津軽三十三霊場

 

十五番 薄市観音堂(薄市)

2007/12/19 水曜日

 

中泊町博物館の鉄道ジオラマ。山を越えトンネルを通って電車が走る

十五番・薄市観世音の大石柱
薄市観音堂。この上に桜林が続いてる

 中泊町にある4つの観音堂を巡拝する時は、まず339号バイパス沿いにある中泊町博物館に立ち寄れば、町の歴史がよく分かる。
 旧中里町の地名で、文書に現れる最も古いものは今泉村だそうだ。次に天正18年(1590年)の検地調べ「馬の郡」には、金木、忌来市(喜良市)など8カ村の中に薄市村の名が出てくる。今泉、薄市はやはり十三湊の繁栄と、密接につながっていたようだ。
 博物館は、原始・古代・中世・近世・近現代―の5つの体験ゾーンからなっている。入り口にあったのは、日本初の森林鉄道「津軽森林鉄道」で活躍したディーゼル機関車の復元モデル。
 中山山脈の中にある中泊町は、その60%を山林が占め、ひと昔前はヒバの大産地だった。林業の町にふさわしい展示である。
 女性職員が館内を案内してくれたが、途中津軽鉄道のジオラマが目を引いた。「奥の方には、県内を走る電車模型があるんです。子供連れの方に喜んでもらっています」と言う。
 このジオラマは、町内の開業医が趣味で作ったものらしいが、電源操作で好きな車両を動かすことができ、早速やってもらった。展示資料の中にこんな遊びも交じっていれば楽しくなる。
 津軽鉄道出札口がビデオシアターになっていて改修前の十三湖と岩木川、伐採から木挽(び)きまでの山仕事の紹介もある。また萢(やち)田で使う腰まで入る田下駄の体験は、やらなかったものの面白そうだ。
 岩木川を囲む村の多くは、金木新田開発によって開かれている。宝永2年(1705年)の開発で開かれた18カ村のうち、福浦(武田地区)、大沢内、宮川(中里地区)ができた。津軽鉄道駅がある深郷田は元禄11年(1698年)から開発された地区だから、ほぼ同じころ。今から300年前である。

 まんまんと眺めもあかぬ十三の潟 千年(ちとせ)をここにまつ風の音

 旧金木町に入る少し手前から、国道339号バイパスは集落の左側を走りながら十三湖まで続く。
 その間、尾別、薄市、今泉は一部旧道と重なって、集落へは昔ながらの細い道筋に入って行くことになる。ご詠歌にある『まんまんと眺めもあかぬ十三の潟…』は、ずっと昔の風景になっている。
 対岸の丘陵は遠くに霞(かす)んで、そのまん中を流れている岩木川も見えない。とっくに刈り取られた稲田が雪をかぶって延々と続いているだけだ。薄市の商店街を走ると「十五番・観音堂 朱印所」と書いた看板が目に入る。ご朱印を預かる小寺商店だ。
 さらに進むと、丁字路の角に小さな看板があった。矢印に沿って右に行くと、『十五番薄市観世音』と刻んだ立派な石碑が建っている。ただ、石碑は家と家とに挟まれて、少しへこんだ場所にあり、車で急ぐと見落としそうなので気をつけたい。
 薄市観音堂は、藩政時代初期の末に、村中によって創建された。隣村の今泉にある千手観音を分祀したといわれ、元禄元年(1668年)だったとする記録もある。延享年間(1744―48年)までは、三十三霊場に名はなく、寛延4年(1751年)に十五番として出てくる。現在地とは別な高台の頂上にあったとも伝わる。
 〈寛延巡礼記〉によれば『御堂、村のしもにあり。十二丁ほど登り、観音堂あり。三尺四方、南むきなり。勢至観音。御山より十三の潟みえる。川々。舟々。材木の流れ、ことごとく見え申し候』という。当時は十三の河口がこの辺まで迫っていたのだろうか。
 確かに薄市は、十三湖を望む丘陵の地である。『内潟村史』には、「薄市」とは「湾」を意味するアイヌ語だとしている。周囲の山には、アイヌ独自の砦(とりで)―チャシ跡が多く残っている。
 その昔、薄市川は河口が広く、十三潟のうちでも最も良い川港とされ、木材を運搬する千石船が出入りして賑(にぎ)わったという。薄市の小字集落に「昆布掛(こんぶがけ)」という地名がある。ここを通るたびに「こんな遠くまで、昆布が寄せてきたのかな」と思ったことがあったが、「むかし、十三潟から風に吹き寄せられた昆布を採って、干した場所であった」というのである。
 入り口の大鳥居をくぐると、左に大きく「く」の字に折れた階段がある。階段の上り口に十本余り、木の枝と思われるつえが用意してある。
 持つと軽い上に丈夫そうだ。全体に斜面は緩やかに造ってあるから、足への負担はそんなにないのだが、つえがあると何だか安心する。これも観音堂を守る集落の人の手作りなのだろう。
 この石段が切れる辺りに山神堂があって三十三観音の石仏が並んでいる。観音堂まで来て、さらにお堂の上にも石仏が見える。上るとここが頂上で、この場所は江戸時代に神明宮が建っていた跡だそうだ。
 辺りは桜林になっていた。取材に行ったころは秋も遅く、すっかり葉を落とした桜林の中は明るく、お詣(まい)りの後の散策が気持ち良かった。中腹は大杉があって雑木が交じり、頂上は桜林。春のころはまた、別な風景かもしれない―と思った。
 50年ばかり前まで、北側斜面に巨大な松が生えていて、ご詠歌「千年をここにまつ風の音」のおこりになった―というのだが、今は枯れてなくなっている。
 ………………………………………………
 十六番・今泉観音堂までは、小泊街道をさらに北上して4キロほど。

