津軽三十三霊場

 

二十番 高野山観音堂(今別)

2008/2/6 水曜日

 

境内東側の丘に上ると、三十三観音の石像が並んでいる。時に大きめの石像も交じっている
踏切を渡ってすぐ境内右に観音堂がある。左は丘、右には陸奥湾

境内から見る海の風景目の前に踏切があって今別の街が手に取るようだ

 上磯地方の2つの大きな町、今別と三厩を比較する古い資料がある。これも本社刊「わがふるさと」からの抜粋である。
 伊能忠敬が享和2年(1802年)に外ケ浜一帯の測量を行ったが、その時の手記「沿海日誌」による。
 『奥平部村 家12軒、海際、左は山麓 砂ケ森 家7軒、同断、是より海を少しはなれて降る、平館より3里13丁 袰月村 駅場にあらず、家14軒 大泊村 家12軒、右は海、左は山 山崎村 家12軒、右は海、左は土手山、上がれば左高田ケ原、2、30丁、それより山々、土手山を上下し海岸へ出 一本木村 家14軒、村入口右海、左山合に田地長さ30丁、内45丁に見ゆ、袰月より22丁 今別村 駅次、家67軒なり、平館より3里20丁15間5尺と云、此所右海岸、左は小山麓 浜名村 家12軒、左は小山下』
 家数を合計すると159である。三厩村と比較してみよう。
 『増川村 家14軒、三厩支配寄郷、今別より1里8丁39間 三厩村 家82軒 6丁間村 家6軒、藤島村の内 藤島村 浜名村持、家7軒 下宇鉄村 家7軒、番所まで測る。それより船に乗り竜飛岬を測り夜に入って帰る』
 三厩は全村で120戸、宇鉄から向こうには人家がなかったことがはっきりしている。今別、一本木、浜名を合わせて93軒、三厩、増川を合わせて96軒だから、ほぼ同じくらいの港町であったようだ。
 忠敬が測量を行った14年前の天明8年(1788年)に、この地を訪れた古川古松軒はその著「東遊雑記」に次のように書いている。
 『今別は50余軒の町なれども家作り大抵にて、町の両端に船入りありて、百石積みくらいの船78隻見えたり、何国にても船付の所は金もうけもあるものにや…』
 当時の町の富裕ぶりがうかがえるようだ。

 高野山誓いをここに今別の 石の光も弥陀の舎利浜
 津軽半島の陸奥湾側の海岸線は、大きくは今別と三厩の2つの地区に分けられる。東側は今別、西側が三厩。いわゆる上磯と呼ばれる地方である。
 津軽半島を縦走する中山山脈がヒバの原生林を豊かに育てていた。藩政時代にはその後背地にある十三、小泊、今別の港からヒバ材が船で全国に積み出され、津軽藩の財政を潤していたのである。
 蟹田町で止まっていた旧国鉄津軽線は昭和33年10月に今別、三厩まで全線開通している。半島の拠点として地域の人を集めていた2つの町も、津軽線の開通で買い物客が青森市に流れ、商店街は少しずつ活気を失っていったという。
 とはいっても、2つの町はどこか文化的な雰囲気を持っている。街並みが整い、どこやらモダンな感じがする。国鉄開通以前は、ほとんどが松前の経済圏にあり、ひょっとすると青森より先に中央文化の波を浴びていたのかもしれない。
 20番・高野山観音堂と21番・鬼泊厳屋観音堂の2つは、名刹・始覚山本覚寺が管理している。2つの観音堂のご朱印は、本覚寺で頂ける。
 高野山観音堂は、本覚寺の左斜め後ろに見える小高い丘にある。道を行くと十字路に観音堂入口の看板がある。進むと、津軽海峡線が走る踏切に着いた。踏切を越えた広場に観音堂がある。
 観音堂の巡拝も20番まで来たが、境内の中をレールが通る風景は初めてである。しかし、正面3間(5.4メートル)、奥行4間半(8.1メートル)。十一面観音像を祭る観音堂は立派な寺院づくりになっている。
 広場の奥、杉木立を上っていくと周囲に桜が植えられた開けた場所がある。三十三観音の石像が周りを囲んでいる。この場所だろうか。本社刊の新津軽風土記「わがふるさと」(初版・昭和35年)にこうある。
 『朝から花火が打ち上げられ、町には5月14日から3日間「今別町大観桜会」のポスターがはられ、「大運動会、消防観閲式、婦人会仮装、町内駅伝競走、上磯相撲大会」などと書かれていた。
 小学校のある丘の上、三十三観音のあるところがその場所だ。山桜、八重桜が十数本、松の木にまじって咲いていた。この丘から三厩湾が見渡され、はるかに北海道の山々も望まれる。
 津軽の観桜会は弘前、金木、青森、今別という順で、昭和5、6年ころには見世物小屋ができ、行商人も集まったし、青森からはカフェーが出張してきて、大いににぎわったものだと土地の人は自慢していた。』。
 今から50年近い昔であるが、今も街並みを通して今別の港が間近に見えている。
 冒頭のご詠歌「石の光りも弥陀の舎利浜」の舎利は、仏さまの遺骨。今別から袰月の海岸では仏舎利にも似た石や錦石が、多く採れたという。橘南谿の「東遊記」に『…舎利浜の先に今別という所あり。この浜をメノウ浜という。大きさたいていこぶしの程より鶏卵、あるいは小さきはそら豆のごとし』と記している。
 今はめったに見つけることができないというが、石は太陽を背にして波打ち際をゆっくり歩いて探すのがコツだそうだ。
 高野山観音堂は本覚寺の末寺。本覚寺は天元年中(978―83年)に開基され、承応2年(1653年)に安長上人が再興、明暦4年(1658年)に始覚山本覚寺という山号、寺号を受けた。享保3年(1718年)、貞伝上人が5世住職となってから、藩政時代を通して興隆し、繁栄したという。
 観音堂の歴史はさらに古く、天長年中(824―34年)、慈覚大師が作る十一面観音像を祭って草創された。藩政期も霊場23番、あるいは20番として長く信仰を集めてきた。
 しかし、その後観音堂は荒廃し、寛政3年(1791年)、本覚寺13代・愍栄が古仏を引き取り、自ら彫った十一面観音の体内に納めて、本覚寺客殿裏に安置した。
 そして、寛政5年(1793年)、同舎を新造して本尊を戻し、境内に円通庵を創建して、観音堂を管理させた。この時、二又村(旧今別村二股)に住む金十郎という者を西国に行かせ、三十三観音霊場の土を持ち帰らせ、新堂の下に埋めた―と伝えられている。

