津軽三十三霊場

 

五番 巌鬼山神社(十腰内)

2007/10/10 水曜日

 

楽しい旅が出来るはず―とツアーの説明をしてくれた成田部長(右)

境内左側に2本の大杉が並んで立っている。圧倒されるような高さだ

広大な森に包まれるように巌鬼山神社がある。奥正面が本殿

 弘南バスの「津軽三十三観音霊場めぐり」には運転手さんはもちろん、ガイドさんと先達が乗る。
「ええ、ガイドさんは御詠歌も暗誦できる、霊場に精通している人を用意しています」と成田貢部長。10カ所から12カ所を巡る長い1日。ガイドさんの名調子は旅を楽しくしてくれる。
 旅行代金は、1回当たり、1人7200円。3回目まで参加して、1人21600円。この中には納経帳に押す「集印料」も含んでいる。
 別に納経帳(20000円)、笈摺袖なし(白衣、1800円)、笈摺袖付(2800円)、金剛杖(1000円)なども旅行申し込みの時に予約も出来るようになっている。
 各札所での集印は、先ほどの先達さんが代行してくれる。本来、観音堂にお詣りしたあと、各自がそれぞれに納経帳にご朱印を押すのだが、先達さんが先々を先行して参加者の分を押してくれる仕組みである。集印は各寺院で用意してあるが、1回の集印料は札所によって300円、通常200円となる。これはツアー料金の中に含まれているが、笈摺への集印は別。一カ所200円だとしても三十三所で6600円となるのだから、この辺は初めから頭に入れておいた方がいいだろう。
 ツアーには青森、弘前、黒石、五所川原、平川とほぼ、津軽一円から参加している。「時には40代という方もありますが大半は60代以上ですね。それも8割は女性。ご夫婦もいますが…」と成田部長。
 また、グループで回りたいという人にはマイクロバスも用意出来る。料金の方だが、「詳しくはご相談の上で」ということになるが、1人集印料込みで7200円程度。マイクロバスは補助いすも使って最大21席、15人以上の参加者数が基本料金と見ればいい。「霊場巡りは、3回りというのが、津軽の風習と聞きます。それもあってかリピーターも多いです」。

 

(弘前市十腰内、旧十腰内観音堂)

参るより頼みをかけし十腰内聞きしにまさる古き宮立

 

 十面沢集落から西へ1キロほど入った「観音林」に巌鬼山神社がある。弘前から高杉、十腰内と岩木山を中心にこれから右回りに霊場・札所が続いていく。
 高杉、鬼沢を過ぎたあたりから人家が途切れ始め、周辺はリンゴ園に変わってくる。当地出身の大相撲十両の宝智山ののぼりが、色付いたリンゴ樹と並んではためいている。
「観音林」のバス停を過ぎて、右側に看板が立っている。赤い矢印が薄れていて、「この先1.2キロ」の標示を見て、そのまままっすぐ行ったものだから、また引き返すことになった。看板のある左の細い道を下りると、巌鬼山神社がある。

 

 思わず「おー」と声を上げた。130ヘクタールという広大な神域である。雨上がりということもあってか、杉の参道がさらに緑を濃くしていた。駐車場で、東京から来たという男性2人に会った。「大杉を見に来たんです。東北では最大級の巨木でしょう」。
 県天然記念物に指定されている2本の大杉のことである。周囲9.6メートル、高さ42メートルで日本一ともいわれている。この2人は、自然環境と生活、人間との共生を研究している専門家で、さすがに「日本一」のお墨付きはなかった。
巌鬼山神社は、明治のはじめまでは「十腰内観音堂」と呼ばれていた。今でも、十一面観音像が、大山祗命(おおやまずみのみこと)とともに神殿に安置されている。
 『巌鬼山神社縁起書』によると、恒武帝代の延暦15年(796)に草創された。本尊は巌鬼山大権現―すなわち観世音菩薩である。そして大同2年(807)、蝦夷征討に下向した坂上田村麻呂が霊験を願って、津軽鎮護に祭ったと伝えている。
岩木山は古来から、山自体が神としてあがめられていた。人々は中央・岩木山を阿弥陀如来、南方・鳥海山を薬師如来、北方・巌鬼山を観世音菩薩に見立て、三位一体として信仰した。いわゆる神仏を同一視する“本地垂迹”である。
 巌鬼山観音院は、室町時代・文安5年(1448)、山火事に遭い焼失したが、寛正4年(1463)長見孫太夫が再建した。現宮司・長見恒男氏の祖である。
戦国時代、津軽氏の祖・大浦信濃守光信が信仰し、たびたび参拝した。支配者・南部氏の打倒を目指す光信は、巌鬼山観音に悲願成就を祈願した。
慶長2年(1597)、光信から四代目に当たる津軽為信は、巌鬼山観音院を修復し、仏具を献じるなど興隆に力を注いだ。13年ごとに開帳せしめた例祭には、津軽家紋形(もんぎょう)の幕の使用を許している。
 慶長9年8月17日、為信の長子・宮内大輔信建(のぶたけ)は「津軽郡惣領主」名で、十一面観世音を寄付し、本尊とさせた。さらに青銅製の鰐口、鈴、紋形幕一双も寄進した。鰐口は現存し、この年から巌鬼山観音院は「十腰内観音堂」と呼ばれるようになったのである。
明治維新―、神仏分離令に弘前藩庁は、十腰内観音堂をどう処すべきか悩んだという。津軽家にゆかりが深く、あまりにも信仰者が多い観世音だったからだ。しかし、新政府の厳命であり、十一面観音像と鰐口を百沢寺に納め、堂舎をそのまま神殿として、社号を「巌鬼山神社」とした。明治6年のこと。
 しかし、間もなく百沢寺は廃寺となり、十一面観音像と鰐口を取り戻している。その昔三十三所は、一番から順に巡ると五番・十腰内で夜になる。ここで一泊し、翌朝早朝に旅立つのが習わしだったそうだ。
 集印所は神社右側にある長見宮司宅で。
………………………………………………
六番・湯舟高倉神社は、高杉街道をさらに西へ。大看板を左。この間8キロ。

