津軽三十三霊場

 

二十五番 松倉観音堂(松倉)

2008/3/19 水曜日

 

神社境内の石仏。原色の着物を着た石仏は、生きているもののように錯覚する時がある
紅葉に囲まれた松倉観音の参道。やはり番号が書いてある石仏が山頂まで案内してくれた
松倉山頂は岩の山。観音堂など小堂が三つ並んでいる

 大釈迦という地名といい、梵珠山といい、周りには鐘撞堂山、釈迦堂、観音堂山と、仏教に由来する名が多い。
 今は合併して青森市となった浪岡町であるが、旧浪岡時代の夏のイベントとして「火の玉探検ツアー」が行われていた。旧暦7月9日の深夜から10日未明にかけて、梵珠山山頂で火の玉が見えるというのである。
 この火の玉、「お釈迦様の墓に高僧の霊がかえって来る時の後光だ」というのである。これが御灯明(おとめ)と言われる火の玉ツアーである。
 一度、取材で火の玉ツアーに参加したことがあったのだが、その夜はものすごい雨で、結局ツアーは中止となった。あまり後生がよくないのかもしれない。
 特に雨上がりに、火の玉はよく見られる―というのであるが、ツアーの探検団が実際、火の玉を見たという報告は少ないようである。
 今は国道101号が整備され、さらに青森―浪岡から金木を通る高規格道路が次々、部分開通している。これでは火の玉もなかなか出づらいのではないだろうか。
 前田野目の人に話を聞いた。「昔は、みんな歩いて来たもんだおん。朝まに村サ入って、松倉さまサお詣(まい)りして、戻れば夕方になる。どごの家でも、頼まれればひと晩泊めだもんだ。布団もなんもネェ。みんなゴロ寝さ。観音様掛げる人ァ、朝一番に起ぎでまだ、黒石サ発(た)づ。今だばみんな車だばて、昔はそうしたもんであた」。
 大釈迦―浪岡―黒石まで23、4キロ。健脚であれば4時間半、足の弱い人でも6時間ほどで着く距離である。
 だとすれば、大釈迦から黒石までは昼前に着いて黒石に泊まるか、温泉場の温湯まで足を進めて、ゆっくり旅のアカを流したものだろうか。
 弘前を起点に、藩内を回る三十三所の旅もここまで来れば残りわずか。そろそろ里心がつくころだったろうか。

 あな尊(とう)と導き給(たま)え観世音 誓いをここに松倉の宮

 中学生のころ、理科の先生に連れられて2年生、200人以上の大人数で梵珠山に登ったことがある。今は「県民の森」として登山道も整備され、大釈迦口には「自然ふれあいセンター」もある。
 その時は山道の途中、大昔海底が隆起した証拠だ―という貝の化石層を見て、頂上付近の堂宇まで歩いた。ガヤガヤとしゃべりながら歩き、昼ご飯を食べて、またワイワイ、ガヤガヤと大釈迦に戻って、往復3時間ほどの軽登山だったと思う。
 梵珠山は標高468・4メートル。松倉山はそこから南へ下る。尾根道から続く鞍部に松倉神社があり、その後ろの岩場を少し登ったところが観音堂。私たちは、2時間ばかりの山道を避けて、五所川原市前田野目の南口登山道を目指したい。
 入内観音堂から青森空港を抜けて、国道7号に入るが、また青森方向に戻ることになる。7号から五所川原市に向かう101号を左へ。コカ・コーラの青森工場を過ぎたらすぐ、左の細い道路に入る。「板柳」という小さな看板を見逃さないようにしたい。
 この道路を下りたところが前田野目。上を走る101号に沿って進むと、ポッカリと穴の開いたガードがある。ここを右に入って、あとは道なりに真っすぐ進む。林道は広葉樹の黄葉と真っ赤な紅葉が、山を明るく照らしている。砂防ダム付近が小さな公園になっていて、三脚にカメラを据えて写真を撮っている人がいる。案外この辺、紅葉写真の“穴場”なのかもしれない。
 やがて小さな渓流にたどり着いて、広い駐車場がある。ここが参道入り口。橋を渡った向こうに赤い鳥居が建っている。いよいよ、ここから歩いていく。
 少し行くと、ブナ林が開け、斜面があって階段が整備されている。一人山道を落ち葉を踏んで行く。石仏の観音様が、下から一番、二番と続く。霊場ではあるが、林の道は明るくすがすがしい気がする。
 それでも途中三度、四度と立ち止まり、大きく息をついでまた登った。大風で倒れたものか、ブナが参道をふさいでいる。木をまたいでまた進む。三十番の観音像まで来ると、松倉神社の屋根が見えた。「ふう、着いた、着いた」。約20分ほどの道のりだった。
 殊勝らしく、拝殿で手を合わせていると、遠くからガサガサと落ち葉を踏んで来る足音がする。間もなく、ストックを二本突いて、やぶをこいで中年の男性が姿を見せた。「梵珠山を越えて来たんですか」と聞くと、「そうだ」という。
 足元はしっかり登山靴、ニッカボッカに長袖シャツ、カメラを下げている。よほど山に慣れた人のようだ。白衣に長いつえ一本、足元がワラジだったら「千日回峰」の修行僧のような風貌(ふうぼう)である。
 「観音堂はこの上ですよ」。松倉神社の裏は岩場になっている。岩場を越えた松倉山の山頂に三つほど堂宇がある。「一緒に行きましょうか」と誘ってくれた。手掛かりにロープが張ってあって、4、5回岩をよじ上ると急に視界が開けた。絶景である。
 松倉観音は延暦20年(801)9月、坂上田村麻呂が創建したと伝わる。蝦夷征伐の時、神仏に加護を頼み、奥羽に神社300を建立したが、梵珠山も霊山として開き、松倉山に11面観音像を安置して、戦勝を祈願したという伝説である。
 また、法然上人の高弟である金光(こんこう)上人が承元4年(1210)、京都から津軽に下り、梵珠山に入山して布教に砕身した―とも伝わる。伝説はともあれ、梵珠山は山岳信仰が盛んな中世、僧が泊まり込んで修行する霊山として知られていた。
 そうしたこともあって、松倉観音は早くから三十三霊場に選ばれ、最初は三十番、その後二十五番になっている。「寛延巡礼記」には、「御山の入口は、小高野と申す在家あり。家数13軒あり」と記されている。
 私を頂上まで案内してくれた修行僧めいた男性は、観音堂と大山祗神と薬師如来を安置した小堂、それぞれにお詣りしている。
 岩木山が見える。遠く日本海も見える。ここまで来て、「ここが最大の難所だろうな」と思う。しかし、山頂から見る景観はまた、「ここまで来てよかった」と思わせるものだろう。
 ………………………………………………
 二十六番・黒石法眼寺へは、およそ20キロ。国道7号へ戻り、南へ。