……………………………………………………

 21番・袰月観音堂まで6キロ余り。三厩街道を青森へ向かう。

〈交通メモ〉19番・義経寺からおよそ5.5キロ。徒歩1時間20分、車で8分。

 上磯地方の2つの大きな町、今別と三厩を比較する古い資料がある。これも本社刊「わがふるさと」からの抜粋である。
 伊能忠敬が享和2年(1802年)に外ケ浜一帯の測量を行ったが、その時の手記「沿海日誌」による。
 『奥平部村 家12軒、海際、左は山麓 砂ケ森 家7軒、同断、是より海を少しはなれて降る、平館より3里13丁 袰月村 駅場にあらず、家14軒 大泊村 家12軒、右は海、左は山 山崎村 家12軒、右は海、左は土手山、上がれば左高田ケ原、2、30丁、それより山々、土手山を上下し海岸へ出 一本木村 家14軒、村入口右海、左山合に田地長さ30丁、内45丁に見ゆ、袰月より22丁 今別村 駅次、家67軒なり、平館より3里20丁15間5尺と云、此所右海岸、左は小山麓 浜名村 家12軒、左は小山下』
 家数を合計すると159である。三厩村と比較してみよう。
 『増川村 家14軒、三厩支配寄郷、今別より1里8丁39間 三厩村 家82軒 6丁間村 家6軒、藤島村の内 藤島村 浜名村持、家7軒 下宇鉄村 家7軒、番所まで測る。それより船に乗り竜飛岬を測り夜に入って帰る』
 三厩は全村で120戸、宇鉄から向こうには人家がなかったことがはっきりしている。今別、一本木、浜名を合わせて93軒、三厩、増川を合わせて96軒だから、ほぼ同じくらいの港町であったようだ。
 忠敬が測量を行った14年前の天明8年(1788年)に、この地を訪れた古川古松軒はその著「東遊雑記」に次のように書いている。
 『今別は50余軒の町なれども家作り大抵にて、町の両端に船入りありて、百石積みくらいの船78隻見えたり、何国にても船付の所は金もうけもあるものにや…』
 当時の町の富裕ぶりがうかがえるようだ。

 これからは新編「津軽三十三霊場」の巻末にある「津軽三十三霊場」・余滴―からの抜き書きになります。古文書等、資料の中で、面白そうなものを選んで掲載しています。
 紙数の都合上、途中で次号に続くことにもなりますが、企画全編を通じてお楽しみ下さい。
 寛延4年辛未年
 「津軽三十三所巡礼」
  弘前本町 甚五郎
 一番 久渡寺 弘前
 より2里2丁
 普陀落や恵みも深き観世音 罪も報いも晴らす宮立
 堂3間4面、東むき。本尊正観世音。麓の坂に並木の松352本あり。本堂並みに熊野権現の堂あり。左に白山大権現本地の堂あり。同じ並みに高さ5尺ばかりの滝の樋あり。
 小沢村、梨木平村、坂元村。茶臼館に宮あり。薬師堂村。
 岩木川、相馬川落ち合い、舟渡しあり。
 2番 清水 弘前より
 3里。百沢へ1里。山 路。麓に6尺ばかりの 滝あり。
 わが庵をはるばるここに清水の 流れに浮かぶ花を救わん
 千手観音。堂3間半に2間、南むきなり。万治3年の建立。後ろに手洗いあり。本堂の後ろ舞台作り。後ろの山に大石さいかかり、その岩より清水出ず。山神堂あり。
 この間、百沢まで山道。
 3番 岩木山百沢寺
 高杉へ2里。山道。
 父母の菩提をねがう百沢寺 仏と祝い神と祝われ
 大伽藍なり。入口に黒門あり。春慶塗の鳥居あり。山門二重二階なり。五百羅漢あり、高さ5丈ばかりにして5尺5寸廻りの柱18本あり。中堂の四方に四天王あり。仏壇は須弥壇(しゅみだん)ごしらえなり。宮のうち神木の松あり。三尋廻るなり。本堂2間4面、東むき。奥の院には、唐もんの柱に、上り下りの金龍あり。
 高岡、山じろ村、新岡村、折笠村、宮館村。

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二十一番 鬼泊巌屋観音堂(袰月)

2008/2/13 水曜日

 