 

〈交通メモ〉四番・南貞院から約13キロ。徒歩三時間20分。バスは十腰内線か鯵ケ沢線で観音林下車、1.2キロ、徒歩15分。

〈前回から続く〉

 観世音菩薩は“神”にも身を変じ「権現」と呼ばれて神社にも祭られた。権現様というと「熊野権現」「愛宕権現」「山王権現」「東照権現」などが有名であるが、津軽で見ると「岩木山三所権現」「松倉山権現」などとなる。
 「権現」とは如来や菩薩が衆生を済度するために、仮に姿を現す意味であり、観世音だけとは限らない。「岩木山三所大権現」も阿弥陀如来(岩木山)、観世音菩薩(巌鬼山)薬師如来(鳥海山)とされ、岩木山全体がご神体なのである。
 そして仏身権現の由来は、奈良時代から唱えられた“本地垂迹説”に基づいている。
仏教が渡来した時、わが国には皇室の氏神である伊勢神宮など、神祗信仰がすでに存在した。布教が始まると当然、神社側と摩擦が起こった。
これに対して仏教側は神祗崇拝を認め、ただし「本地(根本)は仏であって、神々は仏が垂迹のために化身したものである。すなわち、光明遍照の仏と天照大神は同体である」と説いて、支持を得た。神仏同化への第一歩であり、世にいう本地垂迹説である。
 以後、神社境内に寺院―神宮寺が建てられ、神前読経もなされたし、逆に寺院を守る神社も建立された。八幡神に菩薩号を贈って「八幡大菩薩」とし、神々を権現と呼んで本地たる仏を選定し一体とした。神仏習合であり、神仏混淆である。岩木山三所大権現も、古くからあった山岳信仰に本地垂迹説を結びつけたものという。
「神仏混淆」は天台宗と真言宗に多く、江戸時代まで続いた。ところが仏教を手厚く保護し、神道をその支配下においた徳川幕府が倒れて、明治維新が訪れると、観音をはじめ諸仏は「神仏分離」によって“法難”を受けることになる。
 それはともかく、観世音がもたらす衆生済度はきめ細かく活動的といわれた。その上「現世利益」である。戦乱、貧困、病気に苦しんでいる人々にとって、生きている現世を救う仏様は魅力的であろう。
 そのため「念仏すれば来世には必ず、西方浄土に往生できる」と説く阿弥陀信仰や同じ阿弥陀仏の脇侍であるけれど、観音の「慈悲門」に対して「知恵門」を司り冷厳な感じがする大勢至菩薩をしのいで、親しまれ頼りにもされた。
 民衆は「現在の救い」に強い期待をかけたのである。

∆ページの先頭へ

六番 高倉神社(湯舟)

2007/10/17 水曜日

 

県道入り口から見る秋の岩木山。太宰が言うほど、ここから見る岩木山は醜悪ではない

急な階段が頂上の境内までまっすぐに伸びている。頂上まで登ると杉の木立が切れて、明るくなった

神社を中心にして、集落が点々と広がっている。ここからは集落が一望できる

 こうして岩木山をぐるっと回ってみると、岩木山の山容は少しずつ変わってくる。
 当社刊の「わがふるさと」(船水清著)の弘前・中津軽編には
 ―山容は津軽各地によって当然変わる。そこでどこから眺めるのが正面だとか、どこそこからの姿が一番だとか、口角あわを飛ばすさわぎになる。農村の人たちは
 「おら家のオニヤ(お庭)がら見だお山はエジバン(一番)だ」
と鼻をうごめかす。一杯機嫌で自慢した時など、うっかりこれを否定すると喧嘩になってしまう。 また少し小金がたまると、ツボ(庭園)をつくる趣味の人が多いが、これはもっとひどい。どこからでも岩木山は眺められるのだが、こういう人物たちは、そのツボの前に座敷をつくり、そこで来客をもてなす。そして「どです。おれのツボがらのお山の眺めコ」とくる。
 この時はまず絶賛しなければならない。ご馳走ぶりがちがってくるのである。こういうタイプの人物はやがて政治に手を出し、やがてツボも座敷もなくしてしまう。岩木山を独占しようとした罰かもしれない―と。
 もう一つ、太宰治の小説「津軽」から。
 ―私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容はまるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いという伝説もあるそうだが、米の方はともかくこの北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人の方はどうも、心細いように、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせいかも知れない―。
 鯵ケ沢から見る岩木山はずいぶん、ひどく言われたもんである。

 

    (鯵ケ沢町湯舟、旧湯舟飛竜宮)

