津軽三十三霊場

 

津軽三十三霊場 オープニング

2007/9/5 水曜日

 

笈摺は基本的には袖無しであるが、何種類かあり、札所ごとに朱印を押す
納経帳。用意している寺院によってさまざまだが、三カ所にご朱印が押される
経本、納め札と般若心経の手ぬぐいも用意されている


 津軽に三十三の霊場がつくられたのは藩政時代初期のころである。しかし、誰がつくったのか、いつごろつくったのかは明らかではない。
 津軽三代藩主・土佐守信義の時代との説もあり、四代・越中守信政の時代ともいわれている。
 俗説によると、三代藩主・信義(1619―55年)が、津軽を統一した時の戦没者とその後、郡中開拓で死んだ士民を供養するために、正保2年(1645年)に定めたといわれる。霊場一番札所・護国山久渡寺調べでは、制定者を同じ信義としているが、承応2年(1653年)のことであったと伝えている。
 いずれにしても、霊場三十三カ所を書きとめた資料は残っていない。
 津軽における観音信仰は古くから行われ、藩祖・為信も観音像を持って「陣中持仏」にしたと伝わっている。ただその隆盛期は、いまだ戦国の気風が残っている信義時代から、郡中の開拓が大きく進展した信政時代に士民の間に始まったということだろう。
 江戸時代も50年を経た承応年間(1652―55年)は、天下も太平になじみ、街道往来も便利になっている。この時代、熱心な信者たちが観音信仰の頂点である「西国三十三所」に出掛けるのが大流行している。
 ここ津軽からもおびただしい巡礼者が西国を目指したといわれる。西国巡りは個人的にもあったが、ほとんど「観音講中」が費用を積み立てて、代表数人を送ることが多かった。この中には巡拝の各霊場から土を持ち帰る者もいて、津軽にある観音寺堂から三十三所を選んでこの土を埋め霊場とした。
 遠い西国を巡礼するためには往復100日余りの行程となる。旅費も多大なものとなろう。藩庁にしてみれば、労働力と金銀が領外へ流出することになる。であれば、領内に「霊場」を定め、本霊場の土を踏むことで、ご利益にあずかろうとしたのである。
 民衆が津軽の霊場三十三所を選んだのか、藩庁がこれを制定したのかは不明であるが、これが「津軽三十三霊場」の起源とされている。
 しかし、藩政時代初期に始まった「津軽三十三霊場」札所は、今と大きく違い、城下・弘前とその周辺に多くあった。藩政中期に至り、三十三札所は再編成されて、ほぼ現代に近い形になっている。寛延年間(1748―51年)のこととみられている。

 

 旧津軽領内、約400キロの道のりを行く新企画「津軽三十三霊場」が始まります。陸奥新報社では、昭和40年夏から「津軽三十三霊場」を本紙に掲載し、1冊の本にまとめています。また平成6年7月にも「新・津軽三十三霊場」を本紙に連載しています。団塊世代の大量定年というこの時期を迎えて、四国八十八所巡りなどがまた新たに脚光を浴びているのは、とかく自分を見失いがちな時代に自分の生き方を問い直す旅が、巡礼・巡拝という形になって表れているのかも知れません。いま新たに9月から毎週1回水曜日、来年5月までの9カ月間にわたり一番札所・弘前市の護国山久渡寺から三番札所・同市の観音山普門院まで遍路の旅を連載します。次回、9月12日付け紙面から読者の皆さまと紙面で、藩政時代から350年来続く、津軽の観音信仰の道を歩いてみたいと思います。

 

 お遍路の霊地巡礼は、西国三十三所あるいは四国八十八所がよく知られています。ことに四国遍路は、全行程1400キロ。1200年前の弘法大師・空海の修行の足跡をたどる四国八十八カ寺の旅です。
 マイカーやバスで行く、今どきのお遍路とは違い、当時四国を巡る八十八カ寺の旅は、難行苦行の連続であったと思われます。今もお大師さまと親しまれる弘法大師の旅装束にならって、白衣がお遍路さんのトレードマークとなっています。難行苦行の道の半ばいつ何時、倒れても悔いなし―との決意が白装束の形に表れているようです。
 特に津軽では、袖の無い笈(おい)摺(ずる)に三十三霊場のご朱印を押したものを、家族や自分が逝く時の浄土への旅衣装とする、ゆかしい慣習を今も持っているようです。知人のまだ若いご夫婦の話だが、足腰の弱った母親に代わって、母親と夫婦3人分の笈摺を持って、休日の合間合間ご朱印を受けながら、車で回っている―と聞くと、「なるほど、そうしたものか」と思います。

 

