津軽三十三霊場

 

三十番 大光寺慈照閣(大光寺)

2008/4/30 水曜日

 

弘前城亀ノ甲門は、かつては大光寺城の追手門だった
大光寺「慈照閣」。落雷で失われた富姫の三重の塔もここにあった
大光寺・観音堂。右側に文政6年に建立した、西国三十三所巡りの碑がある

 津軽一統の大志を抱いた為信は、二度にわたり大光寺城を攻めている。
 当時、津軽の南部勢力は、石川城に郡代南部高信がいて、一門を支配していたが、元亀2年(1571)為信に奪い取られ、高信は自害した。
 獏不次男著「津軽太平記」(河出書房新社)ではこうだ。

 『はい、其が生まれ育った堀越城は、今は土塁が壊れ、堀は埋まって見る影もなく…。万一悪党どもが巣くうことでもあれば、一大事。日頃(ごろ)のご恩報じに其が修理を施し、殿に進呈したい』

 得意の謀略戦である。
 石川城のわずか一里弱の堀越城の修理を名目に俵やカマスに兵糧や武器を入れて運び、為信自身は病気を装って、高信の油断を誘い、5月5日の子の下刻―というから午前一時、石川城大淵ケ鼻城を急襲した。
 大光寺城攻めは、その3年後のことである。為信の軍勢は3千。第一陣は館田口、第二陣は東根口、本陣を館田林に構えたが、急を聞いた大光寺勢は、先手を打って為信の本陣を襲った。
 ふいを食らった為信勢は背走。この時、為信の馬が暴れて泥田に落ち、危機一髪のところ家臣桜田宇兵衛が馬もろとも担ぎ上げ、ようやく為信は虎口を脱したという。
 第二陣はこれも奇襲である。翌天正3年、元旦の未明の急襲。大浦勢は1日繰り上げて大みそかに新年を祝った。真冬の雪上作戦では、兵にかんじきをはかせ、長柄のやりを持たせている。
 元旦、敵の油断を突いた為信の兵は、ときの声を上げて城を囲んだ。大光寺勢も兵300を率いて打って出たが、大浦勢は背走と見せて、雪やぶに兵を誘い、用意を調えた伏兵がここぞとばかり活躍した。
 この後も、大光寺城の残党による合戦は続い
たが、ここに為信は平賀郡を掌握した。大光寺城の追手門は、その後築城された弘前城の亀ノ甲門として、今も残っている。

 仏法に名を得しいまの大光寺 参る心ものちの世のため

 沖館から平賀駅前に入り北に向かう。このあと向かう大鰐街道は、南への道だから少し逆戻りすることになる。
 大光寺慈照閣は集落のはずれ、保食(うけもち)神社境内にある。ついこの前までは、広い田んぼのまん中に大光寺の観音さまがポツンと見えていたが、県道が大光寺の集落と保食神社のまん中を通って、景観が様変わりしている。平川市を南北に国道102号バイパスと県道大鰐―浪岡線バイパスが平行し、その二つを結んで東西にこの県道が走っている。
 ここまで来ると、いかにも津軽平野のど真ん中にいるようだ。広船、沖館は津軽の戦国の舞台だと言ったが、ここ大光寺こそ中世―戦国時代の大古戦場だったのである。
 鎌倉時代(1192―1233)初期、幕命を受けて津軽に曽我氏が、大光寺城主として入った―とは、前号で書いた。さらに南北朝時代宮方について勝った安東氏は、大光寺を領し地頭郡司として、三代九十余年にわたって栄えることとなった。十三湊から移入する新しい文化によって大光寺は、この地方の中心となったのである。当時、ここ大光寺は「五日市」と呼ばれていたそうだ。
 その後、足利時代に入ってから、三戸の南部守行が陸奥守(むつのかみ)に任命されて、南部氏の勢力が伸びてきた。これに対して安東氏は大いに抵抗した。足利時代の津軽は南部、安東の戦乱に終始したのである。
 そして応永25年(1418)南部守行は大兵を発して、大光寺城、藤崎城の安東氏を攻め、安東勢はついに13の唐川城に後退した。南部氏は追撃の手を緩めず、安東氏は唐川城から小泊の柴崎城に追われ、ついには松前に渡った。この後も、安東氏は故地回復を図り、一時は堀越、大光寺、藤崎の諸城を奪回したが、時代はもはや安東氏のものではなく、長享2年(1488)秋田で自刃した安東政季を最後に、南部信時が津軽全土を支配することとなったのである。
 140年にわたって津軽を支配した南部氏であるが、この後大浦為信による津軽一統の歴史は知られる通りである。元亀2年(1571)5月、石川城主南部高信を滅ぼし、4年後の天正3年(1575)元旦、大光寺城を降し、さらに天正6年7月には浪岡城の北畠氏を、同13年5月には田舎館城と油川城を機略によって奪い、ついには津軽全土を掌握した。
 大光寺慈照閣の創建は、為信の津軽一統後のことになる。
 大光寺城は為信の女婿である、津軽左馬之助藤原建広(たけひろ)が城主となった。城主・建広の妻である為信の三女・富姫は慶長8年春、若くして病死している。愛娘の死を悼(いた)んだ為信は、同年8月、前城主の瀧本氏の菩提寺跡に、三重の塔を建てた。この場所が保食神社の境内である。そして3年後、建広も観音堂と護寺を建立。「慈照閣」もまた、この時の命名である。
 もっとも、左馬之助建広は為信の死後、甥の大熊(おおくま)を擁して義兄・信牧と跡目相続を争ったが、敗れて津軽を追放された。
 二代津軽藩主となった信牧は、為信の悲願だった弘前城を構築した。元和元年(1610)、領内にある寺院を弘前の城下に集めている。大光寺にあった多くの寺院も、移されたが「慈照閣」だけは残された。“富姫の三重の塔”を守るためだったという。
 しかし、三重の塔は寛永7年(1630)9月、落雷を受けて焼失している。
 その後も、観音堂と慈照閣は存続が許され寛延年中(1748―51)には、津軽霊場30番に加えられた。慈照閣は薬師如来を本尊とし、観音堂は聖観音と33観音を祭っていたという。しかし、明治初年の神仏仕分けで観音像は上納され、その後聖観音は戻っていない。明治中期、観音像が祭りなおされた時には千手観音と代わっている。
 いずれにしても、中世―戦国の津軽覇権を争った古戦場の面影は今はない。
 ………………………………………………
 31番・居土普門堂は、県道から国道7号線を南下。10キロほど。