高野崎から見る袰月の村。左の湾内で日がかげっているのが袰月
奥が海雲洞釈迦堂。左側、細くひと筋の滝が落ちている。手前は海

県道側から見る厳屋観音。その昔はもっと厳しい場所だったという

 実は竜飛、袰月には一昨年の夏にも画家の山谷芳弘先生と一緒に来たことがある。本州最北、奇岩、奇勝のこの岬の底知れぬ魅力が人を引きつけるのだろう。
 袰月の海雲洞釈迦堂であるが、一見地域の集会所ふうである。ガラガラと戸を開けると正面に釈迦如来像と観音像があるからそれと分かるが、20畳ほどの広間には3人掛けのベンチが2つ置いてあった。
 お年寄りが折々集まってはお茶を飲んだり、お菓子を食べておしゃべりしていく。立ち居の不自由なお年寄りのためのベンチだった。
 以前にも書いたことがある。吟行の後、釈迦堂を借りて句会を開く人たちがいる。俳句同人誌「黒艦隊」代表の徳才子青良さんや県現代俳句協会事務局長の後藤岑生さん、青森女性俳句会代表の津川あいさん、今は廃刊となったが当時、同人誌「埠頭」代表の佐々木とみ子さんらだった。
 集まっていたおばあちゃんたちの隣を借りての句会だった「最長老のおばあちゃんが97歳でね」「そうだ。88歳が一番若くて、みんなにお茶をついでくれて…」
 この97歳のおばあちゃんの話である。「尾上からお嫁さんに来た人だって…。馬車サ乗って汽車サ乗って、舟サ乗って来たんだって。戻るガナーって思ったゴトもあるばて、戻る方法知らねって」。
 津川あいさんがこう教えてくれた。その後もこの話を時折思い出す。90歳を超え、地域の人たちに大事にされて元気に暮らしている。こんな人生も決して悪いもんじゃないな―と。
 近くの人に「今もそんなおばあちゃんたちが集まってるんですか」と聞いた。
 「今は家を預かるお嫁さんがいないんで、なかなか集まりも少なくなりました」と少し寂しそうだったが「それでも、みんな元気に暮らしています」と付け加えた。

 

 鷲の山誓いも重き袰月の 影を浮世に残す舎利浜           海雲洞釈迦堂
 いにしえの鬼の岩屋に神立ちて 悪魔はあらず外ケ浜にも      鬼泊厳屋観音堂
 津軽三十三所21番・袰月には、霊場が2カ所あって巡礼を戸惑わせる。鬼泊厳屋観音堂と海雲洞釈迦堂。私はこの2つともども巡礼することにした。
 今別をたち、海峡の海を東に進む。そして鋳釜崎、坂を下り峠を越えた前方が高野崎。岬に囲まれて、後ろに山を背負う小さな集落が袰月である。
 詩人・高木恭造が袰月小学校の代用教員をしていた大正11年ごろ、方言詩「陽コあだネ村」を作っている。
 この村サ一度(イヅド)だて
 陽(シ)コあだたごとあるガ
 ジャ
 家(エ)の土台(ドデ)コァみんな
 潮虫(スオムス)ネ噛(カ)れでまてナ
 後(ウスロ)ァ塞(フサ)がた高(タ)ゲ山ネかて潰(ツブ)されで海サのめ
 くるえンたでバナ
  ―秋の強い日差しれていたせいか、袰月
  に入った途端、暗闇に閉ざされたようだ
  った。「あ、陽コあだネ村って、本当な
  んだ」と思った。
 見ナガ
 あの向(ムゲ)の陽コあだてる松前(マヅメ)の山コ
 あのキレだだ光(シカリ)コァ一度だて
 おらんどの村サあだたごとあるガジャ
 (略)
  ―当時、若者たちはみんな出稼ぎに出て
  村には年寄りだけが残った。この年寄り
  たちが毎晩、高木さんを訪ねては出稼ぎ
  の息子や紡績に行っている娘たちに出す
  手紙の代筆を頼んだそうだ。
 ああ あの沖(オギ)バはねる海豚(エルガ)だえンた伜等(ヘガレンド)ア
 何処(ド)サ行たやだバ
 路傍(ケドバダ)ネなげられでらのァみんな昔の貝殻(ケカラ)だネ (略)
  ―昔はアワビが豊富に捕れ、ニシン漁が
  盛んだったころは、北海道の漁場にも出
  て経済的にも恵まれた土地だった。しか
  し、ニシンもアワビも捕れなくなったこ
  ろから、すっかりさびれていった。「陽
  コあだネ村」は、ちょうどそんな時の詩
  だったのだ。
 高野崎の中ほどに、「陽コあだネ村」の詩碑は建っている。
 集落の中ほどに「海雲洞釈迦堂」と書いた木標がある。観音堂の左側奥に滝が落ちている。さらに赤い小さな橋を潜って海に流れこんでいた。20畳ほどの広間は、集落の寄合所ともなっていて、正面には釈迦如来像、左には聖観音像を安置している。ご朱印は堂内に置いてあった。
 一方、鬼泊厳屋観音は袰月から東へ約6キロ先きの綱不知にある。隧道をくぐって左手、海に突き出した巨岩の岩屋に、観音堂が納まっている。
 鬼泊岩寛延巡礼記に記述がある。「海の中に岩あり。船にて参詣する所なり」。本覚寺の末庵になっているが、草創年代は不詳である。しかし、高野山観音と同じ年代であろうと推察されている。正保4年(1647年)、岩の洞穴に観音堂宇を建てて「厳屋観音」としたという。
 ただ、場所が場所だけに、北風にさらされ波しぶきをかぶる過酷な岩屋の堂宇は傷みが激しかった。藩政中期・享保年中(1716―36年)には、半ば壊れていたという。この時、今別本覚寺の5世住職・貞伝上人が荒廃を見かね、本尊を本覚寺に遷した。
 しかし、本尊がなくなっても信仰厚い人々は厳屋観音への巡礼を続けていた。古来、巡礼者はこの鬼泊岩厳観音を「袰月観音」と言い慣わしている。袰月というのは「両翼突(ほろづき)」と書き、高野、鋳釜崎を中心に周辺一帯の呼び名であって、旧袰月村の名に限った呼称ではなかった。明治までは、袰月の観音さまといえば、鬼泊厳屋観音のことだったのである。しかし明治元年、神仏分離令により鬼泊観音は消滅している。
 明治20年代、霊場巡りが再び盛んになると袰月観音堂は再建された。ただし、鬼泊ではなく袰月村にである。本尊には、本覚寺から貞伝上人作と伝わる聖観音像を譲り受け、「滝見観音海雲洞」とした。
 滝見観音は大正、昭和と巡礼の信者を集めていたが、昭和30年代に入って鬼泊に観音堂が再現され、霊場を2分することになったのである。2つともに歴史とともに、地域に深く根ざした観音さまである。同じ道筋である。2つともお参りしたい。
 ………………………………………………
 22番・青森正覚寺は、海岸線を抜け県都の中心街へ。