 いまの世に神といわれる鬼神石 庭の砂(いさご)も浄土なるらん

 十腰内を過ぎると、空がどんどん明るくなってきた。海はまだ先だが、日本海の匂(にお)いがするような気がする。
 久渡寺―清水観音―求聞寺から、岩木山を軸に右にぐるっと回ってきた。岩木山の形も大きく変わっている。巌鬼山神社から県道を9キロばかり来ると、「六番 湯舟」の大看板が目に入る。
 広い稲田の向こうには樹木に覆われた丘陵が続いている。まるで稲田の海にぽっかり浮いた島のようだ。その山すそにまつわるように湯舟の集落がある。
 集落の中ほどに大鳥居があって「あ、ここか」と気付く。見上げると、石段がまっすぐに境内まで続いている。先日の大風で倒れたものか、雑木が一本参道をふさいでいた。途中、三度ばかり息をついで境内に出た。
 杉木立に囲まれた境内の奥に、板張りの社殿が立っている。どこの札所も一緒だったが、拝殿脇には納札が掛けられている。
 奥院には小堂が4つ。左側から聖観世音菩薩、銑(せん)鉄(てつ)を造る時に出る鉱石のかす「かなくそ石」、高皇産霊命、阿弥陀如来がそれぞれ安置されている。かなくそ石は、小さな鉱(こう)滓(し)2個を人体に似せて積んである。
 その縁起であるが、「寛延巡礼記」に
 昔、此処に鬼神太夫と申す鍛冶、刀を打ち、悪魔を退治つかまつり候。石とならせ給い、観音と祝い奉る。地より生い出給いしゆえ、堂は鞘堂なり。それより奥に、刀打ち給いし湯舟跡あり。
 また「津軽俗説後々拾遺」には
 昔、南郊に剛力の刀鍛冶あり。鬼神太夫と呼べり。湯舟邑、床前邑の二邑は、この刀を打ちし跡なり。鬼沢村の鬼の祠というのは、この太夫の打ちし剣を祀りこめしと。また、古き名鑑に紀の神太夫という作ありと。これを考えれば昔、かかる名鍛冶ありしと見えたり。

 湯舟観音の本尊は鬼神太夫、または紀の太夫という刀工なのである。これはまた、古代津軽に鉄器がもたらされた歴史も伝えているのだ。
 その昔、石器や木製の農具で耕作していた住民にとって、鉄を作り刀剣を生産する鍛冶の存在は一大驚異であったに違いない。鍛冶たちは刀剣のほかに、鍬(すき)などの農具も農民に与えたであろう。こうした先端技術者の存在は、住民の目から見れば神仏に近いものだったろう。
 紀の太夫は都に近い紀伊国から津軽に下って住み着いた人だろうかと思う。
 観世音菩薩は三十三の姿に化身して悩める衆生を救うのだ―といわれる。変身して俗界に現れた姿―が権現である。農民に画期的な生活用具をもたらした鍛冶工を、神仏化する時、鍛冶にゆかりの深い鉱滓を偶像に充てたとしても不思議はないだろう。

 鬼神太夫には別の伝説もある。大蛇・鬼神丸の悲恋物語である。
 岩木山ろくに住む大蛇が刀鍛冶の娘に恋をした。大蛇は鬼神丸という若者に化けて娘をもらいに来た。刀鍛冶は「9日間に刀を十ふり鍛えれば婿にしよう」と答える。鬼神丸は刀十ふりを造ったが、正体を知った刀鍛冶は刀一ふりを隠したので十腰に足りず、若者は娘を得ることなく立ち去った。
 村人たちは後難を恐れ、大蛇を「飛竜観音」として祭ったと伝えている。
 旧記によれば、湯舟観音は寛政(1789―1801)年中ごろから、明治初期に至るまで「飛竜大権現」を祭神とし「飛竜宮」と呼ばれていた。
 明治維新、神社仕分けに際して、湯舟飛竜宮は廃社となり、高倉神社に改められた。もっとも本尊である石仏は、仏像ではなかったので没収は免れ、そのまま神体になったのである。高倉神社はその後、氏子・信者らが聖観音像を加えて現在の形になっている。
 集印所は無人で、鳥居向かいにある。
 ………………………………………………
 七番・北浮田弘誓閣へは2キロ余り。県道へ出て鳴沢駅を目指す。

 

〈交通メモ〉五番・巌鬼山神社からおよそ12キロ。徒歩3時間。

 観世音信仰者たちが抱く願望は、画像や彫像など偶像の表現にも、適切な変化を求め、次々に実現していった―とは以前にも紹介した。
 観自在菩薩像はもともと、聖観音(正観音)像なのであるが、ほかに6種が作り出された。「変化観音」である。聖観音を加えて紹介する。

 

 聖観音 正観音、観自在菩薩
 千手観音 千手千眼観自在菩薩
 十一面観音 大光普照観自在菩薩
 如意輪観音 如意輪観自在菩薩
 不空羂索(けんじゃく)観音 鹿皮(ろくひ)観音、不空羂索観自在菩薩
 馬頭観音 獅子無畏(ししむい)観音、大力持明王(だいりきじみょうおう)、馬頭明王、明王として祀れば「惣染堂(そうぜんどう)」
 准堤(じゅんてい)観音 准胝(じゅんてい)観音、七倶胝仏母(しちぐていぶつも)、天人丈夫観音