 
〈交通メモ〉 29番・沖館観音堂からおよそ5キロ。徒歩1時間15分、車で8分。

 西国霊場三十三所
  (百観音のうち)

 一番 天台宗 
那智山青岸渡寺(那智如意輪堂)和歌山県
 二番 真言宗 
紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)和歌山県
 三番 天台宗 
風猛山粉河寺(粉河寺)和歌山県
 四番 天台宗 
槙尾山施福寺(槙尾山)大阪府
 五番 真言宗 
紫雲山葛井寺(藤井寺)大阪府
 六番 真言宗 
壷坂山南法華寺(壷坂寺)奈良県
 七番 真言宗 
東光山竜蓋寺(岡寺)奈良県
 八番 真言宗 
豊山長谷寺(長谷寺)奈良県
 九番 法相宗 
興福寺南円堂(南円堂)奈良県
 十番 天台宗 
明星山三室戸寺(三室戸寺)京都府
 十一番 真言宗 
深雪山上醍醐寺(上醍醐寺)京都府
 十二番 真言宗 
岩間山正法寺(岩間寺)滋賀県
 十三番 真言宗 
石光山石山寺(石山寺)滋賀県
 十四番 天台宗 
長等山三井寺(三井寺)滋賀県
 十五番 真言宗 
新那智山観音寺(今熊野観音堂)京都府
 十六番 法相宗 
音羽山清水寺(清水観音堂)京都府
 十七番 真言宗 
補陀洛山六波羅蜜寺(六波羅蜜寺)京都府
 十八番 天台宗 
頂法寺六角堂(六角堂)京都府
 十九番 天台宗 
行願寺革堂(革堂)京都府
 二十番 天台宗 
西山善峰寺(良峰寺)京都府
 二十一番 天台宗 
菩提山穴太寺(菩提寺)京都府
 二十二番 真言宗 
補陀洛山総持寺(総持寺)大阪府
 二十三番 真言宗 
応頂山勝尾寺(勝尾寺)大阪府
 二十四番 真言宗 
紫雲山中山寺(中山寺)兵庫県
 二十五番 天台宗 
御嶽山清水寺(御嶽寺)兵庫県
 二十六番 天台宗 
法華山一乗寺(法華寺)兵庫県
 二十七番 真言宗 
書写山円教寺(書写山)兵庫県
 二十八番 真言宗 
成相山成相寺(相成寺)京都府
 二十九番 真言宗 
青葉山松尾寺(松尾寺)京都府
 三十番 真言宗 
竹生島宝厳寺(竹生島)滋賀県
 三十一番 天台宗 
姨綺耶山長命寺(長命寺)滋賀県
 三十二番 天台宗 
繖山観音正寺(観音正寺)滋賀県
 三十三番 天台宗 
谷汲山華厳寺(谷汲観音堂)岐阜県
 巡礼開山花山院 真言宗 
東光山菩提寺(花山院)兵庫県

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三十一番 居土普門堂(居土)

2008/5/14 水曜日

 

大鰐・大円寺本堂と境内。居土から苦木に向かう途中、ぜひ立ち寄ってほしい
大杉と観音堂。右奥にあるのが旧堂
居土普門堂への参道。木の根が足掛かりになって、柔らかな感触である

  昭和35年3月に当社が発刊した「わがふるさと」という本がある。ここに大鰐のいわれ―という一項がある。
 
 大鰐―東北の果て、雪国の温泉地に、どうして縁もゆかりもない熱帯地方にすむ動物の名前を、地名としてつけたのか?
 どうも不思議な話である。この地名のいわれは阿闍羅山や大日さまと深い関係がある―と土地の人はいう。…天平時代(729―48)、時の聖武天皇が諸国六十六カ所に国分寺を造らせた。…この時、今の阿闍羅山に北門鎮護の祈願所として大安国寺を造った。
 この大安国寺が次第になまって「おうあんじ」になり、さらに「おうわに」と転化した、というのである。

 なるほど、そうだったかと思わせる。この本を書いた当時の文化部長だった船水清さんは「言われてみると、今でもあまり『発音』にかけては自慢できない津軽人のことだから…まして津軽の祖先たちの『発音』では、そうかもしれん、という気にもなる」と合点している。
 大鰐の大円寺縁起によれば、「ある時、この大日さまの額のビヤッコウから三筋の光が放たれた。第一の光は蔵館の神岡に。第二の光は碇ケ関の古懸に。第三の光は弘前の久渡寺にとどまった。それで神岡には大日さま、古懸には不動さま、久渡寺には観音さまを、それぞれ本尊にした」というのである。
 「わがふるさと」では当時のご住職に、「…神岡にあった大日さまが、現在の場所に移ったのは慶安三年(1650)。三代藩主信義は鷹狩りが好きで、ことに阿蘇嶽(長峰方向、東方六キロ)に行くことを好んだ。帰りには蔵館の湯に入り、大日さまにお参りするのが習わしだった。…ところが、信義は今の湯の川原にお仮屋を建てた。そこで神岡に行くよりも、近くに大日さまを造ったほうがよい―と現在地に移したというのだ」と語らせている。

 

 わが国を巡りめぐりて巡礼の めでたく帰るもとの居土へ

 