 
交通メモ 20番・高野山観音堂から袰月・海雲洞釈迦堂まで約7キロ徒歩1時間45分車で10分海雲洞から鬼泊・厳屋観音までは約6キロ徒歩1時間30分車で8分

 (前号から続く)
 4番 高杉 十腰内 へ3里
 はるばると詣て車の宮めぐり 名は高杉の宮に残れり
 堂3間4面、南むきなり。田の中にあり。聖徳太子御作の鳥居5ケ所あり。うち1ケ所は、籠くみなり。
 住吉村、水落村、鬼沢村、道賀沢村、貝沢村、大森村、十面沢村。
 5番 十腰内 湯舟 へ1里、山道
 参るより頼みをかけし十腰内 聞きしにまさる深き宮立
 堂2間半に3間、東むき。秘仏なり。この御山は、岩鬼山と申し、岩木山、厳鬼山、長界山と申して、弥陀、薬師、観音三尊の御山のうちなり。宮のうち大小の杉あり。
 立石村、小屋敷村。
 6番 湯舟 北浮田 へ18丁
 今の世に神といわるる鬼神石 庭のいさごも浄土なりけり
 堂3尺4面、南むきなり。本尊達磨の形なり。石仏なり。昔、この所に鬼神太夫と申す鍛冶、刀を打ち、悪魔を退治つかまつる。石とならせたまい、観音と祝い奉る。地より生いたまいしゆえ、堂は鞘堂なり。それより奥に刀を打ちたまいし湯舟あとあり。
 李木平、浮田村。
 7番 北浮田 日照 田へ2里
 かかる世に祈りて見れば心(き)は浮田 神のめぐみも深き身なれば
 正観音。御仏体これ無く、棟札ばかりあり。堂3尺4面にて、天和2年の建立。施主浮田村庄屋惣兵衛は別当を定めず。前に萱ぶきの神楽堂あり。
 これより、鰺ケ沢へ廻りてよし。
 8番 日照田 追良 瀬へ3里
 沢山や朝日にかがやく日照田を てらさせたまえ観世音かな
 本堂3尺4面、西むき。御仏体木仏にて古仏なり。棟札大同2年2月吉日。田村丸の御建立なり。赤石村より1里東のかた沢合いへ入り、宮のうち神木の銀杏の木あり。
 赤石村、金ケ沢村、田野沢村。

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二十二番 正覚寺観音堂(青森)

2008/2/20 水曜日

 

新町側から港方向を望む。その昔、連絡船が横切るように見えていた
本堂内陣、右手に安置されている聖観世音

正覚寺境内にある嘉永2年に建立された観音碑

 人によって違うのはもちろんだが、子供のころの青森の思い出といえばこうだ。
 合浦公園で食べたしんこの蜜(みつ)かけ団子と、やはり合浦公園の屋台で食べたショウガみそのおでんの2つ。
 小学校、町内の遠足などでなければ滅多に来ることもない青森だったが、買い食いが一番の楽しみで、あのショウガのにおいが、妙に子供の口にも合っていた。それと函館泊まりの修学旅行の連絡船での船旅である。わずか4時間の青函の航路ではあるが、子供にとってはまるで外国に向かうような興奮があった。
 桟橋と連絡船に渡された橋が上げられ、ドラが「ジャーンジャーン、ジャジャジャジャーン」と鳴る。5色のテープが海に流れるころ、団塊の小学6年生たちは、船の底の3等船室にぎゅーぎゅーに詰められてしばらくは座っている。
 立ち上がってようやく目の届く辺りに、丸い窓が並んであって、のぞくと大きく揺れる波が見えた。「オラだぢは、海の中サいる」と思った。
 少年雑誌の付録に付いてきた「少年探偵手帳」を持って、船内を探検した。風呂場があって、デッキに上がって船尾で遠くかすむ半島を見ては、また船底に戻った。
 この青函連絡船が就航してから100年が経つという。1908年(明治41年)3月、青函に比羅夫丸が就航して以来、100年である。
 小学6年、私たちが乗った船は何という船だったか、まるで記憶がない。就航100年とはいうが88年3月、連絡船は惜しまれて姿を消した。以来20年が経つ。
 連絡船がまだ運行されていたころ、青森支社に勤務していた。「ある時間帯、街中から連絡船が見えるんだ」という話を聞いた。それは、まるでビルが現れるようにゆっくり街中を横切って行くのだ―という。残念ながら、一度も見ることなく終わった。

 