 

〈交通メモ〉二十四番・入内からおよそ32キロ。徒歩8時間、車で45分。

 十九番 三馬屋
       今別へ二里
 陸奥のいわれをここに来て厩 浪打ちぎわに駒ぞいさむる
 千手観音。御宮は三馬屋という岩屋の並みにあり。堂四間四面。宮の前は、まんまんたる海上を見渡し、綺麗なる浜なり。庭に大木の松一本あり。
 厩と申すは、昔、源九郎判官義経公駒繋ぎたもう岩。三カ所あり。また、兜島とて、かぶとのごとくなる岩あり。東西南北より見れども、違いこれなく候。
 三馬屋は家数百軒ばかりあり。寺一カ寺あり。これは松前志摩守殿御宿。
 松ケ崎村、この所に蝦夷の家56軒あり。
 二十番 今別
       袰月へ二里
 高野山ちかいをここに今別の 石の光りに弥陀の舎利浜
 堂三間四面。三十三観音なり。本堂の左右に弁財天、稲荷両社あり。
 本覚寺とて、よき寺あり。貞典上人という貴僧の住みたまいし寺なり。千檀の秘仏あり。一寸八分の弥陀。二寸一分の釈迦。両体なり。銭百文にて開帳あり。
 この所に、今別石とて、日本に隠れなきよき石あり。玉にもなる。右石浜二丁ほどの間なり。御法度にて、自由に拾い候ことかなわず。
 山崎村、一本木村、袰月村。
 二十一番 袰月
 いにしえの鬼の岩屋に神立ちて 悪魔は荒し外の浜にも
 砂ケ森村、奥平部村、綱不知村ゆきて、鬼泊とて岩屋に観音堂あり。三尺四面。御仏体、棟札ともになし。津軽かいほう外ケ浜の舎利浜と申すはこの所にあり。
 また、海の中に岩あり。船にて参詣する所なり。釈迦如来、舎利種三石六斗まきたまい。この岩より舎利生まれたもう。浪にて渚へ上がりあるを拾う。右岩の名は高野山と申す。
 この浜に、砂ケ森という所あり。日入りの岩という。釈迦如来、入り日を拝み奉るその節、西方より夕日この岩へかがやきし所なり先年筑紫の常行寺(寺領300石)和尚上下五人にて、津軽外ケ浜一見のため下り、右岩の上にて3日のうち御読経なされ候。一首の歌をつくらせたまい。
 通り路の外まで照らす袰月の 釈迦の御法に逢えばうれしき
   (この項続く)

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二十六番 宝巌山法眼寺(黒石)

2008/3/26 水曜日

 

法眼寺の「砂踏の碑」。右下から時計と反対回りに1番から33番まで踏み石が続く
修復なった法眼寺の萱葺きの本堂
県重宝の鐘楼。戸は閉まっていて、棟方志功画伯のレリーフは見られなかった

 案外知られていないのだが、ここ法眼寺にはやはり県重宝となっている鐘楼の鐘に棟方志功の「三尊仏」のレリーフがある。二十歳代のころ、住職の野呂徹宗さんに取材したことがある。その時、野呂さんから和紙に描いた三尊仏の線描画を見せてもらった。
 何でも「法眼」の号を持つ志功さんが、同じ
寺号の「法眼寺」の鐘を造る時に、絵を贈ったのだと聞いた。ちょうど鐘の下辺り、ぐるりと巻いて三尊仏が描かれている。
 もう一度、見たいものだと思っている。
 もう一つ、鐘楼と開山堂の間にある西国三十三カ所巡礼の碑も、お参りの際に見てほしい。高さ1・2メートルばかりの「砂踏の碑」である。碑は寛延4年(1751年)建立とある。
 信英が黒石に五千石を分知されてから86年後。幕府旗本として館を構え、城下町の形も整ってきたころである。分知当時の黒石の家数は317戸といわれている。
 このころは、近畿など近江商人が城下町にやって来て商売を開き、新しい町も活気にあふれているころだったろう。
 碑の周りに、時計と反対回りに1番から33番の番号が付いた踏み石が置いてある。
 西国三十三所を回った信者たちが、持ち帰ったお砂を納めたものだろうと思う。これまで回った霊場にも石仏の観音像とともに、やはり西国霊場のお砂が置かれている所が多くあった。
 市の説明板には「西国三十三所巡礼の碑としては県内唯一の貴重なもので、碑に刻まれた文章は250年前の観音信仰の実態を知るものとなっている」とある。
 一応、私も1番から順に砂踏みをしてみた。本来は一番ごとに読経して線香などを上げるのだろうが、ただ1、2、3、4と踏み石を歩いただけだったから、ご利益のほどは分からない。

