続々俗 まちネタ散歩!陸奥新報

 

2016/1/6 水曜日

 

 本紙記事などを拾い読みしながら、昭和の世相を振り返る「まちネタ散歩!陸奥新報」。第4弾は本紙の創刊70年を記念した特別企画。10回にわたって連載します。

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社史や戦後の発明品=1

 

陸奥新報社初代社長・本多徳治氏の記念碑
昭和23年4月の菊いもから砂糖抽出の記事
朱魚堂にて。右端に写るのが木村氏

 地元の生活史のような、身近な歴史を知りたいと思って、その折に参考にしたのが『陸奥新報に見る津軽30年の年譜』。昭和二十一年九月一日の創刊以来、三十周年を記念したB六判の小冊子。
 昭和六十一年に行われた四十歳の記念は、「本紙四十年小史」「記者こぼれ話」などの特集号の増刷りです。
 半世紀、さすが五十年の節目には、函付きクロス張りの「陸奥新報五十年史」が発刊されているから、さてさて、二十年後の今年は、どんな社史に出会えるのか、いまから楽しみでございましょう。
 かように紙面をいじりながら、地域のゾクゾクワクワクしそうな話を集めてみましょ。
 恐縮ながらクイズであります。紙面一ページを飾るコラム、短評欄の名前は何でしょうか?
 そう、正解は「冬夏言」ですよねっ。では、命名の由来をご承知?
 ヒントは、同じ名前を弘前市内のどこかで見聞きしたことはありませんか、ってね。
 そう、本町の老舗菓子司の大阪屋の銘菓。豊臣恩顧の福井家先祖が、大坂の陣のことを忘れないと名付けた和三盆のお菓子だよね。
 この名が紙面に登場するのは、創刊当時の事務所が大阪屋さんに設置されたからだと。こりゃぁ、新入社員の試験問題になるなぁ。
 社史に由来のネタならば、初代の社長が誰かってことは覚えておきたいことですねぇ。もちろん、基督教界の先駆者、本多庸一の甥にあたる徳治です。
 ならば、彼の記念碑は、何処に建立されているかお分かり?
 なかなか、創業者や郷土の先達に事績も、伝承されにくい昨今。弘前八幡宮に建立されていますから、八幡宮に参拝して、ご確認を。
 戦後の復興の兆しが見え始めた昭和二十三年四月に、『菊いもから砂糖 いなご醤油も成功』の見出し。これは知らなかった話ね。
 菊いもから砂糖を抽出する技術は難しく、成功しても技術公開をしないのが実情。そこに挑戦したのが『津軽文化協會理事長、マンドリナータ・デ・ヒロサキの主宰者として知られている文化人木村源蔵氏の二年越しの苦心の結晶だからまさに文化糖と名づけてもいゝだろう―』と。
 また、いなご醤油の製造に向けて、農村と提携し、小学生にも手伝ってもらう計画。
 『リンゴを原料とした酢は英米ではビネガと称して愛用されているが、貿易再開とゝもにリンゴ酢が花形として登場』で、木村氏の大源商会工場では、年産五千石の生産が確実視されていたんだよ。
 文化・芸術で弦三と名乗る先生。こんなに多彩なご活躍があったとは、驚くほかない!
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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社屋の変遷やら=2

2016/1/7 木曜日

 

通称榎小路に社屋があった時代の紙面
陸奥新報旧社屋
昭和25年4月「河鹿と共に五十年 西澤翁」の記事

 この手の話は、最初の連載の締め括りにも書いたから、飽きずにご笑覧いただけるように粉骨努力の平常心。
 社名は、津軽や青森でもなく、対象地域を宏大にしようとの気概から決めた。これが黎明期の大阪屋時代で、印刷は元寺町の合同印刷株式会社に依頼し、鉄砲町に事務所を構えたのは、創刊号発行の二日前の八月三〇日。
 十月には黒石支局、年内には青森・五所川原にも開局という充実振りを見せる。やがて、組み活字ができる新聞社を目指し、わずかな土間に机を置いた事務所を、和徳町の久一呉服店跡にお引っ越し。
 しかし、元来が新聞事業は金儲けにならないし、用紙や資材不足から、丸二年後には深刻な経営難に陥った。
 再建陸奥新報は、社屋を小野吾郎氏が経営する弘前協同印刷所に移し、打開策を模索。これが功を奏し、休刊が週二日から一日にと事態も改善して、昭和二十四年には十ページの元旦号を発行している。
 しだいに軌道に乗るなか、間借り生活を脱却して、自前の印刷工場も持つべく、社屋は二十五年一月に、通称榎小路に。借地で狭かったので、編集や営業の社員は、向かいの榎神社の社務所を利用させていただいた。
 現在地の独立社屋に移転したのは、昭和二十六年の師走直前。ここは明治時代に北辰日報社があった場所で、市役所にも警察署にも近いという地の利を得た最適地だった。
 さぁて、社屋は何回引っ越ししたかな?
 ひとつの仕事を七十年も続けるのは大変なことだが、営々と半世紀も続けた話が、昭和二十五年四月に登場。
 『陛下も舌づつみ 河鹿と共に五十年』の西澤翁、七十歳が主人公でありまする。
 『小さい時は悪たれヤローの河童小僧と呼ばれ、冬を除いてはのべつ岩木川に行つて河鹿と遊んでいた』河鹿取りの二代目だと。
 父親と一緒に二人で仕事をしていたが、相方を失った三十年前からは、一人で行う「一人スクリ法」を考案。また、縫い針で突き刺して取るのも、西澤さんの発案だというが、門外漢にはこの漁法がチョイとわからん。
 かつては七寸もある大きなのが網に掛かったのが、漁獲高も大正時代に比べ、一割ほどとは夢のよう。
 『天皇様が弘前にいらした時私の獲つた河鹿をうまいと言つて食べられたそうですよ、よく弘前に来られる秩父の宮さまも私の河鹿を好んで食べて呉れました』と懐かしむ。
 こんな話を拾い集めておかないと、郷土の川の恵みも、宮家の思い出も消えちゃうね。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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六十年むかしの都市像=3