 大光寺・慈照閣を出て、県道・浪岡―大鰐線を南へ道なりに進むと国道7号線に出る。鯖石まで行くと、目の前に剣(つる)ケ鼻(はな)と呼ばれる大きな岩山が見えるが、今はそこにトンネルが掘られて碇ケ関―大館へ真っすぐ抜けるバイパス路になっている。
 居土普門堂へはトンネルの手前、宿川原から信号を右に入る。宿川原大橋を渡ってJR奥羽線、弘南鉄道大鰐線の線路を越え、ここも道なりに行く。
 ここに取材に来たのは今年の春先。畑はもうすっかり耕されて、黒土がきれいに見えている。山あいを三ツ目内、居土はひと筋道である。三ツ森山から流れる三ツ目内川が春の陽を受けてキラキラ光っている
 集落の中ほどにある観音橋を越えると、間もなく右手に熊野神社の大鳥居と急な石段が見える。ここが居土普門堂の入り口である。
 大鳥居をくぐるあたり、石段の両側には100年はとうに過ぎたろうと思われる杉の巨木が並んでいる。圧倒されるような幹回りの太さである。
 石段と言ったが、少し上ると石段は切れ、巨杉から張り出した根っこが、足元の土を固めて階段状になっている。お参りの女性が参道を下りてきた。「まだまだ、上ですか」と声を掛けたら「ちょうど、半分ぐらいです」と言う。
 しかし、もう少し行くと台地に出た。両側は畑地になって、リンゴが植えられている。右手には集落が見える。畑にはひと筋道が続いて正面の森の真ん前に鳥居がある。ここが熊野神社、そして居土普門堂がある。
 境内には樹齢600年以上という大イチョウが3本ある。さらにカツラの老木と杉に囲まれ、どこかほっとするような空間である。正面は熊野宮拝殿、普門堂は右手にある。
 居土観音堂は元和6年(1620)、二代藩主信牧の時代、村中によって建立されたという。津軽三十三所に加えられたのは、寛延年中(1748―51)で、やはり三十一番であった。
 「寛延巡礼記」には『御山、三ツ目内と申し、居土より少し上る。堂二間四面、東むき、萱ぶき。十一面観音。鳥居二カ所あり』とある。しかし「安政納経帳」には『居土邑鎮座、千手観音』と本尊が変わっている。
 明治六年の神仏分離後、居土観音堂も「仏体上納、廃社」となり、跡に熊野神社が置かれることになったが、三ツ目内の貴船神社に相殿されている。この後、村民の努力で熊野宮が置かれ、ひそかに隠しておいた観音堂を安置したという。
 この後さらに熊野宮が新築されているが、旧拝殿を残し観音像を祭り直し「居土普門堂」と名付けている。昭和33年(1958)には、観音堂を新築しているが、旧堂は今も観音堂右側奥にある。
 一番札所・久渡寺の項に「久渡寺観世音の起源は、延暦年間(782―806)三山坊の一寺として、阿闍羅山に建立された補陀洛寺にさかのぼる。…建久2年(1191)、唐僧・円智上人が津軽に来て、阿闍羅三山坊が荒れ果てているのを見て、不動尊を古懸に大日尊を蔵館に、小沢山といわれていたこの地に観世音を遷(うつ)して、布教の根拠地とした」と書いた。
 確かに三ツ目内川に戻ると、右手に阿闍羅山が大きく見える。標高はわずか609メートルであるが、阿闍羅千坊は十三千坊、梵珠千坊とともに津軽三千坊として、修験の霊山だったのである。
 ご詠歌にある『わが国を巡りめぐりて巡礼の めでたく帰るもとの居土へ』とは、居土に残る、修験の霊山・阿闍羅千坊の一角であったという伝説が元にある。かつて「観音寺のふるさと」であったとの強い思いがこもっているようだ。

 ………………………………………………
 三十二番・苦木観音長谷堂へおよそ9キロ。国道7号に出て南下する。

 

 
〈交通メモ〉三十番・大光寺慈照閣からおよそ13キロ。徒歩3時間、車で20分。

 板東霊場三十三所
  「百観音のうち」

 一番 天台宗 大蔵山杉本寺(杉本観音)神奈川県
 二番 曹洞宗 海雲山岩殿寺(岩殿観音)神奈川県
 三番 浄土宗 祇園山安養院(田代堂)神奈川県
 四番 浄土宗 海光山長谷寺(長谷観音)神奈川県
 五番 真言宗 飯泉山勝福寺(飯泉観音)神奈川県
 六番 真言宗 飯上山新長谷寺(飯山観音)神奈川県
 七番 天台宗 金目山光明寺(金目観音)神奈川県
 八番 真言宗 妙法山星谷寺(星谷観音)神奈川県
 九番 天台宗 都幾山慈光寺(慈光寺)埼玉県
 十番 真言宗 厳殿山正法寺(正法寺)埼玉県
 十一番 真言宗 岩殿山安楽寺(安楽寺)埼玉県
 十二番 天台宗 華林山慈恩寺(慈恩寺)埼玉県
 十三番 天台宗 金竜山浅草寺(浅草観音)東京都
 十四番 真言宗 瑞応山弘明寺(弘明寺)神奈川県
 十五番 天台宗 白岩山長谷寺(白岩観音)群馬県
 十六番 天台宗 五徳山水沢寺(水沢観音)群馬県
 十七番 真言宗 出流山満願寺(出流観音)栃木県
 十八番 天台宗 補陀洛山中禅寺(立木観音)栃木県
 十九番 天台宗 天開山大谷寺(大谷観音)栃木県
 二十番 真言宗 独鈷山西明寺(西明寺)栃木県
 二十一番 天台宗 
八溝山日輪寺(八溝観音)茨城県
 二十二番 真言宗 
妙福山佐竹寺(佐竹寺)茨城県
 二十三番 曹洞宗 
佐白山正福寺(佐白観音)茨城県
 二十四番 真言宗 
雨引山楽法寺(雨引観音)茨城県
 二十五番 真言宗 
筑波山大御堂(大御堂)茨城県
 二十六番 真言宗 
南明山清滝寺(清滝寺)茨城県
 二十七番 真言宗 
飯沼山円福寺(飯沼観音)千葉県
 二十八番 天台宗 
滑河山竜正院(滑河観音)千葉県
 二十九番 真言宗 
海上山千葉寺(千葉寺)千葉県
 三十番 真言宗 平野山高蔵寺(高倉観音)千葉県
 三十一番 天台宗 
大悲山笠森寺(笠森寺)千葉県
 三十二番 天台宗 
音羽山清水寺(音羽観音)千葉県
 三十三番 真言宗 
補陀洛山那古寺(那古寺)千葉県

 

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三十二番 苦木観音長谷堂(苦木)

2008/5/21 水曜日

 