<交通メモ>十四番・弘誓寺観音堂から国道339号を北上し、4.2キロ。徒歩1時間、車で5分

(前号から続く)
 滝―水に縁のある神は治水利水神に発展し津軽に伝わった海岸にある北浮田や尾別薄市今泉小泊水田地帯の下相野蓮川日照田川に近い湯舟入内にはふさわしい神でありこれら一帯霊場外にも飛竜宮が多いのである。
 観音堂は当初、仏体だけを祭っていたのであるが、本地垂(すい)迹(じゃく)説が浸透するにつれ、観音も神体視されるようになり、寺院配下にある堂舎以外は、神官が別当として管理に当たった。神職であるから「堂」よりも「宮」と呼ぶ方が通りも良く、同じ観音ならばと西国一番内にある飛竜権現を祭神とし、宮号に改めたものと思われている。
 飛竜宮への改号はほぼ一斉になされたとみられているが、観世音を神格化したことは、後世堂舎の運命に大きなマイナスを招くことになる。
 しかし、当時「堂」は「宮」に、「観音」が「権現」に変わっても、信者にとって依然“観音さま”であり、それにかかわることなく、霊場巡拝が続いた。
 「権現」とは、菩(ぼ)薩(さつ)が衆生を済度するために、仮に姿を現すことである。神仏混(こん)淆(こう)時代の信者には、神もまた菩薩(とくに、親しみを持つ観音さま)なのだった。
 名はどうであれ、救いを垂れてもらえれば、深く信じてやまなかったのである。
 なお「川倉飛竜三社大権現」は、安政2年の阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩を合わせて「三社権現」とし、さらに飛竜権現を加えたという。
 藩政時代における観音信仰は、多少変化があったものの、このように素朴であり、神仏が同居しているというおおらかさがあった。ところが、間もなく訪れた明治維新によって、三十三霊場は一時、解体されてしまい大打撃を受けたのである。
 慶応2年(1867)10月、征夷大将軍徳川慶喜は天皇へ大政奉還し、12月9日王政復古の大号令が発せられた。明治維新である。
 京都新政府は、明くる慶応4年(1868年=9月8日改元・明治元年)3月28日、“神仏判然令”を公布した。「今後、神仏混淆を廃止する。神社から仏像、仏具を取り除け」という趣旨によって“神仏分離令”とも呼ばれているが、徳川幕府が仏教を保護し、政治に利用してきたために、神道を擁護して天皇の権威高揚を図ったのである。

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十六番 今泉今泉観音堂(今泉)

2007/12/26 水曜日

 

作った人の名前が入ったブルーベリーのもちやだんご。人気のドーナツは売れ切れだった

左に参道を巻いて上る。右、左に着物を着た石仏が案内してくれる

千手観音を祀る今泉観音堂。最後の観音石像にも、着物と頬被りがあった

 平成の大合併で、紆(う)余曲折はあったものの、中里町と小泊村が飛び地合併した。町名も仲良く中と泊の一字を取って中泊町となっている。
 町の要覧には「森から海までつづく中泊町…」とある。今泉は十三湖を目の前にした湖畔の町。丘陵を越えて、これも今は五所川原市となった市浦を過ぎて、半島の町小泊までが中泊である。
 これで、一町に4つの観音霊場を持つ町になった。

 

 小泊は次々回に譲るとして、かつて森林と木材の町として栄えた中里の今の産物は―と地元の人に聞くと「うーん、ブルーベリーかな」。そんな答えが返ってくる。
 藩政時代、湿地帯だった木造、金木、中里、五所川原と次々に新田開拓した穀倉の西北も減反、転作を迫られ、そこから生まれたのが中里ではブルーベリーとハトムギである。
 特にブルーベリーは、原産地カナダと気象条件が似ており、良質のブルーベリーが生産され、全国の評価も高いのだ。
 ちょうど、中泊町博物館がある向かい側、水田のまん中を農道「米ロード」が通っている。その角辺りに中泊特産物直売所「ピュア」がある。
 はとむぎかりんとう、はとむぎ茶、日本海側に自生するハマナスの実で造った「はまなすワイン」、ヒバの天然木から抽出したヒノキチオールを使った芳香剤や入浴剤。
 もちろん小泊地区の加工品も多いのだが、自生の行者ニンニクを使ったその名も「行者ニンニク権現パワー」は、いかにも観音堂と結びついたネーミングだった。
 その中にあるブルーベリー製品であるが、無添加ジャムやジュースはもちろん、だんごにもち、絶品はブルーベリードーナツだ。
 「へー、じゃドーナツをください」と進めてくれた店の女性に言うと、「店に出すと、すぐ売れ切れてしまうんです」と申し訳なさそうだった。

 

 むかしよりありとも知らぬ今泉 千手の神の示現(しるし)なるらん

 