   (青森市本町1丁目、本寺 浄土宗)
 浪の音松の響きも御法にて 風をも弥陀の正覚寺かな
 鬼泊から国道280号を走って平館灯台を過ぎ、今は外ケ浜町となった蟹田、蓬田を通って、海岸沿いの油川は素通りしてバイパスから青森市街地に入る。
 少し寄り道していこう。この油川だが、古くから「大浜」と呼ばれた港である。油川がいつの時代から港としてにぎわうようになったのかは、よく分かっていない。言い伝えでは鎌倉時代には既に諸国の船が出入りしていたという。
 中世・津軽では安東一族が外ケ浜一帯を領していたが、その後南部氏によって安東氏は敗れ、この地方は南部氏が支配した。外ケ浜が南部氏の勢力下にあったのは、どのくらいの間か、これもよく分かっていない。しかしこの後は浪岡北畠氏の支配となった。
 いずれにしても油川は長い歴史の中で、外ケ浜一帯の拠点港としてにぎわっていたことは間違いない。
 その後のことであるが、津軽統一の大望を抱いた為信は、石川城、大光寺城を攻め、浪岡の北畠氏を滅ぼした。さらに為信は子飼いの家来を油川城下に送り、あらかじめ敵を買収し、内部攪乱(かくらん)を策した。
 いよいよ天正13年(1585年)3月27日、総勢1300余の軍勢が大浦城を進発した。翌28日、精鋭500騎が油川城に迫った。その時、しめし合わせていた通り、内通者が油川城下に火を放ち「大浦の大軍だ」と騒ぎ立てた。
 城主の奥瀬善九郎は、あまりの不意打ちに肝をつぶし、一族郎党を率いて船で田名部へ逃げ落ちた。一戦も交えず逃げ去ったこの臆病ぶりを世人は、「油川の聞落ち」と笑ったという。
 寄り道どころか、随分油川に長居をしてしまった。
 青森は寛永2年(1625年)に港が開かれている。善知鳥(うとう)という小漁村に町づくりが開始されて、北陸や近畿などから移住者が続々と入ってきた。しかし、遠く善知鳥に移った人たちが、心のよりどころとする寺院がなかった。それで開かれたのが、正覚寺だった。
 無量山正覚寺は藩政初期、浄土宗・弘前誓願寺末寺として、良故(りょうこ)竜呑(りゅうどん)上人により、開基されている。寛永5年(1628年)5月18日というから、青森では最も古い寺院ということになる。本尊は阿弥陀如来木像、聖観音像とともに慈覚大師作と伝わる。
 その後の、正保2年(1645年)6月、町年寄らによって、毘沙門天堂境内に観音堂が建立された。堂舎は3尺四面、宝形(六角)だったという。さらには青森城代・進藤庄兵衛正次らが、延宝7年(1675年)5月に堂舎を3間四面に建て直している。
 「青森観音堂」として信仰を集めてきたが、境内地争いから現広田神社境内に移転。明和3年(1766年)正月の大地震に遭って観音堂は全壊し、その後再建されなかった。それから間もなく「青森霊場」は、無量山正覚寺となったのである。
 正覚寺がある一角は、県都・青森の歓楽街の中心にある。高層ビルに閉ざされているとはいえ、ここには常光寺、正覚寺、蓮心院、蓮華寺と広大な敷地を持つ大寺が並んで、存在感を見せている。
 青森大空襲を受ける昭和20年夏まで、この一帯は森に包まれた寺院街だった。この時正覚寺は本堂、観音堂、庫裡(くり)をはじめ記録類など一切が焼け失せた。幸い、聖観音像は信者に助け出され、数日の後に寺に帰ってきた。
 長く仮院生活を続けていたが、昭和49年に新築なっている。1階が位牌堂。2階が本堂となっているが、本堂内陣の正面右手に慈覚大師作と伝わる青銅の聖観世音が安置されている。
 ご詠歌「浪の音松の響きも御法(みのり)にて」と詠まれているが、潮騒は遠く県都・青森のど真ん中に正覚寺はある。
 ………………………………………………
 23番・浅虫夢宅寺は、国道4号線から東へ12キロ。

交通メモ 21番・鬼泊から約50キロ。徒歩13時間。長い海岸線を南下する。車で1時間10分

 

(8番・日照田から続く)
 金ケ沢、田野沢の間、西の浜と申す名所あり。影の小浜ことは大戸瀬、小戸瀬と申す岩あり。高さ5丈ばかりにて、色茶色なり。綺(き)麗(れい)なること筆に尽し難し。たとえば七子のごとし、見事なり。そのほか、砂浜めずらしく綺麗なり。
 もっとも、西小浜とは新小浜と書かれり。そのほか、追良瀬までの間、名所かず多くあり。
 鳥井崎と申す所に、岩瀬にさしかかり、崎あり。岩の上に弁財天御立ちあり。それより南へ11丁ばかりの間を、どてら島と申す岩あり。それより、もうすという岩あり。遠目には出家のもうすを冠り、座禅のていにあい見ゆる。そのほか、いろいろの岩あり。塩釜あり。
 9番 追良瀬
      深浦へ
      2里
 深山路や檜原松原わけ行けば 山もちかいも深き谷川
 観世音の御山へ、追良瀬より1里余あり。御山の麓(ふもと)より10丁ほど登り、2間に3間の本堂あり。岩屋の広さ6間四方ほど。木仏にて古仏なり。正観音なり。見入の観音と唱え奉るなり。御仏体は見わけがたし。
 右の並みに胎内くぐりあり。岩のうち4間四方ほどあり。御堂むかし立て初まりは、飛騨の内匠の建立。東むきなり。
 右の方、かろと申す岩あり。五葉の松生いあり。左の方、とわ沢ひや水と申す名所あり。
 白戸村、この所に塩釜あり。
 深浦への坂の下、綺麗なる岩あり。
 10番 深浦
     下相野へ
     鰺ケ沢よ
     り3里
 ただ頼め神に祈りを深浦の あすのいのちの住むは白浪
 正観音。恵心の御作。本堂3間四面。東むき。田村丸の御建立。総樫なり。いまは、御公儀普請なり。左の方に薬師堂あり。飛騨の内匠の建立。右に3尺四面の庚堂あり。宮のうち大木杉13本あり。
 床前村、山崎村、舟里村。

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二十三番 安養寺夢宅寺(浅虫)

2008/2/27 水曜日

 