津軽三十三霊場のご朱印が並んだ掛け軸と川崎さん
境内左側にある観音堂

杉並木に真っすぐ伸びる石段。登り詰めれば、広い境内に出る

 津軽三十三所巡りも残すところ“山観”こと、札納めの弘前・観音山普門院だけとなった。
 先だって、読者の方から「昭和29年に作った掛け軸がある」と電話をいただいた。私も取材の先々で、ご朱印をいただいてきた。それを軸に仕立ててあるということだろうと思って訪ねた。
 弘前市浜の町西一丁目の川崎栄一さん(60)で、富士見橋を渡ってすぐの床屋さんだった。「こういうものなんですよ」。そう言って、すっかり日に焼けた掛け軸を開いてくれた。この軸は、栄一さんの祖母ふゆさんが、昭和25年から28年までの3年間に巡拝したものだった。真ん中に「南無大慈大悲観世音菩薩」とあって、それを囲むように三十三所、さらに番外札所の三十四番までのご朱印がある。
 絹地に各札所のご詠歌が、きれいな仮名交じりの書体で書かれている。右わきの年月日だけははんこで押してあるが、あとは全部手書きである。
 「先日、押し入れを整理していたら、出てきたんですよ。父親が生きていたころには、盆、正月には掛け軸を飾っていたんですが…。私も還暦を過ぎたし、一度は三十三所を回ってみようかと思ってるんですよ」と栄一さんは言う。
 祖母のふゆさんはご主人を早くに亡くし、若い時から「念仏講」をよくしていたらしい。輪袈裟も残っていて、弘前や東北地区奉詠大会などの記念バッジが付いている。直門教導、権大教導というバッジもあるから、指導者格だったのだろう。
 昭和25年といえば弘前も、まだ敗戦の傷跡が色濃く残っている時代だろう。自動車で気軽にひと回りしてくるという時代ではない。
 ご詠歌の仲間か、気のあった者同士3年間、コツコツと歩いたのだ。初めから表装することを念頭に、絹地にご詠歌を書いてもらい、その上にご朱印をいただいてきたものであろう。

 

 いくたびも法に歩みを運ぶなり あまき苦木は後の世のため

 

 居土普門堂から国道7号バイパスに戻り、秋田県境に向かって南下する。平川を右に見ながら長峰の集落に入る。すると「苦木観音橋」と長谷堂入り口の大看板が目に付く。
 道なりに行くと、旧苦木農協跡にプレハブの納経所がある。ここを左に入って100メートルほどの狭い十字路に、「津軽三十二番霊場 長谷堂参道入口」の看板があって、少し行くと丘とも山ともつかないが、こんもりとした木々に覆われた所が見える。
 集落を抜けると辺りは、広いリンゴ園が続いている。神社の曲がりはなに、町で設置した看板に縁起の説明文がある。
 「苦木長谷観音堂は天文のころ(1532―54)長谷堂の地名で呼ばれていることから、南朝の武将水木監正が観音像を安置したと伝わっている」と書かれている。
 もう少し詳しく書くとこうだ。
 

 水木氏は南北朝時代(1334―58)、足利尊氏と戦って敗れた南朝の長慶天皇の武臣として、みちのくの果てに亡命した。紙漉沢(現弘前市相馬)に落ち着いた帝は、皇位を後亀山天皇に譲り上皇となったが、上洛の志を果たすことなく、紙漉沢で崩御した。紙漉沢に陵墓(みささぎ)があり、日本全国にある「長慶伝説」の中でも有力な場所とされている。

 上皇崩御の後、水木氏は阿闍羅山に移り、さらに苦木に住むようになった。そのころの苦木は葦の茂る沼地で、もちろんのこと村落は存在しなかった。水木一族は営々と開墾を進め、集落を造りあげたという。
 縁起にある観音像を安置した水木氏は、収穫も安定し集落ができあがったころの時代だったろう。そして天正17年(1589)、大浦為信が台頭すると、苦木は藩境の地・秋田に通ずる交通の要衝として、重要視されるところとなった。
 苦木観音堂だが、寛永9年(1632)8月、村中によって創建されたと伝わる。「寛延巡礼記」によれば、「御山、龍ケ口という所の下にあり。木仏の聖観音。堂一間四面。村中の建設。鳥居あり。本堂左右に社あり。稲荷宮なり」とある。また「溜池の跡あり。今はやちなり」ともあり、水木一族の開墾時には茫々(ぼうぼう)とした葦原が続いていた土地。往時がしのばれる記述である。
 苦木が津軽三十三所に三十二番と定められたのは、居土普門堂と同じく、寛延年中(1748―51)のことである。
 リンゴ園の向こう、こんもりとした森に熊野神社境内の鳥居が見える。その手前右側には龍神宮の社があって、広い駐車場になっている。杉林を分けるように、急な石段が続いている。五十四段の石段を登り詰めれば、高台に出る。境内は広い。
 正面が熊野宮、観音堂は左にある。
 階段を上ってすぐ、子宝神社があって、その先の社にはわらじがいくつもいくつも奉納してある。
 当社刊「新編 津軽三十三霊場」には、観音堂はコンクリート造だと書かれていたが、今回の取材で見たのは木造のものだった。昭和48年(1973)8月の刊行だから、それ以後に建て替えられたものだろう。
 そのコンクリート造の観音堂なのだが、こんな話がある。「天保年中(1830―44)のこと、女修験者が苦木に参拝した時、この修験者が御堂から観音像を盗み出した。しかし修験者は途中病に倒れ、探しに来た村人によって無事に発見された。その後、今度は神官が像を盗んだが、やはり苦木に戻ってきた」というのである。
 2度の盗難騒ぎにあった村人は、コンクリートで堂宇を造ったのだという。
 その観音堂も今は、木造にかえっている。明治初期、ここも神仏分離で堂宇は取り壊されたが、明治半ば観音堂を復活して、これに「苦木観音長谷堂」とした。西国三十三所、八番札所・豊山長谷寺にちなんだものである。
 ………………………………………………
 いよいよ最後の霊場、弘前茂森までは、国道7号を戻りおよそ15キロ。三十三番・観音山普門院へ向かうが、巡礼たちは大鰐温泉につかって、長い旅の汗を流していくのだろう。

 