 薄市からは4キロ。車では5分ほどで、目と鼻の距離である。昔で言えばたった一里。当時の人にとっては、歩くのも苦労とは思えないほどの距離だったと思う。それが2つの村が2つの観音堂を持つというのは、隣合ってるとはいえ昔からそれぞれが自立した村だったのだろう。
 薄市の集落を出ると、また国道バイパスに戻る。「蟹田」の標識がある。右折して中山山脈を越えれば蟹田へ入る。この標識のそばに「十六番・今泉観音堂 あと700メートル」の看板も見えてくる。蟹田道を行って、信号機のある交差点にまた、観音堂の看板があって、指示通り左へ行くとくねくねした旧道に大鳥居が建っていた。

 

 『十三往来』(十三相内三王坊阿吽寺住僧弘智法師伝)の一節である。
 東には山野つづき、渺々(びょうびょう)たる牧なり。
 千匹の馬、麋鹿(びろく)をまじえ、思い思いに
 勇むなり、意々(いい)に遊行(ゆぎょう)する風情を見れば
 まことに希代(きだい)の景物なり。

 

 この「牧」入り口が今泉の集落だったと言われている。
 鳥居をくぐり小さな石段を上れば、神明宮となる。この石段の下、右側に三十三観音の石仏が並んでいた。そのどれもが、青いかすりの着物を着せられている。観音さまばかりじゃない、阿吽(あうん)の狛犬(こまいぬ)もまた、同じように青いかすりの着物と頬(ほお)っ被(かぶ)り姿で、ほほ笑ましかった。
 着物を着せたのは地元の人か、参詣の信者さんかは分からないが、観音さまへの愛情がそのまま伝わってくるようだ。
 今泉観音堂は、寛文9年(1669年)に建立されたと伝わる。しかし、現在地ではなく北へ1.2キロほど離れた「唐崎山」と呼ぶ丘陵地だったという。そこは“賽河原(さいのかわら)”といい、以前は地蔵堂があったが、享保年中(1736―56年)に川倉村に移っている。
 今も五所川原市金木にある「川倉地蔵尊」である。今泉には観音堂だけが残って、明治に至っている。
 明治の神仏仕分けで、本尊の千手観音像は取り上げられ、跡はしばらく空き地になっていた。しかし、功徳を惜しんで集落の青山作右衛門と山本弁蔵が、ひそかに乞(こ)うて本尊を譲り受け、神明宮の下に観音堂を再建した。明治8年のことだった。最初は萱ぶきの粗末な堂宇だったらしい。

 

 『十三往来』には、相内から見た風景が映し取られている。
 南は湖水澹々(たんたん)、月 水底の闇を照らし
 清波(せいは)静にして魚浦(ぎょほ)の便あり。はるか厳木岳を見れば、花は残雪をまじえて、
 遠眼に興じ、谷を出ずる鶯舌(おうぜつ)は、聞くによって近し。雲霞(うんか) 麓にたなびき、
 山頭に大空あらわれ、これ 富士を論ずるほどの名山なり。

 

 すさまじく褒めちぎっている。支社勤務でここに4年ほどいたが、確かに春の季節、こんな風景を感じたことはある。
 小説「津軽」の太宰治は、今泉の風景をこう書いた。
 『…この辺の草木もやはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話しない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮かんでいない。ひっそりして、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである』。
 無頼作家と言われる太宰は、終戦を目の前にした時代や心象を風景に溶かしながら、故郷を紹介している。しかし「十三往来」の風景も「津軽」の風景も、変わることなく続く奥津軽の風景なのだ。

 

〈交通メモ〉十五番・薄市観音堂から4キロ弱。徒歩45分、車で5分。

…………………………………
 十七番・春日内観音堂へは約4キロ。五所川原市市浦の相内手前からバイパスに入り、唐川城址に向かう。

 

 (この項前号から続く)
 もっとも、新政府の意図は仏像を神体にしたり、仏前に仏像や仏具を供えることを禁止するにすぎなかったという。しかし、これが意外に激しく発展して“廃仏毀釈”の風潮となり、たちまち全国へ広がっていった。
 「新政府は、仏教を廃止するのだ」という流言が飛び、寺院支配から解放された神官たちや僧侶の横暴・堕落に反感を持っていた民衆が、ほうぼうで寺院・仏具を破壊し始めた。
 島根県の隠岐島では、島内にある寺院・仏像を破壊して、一寺・一体も残さなかった。津軽でも岩木山百澤寺から、仏像・仏具が持ち出され、谷底に投げ込まれたり、焼き捨てられたと伝えられている。

 

 津軽藩(明治2年6月17日、弘前藩となる)では“神仏判然令”を受け、小野磐根(弘前八幡宮宮司)と長利薩雄(弘前熊野宮宮司)に命じて、領内の「神仏混淆神社調帳」を作らせている。書き上がったのは明治3年7月だった。
 この「調帳」に基づいて、同年から神仏仕分け(仏像を排除したり、仏体を神体に代えて神社としたり、小社は合祀しまたは廃堂とする)作業を進めた。合わせて三百八十九寺堂に上り、仕分けが終わったのは明治6年だった。
 そして、津軽三十三霊場の観音堂も多かったのである。

 

  

 

 