JR浅虫駅の「足湯」。旅の人か、町内の人か。いつも4、5人がいる
浅虫夢宅寺。なんとも言えないいい名前のお寺だ。殿様の祈願所らしく、どこやら威厳がある

夢宅寺境内から見る本堂。本堂内陣右に観音像。ご朱印も本堂に置かれている

 昔から知られていた浅虫温泉であるが、明治24年、東北本線が開通して駅前を中心に人家が建ってから、少しずつにぎわいを増してきた。
 明治37、8年の日露戦争当時は、浅虫に傷病兵が送られて、県外の人たちにも「浅虫温泉」の名が知られていったという。
 明治40年ころの記録であるが、温泉名が並んでいる。高砂湯、柳の湯、桜庭湯、大湯、椿湯、裸湯。旅館、温泉客舎は椿旅館、東奥館、三国旅館、小宮山旅館、川村旅館、松月館、浅虫館の7つ。いまでも思い当たる名前がある。
 地区の人口は1100人。戸数190戸のうち、商店33戸、旅館7戸、温泉客舎15戸、共同浴場2カ所。名物としては唯一「クジラ餅」が挙げられている。
 その浅虫温泉が本格的ににぎわい始めたのは、大正初期の好況時代だったらしい。駅前にはさらに家が建ち始め、芸者が出入りして歓楽街として、浅虫温泉は新たな顔に生まれ変わった。当時芸者、酌婦の数は150人ほどいたのだそうだ。
 同時に多くの文人にも愛されている。俳人・秋元不死男は昭和33年年に浅虫に来て「あおあおと林(りん)檎(ご)の鎮(おもし)稿を継ぐ」を作った。不死男は紅灯街を冷やかして歩くこともなく、ただ原稿を書いていたのだろうか。
 青い林檎というから季節は初夏のころ。少し窓を開けて海風を入れ、机に向かっている。風で原稿用紙が動かないよう青い林檎を文鎮にして、筆を走らせているというのだ。何ともさわやかな句である。
 高浜虚子も来ている。五女晴子さんの婿が、日銀青森支店長として赴任していたこともあって、2度ばかり来ているようだ。
 浅虫には晴子さんと夫の高木餅花さんらと水入らずの旅。その時の二句。「百尺の裸岩あり夏の海」「出てみよといふベランダに出て涼し」

 

 月も日も磯辺に浮かぶ裸島 誓いも固き石となるらん
 鬼泊から約50キロ。青森の正覚寺からはさらに12キロ。長い長い海辺の巡路であった。いくら信仰の旅とはいえ、いくばくかの楽しみがあってもいい。
 ひと昔前、藩政時代の巡礼者にとっての浅虫温泉は「ここまで来れば旅も半ば、ゆっくり骨休めしていこうか」という気にさせたのだろうと思う。
 温泉の由来には、舞い降りるツルの後を追った猟師が、こんこんとわく温泉を見つけた―という黒石市温湯のような鳥獣発見説が多い。浅虫、酸ケ湯はシカによって発見されたという。
 昔々の話。まだ名もない漁村だったころ、諸国を巡っていた京都の円光大師という坊さんが、ここに来た。日暮れになったがあいにく近くに家もなく、松の根元に枯れ葉や枯れ草を集めて横になった。
 夜中、物音がして目を覚まし、音のするほうに目を凝らすと、1頭の牝(め)鹿(じか)が白い湯気の中にしゃがんでいるのが見える。近づくと、人の気配に気付いたか足を引きずるようにして逃げ出した。けがをしていたのだ。
 2、3日様子を見ていたが、シカは毎夜やってきては湯に漬かった。まもなくシカは駆け出すまでに元気になった。大師は傷に効き目があるこの湯を村人に教えた―というのが由来になっている。
 もちろん土地の人たちは、湯がわいていることは知っていた。ただ、これを恐れて湯に入ることはしなかった。布を織る麻を浸して蒸していたのだという。これ以後、近郷近在から人が集まるようになり、この湯を「麻蒸(あさむし)の湯」と呼んだ―という伝説がある。
 戦国時代の天文年中(1532―55年)に書かれた「津軽郡中名字」にも「麻蒸の湯」とある。そして、いつのころからか「浅虫」と書くようになった。
 浅虫の安養山夢宅寺であるが、その縁起によると、平安時代初期にまでさかのぼる。南部恐山から巡拝してきた慈覚大師(790―860年)が辻堂を建てて、1尺5寸の薬師如来像と6尺大の地蔵尊像を刻んで安置したことに始まる。この辻堂の本尊は薬師如来であり、土地の人は「薬師堂」と呼んでいた。
 貞享元年(1684年)のころ、4代津軽藩主信政が、悪質な眼病にとりつかれた。巡りめぐって浅虫薬師堂に治癒を祈願した。満願の日、まばゆい光を感じながら、居城の庭を眺める夢を見た。目覚めた時、目はすっかり治っていた。信政は大いに喜び、「夢(む)宅(たく)」の2字を漆書きにして御堂に納めた上、禄永年12俵を与えて、藩主祈願所とした。
 元禄6年(1693年)5月、青森・常光寺4世住職・雲芸(うんげい)が、薬師堂を末庵として「夢宅庵」とした。この時、津軽屋市左衛門という人が観音像を寄進したという。以来、夢宅庵は観音霊場として今日に至っている。
 寛延年中(1748―51年)、津軽三十三所が再編成された時、23番に加えられている。『寛延巡礼記』によれば、「堂2間に3間、本尊は薬師如来…」とある。
 明治9年(1876年)、明治天皇が東北、北海道ご巡幸の時、天皇は駕籠(かご)、従者は馬で浅虫に来たという。その時には18軒の温泉客舎があったという。青森から浅虫へは、ひとつ大難所があった。
 宝暦8年(1758年)、上方商人が書いた「津軽見聞録」にこうある。『…この道に善知鳥前(うとうまえ)といふ所あり。海中へ差出たる岩山にて少間なれども大難所なり。わづかの物にても手に持てば岩にさえぎられ通りがたし。また別に山上に牛馬の通ふ大道あれども、回りゆえ多くはここを通る…』と。
 天皇ご巡幸の前、善知鳥前の難所があまりに危険だ―と、断がいを削って今の国道を通したのだそうだ。
 夢宅寺は、国道バイパスから山手の温泉街に入り、ホテル南部屋の向かいを右へ。JR東日本のガードをくぐって、椿館を目印に右折すれば「いちょう橋」。目の前に山門がある。観音堂は本堂に。ご朱印も本堂に置いてある。
……………………………………………………
 24番・入内観音堂まで、およそ25キロ。いったん青森市街に戻る。
 ※次回3月5日付はお休みします。