 
〈交通メモ〉三十一番・居土普門堂からおよそ9キロ。徒歩2時間15分。車で15分。

 秩父霊場三十四所
  「百観音のうち」 埼玉県在寺

 一番 曹洞宗 四万部山妙音寺(四万部寺) 聖観音
 二番 曹洞宗 大棚山真福寺(大棚観音) 聖観音
 三番 曹洞宗 岩本山常泉寺(岩本観音) 聖観音
 四番 曹洞宗 高谷山金昌寺(荒木十一面堂) 十一面観音
 五番 臨済宗 小川山長興寺(語歌堂) 准提観音
 六番 曹洞宗 向陽山ト雲寺(萩堂観音) 聖観音
 七番 曹洞宗 青苔山法長寺(牛観音) 十一面観音
 八番 臨済宗 青苔山西善寺(西善寺) 十一面観音
 九番 臨済宗 明星山明智寺(明智寺) 如意輪観音
 十番 曹洞宗 万松山大慈寺(大慈寺) 聖観音
 十一番 曹洞宗 南石山常楽寺(坂氷観音) 十一面観音
 十二番 臨済宗 仏道山野坂寺(野坂寺) 聖観音
 十三番 曹洞宗 旗下山慈眼寺(旗の下寺) 聖観音
 十四番 曹洞宗 長岳山今宮坊(今宮坊) 聖観音
 十五番 臨済宗 母巣山蔵福寺(蔵福寺) 十一面観音
 十六番 真言宗 無量山西光寺(西光寺) 千手観音
 十七番 曹洞宗 実生山定林寺(林寺) 十一面観音
 十八番 曹洞宗 神門山長生院(神門寺) 聖観音
 十九番 曹洞宗 飛淵山竜石寺(竜石寺) 千手観音
 二十番 真言宗 岩上観音堂(岩上観音) 聖観音
 二十一番 真言宗 要光山観音寺(矢の堂) 聖観音
 二十二番 真言宗 西陽山栄福寺(童堂) 聖観音
 二十三番 臨済宗 松風山音楽堂(子鹿坂観音) 聖観音
 二十四番 臨済宗 光智山法泉寺(白山観音) 聖観音
 二十五番 曹洞宗 岩谷山昌久寺(久那堂) 聖観音
 二十六番 曹洞宗 万松山円融寺(下影森観音) 聖観音
 二十七番 曹洞宗 竜河山大淵寺(上影森観音) 聖観音
 二十八番 曹洞宗 石竜山橋立寺(橋立観音) 馬頭観音
 二十九番 曹洞宗 見目山長泉寺(笹の戸観音) 聖観音
 三十番  臨済宗 瑞竜山宝雲寺(深谷観音) 如意輪観音
 三十一番 真言宗 鷲窟山観音院(飯田観音) 聖観音
 三十二番 曹洞宗 般若山法性寺(般若堂) 聖観音
 三十三番 曹洞宗 延命山菊水寺(菊水寺) 聖観音
 三十四番 曹洞宗 日沢山水潜寺(水潜寺) 千手観音

 

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三十三番 観音山普門院(茂森)

2008/5/28 水曜日

 

精進料理の最初の5品。このあと5品が運ばれる
階段を上り、本堂の脇を左に向かうと観音堂

三十三番札所、観音山普門院の参道

 「山観」さんこと観音山普門院と言えば、弘前市内で一番早い宵宮と住職が作る「精進料理」ということになる。
 宵宮の方はつい先日の5月21日だった。精進料理の方は今ごろの季節であれば、ウドのピーナツ和えや酢みそ和え、春山菜の天ぷらに若タケのお汁。それにワラビご飯など10品目のお膳が定番である。
 副住職の白沢雪俊さんによると「お寺で頂く精進料理は北3県では、ここと毛(もう)越(つ)寺(じ)だけ」ということである。お膳は始めに5品、あとの5品は次々運ばれる。「温かいものは温かく、冷たいものは冷たいうちに」との気配りらしい。
 営業期間は5―7月中。それに9―11月の間ということになっている。厳冬期と夏の盛りは休業らしい。正午―午後1時までである。完全予約制で、10人から30人までを受け付けている。
 「なにしろ什(じゅう)器(き)が30人分しかないので…」30人までが限度なのだそうだ。料金は一人税込み5千円である。
 「いろんな方がお寺に足を運ぶ機会になればいいかと思っているんですが…」という。確かに現代人にとってお寺は、不祝儀の場であると、いう人が大半かもしれない。
 三十三観音を巡る旅もお寺と自分を近づけるいい機会になっているかも知れない。三十三所を巡り終えてみれば、津軽の中世から藩政まで、歴史の足跡が色濃く残っているようで、津軽への興味をそそられる。
 お寺という異空間での食事はまた、自分を見直す機会になれば、またとないひと時になるかもしれない。
 食事の後、五観の偈(げ)―という、五つの反省と感謝の経句を念ずるということだ。
 五つ、成(じょう)道(どう)のための故に、いま此の食(じき)を受く。
 ご飯をいただくのは、人間として大道を成就するためである。この真意を忘れて、手段に過ぎない食物のために没頭して、人生の意義を見失ってはならない―と、なかなか厳しい禅宗の教えがある。

 

 いままでは親と頼みし笈摺(おいずる)を ときて納める茂森の寺

 