清水千手観音堂
      多賀神社
 高杉聖観音堂
      加茂神社
 湯舟飛竜宮
      高倉神社
 日照田飛竜宮
      高倉神社
 蓮川飛竜宮
     月夜見神社
 尾別飛竜宮
        廃堂
 今泉飛竜宮
        廃堂
 小泊飛竜宮
        廃堂
 入内観音堂
     小金山神社
 黒石観音堂
     焼失・廃堂
 大光寺観音堂
      保食神社
 百沢寺観音
        廃止
 十腰内観音堂
     巌鬼山神社
 北浮田飛竜宮
      高倉神社
 下相野飛竜宮
       八幡宮
 川倉飛竜三社宮
      三柱神社
 薄市飛竜宮
        廃堂
 相内飛竜宮
     春日内神社
 袰月巖屋観音堂
        廃堂
 松倉山観音堂
     松倉山神社
 袋観音堂
     白山姫神社
 広船千手観音堂
      八坂神社
 沖館十一面観音堂
       神明宮
 苦木聖観音堂
       熊野宮
 居土千手観音堂
       熊野宮
 純粋な寺堂8カ所を除いて、25カ所が神社になるか、廃止されてしまったのである。

 

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十七番 相内春日内観音堂(相内)

2008/1/9 水曜日

 

唐川城址から見る日本海。右の奥をたどれば権現崎がある

山道を幾度か回って、ここ春日内観音の境内に入る

唐川城址の直下に、春日内観音堂がある。境内は滝の水が流れを造っている

 相内観音堂の上に、唐川城址がある。観音堂から車で行くと、ローギアでやっと上れる急坂が一つある。
 頂上近くの唐川城には四阿があって、ここから見ると十三湖も日本海も岩木山も、まるで手に取るようだ。この城は正和年間(1312―16年)に安東貞季が築いたといわれる。
 さらに上ると、北に権現崎、南には屏風山と七里長浜も見える。
 唐川城の末路は「下国系図」「松前年代記」などに書かれている。それによると、南部義政が安東盛季を嘉吉3年(1442年)の秋、ここ唐川城に攻め込んでいる。
 「下国系図」には『義政十三湊に来たり盛季と対面、帰りて後義政政謀をめぐらし、十三湊を攻め破り、津軽を乗取る。嘉吉3年12月10日盛季蝦夷の島松前に遁(のが)れ渡る』とある。
 義政は永享十二年(1440年)に盛季の娘をめとっているから、盛季は義政の舅(しゅうと)である。それも妻をもらって、わずか3年後に盛季を攻めているのだ。
 弱肉強食。盛季は唐川城に立て籠(こ)もって防戦に努めたが、不意を突かれついに支え切れなくなって城を捨てた。雪の12月である。
 残兵を率いて小泊の柴崎城に遁れたが、ここでも守り切れずついに松前に渡った。後年、市浦村では松前を訪ねて、中世来の縁故を結んでいる。
 その南部氏は天正13年(1585年)、為信が津軽を統一するまで140余年間、この地を統治していたのである。
 津軽藩になって、ここには町奉行所が置かれ、木材や米の積み出し港として、鯵ケ沢へ回送するようになっていた。この港にとって不幸は、明暦3年以後、4、5年の間に三度も大火に見舞われたことだ。
 記録によれば、明暦3年(1657年)11月の火事では、町家を残らず焼失した。十三はこの大火以後年々衰微した―と言うのだ。昔の栄華はその面影を失っていった。

 

 野をも過ぎ山路に向う雨の空 祈れば晴るる峰の曇りも

 

 明けましておめでとうございます。津軽三十三霊場の旅も、ちょうど半分。2008年の新年第一回は、また日本海の町です。かつて、全国三津七湊に数えられた十三湊の相内・春日内観音堂から始まります。

 

 今は旧金木町とともに、飛び地合併して五所川原市となった旧市浦村は、昭和三十年(1955年)3月31日、北郡相内村、同脇元村、西郡十三村の三村が合併して誕生した。相内、十三の一帯は鎌倉時代、十三藤原氏が支配していた。
 湊町十三には商家が立ち並び、相内山王坊には阿吽寺、禅林寺、春日内には竜興寺、春品寺などが建立され、驚くほどの中世都市だったと伝えられてきた。
 当時、蝦夷管領になった藤原安東氏が寛喜元年(1229年)十三氏を攻め、代わって一帯を支配した。十三氏の拠城「福島城」を大規模に改築し、出城の唐川城を築いた。十三湊はさらに活気を増し、黄金期を迎えていた。だが、興国元年(1340年)、西海岸に大津波が押し寄せ、十三の栄華をすべてのみこんでしまったという。
 「十三の砂山 米ならよかろ 西の弁財衆にただ 積ましょ」―。十三の都は、砂に覆われた一寒村に残る単なる夢物語さ―と思われていたが後世、広大な山王坊遺跡や十三からは商家群の遺跡が掘り起こされるなど、今や伝説は現実のものになっている。
 今泉から大きな丘陵を上ると、牧場が開けてくる。秋、野下げ前の牧場には黒毛和牛がのどかに草を食(は)んでいる。
 左に、道の駅が見えてくる。ここは十三湖名産のシジミ貝のエキスをぎゅっと凝縮した「シジミエキス」のドリンク剤が人気。それに店内奥の食堂では、シジミラーメンも出してくれる。なかなかうまい。
 その向こう、テラスに出ると十三湖が一望できる。岩木山がぽっかりと、まるで海に浮かんでいるように見えることもある。ここならではの風景である。
 やがて左側に福島城址を見て相内川を渡っていく。ひと昔前は左、相内の集落を抜け唐川城址を目指して、春日内観音堂―という道順だが、今は川を真っすぐにバイパス路を北へ向かう。
 春日内観音堂は、唐川城址のすぐ下に建っている。ここは竜興寺と春品寺があった旧蹟と伝えられる。『十三往来』には
  竜興寺の為躰(ていたらく)を見ては、うしろ青山峰峨(が)々(が)、清嵐梢(こずえ)を鳴らし、前は龍水邏(ら)落(らく)、座禅の眠りを驚かす。阿吽寺の鐘声諸行無常の告(つげ)をなし、後夜晨(しん)朝の勤声は寂(じゃく)滅(めつ)為(い)楽(らく)の雲をうがち、これまた殊勝の景物なり。
 とある。
 滝の水がみなぎり落つ―龍水邏落とあるように、本堂後ろに5メートルほどの滝があって、境内に流れを造っている。左側の杉林に参道を造り、三十三観音の石像が並んでいる。
 奥院は鞘堂。中には天保年中(1830―40年)に建て直されたという加茂作りの堂宇が納まっている。