 

 通常、聖観音から馬頭観音までを「六観音」と呼んでいる。ただし、不空羂索観音が准堤観音と入れ替わることもあり、両方を入れた時には「七観音」となる。ほかにも「救世(くぜ)観音」があるが、聖徳太子を観自在菩薩として祭ったものであり、聖観音か如意輪観音をもって尊像に代えているといわれる。
 聖観音は穏和で慈愛をたたえた美しい人間の姿である。しかし、十一面観音は十一の顔を持ち、千手千眼観音は文字通り多くの腕と眼を持ってにらみつけている。馬頭観音は頭上に白馬頭をいただき、憤怒(ふんぬ)の形相がすさまじい。
 また如意輪観音、不空羂索観音、准堤観音も多眼多面多臂(たがんためんたひ)であって、人型を超越した「異形変化」である。
 それだけに人間業ではなしえない、不可能を可能とする神秘さと力強さを感じさせ、信頼感をより深めて信仰者たちを満足させたのである。
 観世音は諸仏、諸菩薩の中でも、特に女性的に表現されており、優しく慈愛に満ちた表情や慈母観音、悲母観音と呼ばれていることなどから女性と信じられているが、仏典によれば男性なのである。

∆ページの先頭へ

七番 北浮田弘誓閣(北浮田)

2007/10/24 水曜日

 

鯵ケ沢の浜通りに並ぶ、生干しイカの露店

 

ここから少し奥へ。中央のこんもりと見える森が北浮田観音

北浮田観音堂がある高倉神社入り口。周辺は旧村立鳴沢第一小学校跡地が公園として整備されている

  鯵ケ沢町の名物は―といえば、海岸線にずらりと店が並ぶ「生干しイカ通り」と思っていたら、近年は海沿いの景観と味を集めた観光の町鯵ケ沢になっている。
 北浮田から海岸に真っすぐ向かうと国道101号に出る。海沿いの国道である。生干しのイカを売る店が並んでいる。
 程なく旧道の鯵ケ沢港とは別に、山手に入るバイパスの分岐点が見えてくる。漁港の中にある海の駅「わんど」には、この日の朝に取れたばかりの魚介類や農産物、加工品がそろっている。
 店に入ると「いらっしゃい」という威勢のいい声が掛かる。二階には、ご当地出身の元小結舞の海の化粧まわしやトロフィーなどを展示する鯵ケ沢相撲館があり、ここも結構な人気スポットになっている。
 パンフやチラシをのぞいていたら、面白そうなものを見つけた。「鯵ケ沢ゴンドラで観(み)る 紅葉の岩木山」。
 期間は11月4日までで、運転は午前7時―午後3時。鯵ケ沢スキー場のゴンドラで上り、日本海と秋の岩木山を見るという企画。大人往復1500円、片道1000円。
 さらに鯵ケ沢プリンスホテルのゴンドラ乗車券とランチバイキング、温泉入浴のセット―も魅力的である。
 こちらは大人2400円、子供が1400円。今年の夏は猛暑に見舞われた。紅葉もまた平年よりは少し早いらしい。海と紅葉、ぐるり180度の景観は遠く江戸の時代には見られないものだったに違いない。
 ただ、このごろは海岸沿いの旧道を通ることなく、東側山手を通るバイパスで真っすぐ深浦に向かうのが主流。生干しを売るおばさんも「やっぱり、人通りが少なくなったんたなぁ」と言う。
 今でこそ道路が整備され、車で1時間もかからず深浦から岩崎まで行けるが、秋田まで続く海岸線は、海が荒れると行く手を阻む難所だったろう。

 かかる世に祈りて見れば北浮田 神の恵みも深き身なれば

 湯舟から北浮田の集落は目と鼻の先。湯舟からいったん県道に戻り、少し先の十字路の角が「じょっぱりラーメン」。ここを右に入ると正面がJR五能線鳴沢駅。駅手前を左に行って、踏切を渡ると北浮田の集落道路に入る。道路は左、海に向かって行く。
 潮の香りは薄い。一帯は田んぼに囲まれて稲穂がそよいでいた。道路右側に「七番 北浮田弘誓閣」と書いたヒバの木標が立っているので、見逃さないように。
 狭い道路を右に行くと、小さな十字路があって左側に納経所の佐藤商店がある。この先の高台に高倉神社が祀られ、七番霊場・北浮田弘誓閣が、社殿と並んで建っている。
 石の鳥居をくぐった辺りは、旧小学校跡地で広場になっている。大きなイチョウの木があって、観音堂の後方はちょっとしたがけと杉木立。いかにも集落の人が憩う鎮守の森なんだなと思わせる。
 「寛延巡礼記」によれば、北浮田の観音堂は天和2年(1689年)浮田村庄屋・惣兵衛が創建したという。四代新政時代のこと。寛延4年(1751年、宝暦元年)には堂宇こそ三尺四面と小さいけれど、かやぶきの神楽堂が併設されてあったそうだ。
 北浮田が七番霊場となったのは、寛延年間(1748―51年)からである。それまでの七番は弘前報恩寺にある護摩堂観音。当時、西浜に置かれた霊場は十三番・日照田、十四番追良瀬、十五番深浦の三カ所だけ。当時は十二番・十腰内から日照田へと回っていたという。

 

