この二十二日にはめでたい記念式典を行うことになったわけ、いうなれば弘前市は合同結婚式を挙げてから今年で十年目、この合同結婚後十年間どのような歩みをしてきたか、またこの結婚生活をますます固めるという意味で、これからどうあらねばならないか』でした。
 いまでも、このようなリードで記事を書きこなせましょうかな。これは、私たち読者にも向けられた問いかけでありましょう。
 半世紀も前に『岩木あっての弘前、弘前あっての岩木だ。相馬にしても…』という発言や、『市街地は、周辺の農村地帯がくしゃみをすればカゼをひくのだから。(笑い)』は、いまも変わらぬ卓見。
 第二面では『躍進へ更に努力』と、藤森睿市長や、『これからが大切』の雨森良太商工会議所会頭の談話。
 粛々と十年間の政治史を要約しつつも、『充実した弘前大学』に続く記事に衝撃です。『「学都弘前」の名前は戦後の二十四年に弘前大学が発足してからのことばである』だよ。
 そうなのかぁ、官立第十六高等学校を誘致した大正時代からではなかったのだ。まさに戦後の弘前は、軍都から、学都に変換すべく喘いで生き抜くのね。
 第三面は『市政を推進する 庁内幹部人物ガイド』。まるで市庁舎の課室案内で、廊下の右・左と幹部紹介。
 まぁ、いまでも人事異動の際には紹介記事が掲載されるが、なにやらその根底の想いは変容しているのかも。
 いまもそのままの市役所本庁だが、旧師団長公舎の場所には、弘前市警や水道部で使用した分庁舎があった。正面一階には教育長室や、教育委員会事務局があり、奥には中央公民館日本間の別館も。ここでは、見栄で借金をする披露宴より、会費制で新たな旅立ちの二人を祝福する、公民館結婚式も開催ねっ。
 新聞はキチンとした場所に保管され、ちゃんと情報が提供されれば、残酷なくらいに、その時代の息づかいさえも伝えてくれる。
 記者のご労苦、大変なことと思いまする。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載から出版へ 貴重な記録集①=8

2016/1/13 水曜日

 

連載「写真でみる弘前の昔と今」
弘前愛成園・仰徳館
慈善館

 郷土の出来事を報道し、記録し続けてきた新聞社だが、その偉業のひとつとして、昭和三十三年八月から十月まで、四十回にも及ぶ連載を記憶したい。
 題して「写真でみる弘前の昔と今」。この企画は、弘前市の市制施行七十周年を記念したものだった。冒頭、『貴重史料の散逸を防ぐ意味から、明治―大正時代の街の面影を伝える写真を収録現在の街と対比し、県内の人たちに紹介することになった』と宣言する。
 第一回目の見出しは、『ガラリ変った下土手町 今も昔も一流の繁華街』。現在の様子で掲載された写真も、すでに約六十年も前となるのだし、往時の写真は明治三十八年だから、なんと百十年前。
 第二回目は、一番町の坂の上、正面突き当たりにあった警察署。いまは弘前公園の外堀に伸びる、桜大通りになってしまったよね。
 警察制度が出来たのは、明治四年のことだそうで、その七年後に弘前警察署が設置されたという小史も親切。
 『近く取壊される』と、状況を報告されているのが、昭和九年に改築された現庁舎。
 この南側に隣接していたのが、市役所だけど、この紹介は十二回目に登場。その前に、『コミセのあった百石町』や、『モダンになった蓬莱橋』『桜の名所であった富田』などがある中、『転々宿がえした愛成園は出色。
 設立者の佐々木五三郎のことは、弘前人物志などにも収録され、愛成園の記念誌も出されているけれど、ご覧になる機会は少ない。
 『愛成園は本県唯一の孤児保護施設であるがもとは東北育児院とよんだ』と述べ、明治三十五年に本町に開設されたという。往時の写真は、同三十八年に下新寺町に移転したのを掲載。佐々木が愛成園の運営資金を稼ぎ出すために、映画の常設館としたのが慈善館。
 愛成園は、昭和二十二年に富田に移転したが、近況の写真は移転後にアパートに変わった旧育児院を収録ね。
 こんな、細やかな心遣いが見られる記事を出せる社の心意気は、大事だと思います。
 市役所の回は、『ほとんど明治のまま 近く取壊す弘前市役所』が見出しであります。
 明治二十二年(一八八九)に市制施行し、翌年十一月に竣工した当時の写真。七〇年後の写真を見比べても、ほとんど変わらない。
 『現在上白銀町市公会堂跡に工費二億円で新庁舎を建設中でありオンボロ庁舎は近く取壊すが、市役所ばかりかわって街が維新のままでは、進歩がないことははなはだしく、庁舎と同じく街の近代化ものぞまれている』。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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連載から出版へ 貴重な記録集②=9

2016/1/14 木曜日

 