 さて、いよいよ三十三番・観音山普門院に来た。津軽霊場最後のお参りをして、笈摺を解くことになる。茂森山の観音寺は俗に「山観」と呼ばれている。
 弘前、禅林街の南、平行して通る茂森新町の中ほどから右に折れるか、禅林街の一番奥の長勝寺前から左にぐるっと回りこめば、そこが観音寺である。
 「永禄日記」慶長19年(1614)の条に
 「お城の南、茂森と申す森これあり、観音の御堂これあり候所、南の金沢の坂え引越し候。この所お城より高く、お城を見おろし申し候故、森引け申すはずに相成り候」
 とある。
 藩祖・津軽右京太夫為信の遺命を受けて、二代藩主・越中守信牧が、高岡城(弘前城)構築を始めたのは慶長15年(1610)である。あくる慶長16年夏には、ほとんど完成して、信牧は家中ともども堀越城から高岡城に引き移ったのである。
 入城したところ、城の南木々に覆われた当時の“重森山”が見える。頂上に登れば、城内が丸見えなのである。永禄日記にある通り、信牧は翌年の元和元年(1615)5月から重森山を切り崩す工事に着手した。
 重森山というのは今の森町、覚仙町、茂森町一帯である。山を西方に切り崩して、これらの町ができたのである。観音堂は築城以前からここにあったわけである。
 延べ5千人を越す人夫を動員する大工事だった。それ以前に重森山観音堂は現在地に移している。当時、金沢の栗の木林と呼ばれていた現在地がそれである。
 この時、信牧は「長勝寺構え」を構築し、領内にあった寺院をここと、城下の各所に集めた。これが「禅林三十三カ寺」の始まりである。
 延宝6年(1678)、四代藩主・信政は老朽化した観音堂を再建し、これを禅林の蘭庭院八世・存秀を別当兼務とした。また金沢山観音寺を「観音山普門庵」と改称して、蘭庭院末庵に加えている。もっとも、信政が再建した堂舎は享保3年(1718)に焼失して再び建立されたと言われている。
 その後、明治に入ってからは講中組織として維持されてきたが大正年間、白沢俊明住職の代に寺格を受け、普門院となっている。また、当時全昌寺が海蔵寺に合併したことから普門院が、禅林三十三カ寺に加えられた。
 山観の境内には、閻(えん)魔(ま)堂、身代(みがわり)観世音堂、稲荷堂、札納堂などがある。また、明治22年弘前市本町の宮川利助が、西国三十三所を巡って砂を持ち帰り、建立した三十三体の観音石像が境内を一巡している。
 観音堂内には聖観音像のほか、三代藩主信義の側室であり、四代藩主の生母である久(きょう)祥(しょう)院(いん)(菊御前)が寄進した、閻(えん)浮(ぶ)檀(だん)金(こん)観世音も祭られている。また、藩の抱え絵師として有名な新井晴峰が文政4年(1821)に描いた「関(かん)羽(う)書(しょ)見(けん)之(の)図(ず)」の大きな奉納額や文久4年(1860)に寄進した絵馬などが残り、観音寺の由緒を物語っているようだ。
 境内は小高い丘になっている。老杉が生い茂り副住職の白沢雪俊さんに言わせれば「ここにいれば、夏場は2、3度気温が違いますよ」ということだ。戦時中には66本の老杉が伐り倒されたそうだ。今も残っていれば、弘前でもっとも古い杉林であったに違いない。
 また、住職が作る「精進料理」を楽しみに訪れる人も多い。ご詠歌の「笈摺を ときて納める茂森の寺」である、巡拝の時に着る白衣を脱ぎ、札納堂に納めて満願を喜ぶ。そんな時、仲間が一緒になって精進料理を楽しみながら、長い巡拝の旅に思いをはせるのも三十三霊場巡りを飾る最後の日に、似つかわしい風景だろうと思う。
             (鳴海 静孝)

 
〈交通メモ〉 三十二番・大鰐、苦木観音長谷堂からおよそ20キロ。徒歩5時間、車で30分。

 糠部霊場三十三所
 「奥州南部糠部巡礼次第」による(市町村名は当時)

 一番 寺下観音 潮山神社―青森県三戸郡階上村
 二番 是川清水寺―同八戸市是川
 三番 籠田岡田観音 観音堂―同八戸市松館
 四番 島守高山ノ観音 観音堂―同三戸郡南郷村
 五番 白浜ノ観音 (個人宅)―同八戸市白浜
 六番 白銀浜清水観音 観音堂―同八戸市白銀町下通り
 七番 岩淵観音 岩淵観音堂―同湊町岩淵
 八番 新井田浄生寺観音 涼雲山浄生寺―同八戸市新井田坂
 九番 長者山大慈寺 三十三観音―同八戸市糠塚
 十番 来迎寺如意輪観音 紫雲山来迎寺―同八戸市朔日町
 十一番 横枕ノ観音 月渓山南宗寺―同八戸市糠塚
 十二番 根城隅ノ観音 観音堂―同八戸市根城
 十三番 坂牛観音 坂牛八幡宮―同八戸市八坂牛
 十四番 八幡郷三十三観音 観音堂―同八戸市八幡櫛引
 十五番 七崎山徳楽寺観音 宝照山普賢院―同八戸市豊崎山永福寺
 十六番 涼現堂十一面観音 斗賀神社―同三戸郡名川町
 十七番 相内聖観音 観音堂―同三戸郡南部町
 十八番 作和村外手洗観音 観音堂―同三戸郡名川町作和
 十九番 白花山法光寺観音 白花山法光寺―同三戸郡名川町法光寺
 二十番 矢立十一面観音 (個人宅)―同三戸郡名久井町鳥谷
 二十一番 野瀬聖観音 観音堂―同三戸郡南部町野瀬
 二十二番 長谷ノ十一面観音 蓮台山長谷寺・恵光院―同三戸郡三戸町長谷
 二十三番 和瀬田十一面観音 観音堂―同三戸郡三戸町門前
 二十四番 隅ノ観音 観音堂―同三戸郡三戸町古町
 二十五番 悟真寺観音 終南山悟真寺―同三戸郡三戸町同心町
 二十六番 清水寺十一面観音 真清田神社―同三戸郡田子町下田子
 二十七番 釜淵聖観音 観音堂―同三戸郡田子町七日市
 二十八番 岩屋観音 観音堂―岩手県二戸市落久保
 二十九番 鳥越山観音 観音堂―同二戸郡一戸町鳥越
 三十番 朝日山観音岩屋 観音堂―同二戸郡大村
 三十一番 観音林 観音堂―同九戸郡軽米町観音林
 三十二番 実相寺観音 諸法山実相寺―同二戸郡一戸町一戸
 三十三番 お山観音 八葉山天台寺―同二戸郡じ浄法寺町御山

 

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終わりに

2008/6/4 水曜日

 

梵珠山法光寺境内の十一面観音像
為信の三女「富姫の三重の塔」跡地の礎石群

 津軽三十三所、一番札所の弘前市・護国山久渡寺にお参りしたのが昨年9月12日。それから岩木山を回り、深浦町からつがる市へ五所川原市・金木―中泊町・小泊と海に入り、また穀倉地帯を抜けて、津軽半島の東側“上磯”を陸奥湾づたいに青森市に出た。
 浅虫からとって返して、入内、三十三所最大の難所だった松倉。黒石市・温湯から津軽戦国時代の舞台となった平川市へ。そして藩境に近い大鰐町・苦木。最後、弘前市に戻って茂森・観音山普門院へのお参りは5月28日と、紙上八カ月をかけて三十三所を一巡したことになる。
 御国三十三所の信仰は、「西国三十三所」巡りが根底にあるわけだが、藩庁あるいは民衆が西国に倣(なら)って、霊場を守ってきた。三十三所の旅は、信仰心とともに藩内を広く見聞し、笈摺(おいずる)を納めて家に帰ってから、旅の土産話に花が咲いたことだろうと思う。
 そして霊場の多くは、中世―戦国時代―津軽一統まで、津軽の歴史の間にある村々にあるのだと気が付く。同時に津軽氏の藩祖・為信と敵対した南部氏・北畠氏の主要拠点が微妙に避けられているようでもある。
 津軽における観音堂縁起は、虚構、虚説が多いようである。往時、民衆が古い由来と霊験を疑わず、厚い信仰で支えてきた故であろう。これからはいい季節である。あなたも、津軽三十三所の旅に、出掛けてみませんか。 (鳴海 静孝)