 北浮田がある鳴沢地区には「戸波城址」が残っている。元中9年(1393年)、甲斐国にいた南部政光が、足利の軍勢に攻められ津軽に落ち延びて戸波城に至った。この城を落とした政光は旗本三十六騎の一人である浮田氏をここに住まわせた。この浮田氏が集落を拓(ひら)いたと伝えられ、北浮田も早くから拓けた所だったようだ。
 鯵ケ沢港が間近い鳴沢地区は、昔上方と蝦夷地を結ぶ津軽の門戸として、江戸時代には駅逓として栄えていた。そのころの札所巡りの善男善女も、山深い鯵ケ沢街道を抜け、鳴沢にたどり着くと明るい海を見つけ、ほっとひと息ついたろう。
 北浮田の観世音菩薩には万病を治す霊験があったと伝えられている。今もある大きなイチョウの木のそばに、清水がコンコンとわき出ていたという。この清水は万病に効いた。このため津軽はもとより南部や北海道からも清水をくみに訪れていた。乳の出ない女性が飲めば、たちどころに乳が出るようになり、目の悪い人が清水で目を洗えば病気が治ったという。
 しかし、今はその霊泉も地上にわき出ていた痕跡はない。
 明治3年、神仏仕分けにより当時「飛竜宮」と呼ばれていた北浮田観音堂は廃社となり高倉神社になった。以来、昭和40年代まで観音堂は存在せず、高倉宮が七番札所として巡拝を受けてきた。
 昭和41年初夏、地区民の手で観音堂が再建された。久渡寺先代住職・高坂智普師が「弘誓閣」と名付け、聖観世音木像も久渡寺から譲り受けている。地域に残る篤(あつ)い観音信仰が悲願を実現したのだ。

 

 帰り、集印所の佐藤商店をのぞいたが留守らしい。入り口のガラス戸には、不在の時は「隣の入り口から入って、自由にご朱印を捺(お)してください」と紙が張ってある。さらにガラス戸の入り口には、雪片付け用のプラスチックのスコップが立て掛けられている。
 「あぁ、これは留守の印か」と合点した。
 茶道の露地に置かれた「関守石」みたいなもんだな―と思った。縄で十字に結んだ関守石は、通行止めの印。この先入るなという約束事である。
 やはりここも、3種のご朱印があって、捺したあとは200円を置いて帰るようになっている。これからの巡拝路はしばらく海岸に沿って、赤石川、追良瀬川を越えて深浦まで行く。

 ………………………………………………
 八番・日照田観音までは12キロ。国道101号線へ出て、赤石川から南へ入る。

 

〈交通メモ〉 六番・湯舟観音から県道に戻って3.5キロ。徒歩50分、車で5分。バスなどの交通機関はなし。

  〈前号から続く〉

 仏教では地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏と10の世界を定めている。地獄界から天上界までは迷いの世界。それを六道、六趣、欲界といい、残る四界が悟りの世界である。
 欲界には男女、雌雄の性別があるが、四界に女性はおらず男性だけが存在する。業障深き女性も仏となれば男性に変ずるという。
 六観世音あるいは七観世音はさらに分化して三十三相となった。
 もともと観音さまは衆生済度のために三十三身に変化するといわれた。上は仏界から魔界、俗界、下は地獄まであらゆる世界、あらゆる階層の老若男女に自由自在に変身できるという。
 この「三十三身」思想が三十三観音を生んだ。これは変化身のそれぞれの姿として、中国の僧が案出したと伝わる。

 

 揚柳観音、龍頭観音、持経観音、円光観音、遊戯観音、白衣観音、蓮臥観音、滝見観音、施薬観音、魚濫観音、徳王観音、水月観音、一葉観音、青頸観音、威徳観音、延命観音、衆宝観音、岩戸観音、能浄観音、阿耨観音、阿麼堤観音、葉衣観音、瑠璃観音、多羅尊観音、蛤蜊観音、六時観音、普悲観音、馬郎婦観音、合掌観音、一如観音、不二観音、持蓮観音、灑水観音―の、三十三観音である。

 

 別名を持つ観音もあって薬王観音(揚柳観音)、白処観音(白衣観音)、無畏観世音菩薩(阿麼堤観音)、被葉衣菩薩(葉衣観音)、香王観音(瑠璃観音)とも呼ばれている。
 また魚濫観音は魚籠を手に商う美女であり、花屋のように柳を持った揚柳観音や滝ばかり見ている滝見観音、1年中遊戯にふける遊戯観音など七観音とは違った表現である。

∆ページの先頭へ

八番 高倉神社(日照田)

2007/10/31 水曜日

 

鳥居脇にある観音像。左側に乳根が垂れるイチョウの古木がある

 