 後の世を願う心は軽(かろ)くとも 仏の誓い重き黒石

 今は青森市になった浪岡から県道をたどって黒石市へ。道なりに行けば、黒石市の「八間道路」に着く。八間道路も今は、浅瀬石川をまたぐ大橋が出来て、その先は弘前―十和田湖に至る国道102号バイパスと交差。橋を渡って直進すれば、平川市から大鰐町に抜ける南地方の基幹道路となっている。
 私たちは橋を渡る手前、十字路の信号を左に入る。旧102号の狭い道路だが、間もなく右側に宝厳山法眼寺が見えてくる。
 大きなお寺である。宝厳山法眼寺は延宝8年(1680年)、南宗禅師により温湯村に開基された。その後、元禄4年(1691年)、三代領主の内意により、現在地に移されたものだという。
 黒石の町が現在の形になったのは、明暦2年(1655年)2月、津軽藩三代藩主信義の弟、十郎左衛門信英(のぶふさ)が五千石を分知され、町割されて以来のことである。その後、文化6年(1809年)4月、黒石津軽氏は一万石の大名となっている。法眼寺も、その町割以降に建てられたことになる。
 観音堂はもともと法眼寺にあったものではない。同じ山形町の西はずれの神明宮境内にあって、「寛延巡礼記」には『堂一間四面…、神明の宮あり。…この所、上(かみ)の坂という。これより下に、下の坂とて、稲荷、八幡の宮あり』とある。
 上の坂は碇ケ関、大鰐、平賀など浅瀬石川河南から、青森に向かう往還路で、藩政時代には上の坂を上がり、前町―中町に入る。今も残る「こみせ通り」で、当時の繁華街ということになる。
 黒石津軽氏が生まれる以前からあった観音堂であるが、津軽三十三霊場には寛延年中(1748―51年)から、二十六番として加えられていた。「安政納経帳」にも、黒石・十一面観音とある。
 明治2年(1869年)、その前町に大火が発生した。5月14日朝、137軒を焼くという大火事で、観音堂も堂舎もすべて焼き尽くされた。その後、神明宮だけは再建されているが、津軽霊場二十六番・黒石観音堂は自然消滅した形となった。しかし、明治末期から大正にかけて、霊場巡りが復活した時、法眼寺が二十六番札所に選ばれ、現在に至っている。
 法眼寺は津軽における黄檗宗の総本山という格式で、黒石藩の祈願寺でもあった。本堂の大屋根は広く萱葺(かやぶ)きで覆われ、正面妻飾が美しい。県重宝に指定されているが、05年の大雪で屋根が大きく陥没する被害に遭った。
 その年の3月14日の陥没事故は、青森の豪雪被害として全国ニュースとなったが、翌年11月には無事修復工事が終わり、元の姿どころか一段と〝男ぶり〟を上げている。
 法眼寺に遷(うつ)された観音さまは初め、鐘楼(しょうろう)の下に祭られた。この鐘楼もまた、県重宝に指定されているものだが、享保年中(1716―36年)に江戸で鋳造された名鐘を納めるため、延享3年(1746年)に建てられたという。
 大正末期に観音さまの信者たちから「鐘をつくたびに、観音さまが足げにされるようでもったいない」という苦情が持ち上がった。それで今あるように、本堂右側に遷し直したというのである。
 これからの季節、楽しみがある。法眼寺の境内には古い「白藤」の棚があって、花が咲く季節には多くの人が訪れる。それに山門も間近に見てほしい。寛保元年(1741年)に建立されて、本堂よりも古いものである。一間一戸の4脚門、萱葺き。簡素ながらなかなか味わいのある山門である。
 ご朱印は本堂右の、庫裡(くり)の方で頂くことになっている。
 ………………………………………………
 二十七番・袋白山姫神社は、約8キロ。旧国道102号からバイパスに合流。浅瀬石川を越えて、市の伝承工芸館裏の山間に入る。

〈交通メモ〉二十五番・松倉観音から約25キロ。徒歩6時間、車で40分

 (この項、二十一番・袰月から続く)
 宇田村、石崎村、平館村、根岸村、野田村、今津村、杉村、二ツ屋村、深泊村、石浜村、中師村、蟹田村、広瀬村、瀬辺地村、郷沢村、蓬田村、阿弥陀川村、長科村、中沢村、後潟村、四戸橋村、石神村、左堰村、内真辺村、清水村、前田村、瀬戸子村、奥内村、田沢村、なしきた村、十三森村、油川村、新田村、沖館村、古川村。
 二十二番 青森蟹田より六里、浅虫へ三里
 浪の音松の響きも御法にて 風吹きわたるあまの橋立
 堂三間四面、屋根奈良京作り。毘沙門の宮の内にあり。末社かず多くあり。善知鳥の宮は大社なり。
 堤川に大橋あり。
 茶屋町、造道村、原別村、野内。この所に番所あり。ざる石村(ざるに似たる石あり)、龍の口とて名所あり。そのほか、いろいろ名所多し。
 二十三番 浅虫入内へ六里十丁
 月も日も波間に浮かむ裸島 船に宝を積む心せよ
 堂二間に三間。本尊は薬師。金仏の三十三観音にて、施主津軽屋市左衛門。
 この所にわき湯あり。
 磯際に裸島と申して、高さ五丈ほどの赤岩あり。草も生え申さぬ立岩なり。余(湯)の島と申すは海の中にあり。弁財天立たせたもう。それより、こめ島と申す島あり。高さ五十間ほどにて、広き島なり。この岩岸にて湯治の人びと船遊びいたし、自身に魚釣り、海藻、貝など取る慰めの所なり。
 その次に、化島と申す所あり。渚にとうまえ懸橋、明智が岩屋とて名所あり。
 石地蔵あり。さいの川原とて、小石森二三ケ所あり。この積みたる小石、あめ色にて、角石のごとし。
 懸橋はざる石、浅虫への浜道なり。岩に三尺ばかりの小坂の一枚橋あり。この橋は、引潮には沖に流れ、また、おのずと元の所にかかり、不思議なりしことどもなり。
 これより、青森へもどり、それより、浜田村、八ツ役村、荒川村、高田村、これより一里左のかた沢合いへ入る。