 

 もう一つの集印所
 二十五番札所・松倉観音堂が掲載されたのは今年の3月19日だったが「法光寺の檀家のものですが」と社に電話があった。
 聞けば、青森市浪岡町徳才子のJR大釈迦駅に近い梵珠山法光寺では、先代住職・斎藤越厳さんの代から、津軽霊場札所としてお参りの信者さんが来ているのだ―ということだった。5月、改めて法光寺を訪ねた。
 住職の斎藤光司さんは「先代のころ、ご朱印を預かる家が不在の時が多く、やはり弘前の長勝寺の先代住職の勧めもあって、ご朱印所としている」のだそうだ。
 もっとも、先代の越厳住職は梵珠山の山頂近くに堂宇を建立し「御灯明(おとめ)祭」を催行していた。御灯明というのは、旧浪岡町時代にイベントとして行われていた「火の玉探検ツアー」の火の玉である。
 「お釈迦さまの墓に高僧の霊がかえって来る時の後光である」という。その堂宇には「灯明仏」を安置していたが、梵珠山が県民の森として整備され、登山者が増えるようになってから、たびたび火災は発生し、堂宇も燃えることもあった。越厳住職は安置していた「灯明仏」と「円空仏」を降ろして、今は法光寺に納めている。
 円空仏を見せてもらったが膝の辺りに焼けこげがあって、痛々しかった。また、境内には十一面観音の石像が置かれ、松倉山に登れない巡礼たちの霊場としているようだ。
 ただ、従来から松倉観音堂入り口に近い、五所川原市前田野目野脇、鶴谷光一さん方が、ご朱印所として今もある。ここでは2カ所の集印所を併記しておきたい。

 

 「三重の塔」真相は
 もう一つは、誤りの指摘だった。
 三十番札所・平川市の「大光寺慈照閣」の項で「大光寺城は為信の女婿である。津軽左馬之助藤原建広が城主となった。城主・建広の妻である為信の三女・富姫は慶長8年春、若くして病死している。愛娘の死を悼んだ為信は同年8月、前城主の瀧本氏の菩提寺跡に三重の塔を建てた。この場所が保食神社の境内である」と書いた。
 この項は、当社の昭和48年刊「新編 津軽三十三霊場」に拠ったのであるが、電話の主は「断じて三重の塔は保食神社境内ではない」と言う。日を決めて、改めて電話の主と三重の塔跡で会うこととした。
 その人の言う三重の塔跡というのは、弘南鉄道本社がある平賀駅の北側、ちょうど線路の裏手で農協倉庫がある一角だった。そこから保食神社は直線距離で1キロ強といった程度だろう。こんもりとした小さな丘があって、礎石が並んでいる。
 看板もあって「平賀町指定文化財 三重の塔跡」とある。その文面には「…寛永十年(1633)に三重の塔は落雷にあって焼失した。ただ、遺跡には焼失の痕跡はない。その礎石は付近に散在し、のちに尾上町(旧)の蓮乗院に搬出した。町は礎石2個を譲り受け、町文化センター敷地内に保存している」ということである。
 今の保食神社境内に建広が観音堂を建て、護持をも建立して「慈照閣」と名付けたという記録もある。弘前城が完成し、町づくりが進められた元和元年(1610)には、領内にある寺院が城下に集められ、大光寺にあった寺院の多くが弘前へ移された。しかし、慈照閣だけは、富姫の三重の塔を守らせるために残された―と言われる。
 慈照閣と三重の塔。今ある慈照閣が保食神社境内にあったとすれば、護るべき三重の塔との距離が遠すぎる気がする。慈照閣の場所そのものが移動したものか、あるいは戦国の時代であれば、1キロほどの距離は何ほどのこともなかったものなのか。その整合は郷土史家の手に委ねたい。
 なお、富姫の三重の塔を訪ねた5月6日、大光寺慈照閣の向かい側駐車場に、プレハブの集印所が造られた。これまで大光寺の鳴海徹哉さん方でご朱印を預かっていたが、この日から無人の集印所となったことを付け加えておきたい。

 