さすがに一気には上れない。息をついで二度ばかり休んだ。階段両側には老杉が並んでいる

階段を上りきったところに社殿がある。境内は山の中腹だけに狭いが、周囲の樹木が神域を思わせる

  西国三十三所に見られるように、観音さまは寺院に安置されている―と思われるが、津軽三十三所は地域の住民がお守りしていることが多いようだ。
 これまでも何度か触れている明治初年の神仏仕分け令によって、地域にあった観音さまの多くがお寺に移されたが、神社や地域の人の手に残ったり、再興したものも多いのだ。
 高倉神社のご朱印を預かる安田商店では、代々この役目を継いでいる。「1年中、必ず誰かがいますから、留守にすることはありません」。ご朱印を預かって三代目。おばあちゃんから受け継いだ奥さんが言う。
 納経を頼んだら、「記帳をお願いします」と言われた。お寺はともかく、ここまでの神社の集印所は無人が多かったものだから、「えっ、記帳ですか」と答えてしまった。
 したがって1年間のお参りの数も、月別のお参りも県外者の数もすべて記帳ノートで分かる。
 ピーク時は年間3200人、このごろは2700―2800人。お参りは4―6月まで各600人余と集中している。季節のいい、農閑期に入ったころである。
 「2月には部落の人が出て雪片付けしますが、ちょうどそんな時のお参りもあります。4月から9月までの1日と15日には、みんなで神社の掃除をしています」
 確かに、神社境内や階段の周囲はきれいに掃き清められた感じがある。鳥居脇には近年建てられたような観音像もある。これらもすべて、ご朱印料を積み立てて整備しているのだろう。
 南に向いた“御嶽”は稲田に囲まれて、まさしく日照田の地名通りである。山峡を通る長い一本道の沢合の集落。長い社殿への階段も、昔は柴を組んで土を盛った粗末なものであったらしい。
 巡礼たちも足を滑らして上る難所といわれたところだった。138段の階段はコンクリート製で、足腰さえ丈夫であれば10分ほどだ。

   (鯵ケ沢町日照田、旧日照田飛竜宮)

 沢山や朝日かがやく日照田を 照らさせ給う観世音かな

 国道101号に出ると、遠くに地平線がかすむ日本海が開けている。朝、水揚げしたばかりのイカが干されて並ぶ生干し通りを過ぎると鯵ケ沢漁港。
 手前で道路は二またに分かれて、右は海岸線を縫って秋田県境まで続く旧国道、左は山側を通る国道バイパス。日照田は赤石川を少しさかのぼったあたり。
 日照田にはバイパス、旧道のいずれでも行けるがバイパスは分かりづらかった。地元の人にバイパスからの道を聞いて、その通り行ったつもりだが、バイパスからの降り口が見つけにくかった。結局は旧道に沿って「黒熊の滝」の看板を目当てに行くと、五能線踏切を過ぎてすぐ山手左に入る。そこが赤石川河口の赤石集落。さらに道なりに行くと、河岸に広く田んぼが開ける日照田に着く。
 逆に、弘前市―西目屋村から西秋林道を抜ける山道を越えると、ここ日照田ということになる。白神山地の山懐に包まれた集落でもある。

 

 日照田から赤石川の対岸に渡ると、戦国時代、津軽氏の祖・大浦信濃守光信が根拠地とした種里城跡がある。今は「光信公の館」として整備され、夏には丹精されたボタンが一斉に花を咲かせ、人気を呼んでいる。さらに赤石川に沿って行くと「熊ノ湯温泉」「黒熊の滝」がある。
 秋日を浴びた日照田の稲田はキラキラと輝いている。「あ、ここだ」。高倉神社はすぐに分かった。田んぼの向こうに“御嶽”と呼ばれる丘陵があって、ふもとに赤い大きな鳥居が建っている。そこから中腹にかけて杉木立が続いていた。
 社殿までは急こう配の階段である。細長く伸びている。鉄の手すりを頼りに138段をフーフー言いながら上った。神殿は一間四方、この中に木像座像の十一面観音が納められている。古仏であり、鎌倉時代以前に彫られたものだろうという。
 大浦光信は種里城を築いたあと、赤石城も築いている。南部氏打倒に燃え戦力を蓄えていた。赤石川流域の水田は光信が指揮して開拓されたと伝えられる。
 日照田十一面観音は大同2年(807年)2月、坂上田村麻呂が創建したという伝説を持っている。さらに開田が進むにつれ、住民が再建したと考えられ、万治2年(1659年)に堂宇建立―の記録もある。
 日照田の観音さまは、屈強な若者に姿を変えて田畑に降り、田植えや稲刈りを手伝ったという。観音さまが手伝うと10日の農作業も5日で終わったというのだ。随分、気さくな観音さまで農民から篤い信仰を集めていたそうだ。津軽三十三所にも初めから加えられており、寛延年間(1748―51年)までは十三番であった。その後の再編で八番札所となっている。
 しかし、明治初年の神仏仕分けで観音像は上納を命じられ、堂舎は高皇産霊尊を祭る高倉神社の神殿にされたのである。もっとも廃仏毀釈の風潮が薄れると、観音信者たちは高倉神社に十一面観音像を安置して八番霊場を再興した。これは仏体没収の際、神官が隠しておいたもので、上納したのは本尊の前に立っていた千手観音像だった。観音さまを守っててきた日照田の反骨である。
 この千手観音は、のちに赤石の曹洞宗・松源寺が引き取って、今も観音堂に安置している。松源寺は日照田観音の納経所になっているが、一方、高倉神社では日照田の安田商店を集印所としている。
 また、高倉神社の鳥居左手に、巨大なイチョウの樹がある。周囲は10メートル余り、見事な乳根が垂れ下がっている。乳根に触ると乳の出がよくなる―という信仰は各地にあるが、ここ日照田もまた多くの婦人が参詣に来る霊場となっている。
 樹齢は分からないが〈寛延巡礼記〉に「宮の内に神木の銀杏の樹あり」と記されていることから、250余年以前から神木として尊ばれた大樹だったことが分かる。