弘前裁判所
長安倶楽部 西より
火災に遭った津軽病院

 連載で一話読み切りにならず、陸奥新報が見出しに登場している話題は、なにかなぁ?正解は図書館のこと。『明治中期の図書館 石垣だけは今も残る』と、東北電力弘前営業所の場所に開設された「私立弘前図書館」の歴史から紐解きます。
 往時の写真は、ちょんまげ姿を思い起こさせる、創始者の成田果の一枚。『旧藩主の財産管理者も務め、さらに郷土史「鷹ヶ丘城」の著書もあり、明治における郷土の学者である』とは、なかなかに博識な記事でしょ。
 続きの第二話では、『日露戦勝記念に新築 陸奥新報がその跡』なんだよねぇ~。
 追手門広場に鎮座している旧図書館が、場所柄が良く納まっているから、昔からずっとあったかと錯覚する。でも、当初は北に玄関を向けていたから、まさに、陸奥新報の社屋のイメージなのです。
 ご近所の話題で、お次は『おそれられた裁判所 五度も火災に見舞わる』。弘前裁判所は、明治一〇年に青森裁判所を移転・改称したもので、いまの青森地裁にあたり、地裁弘前支部は弘前区裁として、弘前裁判所内に設けられたそうです。
 近況の写真は、『近く完成する青地裁弘前支部の新庁舎』だけどね、その姿もないよ。
 失われたものの話題では、『花やかな市民社交場 長安クラブいまは保健所に変身』も同様で、保健所は移転して、西側の池泉すらも、干上がって大きく変貌。長安倶楽部って、四季醸造を果たした、東北の酒造王 福島藤助が建設したよねぇ。その正面の写真って、みたことがないから、誰か教えてくれませんかねぇ~、ホントに。
 面影もないつながりなら、『面影ない次郎兵衛堤 昔は満々と水たたえる』は、懐かしい思い出なのですよ。
 津軽病院って呼んでいた、市立病院の南東に広がっていたっけ。まぁ、子ども心にも、あの辺は、なにやら近づいてはいけないような、妙な怪しさを感じておりましたぞぉ~。
 『景勝地から学校田へ いま医学部の建物並ぶ』は、南塘の池。
 市街地の同じ場所から撮した写真で、半世紀ほどでこれほど異なるもの、ないかなぁ~。
 鏡のような水面に、静かに写る逆さの岩木山、だから傍には鏡ヶ丘があり、観ていて飽きない日暮橋がある。
 これに続く連載は、『鳩笛の生まれた寒村 いまは住宅地の下川原』と、土淵川を遡ってのご紹介。こんなロケ地の選択も、他所の読者には親切なご配慮ってモンだよねぇ。
 最近の写真に、寒沢町への橋と高谷家附近を選んだのも慧眼!
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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わがふるさと 貴重な記録集③=10・完

2016/1/15 金曜日

 

「写真でみる弘前の昔と今」の歩兵第三十一聯隊の記事
下白銀町時代の東奥義塾高校
弘前市が発行した陸軍特別大演習を記念した絵葉書

 かつては軍都といわれた場所柄だし、当然ながら軍隊遺蹟のことも収録されています。
 しかし、その登場は『兵舎から引揚者寮へ 軍都への出発・31連隊』と、まだまだ世情を汲んでのスタート。明治三〇年の軍旗祭の写真提供は、富野町にお住まいだった、日本画家の竹森節堂氏ね。
 歩兵第三十一聯隊が駐屯した、いまの桔梗野小学校一帯は、津軽家が所有するりんご園だったとか、日曜随想で披露させていただきましたよねっ。軍隊が勇ましく紹介されるのは、番外編になっての『露軍撃破した八師団 市民は凱旋門建て熱狂』『天皇迎えて大演習 軍都の花やかな思い出』という具合。
 大元帥陛下をお迎えして、陸軍特別大演習がこの地で挙行され
たのは、大正四年の一度だけのこと。七年前の明治四十一年に行啓された東宮殿下が、再び訪れるというので、放置された天守を戻し、下乗橋や蓬莱橋だって架け直したんだよね。
 この回だけには、往時の写真が三枚掲載され、いずれも眼にすることのないもの。私も大演習の記録集で承知でも、オリジナルの写真は見ていませんよ。
 学校の話題も大局を捉えたもので、藩学校の伝統を受け継ぐ私学として、『廃校や焼失なども経験 古い歴史をもつ東奥義塾』と、『窓に格子のある校舎 二回も焼失した一大小』を掲載ですよ。
 『その前身は稽古館といって藩政時代に開校された津軽最古の学校』だから、連載の昭和三十三年から数えると、寛政八年の開校から、百六十一年の由緒。かつては天文台を備えて、和暦も出版したことや、『剣道の名門として知られたが竹刀を持つ手をバットに変えて近代スポーツの花形野球の名門になった』も記憶したいこと。
 明治五年の学制発布以来、寺子屋的なものが継続され、やがては小学校と名乗るようになるが、大成小学校は明治十八年に、蓬莱・知類・敬業の三校が併合して新築校舎となった写真を掲載。火災をまぬがれてきたのは、太鼓だと、名物の紹介。
 このように充実した連載は、やがて『写真でみる弘前市70年 附;津軽の昔と今』として発行されました。
 藤森睿市長の巻頭言は、前にも書いたかなぁ。『市民の方々の積極的なご支援の賜で、いわば“市民の作った記念写真帳”』だと。
 笹森貞二教育長は、『郷土を知ることこそ真の郷土愛であります。この本は生きた郷土の姿をまざまざと写真でみることが出来、その解説も立派』と記す。
 これからも、陸奥新報に期待しますぞぉ!
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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