 ご詠歌は、西国三十三霊場を再興したという花山院法皇が、札所ごとに歌一首ずつを納めたことからおこったと伝わる。津軽三十三霊場の場合、三代藩主・土佐守信義がみずから詠んだとする説もある。しかし、実際は寺僧たちが、西国三十三所などのご詠歌をまねて、作りかえたのであろうという。これは本歌と比べてみればよく分かる。
 当社刊行の原本には、資料として一番古い寛延4年の「津軽三拾三所巡礼」から天明、天保、明治、昭和までほぼ五首を掲載しているが、今回は寛延一首と本歌に止めておきたい。
 本歌であったと思われる西国、板東霊場のご詠歌を併記しておくが、併記のないものは類似が見あたらず津軽の創作と思われる。
 一番 久渡寺
 ふたらくやめくみもふかき観世音 つみもむくいもはらす宮立(寛延4)
 普陀洛や岸うつ浪は三熊野 那智の御山にひびく滝津瀬(西国1番 那智山青岸渡寺)
 二番 清水
 我が庵をはるばる爰(ここ)に清水の 流れに浮かぶ花を救はん(寛延4)
 ふる里をはるばるここに紀三井寺 花の都もちかくなるらん(西国2番 紀三井寺金剛法寺)
 三番 百沢
 父母の菩提をねがふ百沢寺 仏といわひ神といわわれ(寛延4、天明6)
 父母のめぐみもふかき粉河(こかわ)寺 仏の誓いたのもしの身や(西国3番 風猛山粉河寺)
 四番 高杉
 はるばるとまふて車の宮めぐり 名は高杉の宮にのこれり(寛延4)
 はるばると登れば書写の山おろし 松のひびきも御のりなるらん(西国27番 書写山円教寺)
 五番 十腰内
 まいるより頼ミを懸シ十腰内 聞きしに増さるふかき宮立(寛延4)
 まゐるより頼みを懸くる葛井(ふじい)寺 花のうてなにむらさきの雲(西国5番 紫雲川葛井寺)
 六番 湯舟
 今の世に神といわるる鬼神石 庭のいさこも浄土なりけり(寛延4)
 岩をたて水をたたへて壷坂や 庭の砂(いさご)も浄土なるらん(西国6番 壷坂山法華寺)
 七番 北浮田
 かかる世に祈りて見ば心は浮田 神のめくミもふかき身なれば(寛延4)
 かかる世に生れあふ身のあな憂(う)やと 思はで頼め十声十声(西国21番 菩提山穴太寺)
 八番 日照田
 沢山や朝日にかがやく日照田を てらさせ給へ観世音かな(寛延4)
 九番 追良瀬
 深山路や桧原松ばらわけ行けば 山も誓いも深き谷川(寛延4)
 深山路や檜原松原わけ行けば 槙の尾寺に駒ぞいさめる(西国4番 槙尾山施福寺)
 十番 深浦
 ただ頼め神に祈りを深浦の 明日はいのちの住むはしらなみ(寛延4)
 ただ頼めまことの時は西善寺 来り迎へん弥陀の三尊(秩父8番 青苔山西善寺)
 十一番 下相野
 のちの世を願ふ心は下相野 白毛の雪のふらぬそのまに(寛延4)
 後の世の道を比企見(ひきみ)の観世音 この世をともに助けたまへや(板東10番 厳殿山正法寺)
 十二番 蓮川
 野をも過ぎ里をも行きて旅もせば いつも絶えせぬ法の蓮川(寛延4)
 野をもすぎ里をもゆきて中山の 寺へ参るは後の世のため(西国24番 紫雲山中山寺)
 十三番 川倉
 水の上いつくなるらん川くらの 耳にさかふる山ひこの声(寛延4)
 水上はいづくなるらん岩間寺 岸うつ浪は松風の声(西国12番 岩間山正法寺)
 十四番 尾別
 万代を祈り祈りて今爰に 千手のちかひたのもしのみや(寛延4)
 たれもみな祈る心は白岩の 初世の誓いたのもしきかな(板東15番 白岩山長谷寺)
 十五番 薄市
 満々と眺めもあかぬ十三の潟 千年を爰に松風のをと(寛延4)
 はるばると登りて拝む佐白山 いつも絶えせぬ松風の音(西国23番 佐白山正福寺)
 十六番 今泉
 昔より在るともしらぬ今泉 神代としらぬしりしなるらん(寛延4)
 むかしより立つとも知らぬ今熊野 仏のちかいあらたなりけり(西国15番 新那智山観音寺)
 十七番 相内
 野をも過ぎ山路にむかふ雨のミち いのれば晴るる胸の曇りも(寛延4)
 野をもすぎ山路にむかふ雨の空 よし峯よりも晴るる夕立 (西国20番 西山善峯寺)
 十八番 小泊
 見渡せば御法も深き海万寺 鐘のひびきにうかふ海士人(寛延4)
 いで入るや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくるみずうみ(西国14番 長等山三井寺)
 十九番 三馬屋
 みちのくのいわれを爰に来て厩 浪打きわに駒そいさめる(寛延4)
 深山路や檜原松原わけ行けば 槙尾の寺に駒ぞ勇める(西国4番 槙尾山施福寺)
 二十番 今別
 高野山ちかいを爰に今別の 石の光りに弥陀の舎利浜(寛延4、天明6)
 西明寺誓いをここに尋ぬれば つひの住家は西とこと聞け(板東20番 独鈷山西明寺)
 二十一番 袰月
 いにしへの鬼の岩屋に神立ちて 悪魔は荒シ外の浜にも(寛延4)
 二十二番 青森
 浪の音松の響きも御法にて 風吹きわたるあまの橋立(寛延4)
 浪の音松のひびきも成相(なりあい)の 風ふきわたす天の橋立(西国28番 成相山成相寺)
 二十三番 浅虫
 月も日も波間にうかむ裸島 船に宝を積む心せよ(寛延4、明治28)
 月も日も波間にうかぶ竹生島 舟に宝を積むここちして(西国30番 竹生島宝積寺)
 二十四番 入内
 おしなべて高くいやしきものまでも 神にあゆみを運ぶなりけり(寛延4)
 おしなべて高きいやしき総持寺の 仏のちかひ頼まぬはなし(西国23番 補陀洛山総持寺)
 二十五番 松倉
 あなとおと導き給へ観世音 誓いをここに松倉の宮(寛延4)
 あなたふと導きたまへ観世音 遠き国より運ぶ歩みは(西国32番 繖山観音正寺)
 二十六番 黒石
 後の世を願ふ心はかろくとも 仏の誓い重きくろいし(寛延4)
 後の世を願ふ心はかろくとも 仏のちかひおもき石山(西国13番 石光山石山寺)
 二十七番 袋
 今の世は弓は嚢(ふくろ)に納まりて 民のかまとも賑ハひにけり(寛延4)
 二十八番 広船
 世界をも洩らさてのする広船の 弥陀の浄土へをして行くなり(寛延4)
 願わくは般若の船に法を得て いかなる罪もうかぶとぞ聞く(秩父32番 般若山法性寺)
 二十九番 沖館
 きり霞くもりてミゆる沖館の 祈りの空にはるるうす雲(寛延4)
 春の日は南円寺にかがやきて 三笠の山に晴るるうす雲(西国9番 興福寺南円堂)
 三十番 大光寺
 仏法に名を得給へり大光寺 寺へ参るも後の世のため(寛延4)
 野をも過ぎ里をも過ぎて中山の 寺に参るは後の世のため(西国24番 紫雲山中山寺)
 三十一番 居土
 国々をめくりめくりて巡礼を 目出度く帰るもとの居土へ(寛延4)
 三十二番 苦木
 幾度も神に祈りをかけたまへ にかきあまきハ後の世のため(寛延4)
 三十三番 茂森
 今迄は親と頼みしおひづるを 末茂森の宮に納むる(寛延4、天保2)
 けふまでは親と頼みしおひづるを 脱ぎて納むる美濃の谷汲(西国33番 谷汲山華厳寺)
「新編 津軽三十三霊場(本社刊)」から

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