 

 相内観音堂は寛文9年(1669年)、名刹跡地に村人が建立した―と伝わるが、古い集落であり、藩政以前に祭られていたのではないかと思われる。津軽霊場としては初め二十番、後に十七番となった。春日内にあるので後年「春日内大神」、また「飛竜宮」とも呼ばれていた。
 明治初年の神仏分離により、相内飛竜宮は廃社となったが、間もなく聖観音を“神体”とする春日内神社として復活。大正時代になって神社名を廃し、春日内観音堂として現在に至っている。
 ご朱印は、相内川付近に戻って相内の集落にある蓮華庵へ。

 

 ………………………………………………
 十八番・海満寺へは、国道339号を日本海沿いに北上する。

〈交通メモ〉 十六番・今泉観音堂から約10キロ。徒歩2時間30分。車で15分。

 神仏合体と考えられた観世音と堂宮に、極端な処分が断行された。
 この時、本尊である観世音像は、他の堂宮に祭られていた仏体と同じく政府に上納を命ぜられ、弘前・最勝院に集められた。最勝院が旧大円寺跡に移ると、五重塔に収容されたといわれる。没収される前に信者が隠したり、行方不明になったり、小泊聖観音のように同地・海満寺へ返された仏像もある。
 このようにして、本尊を失い、堂舎が取り壊され、神社に奪われたりして、長く続いた津軽三十三霊場も、一時は消滅状態に陥った。
 しかし、信仰厚い民衆は、その存在を忘れることなく、間もなく復活させたのである。

 

 激しい“廃仏毀釈”運動は、寺院や僧侶を減らし仏教も終息するかとも思われた。これに対して僧侶と民衆から、廃仏反対の運動が起こり、その勢いを盛り返した。明治8年、新政府も「宗教は自由であり、すべての宗教を保護する」と布達して、維新以後まま子扱いされた仏教は、再び陽の目を見ることになる。
 弘前県(明治4年7月14日に廃藩置県)から青森県(同年9月23日に改定)になって、4年目である。
 仏教に対する抑圧が緩むと、観世音信者たちは三十三霊場巡りを再開した。本尊がおらず、堂舎がない霊地も、漏らさず巡拝したのである。そこには西国霊場から持ち帰った聖土が埋められてあったせいかもしれない。元観音堂があった神殿や旧聖域にある木々や岩にも、数多くの納札が飾られたという。
 もっとも明治も十年代にはさすがに少なく、二十年代に至ってようやく往年のにぎわいを取り戻すことになった。明治28年、一番・久渡寺では巡礼向けに、木版刷り小冊子の「ご詠歌集」を発行している。霊場を巡る民衆の要望に応えたのであろう。
 ただし霊場には変更があった。三番・百沢は、百沢寺から岩木山求聞寺に。四番・高杉は南貞庵が札所になった。十六番・小泊では無縁山観音院海満寺に移った聖観音を拝し、二十一番・袰月には聖観音海雲洞が新設された。黒石では失われた観音堂の後を、同じ山形町にある宝厳山法眼寺が引き継いでいる。
 明治中期から大正期、昭和期にかけて、観世音を再祀したり、観音堂の再建が次々に行われた。すべて、信者たちが奉仕したのである。

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十八番 海満寺観音堂(小泊)

2008/1/23 水曜日

 