 

 ………………………………………………
 九番、追良瀬見入山観音へは24キロ。国道101号線に戻り海岸線を行く。

 

〈交通メモ〉 七番北浮田から鯵ケ沢町―赤石川―八番日照田観音まで13.4キロ。徒歩3時間20分。

  「三十三霊場」は観世音聖地を巡拝するためにつくられている。
 日本では「西国三十三所」が始まりであり、津軽三十三所もこれにならって定められている。

 

 巡礼、巡拝は宗教あるところ古代から行われ、現代まで続いている。巡拝者たちは聖者や殉教者ゆかりの地を訪れることで誓願の成就や霊験、恩恵を得ることを願い、贖(しょく)罪(ざい)を実現しようと祈願するのである。
 観世音寺院巡拝はインドで発生し、中国へ広まったと言われる。ほとんどが三十三所巡りであって、観自在菩薩が三十三変身するという説により定められたと伝わっている。日本での始まりは奈良時代とされ、宗教らしい伝説がある。

 

 養老2年(718)、大和国泊瀬寺(長谷寺)開山・徳道上人が重病にかかり、死んで地獄へ行った。
 閻(えん)魔(ま)大王に会い、「霊地三十三所を巡拝すれば、観世音菩薩が身を三十三身に分かち、19の説法をなして衆生と縁を結ぶ。そうすれば死んでも地獄に落ちることは決してない。娑婆世界の人々にそれを知らせるように」と教えられ、さらに三十三の宝印をもらって息を吹き返した。
 徳道上人がつくった霊場は平安時代初期、花山法皇によって再興された―と伝わっている。花山法皇は寛和元年(985年)6月23日に突然退位し、仏門に入って法皇となった。
 当時、権勢を極めていた右大臣・藤原兼家との政争に敗れたのである。出家したあと、徳道の宝印を知って、三十三所を巡拝し、1カ寺ごとに歌を一首ずつ奉納した。
 ご詠歌の始まりである。今も行われている納札もこれにならったといわれている。
 もっともこれらは伝説であり、史家は別な見方をしている。

 

(次回へ続く)

∆ページの先頭へ

九番 見入山観音堂(追良瀬)

2007/11/7 水曜日

 

頂上は目の前。観音像の台座には「あと少し」と書いてある。確かに間もなく着いた

 

窟にすっぽり入り込んだような舞台づくりの観音堂。小ぶりだが、険しい岩場の御堂は迫力に満ちている

観音堂手前左、鉄ばしごを上ると、ここ胎内くぐりの不動堂

  津軽三十三所中、九番札所までの霊場としては難所の見入山観音。見上げるような崖(がけ)に、観音堂がすっぽり納まっているのだから、その参道もひと足ひと足踏みしめて上ることになる。
 平らな杉木立を過ぎた辺り、登り口に差し掛かる所に観音像があって、台座に「けっぱれ」と書いてある。「さ、けっぱるが」と、つい独り言が出る。
 険しい分だけ、足元の階段はよく手が入っている。
 丸石をコンクリートで固めてあって、上りやすくなっている。ちょうど、ひと息つこうかと思ったところに、また観音像があって台座に「あと少し」とある。「あぁ、あと少しだ」と力がわいてくる。
 少し行った所で左手に脇道があって、ロープが張ってある。「(旧道)熊が出るかもしれません。通行不能」の看板があった。「熊が出るんじゃ行けないな」。ただロープを張っているだけじゃ入って行く人もいるかもしれない。本当に熊が出るかもしれないし、玄関脇にある「猛犬注意」の張り紙みたいなものかもしれない。
 胎内くぐりの不動堂前辺りに、やはり観音像があって台座に「すぐそこ」とある。「やっと着いたか」と思った。ゆっくり、ゆっくり歩いた私の足でせいぜい20分弱の道のり。額に汗がにじんだぐらいだが、3つの観音像には随分助けられたような気がする。
 信者さんらの寄進によるものなのか、円覚寺が整備したものなのかは知らないが、険しい難所を観音さまに優しく声を掛けられて上ったような、そんな気分である。
 帰りの参道入り口に金剛杖(づえ)を置いて、境内の休憩所に腰を下ろした。
 何でもこの境内は、昭和60年から7、8年の時間と、1千万円の事業費をかけて整備したという。
 険しい見入山観音堂へのお参りも、またここの休憩所に戻ってゆっくり体を休めることができる場にもなっている。

 補陀洛や岸うつ沢は追良瀬の 見入の山にひびく谷川

 日照田観音から国道101号に戻り、バイパスに乗る。あとはひたすら深浦を目指す。長い長い海岸線をたどる一本道。千畳敷から大戸瀬―風合瀬―驫木の集落が点々と続く、俗に言うふんどし町。途中、風合瀬には道の駅「いか焼き村」があり、地域の産品や漁師のおかあさんがつくる昔ながらの加工品もあって多くの人が訪れている。
 追良瀬へは岬の上から、大きくカーブしながら下っていく。ここまで来ると、「もう深浦が近いな」と思う。追良瀬川の手前の角に大きく「見入山観音」の看板がある。ここを左に入って追良瀬川をさかのぼる。

 