 

〈交通メモ〉22番・青森正覚寺から約15キロ。徒歩3時間40分。車で20分。

(10番・深浦から続く)
 11番 下相野
      蓮川へ
      1里
 後の世を願う心は下相野 白毛の雪のふらぬそのまに
 観音の御林。田の中にあり。堂3尺4面。木仏なり。別当の家、鳥居の内にあり。
 木作村、芦沼村。
 12番 蓮川
    川倉へ4里、
    土手路
 野をも過ぎ里へも行きて旅もせば いつも絶えせぬ法の蓮川
 本堂3尺4面。正観音。御宮のうち鳥居1カ所あり。棟札に正徳3年とあり。東むき。村建立なり。寺は禅宗正徳院。
 今市村、橘村、出野里村、芦部岡村、豊川村、楽田村、野末村、家調村、繁田村、神原村(神原小派あり)、豊島村。
 13番 川倉
    尾別へ
    1里20丁
 水の上いずくなるらん川倉の 耳にさか降る山びこの声
 弥陀、薬師、観音三尊。堂3間4面にて、東むき。5ケ所あり。
 砂森村、長内村、粂田村、富野村、豊岡村、八幡村、野里村。
 14番 尾別
      薄市へ
      20丁
 よろず代を祈り祈りていまここに 千手の誓い頼もしの宮
 千手観音。堂1間4面。西むき。宮の広さ8間4方ほど。タモ木の枯れ木あり。
 15番 薄市
      今泉へ
      1里
 まんまんと眺めもあかぬ13の潟 千年をここに松風の音
 御堂。村の下にあり。1丁ほど登り、観音堂あり。3尺4方、南むきなり。勢至観音。
 御山より13の湊みえる。川々舟々、材木のながれ、ことごとく見え申し候。
 16番 今泉
      相内へ
      1里
 昔より在りとも知らぬ今泉 神代と知らぬしるしなるらん
 御堂、今泉より上にあり。堂3尺4方、北むきなり。木仏の千手観音なり。村中の建立。
 宮崎村。
 

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二十四番 入内観音堂(入内)

2008/3/12 水曜日

 

観音堂からこの先に、入内の集落がある。さらに浪岡に入るこの道が藩政時代の殿様街道
小金山神社側から見る入内観音堂

小金山神社の左隣に観音堂。納札の多さがお参りの人の多さを物語る

  入内観音堂の石段を下りて、来た道の途中の農道を右折する。そこは小館という集落で、その中ほどに納経所となっている長内ちよさんのお宅がある。ちょうど観音堂の林を抜けた辺りで、急に視界が開けて目の前が明るくなった。陸奥湾が秋陽を受けてキラキラと光っていた。
 旧奥羽街道は、弘前から浪岡を抜けて山道に入り入内峠を越える。ここ入内まで来ると、この日見た景色がそのまま街道を歩いて来る、藩主とご一行の目にも見えたはずである。善知鳥(うとう)の村と陸奥湾が手に取るように見える。汗をぬぐい「おお、着いたか」という藩士たちの声が聞こえてきそうな風景である。
 小館の集落に入って、長内さんの家を聞いた。ちょうど季節は晩秋のころで、そこここでまき作りの最中だった。チェーンソーで木を短く切り、山のように積んでいる。この後、細かく割って、ひと冬分の暖房に使う。
 「この辺だと、雪は多いんでしょうね」。随分間の抜けた質問をしたなと思ったが、こっちとしては「かえって、青森市街の方が多いのかな」と思ったからだ。
 「降るズもんでね。今年はいつもよりヨゲだど思るな」と、また木を切り始めた。近くの人もネコ車に積んだまきを、家の軒下にせっせと運んでいる。
 「観音堂のお参りは、今も多いんでしょうね」と聞いた。「来てるんたな。春ごろねなれば、バスも止まるんたな。みんな自家用車で来て、そのまま戻るはで話するごとも無(ね)ぇばて…。このごろはよぐ見るよ」という返事だった。
 暖冬予想の今冬の雪は小館の人の言う通り、大雪になった。あの大量のまきの山も、今はそろそろ底を突いているころだろう。
 国道7号と空港線ができて袋小路になった入内ではあるが、静かな暮らしぶりが残っている。

 