2016/1/8 金曜日

 

中弘合併の状況を伝える本紙
千年村役場は合併後、東公民館として使用されていた
29年11月に掲載された「産婆生活五十年」の記事

 創刊三十周年記念に出版の『津軽30年の年譜』には、五年刻みで概要をまとめた『30年の軌跡』のコメントがあるから拾い出し。
 「苦しかった配給生活」「自立と復興期」で昭和二十年代が終わり、「新弘前へ脱皮図る」まで来ると、中津軽郡十一ヶ村を合併した昭和三十年が話題。
 当時の分析を紹介すると、昭和二十九年の弘前の平方キロの人口密度は七千二百十七人。青森市が二千百七十三人、八戸市が一千六十五人というから東北最高で、全国でも第八位という高さだって。
 地域の活況度を知る基準は、昼間人口の増加というのも、門外漢にとっては新鮮な情報でありまする。これが昭和十五年の調査で、弘前は全国屈指だと。
 なんといっても学都で、医者、お寺、料理飲食店、映画館が多いもんね。昭和三十一年のお寺の数は、青森が十、八戸が二十だが、弘前は六十ヶ寺だと。映画館は十七館で、山形七、福島十二、盛岡十三、秋田十四に比べてもダントツ。人口比率から見ると、全国五百市の十位内だって、こんな統計は面白い!
 更に、昭和二十七年の東京市政調査会編の日本都市年鑑。弘前は商業都市。青森が交通都市、八戸が水産都市と分類された。つまり合併前の弘前の産業人口比率は『第一次七・五〇%、第二次一七・八九%、第三次七四・四五%』で、全国有数の消費都市だった。
 それが三十年から三十二年の周辺町村合併により、第一次五三、第二次一一、第三次三六前後と大きく性格を変えた』とは、なんとわかりやすい解説ね。
 町村合併促進法の施行によって、弘前市は中郡十六村との合併を模索したんだよ。歴史は結果の連続だけど、実は途中経過も大事。
 産みの苦労つながりでもないが、二十九年十一月には『産婆生活五十年』の見出しで、丹藤さんが登場です。
 明治十二年、菓子店の三姉妹の長女として生まれたが、若くして未亡人となったのを契機に、自ら「自立更生」の額を掲げ、弘前病院見習看護婦を経て、明治四十三年に産婆業を開業。お目出たに立ち会った総数は、なんと一万六千余人というから、『全員が生きて市内に居住しているとすれば在住の市の人口の約二割五分の人が丹藤さんの手にかかって生まれたことに』や『大正五年女として四五番目で自転車に乗りました』は驚き。中弘地方に六十五人の産婆がいる、軍人宅をお得意様に、日に七、八人を取り上げた話も貴重ね。
 昨今は開店休業というが、実は私もお世話になっとりましたっ。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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書きにくい話ながら…=4

2016/1/9 土曜日

 