 さて、私たちは巡礼にあたって、どうした準備をすればいいものか。四国巡礼では最低白(びゃく)衣(え)と輪袈裟(わげさ)、金剛杖(こんごうづえ)の3点は用意してほしい―という先達の指導もあるが、津軽三十三霊場一番札所の久渡寺住職・高坂智文さんは「何が必要ということはありませんで、まずお参りするという気持ちでしょう。線香・ろうそくを求めて、お参りすることから遍路は始まるのだと思います」と言います。
 取材に当たって、まず一番札所と三十三番札所の観音山普門院で、その心構えを聞いたのであるが、両寺院ともに同じ答えが返ってきた。ただ、お参りの方々の求めに応じて、遍路用品は支度してあるようです。
 まず笈摺。次に納め札。このお札にはあらかじめ日付、住所、氏名、願い事を書いて、各霊場に納めることになっている。三十三番札所の普門院では、この納め札を巡拝回数により5色に色分けしている。初めての巡拝者は白色。2、3回はピンク、4、5回は赤、そして6、7回は青、8回以上は金色。それぞれが50枚綴(つづ)りになっています。
 さらに般若心経などが書かれた経本。参拝では暗唱できる参拝者も経本を見ながら読経するのが建て前である。そして、お経を納めた証しとして寺名、ご本尊名などを印刷、墨書したものにご朱印をいただく納経帳―などがあります。
 また、岩木山求聞寺では金剛杖、菅笠も置いている。年間、ほぼ1万人のお参りがあるという津軽の霊場である。おおかたは、マイカーや大型バスで乗り付ける団体が多いというが、時には白衣、輪袈裟の「歩き遍路」の姿も見えるといいます。
 四国のように、お遍路さんへの“お接待”もなければ、各寺で受け付けられる筆書も整わないが、青森、浅虫、津軽半島の袰月、三厩、西北五、南黒地域まで旧津軽領を一巡することになる。時にマイカーで時にピクニックがてらに歩いて見るのも楽しいと思う。
 この遍路用品が用意されているのは弘前市では、一番札所の護国山久渡寺、三番札所の岩木山求聞寺、三十三番札所の観音山普門院の三カ寺となっています。
 私たちは、笈摺と納経帳、線香・ろうそくを持って、ごくごく身軽で素朴な津軽遍路の旅としたい。
 ただ、津軽の札所のうち3分の2以上は無住の神社、観音堂となり、ご朱印も民家で預かっている所も多い。私たちは最寄りの交通機関の降り口から霊場までの道順と、ご朱印をいただく集印所の場所、その連絡先まで案内していくことにします。

津軽三十三霊場・札所

一番

久渡寺

聖観音 護国山久渡寺

二番

清水

千手観音 多賀神社

三番

百沢

聖観音 岩木山求聞寺

四番

高杉

聖観音 南貞院聖観音堂

五番

十腰内

十一面観音 巌鬼山神社

六番

湯舟

聖観音 高倉神社

七番

北浮田

聖観音 北浮田弘誓閣

八番

日照田

十一面観音 高倉神社

九番

追良瀬

如意輪観音 見入山観音堂

十番

深浦

十一面観音 春光山円覚寺

十一番

下相野

如意輪観音 高城八幡宮

十二番

蓮川

聖観音 蓮川観音堂

十三番

川倉

聖観音 川倉芦野堂

十四番

尾別

千手観音 弘誓寺観音堂

十五番

薄市

千手観音 薄市観音堂

十六番

今泉

千手観音 今泉観音堂

十七番

相内

聖観音 春日内観音堂

十八番

小泊

聖観音 海満寺観音堂

十九番

三厩

聖観音 義経寺観音堂

二十番

今別

十一面観音 高野山観音堂

二十一番

袰月

聖観音 鬼泊巌屋観音堂

二十二番

青森

聖観音 正覚寺観音堂

二十三番

浅虫

如意輪観音 安養山夢宅寺

二十四番

入内

聖観音 入内観音堂

二十五番

松倉

馬頭観音 松倉観音堂

二十六番

黒石

十一面観音 宝巌山法眼寺

二十七番

三十三観 白山姫神社

二十八番

広船

千手観音 広船観音堂

二十九番

沖館

十一面観音 沖館観音堂

三十番

大光寺

聖観音 大光寺慈照閣

三十一番

居土

千手観音 居土普門堂

三十二番

苦木

聖観音 苦木観音長谷堂

三十三番

茂森

聖観音 観音山普門院

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一番 聖観音護国山久渡寺(久渡寺)

2007/9/12 水曜日

 

山門前の「こどもの森売店」。中華そばが名物だ

久渡寺の聖観音堂

自衛隊員らが227段の石段を一気に駆け上がっていく

 久渡寺山門の駐車場奥に、茶店風の食堂「こどもの森売店」がある。30年ほど前から同寺で経営していたが、今は人に任せている。
 その当時から久渡寺の「中華そば」は有名で店の人が言うには「昔でいう支那そばの味」だそうだ。今もその味は受け継がれて土日ともなれば、巡礼の方や行楽客らが、焼きおにぎりと中華そばで食事をしている。
 巡礼の方は多いんですか―と聞いたら、「春先からひと月のうちに数十人も来ますね。白衣はどこでそろいますか、とか。何を持ってお参りしたらいいんですか―といったお尋ねが多いですね。やはり一番札所だからでしょうか」。
 それと、お参りの人が多いのは秋仕舞いが済んだころ。ただ、バスの便が悪い。「弘前駅前から朝9時ごろの便が1本ほしいですね。昼前に着いて午後一番のバスで帰りたいんでしょう。おしら様のご祈とうが週1回あるんですが、五所川原市やつがる市など遠くから来る信者さんたちもけっこう多いんですよ。タクシー代もばかになりませんからね」
 ここには自然観察のためのビジターセンターもあって、子供連れの家族の姿も多い。「このごろ目に付くのは、中高年の登山客ですよ。グループやご夫婦なんか、3、4時間かけて、ゆっくり登ってるようです」
 久渡寺山の標高は低いのだが、近年遊歩道も整備されて森林浴も楽しめそうだ。「中には、アルプスや富士山登山をするんだとかで、足慣らしに何回も来る人もいるんです」と、霊場の久渡寺山はいまや、市民の憩いの場所ともなっている。
 取材の途中、自衛隊の隊員20人ばかりが、本堂の石段を駆け上がっていった。
 「あぁ、いつも来てますよ。石段はきついと思いますが、あっという間に姿が見えなくなりますよ」。カメラを持って追いかけたら、はるか上まで行っている。

 一番久渡寺聖観音護国山久渡寺
(弘前市坂元、真言宗観音寺)

 補陀洛(ふだらく)や恵みも深き観世音罪もむくいも晴らす宮立(みやだち)

 津軽三十三霊場巡拝の旅は、ここ久渡寺山から始まる。

 弘前市内の中心部から南へ約10キロ。集落は久渡寺山まで点々と続き、一番札所の久渡寺に突き当たる。わずか標高260メートルとはいいながら、頂上まで樹々に覆われた久渡寺山を目の前にすると、やはり神域に誘い込まれるような気がする。
 途中の集落は、田畑を避けるように道路が微妙にカーブしている。自然の地形に沿っていまも家並みが続いているのだ。
 2、3年前、俳誌「童子」を主宰する辻桃子さんと話をしたことがある。辻さんは、東京を脱して弘前市に、後に藤崎町に住まいしている人でもある。
 「久渡寺に向かう集落があるでしょう。あそこはいいわよ。旧盆のころ、石垣があって土蔵が続くあの辺りへ行くと、道路の前で迎え火が燃えているのよ。目の前を黒い山がさえぎって、夕闇のなかに燃える火を見ていると遠い遠い日本の風景の中にいるような気がするわ」
 俳人ならではの感性なのかもしれない。

 

 久渡寺は山門前が駐車場。山ろく周辺は、弘前市が「こどもの森」を整備して、自然観察の場になっている。駐車場から山門をくぐると長い石段が続く。
 石段は227段。石段両側の老杉はいつの時代のものか、暑い日差しをさえぎっている。登り切ったところ、中央が聖観音堂と奥の院。左手が本堂。右手が鶴亀延命堂。
 この鶴亀延命堂は、本堂を移築した時に掘り起こされた大石を納めているが、鳥居に飾られたレリーフが目を引く。真っ赤な鳥居の上に、鶴と亀が遊んでいる。
 久渡寺観世音の起源は、延暦年間(782―806)、三千坊の一寺として阿闍羅山(大鰐町)に建立された補陀洛(ふだらく)寺にさかのぼるという。また、久渡寺山は坂上田村麻呂が建てた阿闍羅千坊のひとつともいわれ、その古宮と伝わる跡がいまもある。
 くだって建久2年(1191)、唐僧・円知上人が津軽に来た。阿闍羅三千坊が荒れ果てているのを見て、不動尊を平川市・碇ケ関古懸に、大日尊を大鰐町・蔵館に、当時小沢山といわれていたこの地に観世音を遷(うつ)して、布教の本拠地とした。いま、久渡寺にある聖観音像は、円知が阿闍羅山補陀洛寺から遷座したものであり、寺も最初は「小沢山救度(くど)寺」と称した。
 そして慶長年中(1596―1615)、大浦為信が寺領を寄進し、「護国山観音院」と改称した。津軽一統を志す為信が国を守る山として名を変えたのである。元和元年(1615)、二代藩主信牧が堂舎を再建して、祈願所とした。この時、観音院を「久渡寺」と改めている。
 久渡寺にまつわる暗い史話がある。奥の院から5分ほど山道を行くと国見坂に着く。藩祖為信が親友・盛岡金吾信元を暗殺した場所だという。
 為信は曾祖父を同じくする一族の信元と眼下に広がる津軽野を望み「眼下をすべて支配しよう。その暁にはお前に半分やる」と約束した。そして、2人は協力しあい国盗りに成功したのである。しかし、為信は領地を分かつのを惜しみ、家来・鍛冶仁右衛門を放って信元を暗殺した。
 しかし、盛岡家は廃絶することなく、津軽氏一門として家老・用人職を勤めている。森岡氏(盛岡改め)の知行地は小沢村にあって久渡寺とかかわり深く、同寺が秘蔵する円山応挙作と伝わる「幽霊の絵」は、金吾から五世あとの森岡主膳元徳が奉納し、モデルはその娘であったといわれている。

 

 駐車場は広く、大型バスも駐車可能。トイレは駐車場内と本堂奥にも施設している。売店も久渡寺と近くに2カ所ある。
………………………………………………

〈交通メモ〉 弘前駅からおよそ十キロ、弘前市役所からは八キロ。弘前駅から徒歩で2時間半。車では20分。バスは久渡寺線、終点下車40分。

  二番・清水観音堂へは、アップルロードから白神山地の玄関口となる目屋バイパスを行く

 西国三十三所、板東三十三所、秩父三十四所などのように、わたしたちのふるさと津軽にも観世音菩薩を祭る三十三霊場がある。古来、これらの霊場を巡って、幸せを祈る人も多かった。巡拝、巡礼の信仰の旅である。
 津軽三十三所巡礼は江戸時代初期に始まったと伝わるが、今もなお盛んに行われている。350年の長い歴史を現代も続けているのだ。
 「観音信仰」は釈迦牟尼(釈迦如来、釈尊)が開いた「仏教」信仰の一部であり、同じく「地蔵信仰」などとともに、宗門宗派を超えてなされた“俗信仰”である。
 「人が死ぬと、仏陀である阿弥陀如来が西方極楽浄土で救ってくださるが、現世では慈悲深い菩薩・観音さまがあらゆる不幸から守り、幸福を授ける」と信じられて、当時を生きた人たちには生活をしていく日々の中、重大な心の支えであったようだ。
 また一面、生活規制が厳しかった封建時代、郡中をほぼ自由に歩ける霊場巡りは、他村、他地域の様子を知る数少ない機会でもあった。農業技術や生活情報を交換し合って、暮らしに役立たせる貴重な見聞の機会でもあったわけである。
 さらには郡中を一巡する名所古跡や景勝地にも足を運び、心のあかを落とすレクリエーションの旅も兼ねていた。