 「あぁ、ここだ」。5キロほどで見入山観音堂入り口に着く。広い駐車場の中には、青銅製の観音像と納札堂がある。広場奥にはトイレも整備されている。
 参道脇に地図があった。観音堂がある巌山の案内板には、大きく上がり下がりがあって「これは厳しそうだな」と思わせる。入り口に金剛杖(づえ)が数本置いてあって、良さそうなのを1本借りた。
 杉木立を抜けると急な坂になる。木の根の間に石を詰めた階段をゆっくり上っていく。鉄の手すりを伝い、ブナの幹を支えにして15分ばかり行くと、左側に洞(どう)窟(くつ)が見える。60センチ四方ほどの不動堂があって、人一人がくぐり抜けられるような洞窟がある。「これが、胎内くぐりか」と思ったが、窟(いわや)はくぐらずに今来た道を戻った。
 さらに左の断(だん)崖(がい)を上ると、清水観音堂ほどの高さはないが窟の中に、すっぽりとはめ込むように、観音堂が建てられている。舞台造りの観音堂脇の階段を少し上ると、視界が開けて松原の集落が一望できる。
 少しばかりの賽(さい)銭(せん)をあげ、手を合わせて顔を上げると「カーン、カーン」と鐘の鳴る音がして、思わず辺りを見回した。ここはシナイ山か? オレはモーゼか? と思う間もなく、「12時の時報をお知らせします」という女性の声で、町内放送と知れた。

 

 本堂には如意輪観音、聖観音、地蔵菩薩像が祭られている。本堂前は溶岩のような赤い岩が積み上げられている。いかにも霊場の雰囲気である。
 見入山観音堂は、室町時代初期の康永3年(1344年)に創建されたと伝えられる。明治初年まで古い棟札が残っていて、それを伝える記録があったという。

 人王九十七代光明帝御宇 康永3甲申年8月22日建立
 大壇那藤原氏家 大和国宇多郡神願寺住僧 行円 沙門木食万良九拝

 藩政時代には、深浦円覚寺が寺務を執って山伏の修験場に充て、「飛び地境内」と呼んでいた。見入山観音はこの縁から、今でも円覚寺が納経所となっている。
 津軽霊場としては、最初十四番であり、後に九番に変わっている。「寛延巡礼記」によると、本尊は聖観音であったが、天明6年(1786年)以前から如意輪観音になった。
 小堂宇には毘沙門天、吉祥天、愛染明王、弁財天、不動明王、薬師如来、十二神将、地蔵菩薩などが祭られている。
 明治初年の神仏仕分けでも、見入山観音は純然たる仏堂であり何の影響を受けることもなかったようだ。ただ、大正11年巡礼者たちの灯(とう)明(みょう)の不始末から火災が起き、観音堂を全焼している。しかし、大正13年には再建し従前通りの舞台造りの様式が守られている。
 急な山道は、下りも上る以上に大変だ。丸石を入れて、回りをコンクリートで固めた階段は足元を楽にしているが、金剛杖に支えられてようやく下った。しかし、ここまできた九番の札所の中でも、霊場らしい霊場という感じがした。

 

 

〈交通メモ〉 八番・日照田観音から約35キロ。徒歩で8時間30分。車では45分。

   (前号から続く)

 日本における巡拝は、平安時代中期に起きた「頭陀行」と有名社寺に詣でる「参詣通夜」の流行が先駆けとされる。頭陀行とは一食を乞(こ)うて露宿し、欲望をはらう仏道修行である。参詣通夜は信仰と行楽を兼ねて人気があったらしい。
 時代を経て、全国六十六カ寺を巡り法華経を納めて歩く「六十六部廻国供養」が盛んになった。これを略して「六部」と言った。これに三十三観音信仰が持ち込まれ、その数に合わせた霊場―巡拝地がつくり出され、成立したとみられている。
 平安末期・承安年中(1171―75年)、花山法皇を慕う後白河法皇が、供千余人を従え一斉にご詠歌を唱えさせて、遺蹟である三十三所を巡拝したという。後白河法皇は藤原氏に代わって台頭した武家勢力・平清盛と争い、苦しみ抜いた元天皇である。
 「西国三十三霊場」は西の国(関西)にあるため、そう呼ばれた。紀伊国(和歌山県)那智山を一番とし、美濃国(岐阜県)谷汲山を終番としているが、ほかに大阪府、奈良県、京都府、兵庫県と近畿地方2府5県にまたがっている。

 西国に対して「板東三十三霊場」がある。板東は関東であって、東国を本拠とする鎌倉幕府が東国人の信仰意識を高めようと制定したといわれている。
 一番・相模国(神奈川県)から、三十三番・安房国(千葉県)那古寺まで、埼玉県、東京都、群馬県、栃木県、茨城県といわゆる関八州を巡り歩くのである。
 関東地方にはまた「秩父三十四霊場」もある。一番・妙音寺に始まって三十四番・水潜寺まですべて埼玉県秩父郡にまとまっている。鎌倉幕府を開いた源頼朝が、源空上人に命じて造らせたといわれている。なぜ、三十四所なのか―と思うだろうが、西国三十三所、板東三十三所の霊場と合わせ「百観音」にするためだった―と伝えられている。
 熱心な観音信者は、西国巡拝にとどまらず「百所観音詣(まい)り」と称して関東の霊場を巡り、観自在菩薩の利生を願ったのである。

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5 6 7

当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード