語り伝える 戦後70年

 

満州で親とはぐれた澁谷東一さん

2015/8/15 土曜日

 

中国大陸で家族とはぐれ、8年間を過ごした澁谷さん。養父母の優しさに今でも感謝していると話す
澁谷さんと母親の感動の再会を伝える当時の「陸奥新報」=1953年8月17日付

 戦前、中国東北部(旧満州)に「満州国」が存在した。中国大陸に勢力を伸ばした日本の影響下にできた国で、多くの邦人が居留していたが、終戦直前にソ連が侵攻。不満を抱えていた漢民族らもこれに呼応し、物量に劣る日本軍は防戦一方で邦人は逃げ惑うばかり。大混乱の最中、澁谷東一さん(73)=弘前市=は家族とはぐれ、大陸で8年間を過ごすこととなった。
 父・長作さんは斜里(北海道)の出身で、目屋で山仕事をしていたが、徴兵を嫌い母・さくらさんと大陸に渡った。ソ連との国境に近い黒竜江省林口県(りんこうけん)の開拓村で澁谷さんは生まれた。3歳の時にソ連軍が侵攻。混乱の中で一緒に逃げていたさくらさんとはぐれ、1人で線路上にいたところを男性鉄道員に助けられ、その一家に育てられた。
 養父の一家は比較的裕福で「国は豊かではなかったが、ひもじい思いもせず、大事に育ててもらった」という。しかし、小学生になると、日本人の血が人生に影響し始めた。「町の人は私をよく知っていて、あれは日本(リーベン)の子というので、学校で居場所がなくなる。それで自分が日本人と自覚した」。
 その後は町から遠く離れた育ての祖父の住む田舎で、畑仕事の手伝いを楽しみに不自由なく育ったが、小4の時に人生の決断を迫られた。「中国政府からこれが引き揚げの最後の機会と連絡が来た。どうするかと聞かれ、やはり実の親に会いたいし、まだ見ぬ日本に行きたい気持ちもあったので、親に会えなければまた戻るという約束で決心した」。ちょうど、養母が“弟”を身ごもった時期でもあった。
 1953年の夏、引き揚げ者ばかり約300人が乗った船で舞鶴に到着。両親も八方手を尽くして愛息を捜しており、まずは長作さんと面会。親子との感触を得た長作さんがさくらさんに連絡し、母子も再会となった。初めて弘前に来た時の思い出はねぷた祭りで、にぎやかな雰囲気に驚いた。
 日本に来てからの苦労が二つあった。1点は言葉で「本来より二つ下の2年生として一大小に入学したが、日本語が分からず、算数以外は駄目だった」。半年間学校に付き添った長作さんと担任教師の助力で徐々に克服。最終的には東奥義塾高校を経て、短大まで進んだ。もう1点は新聞記者の取材攻勢で「子どもが1人で戻ってきたのは、県内初の珍しい話題で、そのころの弘前では有名人だった。地元紙から全国紙まで取材に来て、カメラを持った人を見つけるとすぐ物陰に隠れた」と苦笑しながら振り返る。
 ただ、生きて祖国の地を踏めたことは幸いだった。澁谷さんの姉と妹は大陸で早世しており「考えようによっては、私は取り残され拾われたから生き延びられた」という。さらに「8年で帰ったことは、私と親だけでなく向こうの一家にとっても幸運だった。残っていれば、文化大革命(60~70年代に発生した毛沢東主導の政治闘争、内紛)に巻き込まれ、いじめられたのだから」と推測する。
 文革の嵐が過ぎた後に養父母と再会。旧交を温めるとともに墓参も果たし、自分なりの恩返しをした。今は大陸との縁が薄れたが、今でも本場仕込みのギョーザが得意料理。大陸流に倣って正月、妻の京子さんらに振る舞ったりもする。
 近年、日中関係は冷え込みが続いている。日本の右傾化、中国の覇権国家化などさまざまな原因が取り沙汰されている。澁谷さんは「中国にしてみれば歴史にこだわる部分はあるのだから、今の日本を理解してもらうよう説得を続けるべき。それと、うわべだけのカネの関係でなく、人間と人間同士の信頼関係を構築することも大事だ」と考えている。

◎満州国
 1931(昭和6)年、中国東北部(旧満州)で満州事変が勃発。軍事衝突の末、日本の関東軍が中国軍を破り満州全土を占領した。この地域が「満州国」として独立宣言し、元首に満州族の王朝・清の最後の皇帝溥儀(ふぎ)を据えた。多民族共生を理念としたが、政治的には関東軍の強い影響下にあった。日本敗戦に伴い滅亡したが、その前後にソ連軍が中立条約を破棄し侵攻したため、在留邦人が略奪や暴行に遭い、多くの死者も出た。逃げる途中で親とはぐれた子ども(残留孤児)もいた。