訪れた日の権現崎は強い西風にあおられて、海は大荒れだった
海満寺の境内から望む小泊漁港
霊場の石標を見て階段を上る。正面奥が本堂、右が観音堂

 小泊、市浦には五所川原支社勤務の時代、何度も取材で来ている。それだけに思い出すことも多いのだが、訪れた日の日本海は大荒れに荒れて、恐ろしいほど大きな荒波が寄せていた。
 小泊は小さな尾根を挟んで西と東に二つの集落がある。一つは小泊、もう一つが下前。東側の小泊は小さいながら湾に囲まれていて平場も多い。太宰治が乳母のタケさんを訪ねた小学校も、運動会をするのに十分な広さであった。
 下前は急傾斜地に家々が立っている。昔は権現崎手前まで上り、右が小泊、左が下前と道路が振り分けになっていた。今は下前までバイパス路ができて、港湾がある所まで真っすぐ行けるようになった。
 二十年ばかり前の話である。
 傾斜地の道路を大きく蛇行しながら下りると、家が一つ二つと立っていて、ちょうど真ん中辺りに小学校があった。中に入ると、体育館も運動場もあって、集落の中では一番広い場所だった。
 「晴れた日、ここからの眺めは最高ですよ」。案内をしてくれた先生が言う。「岩木山が日本海に浮かぶように見えることもあるんです」
 小学校高学年の修学旅行は函館だった。初めて見る大きな町、見たこともない大きな青函連絡船に乗って、旅館で枕投げをして、トラピスチヌ修道院であめを買って…とは、私の修学旅行体験である。下前の子供たちも同じ思い出を持って帰って来ただろう。感動と緊張も帰りのバスの中で緩やかに解け始め、子供たちはみんな背もたれに埋もれて眠っていた。
 もう夜だった。「みんな、もう下前だぞ」。先生の声で起きた子供たちは瞬間「おーっ」と声を上げた。岬の家々の明かりがチカチカとともっていた。函館山の夜景に上げた数十倍の大きな声だった。「古里って、そういうもんなんですね」と先生が言った。

 見渡ば御法も深き海満寺 鐘のひびきにうかぶあまびと

 いよいよ権現崎へ向かう。バイパスから旧市浦村脇元地区に入る。この辺りに初めて来たときは、見たことのない風景にただ驚いていた。海岸線に一塊になった脇元集落は、強い西風を避けて一年中、“風(かっ)垣(ちょ)”が家々を囲んでいる。ヒバ材の先端が強い風でささくれていた。
 津軽地方を舞台にした、NHK大河ドラマ「いのち」が放映されたのは、昭和61年(1986年)というから今から22年も前になる。橋田壽賀子原作。三田佳子、役所広司主演のドラマは弘前市、五所川原市、黒石市など各地でロケが行われていた。
 ここ脇元でもロケが行われたが、監督を大いに喜ばせた。時代は戦中から戦後。「ここならそのまま撮れるぞ」。コンクリート柱を隠し、アスファルト道路に土を敷けば、完ぺきなロケーションだ―というのだ。
 そこに住む人にとっては、ありがた迷惑な評価だろうが、車一台が通ればやっとという小路のような道路を、魚かごを担いだおばあちゃんが歩いているのを見れば、涙が出るほど懐かしい風景に思える。
 権現崎を目前にして、右側の山を越えると小泊。無縁山海満寺は小泊港の上。人家の中にあった。津軽霊場十八番の石標があって、十数段の石段を上ると右側が観音堂。
 正面が本堂、左側が庫裡となっている。本堂は修復工事の最中だった。観音堂のお参りを済ませて、庫裡でご朱印を頂いた。「留守にしている時は、観音堂の方にご朱印を置いております」と住職の奥さん。
 海満寺は弘前誓願寺の末寺である。誓願寺旧記によると、万治元年(1658年)、仙台から来た良(りょう)無(む)玄道(げんどう)師が開いたと伝える。その当時、小泊近海で大しけがあり、船が難破し数多い水死者が出た。冥福を祈るために、村民が寺庵建立を思い立った。
 その時、行脚の途中小泊に来ていた玄道師が、海岸沿いにある阿(あ)曽(そ)内(ない)に庵室を設けたという。
 小泊観音堂であるが、藩政時代には集落の西端にある高山の中腹、柴崎城跡に祭られていた。古くから信仰されていたものを嘉永10年(1633年)に村人たちが再建したという。
 こんな話が伝わっている。宝永元年(1704年)4月14日、津軽に強い地震があった。小泊では阿曽内一帯を山津波が襲って、無縁墓、漁小屋、民家、海満寺先代庵室などを海に押し流してしまった。
 その後、漁師が海中から観音像を引き上げた。その日は暗くなるまで不漁で、最後の網を下ろしたところ大きな手応えがあった。網の中は光り輝く観音像である。漁師はまず海満寺に届け、安置してもらった。
 網の中の観音像は聖観世音だった。このうわさが郡中に広がると、信者たちは小泊霊場に祭って巡拝できるよう願った。やがて観音さまは、海満寺から観音堂に安置され本尊とされたという。
 この観音像は木像で、伝説の通り長い間海中にあったらしく、木面が流木のようになっており、両腕と下半身が海中でもぎ取られたものか失われている。
 明治初年、神仏仕分け後、観音像は再び海満寺に帰った。海中から引き上げられた観音像は、また海満寺の名物となり、巡礼者が訪れ続けている。寺は大正8年(1919年)と昭和29年(54年)と二度の大火に遭って全焼している。しかし古い観世音木像は二度とも運び出され無事だった。

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 〈交通メモ〉十七番・春日内観音堂から約13キロ。徒歩3時間15分、車で15分

 十九番・三厩義経寺は、津軽半島の反対側にある。今は竜泊ラインで竜飛岬を下り三厩まで行くが、ひと昔前は幻の県道といわれた24キロの山道を行くか、船だったという。昔、海が荒れた時は、海満寺の本堂は白装束の巡礼者であふれていたのだという。