 

 「もし無量1100万億の衆生ありて、諸の苦悩を受けんにこの観世音菩薩を聞いて、一心に称名せば観世音菩薩即時にその音声を観じてみな解脱することを得しむ」妙法蓮華経観世音菩薩普門品(観音経)第25

 

 観自在菩薩はその名の通り、いつでもどこでも自在にこの世を移動し、広く民衆を観て救いを求める衆生に手を差し伸べるのだ―とすれば、津軽三十三霊場・400キロの道のりを歩いて、自身の生き方を問い返し、見聞を広め一族の安寧を願うこの霊場巡りの旅そのものが、観音さまの教えともいえるようだ。
 仏の救いを信じて疑わない心と、少しでも暮らしを豊かなものにしようと願う心が、350年という歳月を経てなお、今も根強く続いている要因であると思う。

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二番 千手観音多賀神社(清水)

2007/9/19 水曜日

 

清水観音のご朱印を預かる斎藤さん。子年生まれの一代様とあって各種のお守りも用意している

西目屋バイパスから桜庭に入ると赤い鳥居が目に付く。ここが清水観音

本殿に向かう最後の石段。右側には手洗い場があって、本殿後ろの岩場から流れる清水が引かれている

 おばあちゃんが一人、バイパス脇の畑で火を燃やしていた。その向こうは小高い山で、赤い鳥居から石の階段が見える。その石段の奥、中腹に清水観音がある。
 「こんにちは」と声を掛けたら、にこっと笑って目であいさつを返してくれた「集印所はあそこですか」。鳥居の右隣の家にそれらしい看板があったから、そう聞いた。
 「いつもはオバチャいるだばて、月曜日はデイサービスの日だはで、家サは誰もいねぇよ」。あとは総出の農作業で、昼にならないと誰も帰らないらしい。
 少し話を聞いた。「私(わ)も昔、四国の八十八所巡りしたごともあるばて、もう体いうごと利がねはでまいねな。こごも(清水)昔ど違って、このごろ参詣する人も少なぐなったような気がするな」

 

 神社まで上ったあと、集印所の斎藤正勝さんの家を訪ねた。確かに、おばあさんはデイサービスで家を空けていた。ただ玄関に入る鍵だけは開いていて、お参りの人は自由に入って印を押していくらしい。
 玄関脇には敷布をかぶせた印台があって、3つの印が置いてある。段ボールの箱に「300円」と書いてある。実におおらかなものである。
 「印を預かっているだけで神社のことは何も知らないんです」と斎藤さんは少し申し訳なさそうだった。「オバチャがいれば昔のこともいろいろ分がるんだばてなぁ」と言った。
 この多賀神社はまた子(ね)年生まれの「一代様」でもある。斎藤さんは家の中から、木箱の中を小さく区切ってあるお守り箱を持って来た。
 十数種類もあるようだが、子年生まれのお守りもここで売ってくれる。「300円ぐらいですが、お参りの方が一つ二つと買ってくれます」。農作業から帰り、昼食後にはまた畑に戻る。今度はおばあさんがいる時にゆっくり話を聞きたい。

 わが庵(いお)をはるばるここに清水の流れに浮かぶ法(のり)の月影

 弘前市中心部から12キロ。弘前大学付属病院のある本町を岩木山に向かって行くと城西大橋へ。城西団地を過ぎて進むと岩木川に架かるあかね橋の信号前に出る。橋を渡らずに左折。岩木川に沿って道なりに行くと、信号左方向が弘前市の旧相馬村へ。西目屋バイパスはそのまま直進する。
 ひと昔前は岩木川に沿って旧岩木町の集落を抜け、奥へ奥へと導かれていくような気がしたものだ。
 今はバイパスが開け、弘前市役所から車で20分あれば十分行ける。世界自然遺産白神山地の表玄関として、夏場には県内外の観光客らでにぎわっている。
 西目屋村の手前が多賀神社がある桜庭集落。
 車で行くと道路左側に「二番札所」の大看板が見える。この看板を見逃す人はまずいないだろう―と思える大看板である。その右側の山すそに真っ赤な鳥居がある。「あ、これだな」と気付く。

 

 神社参道で親子連れに会った。「どこからですか」と聞くと、黒石市だという。お母さんは何でも子(ね)年生まれで、清水の観音さまは子年の一代様。「一度来てみたかったんです」と、夏休み中の小学6年生の長男を誘って車でやって来たようだ。
 参道は、はじめはゆったりした石段が続き、さらにコンクリートを敷いた道をしばらく歩く。左手に急な石段が見える。ほーっと息をついで上ると、山の中腹に櫓(やぐら)を組んだ社殿がある。京都・清水寺とは比べようもないのだが、狭い岩場に本殿をのせるためには、こんな舞台造りが必要なのであろう。
 そこからまた石段を上ると櫓の上、ちょうど舞台の辺りにたどり着く。こっちは「フーフー」である。一緒に上ったはずの小学6年生はそのころ、平気な顔で巨岩の間から滴り落ちる岩清水を飲んでいた。
 参道入り口から時間にして、ほぼ15分といったあたりである。