  おしなべて貴(たか)く賤(いや)しき者までも ここに歩みを運ぶなりけり

 今度はまた、青森市街に戻る。三十三所の旅も、深浦からいったん新田地方に入り、津軽半島の海道をぐるっと回った。これからはまた平野の中を行くことになる。
 国道7号を堤橋まで来て、橋を渡ったら左折し、「青森空港」の標識を目安に、堤川沿いに進む。横内、高田の集落を通り入内に入る。直進すれば青森空港から今は青森市になった浪岡へ向かう県道。藩政時代の“奥州街道”である。
 今は西バイパスから真っすぐ空港に入る新道が通り、戸惑うかもしれない。もしバイパスに入ったら、空港手前に「高田」の小さな標識がある。そこを左折して長い坂道を下りる。いずれにしても、ホテル・エアポートの真向かいを道なりに行けば、道路右側に入内観音堂が見えてくる。
 入内観音の歴史は古く、大同年中(806―10年)、蝦夷(えぞ)征伐のため出陣した坂上田村麻呂が大嶽丸という“鬼”を討ち、その首を埋めた上に観世音を祭ったのが始まり―と伝わっている。鬼とは蝦夷の首魁(しゅかい)ということだろう。
 その後、天慶年間(938―47年)、平将門の孫・信田小太郎が、家来の反乱に遭ってこの地に落ち延び、白山権現社と三間四方の観音堂を建てた―という伝説も残っている。
 慶長年間(1596―1616年)初期。藩祖・津軽為信が観音堂を再建して華福寺の寺名と寺禄三十石を与えて保護している。ところが堂舎の焼失や山奥の寺でもあり、住み着く僧がいなかったため、華福寺は荒廃してしまったという
 この後は、村人たちが寛永18年(1641年)に堂宇を建立し、幕末まで営々と観音堂を守ってきた。津軽霊場としても古くから数えられ、初め二十八番、後に二十四番に改められている。「寛延巡礼記」には『堂三間四面、法行づくり。三尺四面の阿弥陀堂あり。二間四面の神楽堂あり』とある。
 両側は丘陵に隔てられているが、丘陵の間に水田が長く続いている。車で行っても街道の途中に松並木があって、「なるほど、ここは“殿様街道”だったのか」と納得がいく。静かで人っこ一人通らない。里山の暮らしが今も残っているような入内の集落である。
 本尊は「正観音慈覚大師の作」と記されてあるが、比叡山座主(ざす)であり、恐山に円通寺を開いたという慈覚(じかく)大師が、入内村に来て彫ったとも、慶長19年(1614年)7月、常陸(ひたち)の国の者が寄進したともいわれている。
 この入内観音堂もまた、明治初期神仏仕分けによって、観音像は上納を命ぜられ「小金山神社」と改められた。しかし、本尊がなくなっても参詣人は絶えることがなかったという。明治中期、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)思想が薄らぐと、住民は隠し持っていた古観音像を、小金山神社に祭り直している。
 神社の反対側は広く駐車場になっている。車を置いて、石段を上って観音堂。真新しい納め札もあって、「まだまだ観音信仰の旅は続いているのだ」と実感させられる。
 石段を下りると、入内に向かう道路の先におばあさんが一人歩いて行くのが見えた。追い掛けて話を聞こうか―と思ったが、古い乳母車をつえ代わりにゆっくり進んでいくおばあさんは、逆光の陽を受けて辺りの山に溶けていくかのようだった。道が上りから下りになって、少しずつおばあさんの姿が見えなくなっていくのを見ていると、道路の向こうには別の世界が開けていて、戻れなくなるような気がした。
 藩政時代は弘前と入内、青森と続くこの道が唯一あったのだと知らされた。今は国道7号が難所だった大釈迦の山を切り開いて走り、青森空港をまたいで青森、浪岡に直接道路が結ばれている。静かな静かな山里の暮らしがあるばかりだ。
 ………………………………………………
 二十五番・松倉観音堂へ25キロ。入内から県道へ戻り、空港線に合流。浪岡から国道7号

  

〈交通メモ〉二十三番・浅虫夢宅寺からおよそ28キロ。徒歩7時間、車で35分。

十七番 相内
       小泊へ  二里 十三丁
 野をも過ぎ山路にむかう雨のみち いのれば晴るる胸の曇りも

 正観世音。御山は春日内と申す村より、西の方へ十丁ほど登り、堂一間四方。相内村雲入坊と申す庵より、御山かけ申し候。御山のうち難所なり。
 観音の御山の西の方にあたり、先年、阿闍羅三千坊跡あり。山王権現の宮なり。山王坊と申す庵あり。この林のうち三杉四杉九ち杉と申す名木あり。本木一本にて3本4本9本に分かれたる木なり。
 この宮は加(嘉)慶2年の造立。今寛延4年まで364年になり、それより前は幾年たち候とも、はかり難し。石塔、長さ三尺ばかりずつ。大小とも15あり。当代の石塔の数好みには御座無く候。石地蔵あり。大小とも3体あり。
 山王権現の御図師、檜の薄板なり。山王坊庵地出羽宗順と書付あり。さし渡し一尺の鰐口あり。延宝4年5月吉祥日銘あり。仁右衛門寄進とあり。金の幣あり。すそに小鈴12つきあり。
 近年まで、いずれの出家おり候とも、2年と勤め候こと御座無く候。
 谷底へ投げ落されゆえ、ことごとく大破に及び候。
 相内村にて、近年、金仏ほり出す。そのほか、千坊の寺跡より、鰐口など堀り出し候。
 磯松村、脇元村。
 十八番 小泊 
      三馬屋へ      6里山道
 見渡せば御法も深き海万寺 鐘のひびきに浮かぶ海士(あま)人(びと)
 千手観音。木仏なり。御山は月渡り山と申し、堂一間四方。北むきなり。二間四方の神楽堂あり。うがい水あり。宮の前は海。後ろは野山、高山なり。
 これより三馬屋へ行く道。藤島越。三好越とて難所あり。また、青べと申す岩あり。
 それより七滝という滝あり。この滝ならびなき景なり。堰は5通りにて、そのうえ7筋に分かれ海へ落つる。それより片苅石という石あり。この岩岸に塩釜あり。
 この所に休み、身かろくまかない、藤島へかかり、ことのほか難所に候あいだ、先達を雇い、静かに登るべし。雨ふりには無理なり。泊りてよし。
 右の山越えて、浜名村。

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