津軽三十三霊場

 

十番 春光山円覚寺(深浦)

2007/11/14 水曜日

 

最近は団体よりも家族やグループのお参りが多いと話す副住職の海浦さん

老杉を背景に建つ山門。右には深浦港がある。澗(ま)=入り江=の奥、なぎさ近くにあるため「深浦澗口観音」ともいわれていた

山門を入った辺り、正面が観音堂。前は広場になっていて、親子が遊びに来ていた

 春光山円覚寺はさすがに、日本四浦の一つとして栄えた深浦にある古(こ)刹(さつ)である。
 北前船貿易が華やかだった江戸―明治中期のにぎわいは、今の深浦町からは想像もできないが、円覚寺に納められている「宝物」を見れば、少しは往時をしのぶことができるかもしれない。
 北前船貿易の主力であった弁財船絵馬は、古くは天保7年(1836年)から明治23年(1890年)までの69点が残されている。
 また、本文中でも紹介した「髷額(まげがく)」は28点。寛永10年(1633年)奉納の「幻の船」といわれた北国船を描いた絵馬は、日本ではただ一枚という貴重なもの。
 高田屋金兵衛の祈願依頼状というのは、文化9年(1812年)、高田屋嘉兵衛が国後でロシア軍艦に連れ去られた時に、末弟の金兵衛が嘉兵衛と水夫4人が無事帰国するよう2夜3日の祈とうを依頼したもの。嘉兵衛は翌年9月28日、函館に帰国できたが、お礼に奉納された「ギヤマン飾玉」と「シャンデリア」が残っている。
 国重文の「薬師堂内厨子」とともに、円覚寺といえば「毛髪刺繍」が知られている。明治34年(1901年)、信徒8万4千人の毛髪で三カ年をかけて作った「毛髪刺繍三十三観音御影」と、明治37年(1904年)に8万4千人の毛髪でやはり五カ年をかけて作った「毛髪刺繍八相釈尊涅槃図」はぜひ見たい。
 「寺宝館」にあるこれらの宝物は、円覚寺の案内で拝観できる。4月から12月までは午前8時―午後5時まで。12月から3月までは午後4時まで。所要時間は30分。
 拝観料は大人400円、高校生が250円、小中学生が百円。円覚寺では昭和50年代から、三十三観音巡りなどを企画しているという。ホームページも開設しているが、副住職の海浦誠観さんは「参加は県内が主ですが、福島県や名古屋市からも参加がありました」と話してくれた。

      (深浦町浜町、真言宗観音寺)

 ただ頼め行く末いのる深浦の あすのいのちのほどは白浪

 秋の西海岸は波も穏やかで、水平線がくっきりと見えている。これまで一番札所の護国山久渡寺から、岩木山のすそ野を時計と反対にぐるりと回ってきた。十番札所・深浦の春光山円覚寺は、津軽三十三霊場の西の果てにある。
 深浦は中世にさかのぼる良港である。町教委発行の「深浦の文化財」には、藩政時代の華やかな港の様子がこう書かれている。

 『…港には七、八百石船から千石船、千五百石船が、港狭しとばかり帆柱を林立させ、良い風を待つ船頭、水夫、船客を相手にする船宿、紅楼は夜昼の別なく、管弦鼓笛を鳴りひびかせ、幾百の傾城歌姫の嬌声(きょうせい)はまた、港の波から波へと伝わり、その賑(にぎ)やかさ、その繁栄は近隣の町々在々にとどろいたものである』と。

 三十三所を回る巡拝者たちも、ここ深浦に来てひと息ついたのかもしれない。その港の奥まった辺り、小高い山があって寺の大屋根が見えて「あ、ここだ」と分かる。円覚寺は聖徳太子作と伝わる十一面観世音像を本尊としているが、千百余年の樹齢の老杉、巨木が林立する境内を見る限りでも、古い名刹(めいさつ)であることがわかる。
 深浦観世音は大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、草創。貞観年中(859―877年)、円覚法印により再興されたという。その後、永正3年(1506年)、葛西氏木庭袋(きばくら)伊予守頼清が再々興し、文禄年間(1592―96年)に大世法印が中興して、貞享2年(1685年)に山号・春光山、院号・大善院、寺号・円覚寺―を許された。円覚寺では円覚法印を開基者としている。
 藩政時代、津軽家の祈とう所に選ばれ、堂舎などの修復も藩庁の手で行われている。寛永2年(1625年)に二代信牧が建て直し工事を命じ、さらに明暦元年(1655年)には三代信義の命で修復。元禄13年(1700年)に四代信政も再建。享保13年(1728年)に五代信寿が修繕したなどの記録が残っている。歴代藩主の庇護(ひご)を受けているが、信政、信寿が書いた「滝見観音像」は今でも円覚寺に秘蔵されている。

 千石、千五百石の弁財船が入る日本海屈指の港として繁栄した深浦である。出船入り船でにぎわう港町だけに、船主や船頭たちが海路の無事を願って、円覚寺に仏具や絵馬を寄進した。船乗りの信仰を一身に集めた円覚寺であるが、「竜灯(りゅうどう)」の伝説がある。
 灯台がなかった昔、日本海では難破する船が絶えなかった。こうした時代、円覚寺境内に立つ杉が大きな目印になったという。杉のこずえが光を発し、航行する船に方向を知らせ海難から救ってくれた。日ごろ、観音様に祈願していれば、闇夜などには杉の間から光が見えるというので、漁師たちからは「助けの杉」とも呼ばれていた。
 なぜかは知らないが、不思議な灯りが見える杉ということで「竜灯の杉」と名付けられ、多くの人からあがめられるようになったと伝えられている。