昭和37年4月に報じられた「藤代病院を守れ!」の記事
弘前市立考古館開館を伝える本紙
弘前公園の桜の恩人・福士忠吉翁の功績を伝える本紙

 「ペンは剣よりも…」と、威勢よく世間さまも新聞社も言いたげ。でも、入社試験を除けば、「天下の公器」を通すのは難しいのだ。
 しかし、記事をキチンと読むと、スルっと指の間から漏れたような気持ちが見え隠れ。
 昭和三十七年四月だと、半世紀も前ながら、『藤代病院を守れ!』の見出しで、『弘前市労連 廃止反対の運動展開』だもんなぁ。
 キチンと報道する立場に敬意を払い、正々堂々と行政の施策を論じてゆこうという、清々しい武士道の気概。
 『応急舗装に大わらわ 弘前サクラまつりに備えて』も、お役所仕事責めてはいない。天候不順の冬だったから『例年より凍上がはげしく、それだけ道路のいたみもひどい。…予算の関係でアナの部分をアスファルト乳剤で埋めるだけの文字通りの“テンプラ舗装”だけに、長い道路でも四、五日で舗装を終わるという』はお見事。
 『花の弘前公園』という連載特集だって、なかなかのペンの冴えを見せておりまする。『弘前城は堀、石垣、矢倉がほとんど原型のままの城跡として日本一といわれる…市役所前の外壕は、市役所庁舎の建設で地下水が断たれ水が枯れるためポンプで湧水を供給している。夏にはこの堀にレンコンの花が咲く』。
 そういえば、岩木山麓の総合開発が行われて、輝く未来に展望を開いた一方、日本最大の竪穴住居跡を発見。
 その出土遺物を展示する考古館が開館ね。私は、ここで考古学や村越先生と出会って、史学の道を歩もうと思ったのだが、良かったのか、悪かったのか?
 『出土品三〇〇点を陳列 弘前市立考古館きょうから店開き』。「いのっち」も、当時は『イノシシ土偶』と地味なデビュー。
 弘前公園の桜の恩人といえば、内山覚弥と菊池楯衛しか思い浮かばないんじゃぁ、失礼ってもんであります。
 『咲きほこるサクラの陰に 若木みごと開花 しのばれる福士さんの遺徳』だよ!
 公園には『若木を含めて約三千本(弘前公園管理事務所調べ)のサクラが植えられているが半数近くは樹令が六十年から二百年という老木…この苦境を知った弘前市鍛治町の福士忠吉翁は、さる二十九年サクラをはじめツツジ、モミジの寄贈を弘前市に申し入れ、三十一年まで三年間、毎年埼玉県安行市の苗木問屋に出向いて一本づつ丹念に選んだサクラの若木(十年木)一千本余市へ贈った』って。
 全国のモミジを公園に寄附した、上土手町の吉川寅太郎さんのことも、ちゃんと覚えていますよねぇ。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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棟方志功と市民会館=5

2016/1/10 日曜日

 

本紙創刊25周年を記念して運行された棟方ねぷた
市民会館落成記念の小冊子
棟方志功が緞帳の意匠を快諾したことを伝える本紙
志功のユーモラスな発言を報じた本紙

 陸奥新報社の数多い文化事業の中で、「世界のムナカタ」自らが二〇年以上も審査員を続けた版画展。今なお、その魂を受け継いで、子どもらの創作意識を魅了していますよねっ。
 その志功の巨大な作品といえば、創刊二十五周年記念で運行された『棟方ねぷた』と、市民会館の緞帳かな。
 昭和三十六年九月には『市民会館はどこに建つ』の見出し。
 元寺町の市役所跡地は、交通の便はよいものの、芸術・文化活動に利用される大講堂の静粛性を保てるか、との難点があるんだね。
 第二候補の公園テニスコートは、追手門を玄関にする適地で、将来、県立博物館を誘致できれば、図書館・市民会館という文化センターに。しかし史跡の保存や観光上の観点も考慮せねばならぬ。
 やがて十一月には、『単に会館を設計するだけでなく環境整備を合わせて考える』という前川國男氏の談話を前振りに、『総工費三億円の大会館 三の丸は文化センターに』。
 市民会館の建設時点で、将来は野球場を移転させて、別の場所に総合運動公園を設けるという、壮大な計画が打ち立てられたのだ。 現在は、追手門から市民会館に向かうと、まず左にテニスコートがあるけれど、かつてはバレーボール場とか相撲場があったなんてのは、きっと昔話ねぇ。
 斯界の権威、前川國男の見識と藤森睿市長の構想が一致し、市民会館の建設は進んだ。やがて三十八年十一月に『志功画伯が意匠 弘前市民会館のどん帳郷土のためと快諾』。
 石橋ブリヂストン社長が、緞帳用にと五百万円の寄附を寄せた謝辞で上京した市長。前川を訪問した折に、棟方に原画を依頼することを推挙された。早速に鎌倉に棟方を訪問したところ、快諾いただいたんだって。へぇ、こうして原作者が決まったとは、知らなかった話でありまする。
 やがて三十九年五月一日の観桜会の最中、落成式を迎え、『出ベソが私の作品 棟方画伯に満場のかっさい』。『わたし自身、これを誰がかいたかと疑ったくらい。いまみてビックリ。本当です。これはわたしの作というより、美を愛する人たちの結晶です。芸術の極致は西欧も日本も同じで、ミロのビーナスもこのひひたちの図も芸術も、いわば世界の美がこうあらわれたものです。ただ、ミロのビーナスにはヘソがないが、わたしの作、出ベソです』。
 モノが人の手を経て伝わっていくことは、もちろん大事ですが、その心とか、託した想いというのも忘れたくないですよねぇ。
(前弘前図書館長 宮川慎一郎)

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