 観世音像は信者が隠しておいたり、最勝院から返してもらったものもあったが、紛失した分はやむなく、仏師に依頼して新しく作っている。
 観音堂は神社境内を借りて再建した。なかには神殿を新築したとき、旧殿をもらい受けて御堂にかえした例もある。また経済事情などにより、建立が不可能な霊場では、神社神殿を借りて祭り直したのである。
 嫌がった神主もあったが、氏子には抗しきれず、ここに神仏混交の昔が再現した。
 大正末期から昭和初期にかけて、津軽霊場再興を願い献身した人々がいる。弘前禅林・平福山万蔵寺住職の沢田白鳳師や同太平山長勝寺住職・須藤喚月師らである。明治中期末以来、復活はしたものの、なお昔事には遠い三十三札所を再興させようと同志たちと行脚して住僧、神官を説いて回った。白鳳師は昭和34年(1959年)、73歳で亡くなったが、遺骨は嗣子・沢田大有師らにより、津軽三十三所、西国三十三所に分葬された。
 こうして津軽三十三霊場はほぼ、藩政時代に返った。これが今親しまれている巡拝地であり、信仰厚い民衆が復興したといっていい。
 しかし、神仏分離令の傷跡はさまざまな禍根を残している。納経所や霊場争いなどがそれである。
 神仏仕分けによって、神社に変身した観音堂は神主の管理となったが、しかし、観音堂が再独立すると混乱が起こった。
 神社側は参詣の印として、神社印を押し、信者は納経帳に宝印を求めたのである。そのため納経所―集印所が二カ所ある霊場がいくつもあって、巡礼者たちを戸惑わせているのである。
 袰月には、霊場を名乗る寺堂が二カ所あって、これも巡拝者を困らせている。明治中期から昭和にかけて、旧霊場が衰微し、あるいは再興されなかったために、新興の「霊場」が生まれたのである。しかし、巡礼者には悩みの種である。
 とはいえ、巡礼とは荘厳な霊場を訪ねて信仰心を高め、仏体を拝んで済度を求め、宝印をもらって信心を確認しあうことなのである。
 まず、古き祖先の霊地を訪ね、あとは札所、番外を問わず拝してみても徒労ではなかろう。
 信仰は、心を自然にすることであり、功利や打算ではないからである。

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十九番 義経寺観音堂(三厩)

2008/1/30 水曜日

 

道路下から見る義経寺。階段の上に見えるのが境内山門
目の前に海が開ける義経寺の観音堂。訪れた日は台湾からの観光客で境内があふれていた

観音堂右手にある「弁財天堂」。海を望む高台に沿って、石像の観音さまが並んでいる

 義経寺の取材には、画家の山谷芳弘さんも同行してくれた。もちろん、山谷さんは上磯のスケッチが目的。「津軽三十三霊場」のタイトルも山谷さんが書いてくれたものである。
 よく晴れた晩秋の日だった。湾内の波は少しも動かない。それでも沖には白い波がわずかに見えている。
 60メートルという高さの中腹にある義経寺は、下の道路から見上げるほどの高さである。この山は昔、老杉老松が茂る森だったそうだ。それが、昭和29年(1954年)の「洞爺丸台風」に襲われて、山の形は一変したのだそうだ。
 石段を上り切ると境内には、樹齢800年近いといわれる、縁結びの“夫婦松”が残っている。
 境内には線香やろうそく、納経帳、般若心経、お守りといった参詣用の小物を売る売店がある。本堂でご朱印を頂いたあと、売店のベンチに腰を掛けていたら、店番のお坊さんが「どうぞ、お茶を飲んでください」と声をかけた。
 台の上にはお茶の入ったやかんと湯飲みが置いてある。山谷さんとお茶を飲んでいたら、なにやらガヤガヤと団体さんの声がする。
 70歳前後の、どこやら品のいい人たちで「どちらから」と聞くと、「台北です。いい天気になりましたね」と流ちょうな日本語であいさつが返ってきた。
 「多くはないですがこのごろは台湾からも来ますよ」と売店のお坊さん
 本文中にある僧・円空が彫ったという木仏だが、鉈(なた)を使った「円空仏」であることは調査で分かっている。ある意味、伝説を裏付けているわけだが、義経が厳上に残し、体内に納められたという白銀の観音像は残念ながら存在しなかったそうだ。
 太宰治もN君と、ここに来た。「ほら、この石段のところどころにくぼみがあるだろ。弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいう話だ」。N君の話に太宰は何の興味も持たない風だった。

 陸奥(みちのく)のいわれをここに来て三馬屋(みまや) 浪打ちぎわに駒ぞ勇める
 小泊から三厩へ。幻の県道と言われた竜飛崎を越える道も、今では「竜泊ライン」が通って、津軽三十三霊場の中でも屈指の景観が望めるところである。
 その昔は、24キロの山越えか、船でぐるっと回るかである。ブナの原生林に覆われた標高714メートルの増川岳の林道を、歩いて歩いてやっと視界が開ける。津軽海峡の眺めは巡礼者の目にどう映ったのだろうか。
 ただ、私はいったん弘前に戻り、後日国道7号から青森市の油川のバイパスに入り、三厩に向かった。また、中泊町の今泉から中山道を越え、蟹田からバイパスで三厩に向かうこともできる。
 「ね、なぜ旅に出るの?」
 「苦しいからさ」
 この会話から始まる太宰治の小説「津軽」の旅は、蟹田から外ケ浜街道を北上する。私たちは反対に、三厩から今別―蟹田と外ケ浜街道を下ってくることにする。
 三厩といえば、源九郎判官義経である。文治3年(1187年)、兄頼朝に追われて都落ちし、義経は奥州平泉・藤原秀衡の館に逃れた。秀衡はまもなく死に、その跡を継いだ泰衡は頼朝に脅され、文治5年(1189年)、義経を衣川館に急襲した。
 みちのくの「義経伝説」は、ここから始まるのだ。
 以前、取材で八戸市類家の「芭蕉堂」を訪ねたことがある。そもそも類家という地名であるが、この芭蕉堂のある「類家稲荷大明神縁起」によると「平泉の高館で自害した源義経であるが、義経主従がこの社に参詣するための茅(かや)葺(ぶ)きの家を建て、社を往き来していた。土地の人々はこの萱葺きを、類家―家のような―と呼び、ここに出入りする主従を『類家の者ども』と呼んだ」と記している。
 ずいぶん、大ざっぱな「点と線」だが、伝説をつなげると、平泉で館に火を放ち討死したと見せかけた義経主従は、類家に滞在した後、さらに北に向かい三厩から蝦夷ケ島へ渡ろうとしたということになる。
 この時、風が立ち波が荒く、渡海は不可能だった。そこで厳上に端座し、三日三晩観世音に悲願した。と、満願の朝、白髪の老翁が現れて「竜馬三頭を与うべし」と告げた。
 義経は厳上に持仏の白銀の聖観音像を安置し、供の者とともに竜馬にまたがって、蝦夷ケ島に渡ったという。
 「厳」とは、竜馬三頭をつないだ厩石。三厩(三馬屋)という地名の由来である。
 その後のことである。寛永7年(1630年)、越前国の僧・円空が諸国を巡って三馬屋に来た。厳上に光を放つものありと、登ったら白銀の観音像を発見した。その夜、どうして義経が蝦夷地に渡ったかを夢で知った。
 円空は、流木を拾って聖観音像を刻み、体内に白銀観音像を納めて草庵をむすび、「竜馬山観音堂」と名付けた―と伝わっている。庵寺は幕末まで「観音堂」と呼ばれていたが、明治元年(1868年)、今別本覚寺末寺に連なり、義経寺の寺号を許された。
 観音堂は最初、厩石の麓(ふもと)にあった―と寛延巡礼記にある。記録には安政2年(1855年)とあるが、現在地の山腹に移された。
 その義経寺だが、海抜60メートルという切り立った岩山にある。大鳥居をくぐる参道は、五つに折れた石段を上る。境内に行き着くまでは330メートルほど。しかし、石段の踊り場ごとに海は高く、広く目の前に迫るようだ。
 遠く松前の島影が見える。津軽海峡の潮目もきれいに流れて見える。
 果たして義経主従は無事蝦夷ケ島に渡り、さらに遠く中国大陸までたどり着いたのか。石段を上りきると、笹竜胆(りんどう)を刻んだ山門に着く。正面には、義経伝説にふさわしい華麗な観音堂がある。
……………………………………………………
 20番・今別高野山観音堂へは、三厩街道を東に向かっておよそ四キロ。

〈交通メモ〉18番・小泊海満寺から竜泊ライン経由で約35キロ。徒歩9時間、車で50分。大平経由だと57.5キロ。徒歩14時間、車で1時間半。

 藩政時代、「津軽俗説選」によると、「御国三十三番」道程は、九十四里四丁(369.574キロ)である。すべてを徒歩で歩いたために、最短でも15日はかかったという。
 昭和初年に、沢田白鳳師が試みに乗り物を一切使わず巡礼した時には、19日間かかっている。そのうえ、天気待ちや中休み、物見遊山の時間を加えると1、2カ月をかけた例もある。
 安政2年(1855年)に巡礼した百田村勇助は7月4日に発願し、9月3日に打ち納めている。今も残る『納経帳』の日程を見れば、次のようになっている。
 7月4日(発願)7月欠日・1番久渡寺→7月11日・2番清水→7月11日・3番百沢→7月欠日・4番高杉→7月欠日・5番十腰内→7月16日・6番湯舟→7月欠日・7番北浮田→7月欠日・8番日照田→7月18日・9番追良瀬→7月18日・10番深浦→7月23日・11番下相野→7月24日・12番蓮川→7月24日・13番川倉→7月25日・14番尾別→7月25日・15番薄市→7月25日・16番今泉→7月27日・17番相内→7月28日・18番小泊→7月29日・19番三馬屋→7月29日・20番今別→8月1日・21番袰月→8月12日・22番青森→8月14日・23番浅虫→8月20日・24番入内→8月24日・25番松倉→8月26日・26番黒石→8月27日・27番袋→8月28日・28番広船→8月29日・29番沖館→8月欠日・30番大光寺→9月欠日・31番居土→9月欠日・32番苦木→9月3日・三十三番茂森―となっている。(「欠日」は納経帳に日付なく不明)
 袰月、青森などで中休みしているが、ちょうど二カ月である。
 今なら、乗用車なら3日、貸切バスでも三回の日程で一巡できる。
 仏教が生んだ霊場は、多くは深(み)山(やま)幽谷(ゆうこく)、海岸線にあって非日常的な風光を見せている。静寂さと神秘性によって宗教心を深めるためであったろうと思われるが、巡礼者にとっては“御国”の優れた景勝地や遺跡を訪ねる旅にもなる。
 津軽三十三所も、「岩木山」「深浦十二湖」「屏風山権現崎」「竜飛袰月」「浅虫夏泊」「黒石温泉郷」「大鰐碇ケ関郷」「梵珠山」と多様な顔を持つ観光の旅ともなっている。

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