 ―さらに続ける。大しけに遭った時、船頭水主らは波にもまれながら、自らのまげを切って観音を念じた。すると竜灯の杉辺りから光明が放たれ、無事に港にたどり着くことができた。その時、切ったまげを額に結び、海難を救ったお礼として奉納したのが「髷額(まげがく)」。今も、円覚寺には28点の髷額が残されている。船乗りと観音信仰が結びついた髷額は、国の重要有形民俗文化財にもなっている。
 近年、円覚寺周辺は町の事業によりきれいに整備されている。境内前は広場となって、お土産やおにぎり、うどん、そばを売る店もある。その奥には江戸中期から明治中期にかけ、実際に日本海を航海していた七百石積みの北前船「深浦丸」の3分の1の復元模型を展示する「北前の館」もあって、観光客の人気スポットになっている。

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 十一番・下相野観音へは国道101号を鯵ケ沢町まで戻り、新田地方のつがる市まで45キロの長い旅になる。

 

〈交通メモ〉 九番・見入山観音堂から約13.5キロ。徒歩3時間20分。車で20分。列車はJR五能線で追良瀬駅―深浦駅へ。駅から徒歩20分。

 「西国」に発生した観音霊場巡拝は、室町時代(1338―1477年)に民衆にも広まって、流行したという。戦国時代を経て江戸時代に至って、幕藩体制、封建制度が確立すると、地域的にも三十三所がつくり出されるようになった。もちろん「津軽三十三霊場」もそのひとつなのである。
 また、県下には、旧南部藩内に「糠部(ぬかのぶ)三十三所」もある階上町の海潮山応物寺(寺下観音)に始まり八戸市、名川町、田子町から岩手県に入って、二戸郡浄法寺町・八葉山天台寺(御山観音)まで2県にまたがる霊場だ。
 古い時代、巡礼たちは笈(おい)摺(ずる)をはおり、すげがさ、脚半、甲(こう)掛(かけ)、わらじ、金(こん)剛(ごう)杖(づえ)という服装で、順路を花山法皇作と伝わるご詠歌を唱えながら、一歩一歩聖地を訪ね参拝した。巡礼の装いは「六十六部廻国」の姿に似せたといわれている。笈摺は巡礼たちが衣服の上に着る、羽織のようなものである。
 また、巡礼者たちは「納札(おさめふだ)」を携えて、霊場ごとに1札ずつ打ち付けて次の札所に回る。札は木製であり幅1寸(3センチ)、縦5寸(15センチ)ぐらい。上部に開けた穴にひもを通し、首にかけて歩いていたこれもその昔花山法皇が歌一首ずつを札に記して西国三十三所に納めたのが始まりと伝えられている。
 霊場のことを「札所」ともいう。例えば「三十三札所」である。札を納めるために、そう呼ばれたのである。また巡拝することを「札を打つ」ともいうが、納札を打ち付けることからそう呼ぶ。巡礼が終わった時「打ち納め」ともいった。
 巡礼者たちは「納経」も行った。霊場ごとに自ら写経した「般若心経」や「観音経」を納め、それができない人は、経本を奉納した。受納の印に「閻(えん)魔(ま)宝印(ほういん)」を押してもらうが、西国霊場を開いた徳道上人の故事に基づくという。
 霊場巡拝には、有名な「西国三十三所」もあり、鎌倉時代から行われてきたといわれるが、四国に生まれた真言宗開祖・弘法大師(空海)の遺跡を拝するものであって、観音霊場とは起源を異にし、特に「遍路」と呼ばれている。また、三十三観音霊場巡りは巡拝、巡礼のほかに特別な書き方として「順礼」とも記されるのである。

 

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十一番 高城八幡宮(下相野)

2007/11/21 水曜日

 

高城八幡宮の由来書。この反対側に弥三郎碑がある

如意輪観音が祀られている高城八幡宮

バス停、下相野東口向かいから歩いて三分ほどで着く

 今はつがる市となった旧森田村の下相野。見渡す限り田んぼが続く、津軽の穀倉地帯である。
 「津軽平野に雪降~るころはヨ~」と、吉幾三の歌が聞こえてくるよ
うな晩秋の下相野に、こんもりとした森が見えて、この辺かもしれないと、人に聞いたら「そこを右に入ってすぐだ」と教えられた。下相野東口のバス停の真向かいである。

 

 下相野といえば、「村の端ンずれコの弥三郎エ~」の弥三郎節である。
 # 一つあエ~ 木造 新田の下相野 村の端れコの弥三郎エ~ コレモ弥三郎エ~
 # 二つあエ~ 二人 三人と人頼んで 大開の万九郎から嫁貰(もら)った これも弥三郎エ~
 嫁の実家の大開は、水元村妙堂崎というから、今の鶴田町の妙堂崎。
 # 五つあエ~ いびられ、はずがれ、にらめられ 日に三度の口つもる これも弥三郎エ~

 

 この歌は十五番まであって、
 # 十五あエ~ 縁の ないもの 是非もない
 泣きの涙で ひま貰った これも弥三郎エ~
 いよいよ実家へ帰る日に、外に放り出された

 