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二十七番 袋白山姫神社(袋)

2008/4/2 水曜日

 

薬師寺境内の石割楓
参道は500メートルの山道。しかし歩道は整備されていて、気持ちよく登れる
立派な衣をまとった馬の石像。両側の台座には、信者が置いたものか、つえが立てかけられている

 袋観音堂の納経所であるが、袋からいったん温湯温泉に下りる。
 黒石・法眼寺の項で書いた。『宝厳山法眼寺は延宝8年(1680)南宗禅師によって、温湯村に開基され、元禄4年(1691)、三代領主の内意あって、現在地に移された。旧寺は薬師堂となり、のちに瑠璃山薬師寺に昇格する』。
 この薬師寺が、納経所となっている。湯治宿が集まる温湯の中心部から西に上がった、川沿いの大きな寺院である。
 山門をくぐると、大きなカエデの樹が石を割って、枝を広げている。薬師寺の石割楓である。
 本堂玄関脇のガラス戸に張り紙があって、「ご朱印の方は、入って…」と指示がある。たまたま留守らしく、ご朱印が入った箱を見つけ、頂いてきた。
 温湯は「津軽こけし」の発祥の地でもある。大正初期、地元の木地職人が、湯治客に新しい土地の土産を―と1、2本のこけしを求め、津軽独自の「こけし」を作ったという。
 その頂点に立ったのは丸い胸と、裾広がりの胴を持つ「盛秀こけし」を生み出した盛秀太郎さんである。
 奥瀬鉄則さんと佐藤善二さんと2人のお弟子さんがいた。2人とも若くして故人となったが、善二さんは多くの後継者を育てている。
 盛秀翁の孫の盛美津雄さん、奥瀬さんの奥さんと長男も、今こけし工人として奥瀬型のこけしを作り続けている。
 善二さんのお弟子さんだが、弘前市と十和田市に1人ずつ。阿保六知秀さんは温湯に近い花巻に工房を持ち、大学卒業後すぐ父に師事した長男と2人で制作している。
 善二さんの長男の佳樹さんは50代で先年死去した。しかし、一番弟子の小島俊幸さんが工房を守っている。
 盛さん、小島さん、阿保さんの工房は近い。もし時間があれば、こけし作りをのぞいて見るのも楽しいだろう。

 いまの世は弓矢 袋におさまりて 民のかまどはにぎわいにけり

 宝厳山法眼寺から、十和田湖方面に向かうと、間もなく国道102号バイパスと合流する。この辺りは豊岡といい、バイパスができる以前は、そのまま真っすぐに旧道に入り、浅瀬石川に沿って花巻、築館、温湯と上っていくことになる。
 今はバイパスを行き、温湯温泉を過ぎ「蛾虫坂トンネル」を抜けると、目の前に紅葉で知られる中野山が見えてくる。信号を右折して、浅瀬石川を渡ったところが落合。橋を渡ってすぐ右に、津軽こけし館、その奥に津軽伝承工芸館がある。
 津軽伝承工芸館の裏側、道路右に入ったところが、白山姫神社の参道入り口である。
 大きな銀杏の樹が見える。大樹の周りに一番から四番の観音様があって、ここから参道が始まるのだなと分かる。鳥居をくぐって田んぼ道を行く。
 その参道にある霊場縁起を見ると、「袋の観音は、延暦年間(728―806)、蝦夷討伐の大将軍・坂上田村麻呂が当地に滞陣し“勢至観音”の御影を袋に入れて、大木の枝にかけ武運長久を祈願した。のちに御堂を建立して、観世音菩薩を祭り、国家安泰を祈ったことにはじまる。文明年間(1469―87)、南部光政が“田村袋の観音”と称して再建し、延徳元年(1489)には浅瀬石領内17社に加えた。元亀2年(1571)9月、千徳大和守政氏が、領内の大社として社殿を改築。慶長2年(1597)2月、大浦為信により浅瀬石城がほろぼされたために一時は廃れたが、寛永4年(1627)4月、袋村住民が自力で再興した」とある。
 それよりも、この“袋の観音様”は午(うま)年生まれの「一代様」として知られている。〈寛延巡礼記〉によれば「堂三尺四面、北向き。本尊勢至菩薩、弘法大師の御作。当代まで千九百余年になる秘仏なり。御図師(厨子)傷み、御腰の廻り戸帳の下より見えさせ給う」と記されている。
 本尊はこの勢至菩薩、あるいは千手観音菩薩と「俗説選」にはあるが、2つとも失われており、今奉安されているのは馬頭観世音である。参道入り口には、いかにも午年生まれの一代様らしく、馬の石像が対で出迎えてくれる。これからの急な登りに備えよ―とでも言うように、石像の下につえが14、5本も並べられていた。
 なるほど、三十三観音五番からは急な山道が続く。近年、参道はきれいに整備され、コンクリートが敷かれている。袋の観音様に行ったのは秋真っ盛り。時折、人の顔ほどもある朴の葉が、バサリと音をたてて落ちてくる。ちょうど山道の中間辺り、清水が流れている。
 ここにはちょっと休めるようなベンチがある。手を洗って、ひと息ついてこの先の角を曲がれば、境内が見えてくる。大きな杉が参道両側にある。ここにも四阿(あずまや)風の休憩場所があって視界が開けている。15分から20分もあれば上れるだろう。
 山の中とはいえ、境内は案外明るかった。
境内に入ってもまだ三十三観音は二十番台のまま続き、さらに石仏をたどっていくと拝殿と神殿をグルッと回り、手水場まできて三十三番に着いた。
 帰りも同じ山道を下る。今度は森の切れ間から浅瀬石川に沿った落合、板留、温湯の温泉街が見える。落合と温湯には、共同浴場がある。かつては板留の川のがけにも共同浴場があったが、残念ながら閉鎖した。ここは冷えの湯で、やけどや皮膚病に効くと言われていた。夏の日盛りに入っても、さっぱりとした湯上がりの気分がいい、絶品のお湯だった。
 今だと、津軽伝承工芸館の「足湯」にゆっくりと足を浸して、次の広船観音堂を目指せばいい。