 神社縁起には二説ある。大同2年(807年)の坂上田村麻呂説と行基上人の開基説である。行基説で話を進めたい。

 天平3年(731年)、聖武帝が仏教布教のため諸国へ僧を派遣した。みちのくの果てに来たのが行基上人である。しかし、蝦夷が相手では布教も思うにまかせず、行基上人は目屋辺りに滞在し、千手観音を彫った。
 その観音像を、西目屋村の大高森山にある岩窟(がんくつ)に安置した。すると、すぐ後ろにある老松がボタンのような白い花を咲かせた。蝦夷どもはその霊験に打たれて、信仰の道に入るようになった。と、いかにもありがたそうな一説である。
 この千手観音は明治の初めまでは「花咲き松の観音さま」と呼ばれていたそうだ。岩窟に安置されていることから「岩屋観音」とも、清水が滴り眼下に岩木川の清流が見えることから「清水観音」とも呼ばれていた。
 藩祖為信公から二代、三代藩主が堂宇、鳥居、石段を寄進するなど、手厚く保護してきた。理由は明らかではないが、四代藩主信政の時代に千手観音を高森山から桜庭村に遷座(せんざ)している。この時、いまに見る舞台造りの本堂が増築されたといわれている。また「津軽一統誌」には、万治元年(1660年)に四代藩主信政が供料田として4石3斗3升7合を与えたとある。
 本尊を失った高森山の霊場だが、聖地としての評価は高く、今も番外「目屋岩屋観音」として信仰はあつい。石段を河岸まで下りて行くと、切り立った岩の一角の岩窟に堂宇があって、お参りは絶えない。

 明治3年、清水観音堂は神仏分離令によって、仏像排除を命じられ多賀神社となった。千手観音像は弘前禅林街の桜庭山陽光院に引き取られている。同寺山門に「二番清水観世音桜庭山」の石標が立つ由縁である。

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〈交通メモ〉一番・久渡寺からアップルロードを通り、バイパスに抜けて15キロ。徒歩だと3時間45分、車で25分。

 三番・岩木山求聞寺には、バイパスを戻り途中、国吉から左の山手に入り、岩木山神社を目指す。求聞寺は神社手前右にある。

 

 津軽に観世音菩薩が紹介されたのは、天平年間(739―49年)のことと伝説はいう。大化の改新(大化元年=645年)後に「陸奥国」が設置され、大和朝廷の組織下に入っておよそ100年。まだまだ王化に浴することのない時代である。
 聖武天皇に命じられて諸国に散った僧の一人に行基がいた。道奥に下りはるばる津軽までやって来た。布教に努めたあと目屋(西目屋村)辺りに滞在して千手観音を彫り、蝦夷に霊験を示して去った―と伝わる。―津軽二番霊場・多賀神社の「清水千手観音縁起」伝説である。
 次いで延暦年間(728―807年)、平安京の時代。天台宗、真言宗の僧侶が阿闍羅山に観音寺などを創建したという。不動院(不動明王)、大日坊(大日如来)、補陀洛寺(聖観世音菩薩)の3寺であって「阿闍羅三千坊」と呼ばれ、後世は古懸不動尊(平川市碇ケ関)、蔵館大日堂(大鰐町)、護国山久渡寺(弘前市坂元)になったと伝えられている。しかし、天台宗、真言宗の普及は平安末期から鎌倉期であり、時代的にずれがあるようだ。

 延暦20年(801年)、桓武帝の勅命によって、征夷大将軍・坂上田村麻呂が陸奥に蝦夷を討ち、明くる延暦21年には平定した。
 田村麻呂は津軽阿闍羅山に本陣を置き、そこから岩木山まで峰伝いに千の坊舎を建てた―。「阿闍羅千坊」伝説である。
 千坊はのちの僧坊に似たものであり、信仰の場と兵舎を兼ねていたという。坊舎は一三(五所川原市=旧市浦村)、梵珠山(青森市=旧浪岡町―五所川原市)にも建てられ、合わせて3000になった。いわゆる「津軽三千坊」である。
 田村麻呂は熱心な観音信者であって、京都東山の清水寺を建立したといわれる。津軽においても蝦夷鎮定祈願に重要な坊舎には観音像を安置した。平定後の大同年間(807―10年)にも鎮撫成就を感謝し、戦死者の供養に観音堂を建てたという。
 今、津軽三十三霊場に数えられる寺院・堂舎のも「延暦年中」「大同年中」あるいは「大同2年、田村麻呂建立」と伝わるのが20近くある。ここまでは伝説である。

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三番 岩木山求聞寺(百沢)

2007/9/26 水曜日

 