 嫁入り道具に腰かけて、泣きながら口をついて出た唄(うた)がこれだという。あまりの悲しさ、悔しさがこんな哀歌を即興で歌わせたというのだろうか。
 後世の人は、その昔嫁と姑(しゅうと)の深刻な葛藤に、こんなこともある、あんなこともあった―と、封建的な家族制度に虐げられた嫁たちの悲哀と怒りを誰かが歌にして作り上げたのだと言っている。
 高城八幡宮の鳥居前に「弥三郎節の碑」が建っている。昭和56年9月27日、森田村弥三郎節保存会建立とある。
 以前、酒宴で興に乗った板画家・棟方志功さんが歌った「弥三郎節」のテープを聞いたことがある。歌詞もよく分からないような歌いぶりだったが、やたら陽気で明るかった。

 

    (つがる市下相野、旧相野飛竜宮)

 のちの世を願う心は下相野 白髪(しらが)の雪の降らぬその間に

 

 風がどこまでも吹き抜けていくような、広い広い田園地帯である。下相野が開田されたのは、寛文2年(1662年)板屋野木村(現板柳町)の嘉右衛門であったと記録にある。もちろん、それ以前に住み着いていた者もあるだろうが、本格的に開田が進んだのは、嘉右衛門の時代からであったという。
 耕地の開拓は、その後まもなく越前国から移住した盛作右衛門により、軌道に乗った。作右衛門は大がかりな開田とともに、酒造業も経営して大身代を築いたそうだ。観音堂を創建したのは、この盛作右衛門である。
 土着した作右衛門はその後、産神を祀(まつ)ろうと発心し、自宅奥庭に堂宇を建てた。場所は今の高城八幡宮境内である。延宝3年(1675年)といわれ、元禄3年(1690年)に建て直したと『弘前並在々浦々建立社堂帳面』(寛永3年)に記載がある。
 延享3年(1746年)には、三十三所十八番となっていた。
 高城八幡宮の古地図では、境内はおよそ660平方メートルあって、平地ではあるが二重の堀で囲んだ城構えであった。今は堀が埋められ、旧農協のコメ倉庫などが建っている。
 高城八幡宮の宮本一郎宮司は、十八代目となるそうだ。九代目の時に廃藩置県が行われたというから相当に古い。
 45年前に嫁いできたという奥さんは「そのころはまだ内堀に水が流れて、春先にはミズバショウが咲いていました。堀がズーッと続いて、朱塗りの太鼓橋の下では“サンゴ占い”をする方も多かったですよ。圃(ほ)場整備などで堀に水が入らなくなって堀が埋まってしまったんですが、神社の大木が次々に倒れてしまったんです」と話してくれた。
 境内の木は確かにまだ若そうだった。30年ほどのものだろう。

 

 相野観音堂は寛延年中(1748―51年)以来、十一番札所となっている。そして安政2年(1855年)には、「飛竜大権現」を祀る「飛竜宮」になっていて、そのまま明治維新を迎えている。
 明治3年の神仏仕分けによって、相野飛竜宮も廃社になろうとした時、「産(うぶ)土(すな)さま」とあがめていた下相野村と富岡村の住民が猛烈に反対した。しかし明治4年、ついに如意輪観音は没収され、堂宇も取り壊されて、その跡に高倉産霊神を祀る、今の高城八幡宮に建立された。
 しかし、この時上納した観音像は、本尊の身代わりで本物は集落の人たちがこっそり隠しておいて、やがて廃仏毀(き)釈(しゃく)の風潮が薄らぐのを待って、八幡宮に祀り直した。
 如意輪観音は、神殿の中ご神体の左側に安置されている。言い伝え通り、小さな木像座像であって、淡い色彩が施されていた。
 その観音様も神殿深く安置されているため、今はめったに拝観する機会がないが、観音信者でもある神社の氏子たちは昭和32年、観音堂があった場所に、観世音をかたどった石像を建てている。竜に乗った―竜頭観音である。

 

 さらに近年、もう一度この観音像を遷(うつ)す出来事があった。
 日本海中部沖地震の後、神社奥院が傾き、修理の間ご霊社に置いていた。「果たして、本当に座像があるのか。明治のころの話ですから、疑心暗鬼もあったのですが、一刀彫りの観音像が確かにありました」と、これも奥さんの話である。
 神社前の道路をはさんだ所に宮本宮司の住まいがあって、集印所ともなっている。

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 十二番・蓮川観音堂までは、およそ6キロ。旧木造町に入り北上する。

 

〈交通メモ〉 深浦の十番・円覚寺から56キロ。徒歩14時間。車で1時間20分。

 藩政時代に始まった「津軽三十三霊場」は、聖地である札所が城下・弘前とその周辺に多くあって、巡路も距離も今とは大きく違っていた。松井四郎兵衛『古今御用抜書』によると、延宝年中(1673―81年)から、延享3年(1746年)にかけての津軽観音霊場は次のようになっている。