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 二十八番・広船観音堂までは8.5キロ。山に沿って南へ進むか、国道バイパスから県道大鰐―浪岡線バイパスを平川市に向かう。

〈交通メモ〉 二十六番、黒石・法眼寺からおよそ8.5キロ。徒歩2時間、車で10分。

 二十四番 入内 松倉へ四里
 おしなべて高く卑しき者までも 神に歩みを運ぶなりけり
 堂三間四面。法行作り。正観音。慈覚大師の御作。堂東向き。信田小太郎の建立なり。本堂のうち土仏の千体仏あり。三尺四面の阿弥陀堂あり。二間四面の神楽殿あり。
 狩野法眼筆の絵馬二枚あり。一枚は野馬なり。一枚は鷹なり。什物なり。御宮のうち七尋八尋廻りの杉大小八本あり。
 昔、この山は白山権現の林のよし。三百年以来は少し引きのぼり、白山の本宮三尺四面の堂ありしよし。
 市之沢村、鯛沢村、五本松村、浪岡村。
 これより松山へ上がり、万之沢村、この所に番所あり。
 二十五番 松倉 黒石へ五里
 あなとうと導きたまえ観世音 誓いをここに松倉の宮
 十一面観音。岩倉に立たせたもう。堂三間四面、東向き。御山へ麓より五丈ほど登り、宮立の岩へ登り見渡せば、御郡中新田通り見え申し候。岩の上に見事なる五葉の松十三本あり。見はらしよき景地なり。
 それより中段に、如意輪観音の小堂あり。そのほか、三尺四面の薬師堂あり。
 御山の入口に、小高野と申す在家あり。家数十三軒ほどあり。
 七段坂より西へかかり、この村より段を四五ケ所こえ行くなり。これ浪岡へ帰り、
 中野村、吉内村、本郷村、竹鼻村、高館村、三島村、上十川村、野添村。
 二十六番 黒石 袋村へ一里半
 のちの世を願う心はかろくとも 仏の誓い重き黒石
 堂一間四面、南向き。前に一間に二間の拝殿あり。住吉大明神の堂あり。二間に三間の神楽殿あり。神明の宮あり。天神の堂あり。松尾大明神の堂あり。
 この所、上の坂という。
 これより下に、下の坂とて、稲荷、八幡の両宮あり。えぞ館とて、見はらしよき松森あり。
 牡丹平村、豊岡村、花槙村、築館村、温湯村、この所に湯あり。
 下山形村より浅瀬石川を渡り、
 二十七番 袋村 広船へ二里半
 いまの世は弓は嚢に納まりて 民のかまどは賑わいにけり
 堂三尺四面北向き本尊勢至菩薩。弘法大師の御作。当代まで千九百余年になる秘仏なり。御図師いたみ、御腰の廻り戸帳の下より見えさせたもう。
 金屋村、新屋村、尾崎村。

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二十八番 広船観音堂(広船)

2008/4/9 水曜日

 