石段を登った境内にも4体の観音さま。石仏の台座の下に西国三十三所の土砂が埋められてある

本堂に向かう石段。ご主人が足の弱い奥さんを気遣うように待っていてくれる

本堂脇の観音堂(奥)の前に、丑と寅の像。ここ求聞寺は丑寅生まれの一代さまでもある

 本文の中でも触れたが山門から観音堂まで、優しい笑みをたたえた三十三の観音さまが、お参りの人を迎えてくれる。
 西国三十三所から観音講中の方が土砂を持ち帰り、遠い西国まで行けない足腰の弱い人のためにこの土を踏んで、現世利益を願うためのものだ。
 「津軽三十三霊場」のタイトルを書いてもらった画家の山谷芳弘さんは「甲子園の球児たちが、グラウンドの土を郷里の練習場に持ち帰るようなもんですなぁ」と感嘆しきりだった。
 確かに、その通りだなと感じた。
 観音さまは、もともと聖観音(正観音)像なのであるが、信仰者が抱く願望が画像や彫像などに変化を求め、僧侶がこれを受け止めて、次々に形を変えていったのだ―といわれる。
 三十三体の石仏は、石段脇に一番から聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音とそれぞれ姿を変えて、私たちを境内まで誘ってくれる。
何気なく見ていると、お寺にこうした観音像や地蔵像があるのは、いかにも当然と思ってしまうが、こんな風景も中世からの長い歴史を負っているのだと、改めて思わされる。
 「これからが巡拝の季節」。住職の斎藤さん。出来秋を待って、地域の方たちが団体で回ることが多いらしい。「バスやマイクロが主流で、白衣でのお参りも結構目に付きますね」。
 百沢街道の奥は嶽温泉がある。途中の街道沿いには「ダケキミ」を売るテントが並んでいる。秋の一日、ゆっくり嶽高原に遊んだ後、求聞寺へお参りするのも心が洗われる気がする。
 ついでに―と言えば気が引けるが、行楽がてら三十三霊場を訪ね、1年、2年の時間をかけて津軽を巡るのも巡拝の一つの形かもしれない。
 もう一つ、百沢寺という栄華の名残ともいえる岩木山神社と合わせて参拝したい。

(弘前市百沢、本寺真言宗)

 父母(ちちはは)の菩提(ぼだい)を願う百沢寺仏といわれ神といわれん

 目屋街道を国吉まで戻って、郵便局を過ぎた辺りにある高野橋を渡って左に入ると、岩木山麓(ろく)にリンゴ園が広がる。岩木山神社の案内板を頼りに道なりに進むと、間もなく百沢街道交差点。左に入ってすぐ、ガソリンスタンド手前に求聞寺の道標がある。
 旧暦8月1日、今年も岩木山頂を目指すお山参詣が賑(にぎ)やかに行われた。「朔日(ついたち)山(やま)」も今年は4年ぶりにご来光が見え、津軽は豊年の出来秋を待つばかりだ。
 朔日山で賑わった岩木山神社の右、真言宗祈祷(きとう)所・岩木山求聞寺が三番札所。
 しかし、求聞寺が霊場になったのは明治26年に寺堂が再建された時である。それ以前は、岩木山百沢寺が三番札所だった。
 ご詠歌にある「父母の菩提を願う百沢寺…」がそう伝えている。

 

 百沢寺は今の岩木山神社である。ご詠歌にあるように、明治以前は神と仏が仲よく同居していた。それが明治元年発令された「神仏判然令」により、廃仏毀(き)釈の風潮が生まれ、真言宗五山の一つ百沢寺も、あえなく廃寺の運命をたどっている。
百沢寺は延暦10年(791)、坂上田村麻呂が草創。同15年、岩木山観音院定額寺と号して勅願所となった。開山は施暁と伝わっている。当時、遠寺内(とおじない)(十腰内)にあったが延元2年(1337)南西に移されて、岩木山光明院百沢寺と称した。山頂にある石室(奥院)に聖観音、下居宮(おりいのみや)と呼ばれる本院に十一面観音が安置されていた。
 元亀3年(1573=天正元年)6月、津軽為信が伽藍(がらん)を建立している。これは天正9年に焼失したが、二代藩主信牧が再建して、寺禄(ろく)四百石を与えている。その一部が、今も見られる岩木山神社本殿ということになる。
 百沢寺は藩政時代、神社をはるかにしのぐ権勢を誇っていた。百沢寺本堂を中心に左右に宝積坊、西福坊、山本坊、南泉坊、円林坊、東林坊、満福坊、徳蔵坊、法光坊、福寿坊の十坊を従えていた。現在ある岩木山神社の豪華な楼門は百沢寺山門である。二代藩主が建立し、楼上には十一面観音を本尊に五百羅漢を祀(まつ)っていた。
 そして明治3年、岩木山神社が独立。同8年百沢寺が廃寺になると、十一面観音像をはじめ寺宝は散逸した。ただ、十一面観音、聖観音、四天王、仏印、版木、鰐口(わにぐち)などは明治24年、大鰐町の専称院に「阿闍羅堂」として遷され、今も奉安されている。また、弘前市の長勝寺にある五百羅漢も、百沢寺にあったものと伝わっている。

 

 百沢寺の話が長くなった。
 求聞寺もまた由緒は古い。―藩祖為信の死後、三男信牧と長男信建の遺児・大熊が跡目を争い内乱になった。幕府裁断によって、二代藩主は信牧と決まったが家中にしこりが残った。
 信牧はお家安泰、家臣・領民の人心統一を祈って、百沢寺そばの森の中に穴を掘り、求聞持法という荒行を行った。求聞持法は真言宗の修行でも最もつらい秘法であり、「自分の命が10年縮んでもよい」と覚悟し、指1本を1年として10本の指に傷をつけ、血をささげた。祈願が終わって、その場所に「求聞持堂」を建立して女人禁制の霊地にしたと「津軽一統誌」は伝えている。
 堂宇が建てられ優に400年は経(た)つ。百沢街道から入る道は、マイクロバス1台分の細い道。蔵助沢に架かる赤い橋を渡ると、同寺の駐車場がある。本堂への石段の両脇には観音講中の方たちが、西国三十三所から持ち帰った土砂を埋めた跡に建てた、三十三観世音の石像が並んでいる。
 「大正時代に、信者さんが寄進したものと聞いています」と、ご住職の斎藤孝時(たかし)さんは笑顔で答えてくれた。

 ………………………………………………
 四番・南貞院(高杉観音)へは、百沢街道を弘前方向に戻り賀田から北へ折れるか、岩木山一周道路を弥生地区から下る。

〈交通メモ〉二番・多賀神社から国吉に戻り、リンゴ園を縫って約六キロ。徒歩1時間30分。バスはいったん弘前に戻り、百沢・嶽・枯木平行き。あるいはスカイライン行きで岩木山神社前下車。

 前回の津軽の観音伝説はさておいて、史実だけをたぐっていくと、津軽という当時まだ未開の地に観音信仰を含む仏教を伝えたのは、行基上人(法相宗)でも坂上田村麻呂でもなく、実は天台宗と真言宗に属する修験僧群であったと、史家はみている。
 天台宗は最澄(伝教大師)、真言宗は空海(弘法大師)によって、ともに延暦23年(804)に開かれている。この二宗は同じ「密教」であって「実修実行」をむねとした。そのために僧たちは深山幽谷にこもって修行し、北は奥州、南は九州まで渡り歩いた。やがて「山伏」「修験道」と呼ばれるようになる。
 修験道は平安末期の200年間に、全国へほぼ浸透した津軽でも鎌倉時代(1192―1333)初期ごろまでに、修験寺が建てられたとみられている。
 初めての史料としては「乳井福王寺」記録が現れる。弘前市乳井に創建され勢力を持つ修験寺だったが、貞応年間―延応年間(1222―39)に書かれた古文書が残っており、現存する最古の宗教的記録として知られている。
 鎌倉時代を含めて、南北朝時代、室町時代、戦国時代と津軽にあっても豪族が興亡を繰り返している。鎌倉幕府から地頭代に任ぜられた曽我氏を筆頭に工藤氏、安東氏、十三藤原氏、葛西氏、南部一族、そして大浦氏(津軽氏)などである。
 豪族たちは同族繁栄を祈願するため、それぞれ護寺を建立した。観音寺堂もあったであろう。これらは一族とともに盛衰を交互している。
 戦国時代を経て徳川時代となる。やっと天下太平の世が訪れる。ここ奥州郡も開発が急速に進み始める。原野は田畑となり、村落も次々と誕生する。村落の誕生につれ、住民には産土神が必要となった。
 そこで村人の拠金や奉仕、または篤農家によって続々と観音堂などが建てられ、同時に観音講も生まれたであろう。
 こうした信仰心と堂舎の建立、講組織が津軽霊場の母体になったのである。

 

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四番 南貞院聖観音堂(高杉)

2007/10/3 水曜日

 

時間があれば、路線バスを乗り継いで回るのもいいかも知れない

観音堂右側に、この集印所がある。無人で玄関脇にご朱印が並んであって、それぞれ押していくようだ

人家に囲まれた狭い境内に観音堂がポツンと建っている

 津軽三十三霊場巡りを楽しく、短期間で回るのは観光バスだろう―と当たりを付けて弘南バスの観光部に話を聞いた。
 ありました。「津軽三十三観音霊場めぐり」のバスツアー。ここ10年以上、毎年4月から5月にかけて3回に分けてツアーを組んでいる。
残念ながら、このツアー企画は春だけのようだ。応対してくれた同観光部の成田貢部長は「おかげさまで、スタート以来一度も企画割れしたことはないですね」という人気パック。
 募集人員は40人の日帰りコースで、3回で三十三観音を一巡できる。だから、順路も一番から順に回るという訳にはいかない。

 

 1回目が青森―弘前を通り[1]久渡寺―[2]清水―[3]百沢―[4]高杉―[5]十腰内―[6]湯舟―[71]北浮田―[8]日照田―[9]追良瀬―[10]深浦―[11]下相野―[12]蓮川まで。弘前、青森に帰る。これは札所の番号通り。
 2回目が弘前―青森を通り[25]松倉―[13]川倉―[14]尾別―[15]薄市―[16]今泉―[17]相内―[18]小泊―[19]三厩―[20]今別―[21]袰月から青森、弘前へ帰る。
 3回目は弘前、青森を通り[22]青森―[23]浅虫―[24]入内―[26]黒石―[27]袋―[28]広船―[29]沖館―[30]大光寺―[31]居土―[32]苦木―[33]茂森まで。あとは弘前、青森まで帰る。

 

「乗用車を使って、どんなに早く回っても、3日はかかります」と成田部長。この3回の区分けは、最善のコースということになる。何人かが車で回りたい―という時には大いに参考にしたい順路だろう。
 弘南バスでは、春のコースを4月の土曜日に回る3週を1班。5月の日曜日の3週を2班として募集している。パンフレットも用意しているが、詳しくは同観光部(電話 0172-38-2255)まで
 なお、次回はツアー料金や納経帳、金剛杖(こんごうづえ)、白衣(笈摺(おいずる))などの携帯品とバスガイドと行くツアーの楽しみなども紹介したい。

はるばると詣で来る間のわが心名も高杉の森にとどまる

  三番札所の求聞寺からは、いったん弘前方面に戻り、賀田まで行って左に折れると高杉への道に出る。
 弘前市街地からだと、弘前城北門がある亀甲町を西に向かい、信号を右に入って岩木川に架かる富士見橋を渡ると浜の町。あとは道なりに真っすぐ進めば高杉街道。
 敷地の広い農家の街道側に、サワラの生け垣がきれいに刈られているのを見れば、弘前と鯵ケ沢港を結ぶ当時の往還路だったのだと思う。
 四番札所は通りに看板がないから、よくよく注意してほしい。目印は高杉のバス停を過ぎて右側にある交番。この交番の真向かいを左に入ると、50メートルほど先の狭い境内に観音堂が見えてくる。

 

 南貞院が霊場になったのは明治以降であって比較的新しい。しかし高杉観世音そのものは古い歴史を持っている。
ご詠歌は初め、「はるばるとまうで車の宮めぐり名は高杉の宮に残れり」とうたっている。「宮」とは「高杉観音堂」であり、現在の「加茂神社」である。寛延年中(1748―51)に書かれた『津軽三拾三所巡礼』(寛延巡礼記)によると、当時御堂は一間四面、南向きにあって田んぼの中に建っていたという。
 加茂神社は南貞院からさらに300メートルほど行った木立の中。境内には「安政三丙辰年四月十八日正観音稲荷宮顧主小島末吉」と刻まれた碑がある。かつてここは、聖観音堂と稲荷宮が同居する「宮」だったということである。
 その縁起は―大同2年(807)、津軽蝦夷を征圧するため、深浦浜に上陸した坂上田村麻呂の子・花輪丸が、岩木山麓(ろく)・長者森に陣を張って滞留し、ほどなく目的を遂げた。そしてこの地を花輪郡と名付け、郷民と国家守護のために観音堂を創設した―とある。由緒のある古宮として、最初から三十三霊場に加えられ、初めは十一番札所だったが、寛延年中に四番に改められている。

 

 藩政時代の高杉は鼻和庄(はなわのしょう)に属し、弘前と鯵ケ沢港の中継地として栄えた。『じょんから節』にうたわれた「独狐、高杉マグヂの出どご…」とは、高杉街道を行き来する旅人が、この辺りで汚れた草鞋(わらじ)を取り替えたことによる。街道筋にあった茶屋は大いににぎわい、霊場参りも後を絶たなかったと伝えられている。
 明治維新後の神仏分離令は、高杉観音にも大打撃をもたらしている。聖徳太子作と伝わる聖観音像は取り上げられ、残された堂舎は加茂神社となった。
 こうして四番札所はいったん姿を消した。ところが住民の観音信仰は根強く、まもなく観音巡礼が再開されている。
 紫雲山南貞院は、延宝年中(1673―81)、弘前市西福寺(新寺町、貞昌寺末寺)住職の高弟である南貞和尚が開基したという。はじめ、南貞庵と称し場所も近くの天ケ崎にあった。大正年代であろうと言われる。
 この日境内付近には、人一人いなかった。観音堂を見ていると、扉の上に「ご詠歌」の額が打ち付けてあって、ご詠歌の脇になにやら、記号のようなものがある。上に向いた矢印やら「~」と伸びる印が書いてある。「あぁ、これは楽譜だ」と思い当たる。信者さんがこの楽譜を見ながらご詠歌を納めるのだなと思った。

 

 

 近くの家を訪ねて、話を聞こうと2、3軒に声をかけてみた。すぐ近くの外崎秀彦さん(89)が出てきてくれた。「子供のころは、小さな庵寺コがポツンと建っていた。前はこの寺にも若い和尚さんがいだばて、お参りの人の賽(さい)銭だげだば、ながなが生活も出来ねぇおんな」と言う。
 境内右に集印所がある。無人で「自由にお入り下さい」と書いてある。小さいながらも厚い信仰に守られている。
………………………………………………
五番・十腰内巌鬼山神社へは、高杉街道を北西へ12キロ。

〈交通メモ〉三番・岩木山求聞寺から約十三キロ。徒歩3時間15分、車で20分。バスだといったん弘前へ戻り鯵ケ沢―十腰内線で高杉下車。

 観世音菩薩―愛称「観音さま」は、正式な名を「観自在菩薩」と呼び、古くは「光世音」「観世自在」「観自在」ともいった。いずれも人の世を自在に見通すことができる菩薩(尊者)という意味である。
 観自在菩薩ははじめ、阿弥陀如来に従う脇侍として、大勢至菩薩とともに経典(無量寿経)に紹介された。いわゆる「阿弥陀三尊」である。
「如来」とは「仏陀」ともいい仏の名号であって、ありのままの真実(真如)を意味し、仏さまとしては最高位にいるが釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、弥勒如来など、過去・現在・未来や宗門宗派によって数多くある。
 「菩薩」とは釈迦牟尼が出家する前の名であったが、大乗仏教時代にいたって如来(仏)に到達する直前の地位に与えられ、如来の一番弟子であって、仏陀になる資格をそなえた尊者をいうようになった。
 観音、勢至のほか普賢文殊地蔵虚空蔵薬王、薬上宝蔵金光蔵など合わせて二十五菩薩がいる。しかし、あくまでも如来の次に位置する補佐役であり、ほとんどは今もその地位にあるという。
 ところが、観世音菩薩はいつしか阿弥陀三尊から離れ、独立した仏さまと考えられて、阿弥陀仏よりも強く、熱烈に信仰されるようになったのである。
観音さまが信者を多く集めた原因に「現世利益」の思想と旺盛な「行動力」がある。『観音経』によると「観世音菩薩は仏陀になるのを辞退し、人間のあらゆる災難にさいして、信者の前に“普門”し、救済を施すという誓願によって、仏教信者全般に信仰される仏になった」という。また一般には「観音さまは、あらゆるものに化身し、現世において悩める衆生を救う」と信じられていたのである。
 「普門」とは、観音が信者を救うために「種々なる姿」を示現―示し現すことをいう。高徳の僧となって教えをひろめ、武将に身を変えて戦乱を鎮めたり、乳がなく泣き叫ぶ子に母として現れもする。果ては売春婦にまでも身を変えて功徳を尽くすのである。
津軽地方でも鍛冶工に普門して太刀(鋤鍬)を農民に造り与えた伝説が残る湯舟、十腰内や若者に姿を借りて示現し、農作業を手伝う話が日照田などに伝えられている。

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