 御国三十三札所
 一番 袋宮寺 千手観音 此間十丁
 二番 誓願寺内 観音 此間十八丁
 三番 長勝寺内 観音 此間五丁
 四番 茂森派 観音  此間十二丁
 五番 遍照寺内 観音 此間一丁
 六番 貞昌寺内 観音 此間三丁
 七番 報恩寺 護摩堂観音 此間二丁
 八番 報恩寺 十一面観音 此間二十五丁
 九番 最勝院内 観音此間三里
 十番 久渡寺 正観音此間四里
 十一番 高杉村 正観音 弘前ヨリ高杉エ二 里八丁五十一間
 十二番 十腰内村  十一面観音 此間五里
 十三番 日照田村 十一面観音 此間八里
 十四番 追良瀬 見入観音 此間二里半
 十五番 深浦澗口 十一面観音 此間十八里
 十六番 百沢寺奥院 観音 此間一里半
 十七番 清水 千手観音 是ヨリ弘前エ戻リ 弘前ヨリ六里
 十八番 相居野 観音 此間三里半
 十九番 飯詰 観音  此間八里八丁二十一間
 二十番 相内 十一面観音 此間四里
 二十一番 小泊 千手観音 此間六里
 二十二番 三馬屋 正観音 此間 一里八丁 三十九間
 二十三番 今別 正観音 此間九里二丁五十五間
 二十四番 蟹田 正観音 此間五里十九丁二十七間
 二十五番 油川 正観音 此間一里余
 二十六番 青森 正観音 此間一里半
 二十七番 細越村 観音 此間二里半
 二十八番 入内 観音 此間五里
 二十九番 浪岡 観音 此間四里半
 三十番 松倉 観音 此間六里
 三十一番 広船 千手観音 此間三里半
 三十二番 沖館 正観音 此間三里
 三十三番 大円寺 観音

 

 袋宮寺(長勝寺下)、誓願寺(新寺町)、貞昌寺(新寺町)、報恩寺(新寺町)、最勝寺(田町)―といずれも弘前か隣接地であるし、三十三番・大円寺も弘前桶屋町(現最勝院)にあった。
 西は追良瀬、深浦、北も小泊、三馬屋まで遠出するが、東は青森、南では広船で止まっているし、飯詰、蟹田、油川、細越村、浪岡があるのも珍しい。
 なお、これら「延享以前における御国三十三番札所順礼行程」は、福士貞蔵「郷土史料異聞珍談」にも「鶴屋古今御用抜書」からとして紹介されている。
 しかし、藩政中期に至ると、三十三所は再編成されて大きく変わった。ほぼ現代に近い形になったのは、寛延年間(1748―51年)のこととみられている。

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十二番 蓮川観音堂(蓮川)

2007/11/28 水曜日

 

版木で刷った津軽三十三観音入りの手ぬぐい。暇々に五枚程度刷るという

神社の西側に建つ蓮川観音堂

出精川を挟んだ蓮川の集落。石の鳥居が月夜見神社

 蓮川は出精川を挟んで長く続く集落である。北東に少し行くと、岩木川の堤防がある。高い堤防に守られて、西側はどこまでも広がる水田―というのが蓮川の風景。
 取材に訪れたのは秋の半ば、昼近いころだったが、どこの家でも雪囲いの“カッチョ”作りに追われていた。西向きの入り口に高い高いヒバ材の垣根が続く。隣の家もその隣りも、丸太で組んだ足場に、ヒバの一枚板が縄でくくりつけられ、まるで城壁のようだ。
 金木の「地吹雪ツアー」が行われる藤枝地区の“カッチョ”もなかなかの景観であるが、こちらも負けてはいない。絵心があれば、雪のあるころに出かけて描いてみたいと思うような景色だ。

 

 その一画にご朱印所となっている工藤春英智さん宅がある。神社からほんの十数メートルほど。
 ガラガラと玄関を開けると左に、朱印一式があって工藤さんが顔を出した。見ると、玄関の次の部屋にロープにかかった手ぬぐいがある。「それは何でしょうか」と聞くと、「これっ、三十三観音の手ぬぐいだ」と、1枚持って来てくれた。
 なるほど、三十三体の観音さまが朱で染められて並んでいた。
 「先代が注文して、版木を作ったんだ」と言うから、ゆうに5、60年はたつだろう。「だいぶ減って、1回は彫り直してもらったんだが、木がやせてあとは彫り直しは無理だと言われた」と工藤さん。
 3枚ばかり分けてもらったが、工藤さんは「このあと、5、600枚刷れるかどうかだな」と言う。先代さんは、なかなかのアイデアマンだったかも知れない。
 ご朱印はご朱印として三十三所の記念には、うってつけのものだ。久渡寺、清水、百沢・求聞寺の観音3体の下に、30体の観音さまが並んでいた。1枚500円、「求める人は多いですか」と聞いたら「春先だったら、1日何枚か出るな」と。

 

    (つがる市蓮川、月夜見神社境内)

 野をも越え里をも行きて眺むれば いつも妙なる法(のり)の蓮川

 

 現在、つがる市となった旧森田村下相野から旧木造町に入る。太宰治は小説「津軽」の中で婿養子だった父の木造の生家に立ち寄った折、町の様子を書いている。

 『…木造の町は、一本路の両側に家が建ち並んでいるだけだそうして家々の背後には見事に打ち返された水田が展開している水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造のポプラほどあざやかに記憶に残っていない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐(かれん)に微風にそよいでいた』。

 以前、弘前市在住の俳人・竹鼻瑠璃男さんと木造を訪ねたことがある。木造生まれの竹鼻さんは「ここには、町を貫通しているものが3つあって…。1つは13まで米を運んだ古田(こでん)川、2つは町を西風から防いだポプラ並木、3つは太宰も「津軽」で書いている『コモヒ』だ」と言った。
 なにせ、60年ぶりに見る故郷であれば、ポプラの並木は影もない。小店(こみせ)は町の商店街につながっているが、竹鼻さんは「こんなものじゃなかった」と言う。古田川の方は、改修されて川幅も狭まって往時の面影はないというのである。
 しかし、今も津軽の穀倉地帯であることに変わりはない。
 木造の町から北東へ2キロ。芦沼を過ぎた辺りで出精川に行きあたる。左に折れて、800メートルほどで蓮川観音堂がある月夜見神社境内に着く。
 出精川は幅5メートルほどで、護岸工事がされ、岩木川に沿って真っすぐに延びている。集落は川を挟んで、両側に並んで建っている。
 蓮川の観音堂は天和2年(1682)、村中によって建立されている。観音堂は三間(3.6メートル)四方の拝殿と奥院が続き、中に本尊・聖観音像(木像・高さ30センチ)が安置されている。正面を除いて、三方には三十三観音の石像が並んでいる。

 

 「寛延巡礼記」には、「本堂三尺四面。正観音。御宮のうち鳥居一カ所あり。棟札正徳3年とあり、東向き。村建立なり。寺は禅宗正徳院」とある。正徳3年(1712)、正徳院とともに再建されたということである。その後、正徳院は廃され観音堂だけ残されたが、村の産土神としてばかりではなく、郡中からも多くの信仰を集めていた。
 蓮川に観音堂ができたころは、付近はアシガヤが茂る荒れ地だったと思われる。しかし藩政のころ、木造奥新田の中にあった蓮川観音堂は、急速に信者の数を増やし、寛延年中(1746―51)には、それまで十九番札所だった飯詰観音堂に代わって、三十三所に加えられ、十二番札所となっている。
 正徳院がなくなった後、深浦円覚寺社人・工藤近江が別当として観音堂を管理していた。多くの参拝者が集まり、にぎわいを増すとともに社務所も広大になり「五間屋敷」と呼ばれていたという。
 昭和32年、蓮川の集落は大火に見舞われている。月見野神社も「五間屋敷」もその中の社務所も類焼した。集落のはずれから出火し、観音堂も火の粉をかぶったが、大木のおかげであやうく類焼をまぬがれた。この大火を見ていた集落の人は「聖観音の霊が大木に移った」と言い、ますます観音信仰を深めたという。

 

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 十三番・川倉芦野堂へは、川除地区から岩木川に沿って北上。つがる市の旧稲垣村繁田から橋を渡って五所川原市金木へ。

 

〈交通メモ〉 十一番・下相野の高城八幡宮から約6キロ。徒歩1時間30分、車で10分。

 寛延4年(1751、宝暦元年)に書かれた「津軽三拾三所順礼」が残っている。「筆者 弘前本町 甚五郎」とあり、商人と思われる。その〈寛延巡礼記〉によると、14カ所が廃止、新設され、順番もすべて変わってしまっている。

 

 一番 久渡寺 正観音 弘前より二里十丁
 二番 清水 千手観音 弘前より三里、百沢へ一里、山路
 三番 岩木山 百沢寺 観音 十一面観音高杉へ二里山路
 四番 高杉 正観音 十腰内へ三里
 五番 十腰内 十腰内観音堂 湯舟へ一里、山路
 六番 湯舟 観音堂 本尊達磨型石仏、北浮田へ十八丁
 七番 北浮田 正観音堂 日照田へ二里
 八番 日照田 観音堂 追良瀬へ三里
 九番 追良瀬 見入山観音堂 本尊正観音。深浦へ二里
 十番 深浦 円覚寺 本尊正観音。下相野へ鯵ケ沢より三里
 十一番 下相野 観音堂 蓮川へ一里
 十二番 蓮川 正観音堂 川倉へ四里、土手路
 十三番 川倉 観音堂弥陀薬師観音。 尾別へ一里二十丁
 十四番 尾別 千手観音堂 薄市へ二十丁
 十五番 薄市 勢至観音堂 今泉へ一里
 十六番 今泉 千手観音堂 相内へ一里
 十七番 相内 正観音堂 小泊へ二里十三丁
 十八番 小泊 千手観音堂 三馬屋へ六里、山道
 十九番 三馬屋 千手観音堂 今別へ一里
 二十番 今別 三十三三観音。袰月へ二里
 二十一番 袰月 鬼泊観音堂 蟹田まで五里半、蟹田より青森へ六里
 二十二番 青森 観音堂 毘沙門宮内にあり。浅虫へ三里
 二十三番 浅虫 夢宅庵 三十三観音。 入内へ六里十丁
 二十四番 入内 正観音堂 松倉へ四里
 二十五番 松倉 十一面観音堂 如意輪観音小堂もあり。黒石へ五里
 二十六番 黒石 観音堂 上の坂上にあり。袋へ一里半
 二十七番 袋 勢至観音堂 広船へ二里半
 二十八番 広船 千手観音堂 沖館へ一里半
 二十九番 沖館 千手観音堂 大光寺へ十一丁
 三十番 大光寺 三十三観音堂 居土へ二里半
 三十一番 居土 十一面観音堂 苦木へ三里
 三十二番 苦木 正観音堂 茂森へ三里十丁
 三十三番 茂森 山ノ観音堂 本尊三十三観音

 

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十三番 川倉芦野堂(川倉)

2007/12/5 水曜日

 

太宰治の生家「斜陽館」。グループ旅行の小団体をよく見掛ける

鳥居が続く三柱神社。この右側に観音堂がある

川倉芦野観音堂。小ぶりながら山門があって、雰囲気を醸し出している

 太宰治が故郷に来て、小説「津軽」を書いたのは昭和19年。終戦を迎える1年前だった。その冒頭、「序編」に『金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口5、6千の、これという特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見(み)栄(え)坊(ぼう)の町という事になっているようである』とある。
 金木は昭和初期まで隣の中里町(現中泊町)や海岸線の集落から町買いの人たちを集めて栄えていた。それが昭和5年に開通した津軽鉄道によって、町買いの人は新興の街・五所川原市へと流れていった。
 物資の豊富さもあったろうが、都会らしい歓楽のにぎわいが人の流れを加速させたのだという。それでも金木の人は、おっとりと流れに身を任せていた風がある。
 新田地方の中でも、金木がどことなく落ち着いて、城下町のような雰囲気があるのはなぜだろうか。
 当社刊の「新津軽風土記・わがふるさと」によるとこうである。『津軽藩では寛文年間から、新田開発に小知行の藩士を当たらせ土地に在宅させた。そして開発高、すなわち収穫高の半額を給与した。天和年間には金木村の屋敷が105軒あったが、そのうち給地屋敷は62軒もあった』と。
 藩士の多くはのちに弘前に帰っているが、土着したものも多い。豪農が生まれ、時代とともに変遷はあったが、明治以後は太宰の生家である津島、高橋、西沢家などが大地主として大半の田地を占めていた。
 『この町は幾人かの大地主のほかは小作人ばかりであったので、したがって封建制が色濃く残ったのだろう。町の中心地に集まった人々はそういう富裕な階級であったからしぜんおっとりした活気のない町となったようだ』と、これも「わがふるさと」から。

 

    (五所川原市川倉、三柱神社境内)

 水上はいずこなるらん川倉の 耳にこととう山びこの声

 

 岩木川の土手に沿った蓮川集の対岸が北郡。今はつがる市になった旧稲垣村繁田から岩木川に架かる神田橋を渡ると、こちらも今は五所川原市となった旧金木町のバイパスに入る。
 川倉芦野観音堂へは、バイパス交差点を左折して芦野公園に向かうが、直進すると幼少の太宰治が乳母のタケに連れられて行った雲祥寺があって、さらに右に行くと太宰の生家である「斜陽館」がある。
 その雲祥寺は、太宰の初期の小説「思い出」の中で『…たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々(しばしば)連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えている籠(かご)を背負わされ、めかけを持った人は2つの首のある青い蛇のからだを巻かれて、せつながっていた。…嘘(うそ)を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した』とある。太宰が6つ、7つのころ、幼年の「思い出」である。
 バイパスに戻って北上する。間もなく桜の名所・芦野公園に入り、公園内を走る津軽鉄道の踏切を渡ると芦野湖が開ける。この芦野湖を抜けた川倉地区、大きな案内板がかかっている白川商店を左に曲がるとあとは道なりとなる。

 

 広い境内である。杉木立の中、鳥居が続く左が三柱神社。途中、右側小ぶりの山門の奥に観音堂がある。
 もともと三代藩主信義が津軽一統の戦いに倒れた戦死者と、地元開拓事業に汗を流し死んでいった農民を供養するために選んだ霊場の一つ―と伝えられてきた。
 しかし、延享年中(1744―48年)までは、三十三所に入っていない。十三番に加えられたのは、寛延年中(1748―51年)からであるだが堂宇創建はそれより古く、寛文8年(1668年)、あるいは寛文12年(1672年)のことと伝わっている。また、延宝8年(1680年)に藩庁が調査した「堂宮神主 山伏 行人覚書」にも「従来古跡有之、開基の年号不知」と記録される。
 本尊は観世音菩薩のほか、阿弥陀如来、薬師如来の合わせて3体が安置されている。安政2年(1855年)には、飛竜権現を加えて「飛竜三社大権現」と改称し、明治に至っている。
 明治初年の神仏分離令により、川倉村も飛竜三社大権現を三柱神社とし、金木八幡宮へ合祀せよ―との政府通達があった。信者たちはやむなく合社に従ったが、仏像を渡そうとはしなかった。役人から隠し、持ち歩いたというが、とうとう行方不明になって、いまもその所在は分からない。
 昭和に入って、観音霊場に観音堂がないのはどうしたものか―と、信者たちから堂宇再建の話が持ち上がった。当時、金木では「池屋(高橋家)」と「山源(津島家)」が大地主として権勢を競っていた。その両家が観音堂再建に乗り出した。
 観音堂は三柱神社手前の右横に完成した。神社の地名と芦野湖にちなんで、「川倉芦野堂」と命名されている。また、不明となった仏像の代わりとして、「山源」の津島イツさん(津島文治氏祖母)が寄進した。
 堂宇が完成した時には、弘前長勝寺、金木山雲祥寺住職らによって、納めの儀が盛大に行われたという。本尊に記された年号は昭和10年10月9日となっている。
 新本尊は弘前市の仏光堂三代・赤石岩太郎氏作。中央に阿弥陀如来、右側が薬師如来、左側に観世音菩薩となっている。
 集印所はバイパスから川倉に入って、神社中間ほどにある白川久さん宅。「第十三番 川倉観音 集印所」の看板ですぐ分かる。

 

〈交通メモ〉十二番・蓮川観音堂から約13キロ。徒歩3時間、車で20分。

 (前号から続く)
 すなわち城下・弘前分が大きく減り、代わりに西北津軽と南津軽分を増加、あるいは新設したのである。これは、領内繁栄に基づくものとみられている。
 津軽郡中の開発は、藩祖為信時代に着手され、二代信牧、三代信義も力を注いだのであるが、四代・越中守信政時代に至って、西北地方の新田開発が著しい進展をみて、五代・土佐守信寿時代には耕地がほぼ3倍に拡大し、村落も続々と誕生した。寛文年間(1661―73年)から享保年間(1716―36年)にかけてのことである。
 ぼうぼうたる原野は、豊かな田畑に変わって新しく街道も通っている。村を開いた住民たちは守護神、産土神として寺社や堂宇を建立した。観音堂も多かったといわれ、蓮川(つがる市)、川倉(五所川原市金木)、尾別(中泊町中里)などが、それである。
 寛延年中になされた「霊場再編成」は、こういう領内事情を背景にしていたのである。古い名堂を残し、一方では新堂を取り入れて、広く人心をつかもうとしたのであろう。津軽藩分家の本拠である黒石(黒石市)も加えたし、浅虫(青森市)、袋(黒石市)、大鰐町の居土、苦木など温泉地やそれに近い場所を含めたのは、行楽をともにしようと望む民衆の願いを入れて、その機会を与えようとしたのだろう。

 

 三十三所再編成が寛延年間と推定されるのは、延享3年(1746年)までの松井四郎兵衛『古今御用抜書』に古い札所が記録され、それから5年経った『寛延巡礼記』には新霊場が書かれてあるからである。ただし、年月日をつまびらかにする記録はない。
 (前号の続き分了)

 

 寛延年中に定められた三十三所は、いまある三十三霊場とほとんど変わらない。本尊に変動があったり、堂宇が移動した例はあっても、霊場名は同じなのである。
 天明6年(1786年)に白竜・工藤常政(弘前本町 油屋 練屋藤兵衛)が選集した『津軽俗説選』にも「御国三十三所霊場」があるが、寛延4年(1751年)から35年経って、本尊や寺堂にも少しながら変化を見ることができる。
 九番・追良瀬は本尊が聖観音から如意輪観音に代わり、二十七番・袋は千手観音とある。二十九番・沖館も千手観音が十一面観音となった。また二十二番・青森は無量山正覚寺記されている。いつのころか毘沙門宮境内から移っていたのである。

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十四番 弘誓寺観音堂(尾別)

2007/12/12 水曜日

 

 

ストーブ列車に石炭をくべる乗務員
尾別・神明宮左側、胡桃館の丘陵に真っすぐ伸びる階段が観音堂の入り口
胡桃館の観音堂

 JR五能線の五所川原駅から津軽中里駅まで、20.7キロを結ぶのが津軽鉄道である。
 12月1日からはストーブ列車の運行が始まった。このごろはダルマストーブの上で、スルメや干しもちが焼かれ、遠くから来る観光客に振る舞われて、津軽の冬の風物詩となっている。
 北津軽に鉄道を通そうという計画は昭和2年に始まっている。設立委員には津島文治ら5人が選任されて、許可が下りた翌3年には工事に着手。完成目標を年内11月10日とした。
 ところが難工事が続いた。特に大深内―中里間は、俗に「底なし沼」と呼ばれる泥炭地帯で、土や石をいくら埋めても底が決まらない。とうとう沼の向かいの小山の土を全部埋めてしまった。完成は予定より2年も遅れ、昭和5年11月13日に全線開通した。
 今から77年前の話になる。
 それまでは夏は馬車、冬は馬そりのほかに交通機関はなく、吹雪となれば交通途絶というこの地方に念願の鉄路が通った。
 太宰治の小説「津軽」にもこの鉄道が紹介されている。『…ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園までの切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に30分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し…』たくらい、地元にとって誇らしい鉄道だったのだと思う。
 しかし、利用客は思ったより伸びなかった。会社の収入はガタ落ちとなり、そこで地域産業の育成に乗り出した。リンゴの栽培奨励や薬工品の生産指導、ジャガイモの増産など、農家の未開地開発に協力した。
 一私鉄のするべき仕事ではなかったろうが、それが今日の地域経済力に大きく寄与した―と言えそうだ。

      (中泊町尾別、本寺 天台宗)

 万代を祈り祈りていまここに 千手の誓いたのもしのみや

 国道339号に戻って北上する。旧道に入って尾別、薄市、今泉と右の丘陵地に沿って十三湖まで、長い一本道にこの3集落が続いている。
 昭和48年発行の本社「新編 津軽三十三霊場」には『尾別部落は、十三湖東岸に近い、ひなびた寒村である。が、建武年中(1334―36年)には乙辺地(おっぺち)小三郎光春なる土豪の館があったという古い歴史も持っている。当時十三湖は、村ぎわまで広がり、いまも難破した千石船が畑地に埋もれているといわれる。巡礼たちは尾別まで来ると、古十三潟を偲(しの)ぶことができるのである』と。
 確かに中泊町中里の集落と、対岸の今はつがる市となった旧車力村は、河岸段丘の縁に集落が続いている。とすれば、岩木川を挟む広い稲田は昔々、十三湖が迫っていたのだ―と実感させられる。
 尾別の中ほど、県道右側に鳥居が見える。今少し先に行けば「尾別老人憩いの家」があって、ここの駐車場に車を置いた。駐車場から小さな階段を上ると、神仏仕分け後の明治6年に建てられた神明宮が右手に見える。その左側奥に階段が延びて、観音堂への道へと続いていた。
 階段を上りきったあたりから道端に三十三観音石像がある。一番から二番と、数を数えながら行くと、やがて観音堂に着く。松が参道に大きく根を張っている。
 かつて尾別観世音は、尾別集落から東へ4キロの尾別川上流の滝近くにあって、観音山解脱院と呼ばれていたという。観音堂は江戸時代以前にも存在したと伝わるが、慶安元年(1648年)産土として、胡桃館下に再建された。しかし、延享年中(1744―48年)までの三十三所に尾別は見当たらず、当時巡礼は下相野から飯詰を経て、真っすぐ相内へ向かったそうだ。
 「弘誓寺」という寺号の由来である。廃仏毀釈後の明治34年、山梨県出身の海野戒淳という青年僧が村を訪れた。仏画をよくする人で、観音像3300体を描こうと、全国を行脚中だった。
 造り酒屋だった中村才吉宅に宿を借り、津軽霊場十四番の話を聞いて、弘前最勝院にあった千手観音像を返してもらい、中村家の庭に仮堂を建てて祭ったという。地元民とともに観音堂の再建に奔走したが、日露戦争に召集されて尾別を去った。
 その後も、住民によって再建運動は続けられ、明治43年に実現している。また、戒淳が残した三十三観音画像を石像にして境内に安置している。今も参道を巡る石像がそれである。
 昭和4年、海野戒淳は円海と改名して帰ってきた。元、解脱院にあったと伝わる釈迦如来像を本尊に、一寺を創建しようとしたが再び尾別を去っている。さらに、昭和19年名古屋市にいた円海は、三たび尾別に来た。観音堂の東側、胡桃谷に庵(いおり)を結んで尾別永住を決意した。
 昭和28年に、天台宗総本山から山号・寺号が贈られ「解脱山弘誓寺」となっている。昭和31年、円海権僧正は80歳で大往生を遂げている。尾別観世音が今、弘誓寺観音堂と呼ばれる由縁である。
 弘誓寺観音堂の集印所であるが、観音堂のガラス戸に張り紙があった。『…お堂に向かって左をうしろへ行き だんを おりてください。青い屋根の住宅で いただいてください。…』と書いてある。その通り進むと、青いトタン屋根があって、なにやら人の話し声がしている。
 「あれあれ、どぢらがら」とニコニコしたおばあさんがご朱印を押してくれた。
 これも、ガラス戸の張り紙に書いてあった『山に上がらず まっすぐ県道に…』行く階段を下りると、神社の手前の道路に着いた。
 ………………………………………………
 十五番・薄市観音堂へは、小泊街道をさらに北へ行く。

<交通メモ>十三番・川倉芦野堂から約7・5キロ。徒歩1時間50分。車で10分。駐車は尾別老人憩いの家駐車場へ。

 幕末・安政2年(1855年)秋。和徳組百田村(弘前市)勇助が巡礼し、「御国三十三番納経帳」を遺(のこ)した。これを見ると本尊などに変化が生じている。しかし、霊場がある土地の名と寺堂が
建つ場所は、ほとんどが元のままなのである。

 三番 百沢寺 十一面観音 ―岩木山三所大権現
 十七番 相内 正観音 ―春日内大神
 十九番 三馬屋 千手観音 ―正観音
 二十番 今別 三十三観音 ―十一面観音
 二十一番 袰月 不明 ―岩屋観音
 二十三番 浅虫 三十三観音 ―如意輪観音
 二十五番 松倉 十一面観音 ―松倉山大権現
 二十七番 袋 千手観音 ―勢至観音菩薩
 三十一番 居土 十一番 ―千手観音

 注目すべきは、このころ六番湯舟、七番北浮田、八番日照田、十一番下相野、十二番蓮川、十四番尾別、十五番薄市、十六番今泉、十八番小泊、二十四番入内が、すべて「飛竜大権現」を祭神とし、「飛竜宮」と称していることである。また、十三番川倉は「飛竜三社大権現」と呼ばれていた。「宮」は神社である。
 「飛竜宮」という名が生まれたのは、寛政年間(1789―1801年)と見られる。享和3年(1803年)、藩庁が調査した『寺社分限帳』に湯舟、北浮田、日照田、尾別、薄市、小泊などが、すでに「飛竜宮」として記録されているからである。もっとも蓮川、下相野、今泉、入内はこのとき、まだ「観音堂」であった。
 「飛竜権現」なる“神”については、いま忘れ去られてしまっている。しかし、「飛竜権現」すなわち「那智(なち)滝宮(たきのみや)観音」の異名が訛(なま)ったものなのである。
 “那智観音”は「熊野信仰」で名高い熊野三山の一つ、那智山青岸渡寺(西国霊場一番)滝宮に祭られる千手観音。美しい那智滝がそばにあり、その崇高幽玄な景観を観音の化身とみた。「瀑布信仰」にちなみ「飛竜権現」とも呼ばれたのである。
 工藤白竜「津軽俗説選」は「“国尽万葉記”紀州巻に、熊野権現、本地あみだ、飛竜権現、本地千手観音とあり。熊野、飛竜二社なり」と述べている。
 また、『津軽一統志』首巻と『新岡累代記』には、那智山袋宮寺(天台宗、熊野権現、弘前)縁起があって、はじめは「飛竜山東福院」と称し、祭神は「熊野三所大神宮のうち、飛竜大権現」であったという。戦国時代すでに、サンズイがとれていたのである。那智山にゆかりして、袋宮寺は最初、津軽霊場一番に選ばれている。

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