観音堂から見る岩木山
広船観音堂。日のよく当たる高台に、20段ばかりの石段を登っていく
落ち葉に覆われた境内から、観音堂への上り口

  広船をはじめこれから行く沖館、大光城など平川流域は早くから水田が開けた土地だという。
 比較的温暖な土地柄で今でも、弘前、黒石に比べても積雪量が随分と違う。岩木山に守られるように風も雪も、この土地を避けるようだ。
 鎌倉時代以前、津軽は蝦(え)夷(ぞ)の国として、中央政権にとっても別扱いとされていたところがある。この時代、豪族安東氏が津軽を支配していた。
 源頼朝が鎌倉に幕府を開き、国内統一を図ったが、まだ津軽には力が及んでいなかった。しかし源氏がほろび、北条が鎌倉幕府を継ぐと、執権義時は平広忠を地頭として津軽につかわした。その場所が平賀郡だといわれている。
 平広忠は曽我広忠という。もとは平氏の血統であり、相模国足柄郡曽我庄から起こった曽我太夫祐家を祖とする。祐家の子、祐信は「富士裾野の敵討ち」で知られる曽我十郎・五郎の義父にあたり、津軽に来た曽我はその一族と見られる。建保7年(1219)のことだという。
 その後貞応元年(1222)3月に、曽我五郎次郎に平賀郡の納税事務を担当させ、さらに岩館の地頭職に任じた。その後曽我氏は「嫡」「庶」の二流に分かれ、嫡家は大光寺に、庶家は岩館に居城した。
 農耕が奨励され、その生産性が上がると曽我氏の勢力は強大になっていった。安東氏の領分は次第に浸食され、勢力は二分された。
 さらには、鎌倉幕府がほろんでからは北条氏の残党が入り込み、宮方―武家方に二派に分かれ対立した。大光寺曽我は武家方、岩館曽我は宮方となり、宮方が勝ちを収めている。
 戦はさらに続き、足利尊氏の反逆と同時に、津軽でも南朝、北朝に分かれて争った。その戦場は大光寺城、尾崎城、岩館と平賀を中心に藤崎城、弘前市の船水館などである。安東―南部と支配が続き、大浦為信の津軽一統まで戦乱が続いた。

 

 世の人を洩らさで乗する広船の 誓いは深し法の山川

 

 袋の観音さまから、また黒石・法眼寺前を過ぎて、今度は左の坂道を下る。津軽平野を前にして山際に接するように、集落がつながっている。この旧道をたどった方が、かつての巡礼の道筋がよく分かる。
 広いバイパスで一気にと思えば、102号を黒石に向かい、県道大鰐―浪岡線バイパスの交差点を左に入る。左の山際を、広船―沖館の標識を目安にして行くことになる。
 また、旧道に戻る。坂を下りて浅瀬石川を渡る。浅瀬石から道なりにバイパスを突っ切って、今は平川市となった旧尾上町金屋へ。ここは近年、家々にある土蔵を巡るイベントを開催している。生け垣に囲まれた宅地の中にある土蔵は、それぞれ個性を持っていて見ていて楽しい。
 骨を惜しまない、勤勉な村―という評価もあって、昔は「嫁をもらうなら金屋から」と言われたのだと言う。
 さらに新屋、尾崎を過ぎて広船に着く。「村の入口より見渡せば、同村の形、舟の形にあい見え申し候」と〈寛延巡礼記〉にある。そう言われれば、そうかなと思う。全体が小さな坂になって、集落の両端が高くなっている。そんな形が確かに舟を思わせるが、果たしてそうかは分からない。
 藩政時代には「世界へも洩らさで乗する広船の 弥陀の浄土へ押して行くなり」と詠まれている。ノアの箱舟ではないが、どこか知れず遠くに運んでくれる船というのは、誰もが心に持つ救いの形なのかも知れない。
 集落から、ほんの少し坂道を上ると、広船神社の広い境内が見える。きれいに整備されている。境内の中、右側に青森県認定「私たちの清水」があった。ここで手(ちょう)水(ず)を使え―ということなのだろう。朱印所が、観音清水の脇にある。
 正面、小高い場所に観音堂がある。石段が20段ほど続いている。観音堂は木造、一間四方。昭和15年(1940)に集落で建立したという。観音堂右奥の一帯には、滝があって境内に水が流れている。これも集落で整備したらしく、昭和53年(1978)7月「滝造園記念」の石碑が置いてあった。
 ほかにも記念碑はあって、厄よけや地元に伝わる獅子踊りの碑も建って、いかにもここは産(うぶ)土(すな)の社なんだな―と思わせる。
 本尊は千手観音。大同2年(807)に坂上田村麻呂が創建したと言われ、いったんはすたれたが正長元年(1428)に、村中により再建されたとも、慶長10年(1605)の再建とも伝わっている。
 いずれにしても、古い歴史を持つ観音堂であるそれだけに津軽三十三霊場としても当初から三十一番に数えられ、寛延年間(1748―51)以降は二十八番となっている。
 明治元年(1868)の神仏分離令は、広船の観音堂も例外とはならず、観音堂は廃されている。ただ、「大同年中からの古仏」が失われることを惜しんだ、村内の組頭が願い出て千手観音像をもらい受け仏壇に安置した
 明治中期、廃(はい)仏(ぶつ)毀(き)釈(しゃく)の風が薄らぎ、霊場巡りもまた盛んになると、広船神社となったこの社に、千手観音を祭りなおした。そして、昭和15年、「皇紀2千600年」の記念事業として観音堂を再建している。長い長い歴史の中で、観音堂は集落の人たちの手で守られてきたのだ―ということがよく分かる。
 観音堂に上ると、岩木山が正面に見える。弘前から見る岩木山は、圧倒される大きさがあるが、遠見の岩木山は優しさがある。津軽平野は平川市から先、田んぼが続きさらに弘前の市街地が見える。
 広船の東側に志賀坊高原があって、これからの季節は山一面に、フクジュソウ、ミズバショウ、カタクリ、キクザキイチゲなど山野草が次々に花をつける場所がある。今年は案外雪が薄かったから、咲くのが早いかも知れない。春一番の楽しみの場所でもある。

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 二十九番・沖館観音堂へは、神社前の道路を西へ進む。

〈交通メモ〉二十七番・袋観音堂からおよそ15キロ。徒歩3時間45分。車で20分。

 二十八番 広船 沖館へ一里半
 世界をも洩らさで乗する広船の 弥陀の浄土へ押して行くなり
 堂三間四面、南向き、総天井。田村丸の建立。大日如来ことのほか古き木仏にてあり。
 古き鰐口あり。大木の杉大小二本あり。銀杏木一本あり。本堂上に古社あり。
 村の入口により見渡せば、同村のかたち舟の形にあい見え申し候。
 唐竹村。
 二十九番 沖館 大光寺へ十一丁
 きり霞くもりて見ゆる沖館の 祈りの空の晴るるうす雲
 千手観音。村より一丁ほど北の方なり。堂二間に四間なり。御林たくさんなり。よき景地なり。杉数三十四五本あり。鳥居あり。別当の名は学了院と申すなり。
 柏木町村へかかるなり。
 三十番 大光寺 居土へ二里半
 仏法に名を得たまえり大光寺 寺へ参るも後の世のため
 三十三観音。堂三尺四面、東向き。本尊薬師如来なり。棟札に奥州津軽平賀郡藤原広氏建立とあり。また、一枚には慶長十九年とあり。御林、村より西の方にあり。別当の宅あり。鳥井なし。
 昔、この所の城主滝本播磨守どの菩提所の二重の塔たてし土台石あり。大木の杉おおくあり。踏み段の石あり。
 これより、柏木町村へもどる。
 吹上村、高畑村、八幡館村、鯖石村。
 三十一番 居土 苦木へ三里
 国ぐにを巡りめぐりて巡礼を めでたく帰るもとの居土へ
 御山は三ツ目内と申し、居土より少し引き上る。堂二間四面、東向き。萱ぶき。十一面観音。
 鳥居二ケ所あり。銀杏木あり。松杉多くあり。一丁ほど上る坂あり。番所あり。
 蔵館村、大鰐村、両所に湯あり。
 三十二番 苦木 茂森へ三里十丁
 いくたびも神に祈りをかけまえも にがきあまきは後の世のため
 御山は龍の口という所の下にあり。木仏の正観音。堂一間四面。村中の建立。鳥居あり。本堂左右に社あり。稲荷宮なり。御神体御座無く候。
 溜池の跡あり。今は萢なり。
 これより松原街道、弘前新町口へ入る。並木の松原なり。
 三十三番 弘前茂森
 いままでは親と頼みしおいずるを 末茂森の宮に納むる
 御山は長勝寺林と申し、堂三間四面、芦ぶきなり。三十三観音なり。先年、この処より金仏の正観音ほり出で候。本尊安置し秘仏なり。
 毎年四月十八日開帳。長勝寺の寺庵中のこらず打ち寄りて、祈祷、撰法あり。
 普門山観音寺と号して、この寺に札打ち納め、おいずるなど納むるなり。
 筆者 本町 甚五郎

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二十九番 沖館観音堂(沖館)

2008/4/16 水曜日

 

神明宮境内の入口付近。正面奥が弁天宮。
杉林に囲まれた神明宮。御神灯がずらりと並んでいる
沖館観音堂も、杉林に囲まれている

  中世・沖館の庄にこんな恋物語がある。
 観音堂がある神明宮境内に墓碑が1基あって、そこには「鷹司平房(としふさ)公三男政友」と「二条尚之(たかゆき)公息女貴増(きます)夫人」と彫られてある。
 室町時代中期、時の関白・平房三男の政友は、藤原尚之の姫・貴増と恋に落ちた。
 しかし、姫は政友の兄・政知との婚約がととのい、妻となった。政友と貴増はその後も、ひそかに恋を語り続けた。その悲恋も兄・政知が知ることとなり、二人は老臣の州崎(すのさき)政市を共に、駆け落ちすることとなった。
 そして、遠くみちのくの奥の奥、沖館の地に庵を結んだのである。
 二人は沖館に住み、山野を拓(ひら)き農耕、植林に励んだのだという。さらには十一面観音を信仰し、周辺に散在する庵所を1カ所に集め、修験の地とした。その場所は十九院と呼ばれているそうだ。
 二人に男子が生まれ、千代丸と名付けられた。この千代丸も父母と同じく修験の道に入り、長じて一道坊全賢と言う。
 本文中にある、文明11年に神明宮を建立したのがこの全賢である。
 政友は永正元年(1504)に、貴増夫人も同17年に亡くなった。貴増夫人は75歳だったという。
 全賢は二人のために、五輪塔を建てて供養したといい、今もその場所は「五輪塔」と呼ばれているそうだ。
 政友から5代目にあたる堯光(たかみつ)は、弟・多五郎とともに、大浦為信に味方し、第一次大光寺城攻めで功労を見せた。観音堂が再建されたのも堯光時代で、子孫も代々修験道を継いで、観音堂を守ってきた。
 観音堂と神明宮を守ってきた堯光の子孫・山谷氏は、神仏仕分けの際にも、いち早く古観音像を本山の弘前大行院に移して、かくまった。
 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮が薄らいだ大正14年、多くの信者の寄進により、沖館観音堂は神明宮境内に再建されたのだという。

 霧霞くもりて見ゆる沖館も 祈る心に晴るる薄雲

 広船から山沿いに、西へ3キロばかり行くと沖館に入る。山を背にして前は津軽平野が一面に開けている。その向こうに岩木山がそびえている。
 戦国時代、この沃野(よくや)の中には大小の城や館があって、いずれも大浦為信の津軽統一によって大方は滅ぼされたり、あるいは軍門に下っていったのである。
 戦国時代のこの地方は、長く南部氏が支配していた。南部高信が津軽郡代として石川に居城し、土地は3大名に分属されている。
 大浦為信が西根(中郡)および西浜地方に勢力を張り、1万2800石。次は南部一門の南部遠江守が平賀郡大光城周辺を領し、瀧本重行を城代として大光寺城に置いた。1万数千石。さらに南部家の客分として、名門を誇る北畠顕村が浪岡を領していた。その領地は一番広く1万3800石といわれる。
 統一以前の旧記や絵地図から、大光寺城周辺の諸城を見てみると、大光城、田舎館城、浅瀬石城。この3つの城は城下を持った大勢力だった。さらに新屋城、尾崎城、高畠館、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城―と群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)していたのである。
 強者(つわもの)どもが夢の跡―ではあるが、わずかながら城跡を残しているのは、大光寺城をはじめ、新屋城、尾崎城、高畠城、杉館、沖館城などである。今は山際に、東北自動車道路が南北に走り、中世・戦国と現代を線引きしているかのようだ。
 沖館の集落、中ほどに道が3つに分かれる所があって、そこに案内板がある。一番左の道を真っ直ぐに進むと、上が東北自動車道。その下、高速道のトンネルをくぐると間もなく、杜(もり)に囲まれた神明宮が見える。
 沖館観音堂には為信直筆と言われる十一面観音画像があり、裏面には「天正四丙子年八月、願主藤原為信」と記されている。津軽一統の大志を抱いて、諸城を略取した為信ではあったが、天正2年8月、瀧本播磨(はりま)重行が籠(こ)もる大光寺城を、果敢(かかん)に攻めたてたが失敗した。
 為信は沖館観音に100日の願をかけ、翌天正3年元旦未明、大光寺城を急襲(きゅうしゅう)して大勝利を収めた。為信は大いに喜び、この年3月に宝殿、拝殿の寄進を決めている。その後、社殿が完成した時奉納したのが、為信自筆の「観音画像」だったという。
 観音堂はその後、たびたび火災に見舞われているが、為信の仏画だけは焼失をまぬがれた。安政4年(1857)、藩庁の神社調べの際、為信公自筆に「相違なし」との証明を受けたといわれている。
 その縁起であるが、延暦年中(782―806)、坂上田村麻呂の草創と伝わっている。その後、久しく荒廃していた観音堂を、永仁2年(1294)、南部の僧・知慶が再興し、さらに文明11年(1478)には一道坊全賢により神明宮が勧進(かんじん)され、社殿が建立された。この後、津軽を統一した津軽為信が、社殿を再々興した―ということになる。長い歴史を負った神明宮である。
 境内はうっそうとした木々に囲まれているが、きれいに整備されている。石造りの鳥居が並び、拝殿に上る石段が続いている。さらに境内左側にも石段が伸びて、観音堂に続いている。
 境内左に社務所があって、ここでご朱印を頂(いただ)く。その周辺には弁天宮、地蔵堂もあって地域の厚い信仰があるのだ―と思わせる。弁天宮は池に囲まれて、小さな島に社が置いてある。祭礼の時には、池の端では「サンゴ占い」も行われるだろうか。
 取材したのは秋も深いころで、盛大な落ち葉が境内に敷かれていたが、穏やかなたたずまいを見せていた。曲がりくねった沖館の集落には秋の陽がまぶしく注いで、戦乱に次ぐ戦乱があった国盗りの舞台だったとは到底思えなかった。
 ………………………………………………
 30番・大光寺慈照閣へは3キロ弱。平川市柏木町から弘南鉄道平賀駅を北へ行く。
※次回、23日付は休みます。

〈交通メモ〉二十八番・広船観音堂からおよそ4キロ。徒歩1時間、車で7分ほど。

 「津軽三拾三巡礼」について
 津軽で最も古いと思われる観音霊場巡拝記がこの寛延4年(1751)に書かれた『津軽三拾三巡礼』である。筆者の「弘前本町・甚五郎」は商人とみられているが、詳細は不明である。和紙37枚つづり、縦12.5センチ、いわゆる「道中覚書」型の和本である
 「御国三十三番札所」については、延宝年中(1673―81)から延享3年(1746)までの、松井四郎兵衛家古今御用抜書にも記事が見える。こちらの方が古いのだが、これは札所と里数を書き留めただけという、そっけないものである。「寛延巡礼記」は札所とご詠歌、里数、さらに霊場のようすや道順案内まで記してあって、いわば当時における“霊場ガイドブック”になっている。
 表題には年号が入っていない。しかし、本文の一部、相内の項に「此宮、加慶(嘉慶)二年の造立。今寛延四年迄三百六十四年ニ成」とあり、書かれた年が判るのである。もっとも寛延4年は1月217日に改元して、宝暦元年となる。
 おそらく筆者・甚五郎は、寛延3年夏から秋にかけて巡拝し、冬に書きはじめ、正月―2月ごろに脱稿したのであろう。京都で行われる改元は、遠い津軽―とくに、庶民の場合、通例2カ月ほど遅れて知るからである。
 また、道中記としては、月日が入っていないので、巡礼する時のこころえとして、聞き書きをした―と見るむきもある。
 この巡礼記は、延享3年以前に行われていた古霊場に代わって、今の三十三札所が形成された年代を探り、また藩政中期における霊場の状況や順路にあった郡中風景、さらに明治初年、神仏分離によって失われた寺堂縁起、伝承を知ることができる資料としても、貴重な存在である。
 なお、原本ははじめに「津軽三拾三所巡礼」と題して、札所とご詠歌をひと通りかかげ、そのあとに「三拾三所道程名所」の一項を設けて里数、縁起、案内などを記してある。しかし、重複を避けるためにご詠歌を「道程名所」中に編入し整理した。
 また詠みやすくするために句読点、送りがなをつけ、ひらがなで書かれた地名などは漢字になおし、新かなづかいとしている。

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