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広島で原爆の光を見た山川学而さん

2015/8/16 日曜日

 

「見える範囲が全て光った。かと思えば辺りが薄暗くなり、まさに天変地異ですよ」と振り返る山川さん

 「とにかく空一面がすごく光った。180度見える範囲が全部ぴかーっと、フラッシュを1万トンたいたんじゃないかというくらい」
 広島県江田島の旧海軍兵学校の生徒だった山川学而(がくじ)さん(86)=元弘前大学教授、弘前市在住=は原爆投下時の様子をこう語る。当時16歳。午前中の課業に出掛けようと宿舎のドアを出て間もなくだった。真正面を向いていた山川さんの目に驚異的な光が飛び込んできた。「一瞬光ったかと思うと辺りが夕方みたく薄暗くなった。屋根に遮られていたから熱さは感じなかった。後で考えてみたら暗くなるはずはないんですがね。要するに網膜がやられたんでしょう」と振り返る。
 江田島は広島市の南、広島湾に浮かぶ島。旧海軍兵学校は同市中心部から直線距離で20キロほどの場所だった。
 整列して教室まで行く間、生徒らはみな何が起きたか分からなかった。授業の合間に山の向こうを見ると白い雲がぽこっと出ていた。数時間ごとに見るたびに雲は少しずつ伸びていて、3、4回目に見た時には灰色のきのこ雲になっていた。
 数日後に教官が広島市内の視察に行ったが、状況が語られることはなかった。終戦を迎えて負けたと知った時は「意外とみんな冷静だった。もう特攻はやらなくていいんだなと気が抜けたような感じもした」。広島を去る際、列車の駅のホームには板塀が作られ、わずかに開いた隙間から見たのは赤茶けた土ばかり。建物らしきものは見えなかった。この時点でほとんどの人に“原爆”という概念すらなく、山川さんは「市内がどんな状況かは分からないまま。あんなに大勢が死んだなんて知らなかった。少なくとも終戦までは原爆という言葉も知らなかった」と記憶している。
 山川さんは現在、弘前市を中心に発行する文芸同人雑誌「瑠璃」で、戦争体験を題材にした自伝的小説「次郎 記憶のシンボリズム」を連載している。戦争を知らない世代が増える中、暗く、つらい内容は歓迎されないのではと創作した部分もあるが、根幹にあるのは事実。「自分の生涯をたどってみたい。書き残さなきゃという気持ちが前からあった」と、2011年11月の創刊号から書き続けている。
 日本が最も軍国主義的だった時代を経験したことで、戦争を知らない世代の考え方に根本的な部分で違いを感じることもあるという。「戦争が大間違いだったことは分かっているが、今もし他国が攻めてきたらひとたまりもない。命を大事にするために、備えなければいけないという面もあるのではないか」と考えている。
 戦後さまざまな時代を経て、70年は長かったと山川さん。「戦後は民主主義がいい国をつくると教えられたが、世の中は貧富の差が固定化してきて、こんなはずではなかったのでは」と訴える。「戦争をどんなふうに若者に伝えていくべきか簡単ではないが、答えが出ないうちに世の中がどうにかなってしまいそうで」と日本の行く末を案じている。

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兄が2・26で刑死した波多江たまさん

2015/8/19 水曜日

 

兄・対馬中尉の写真や手紙を今も保管する100歳の波多江さん。きな臭い時代の再来を懸念している
2・26事件で反乱罪に問われ刑死した対馬勝雄中尉

 日本が日米戦争にのめり込むまでには幾つかの要因があった。陸軍の若手将校が力で国家革新を図った79年前の2・26事件も一因とされる。弘前市に住む波多江たまさん(100)の兄で、陸軍中尉だった対馬勝雄さんは、同事件に関与した者として20代の若さで処刑された。波多江さんは兄の優しさに今でも思いを寄せつつ、誤った教育が過ちの原因になると警告する。
 一家は田舎館村出身で、子どもの高等教育に有利と考え青森市へ移ったが、父親の営む鮮魚店が大火で焼けて没落。きょうだいは同市相馬町のバラックで育った。波多江さんは「とにかく貧乏で、海辺で拾った流木などを干し燃料に使っていた。裸一貫同士が助け合って暮らしていた」と思い出す。
 成績優秀な勝雄さんの進路も、家計の状況に左右された。両親は学費負担を嫌い旧制中学校への進学もためらったが、小学校の先生の懇願に折れた。「母が父の軍服を手縫いで直し(学帽風に)染めた帽子で通った。兄はずいぶん笑われたが『貧乏は苦じゃない』と平気な顔だった」。
 それでも内心では家計への負担を苦にしていた。「学費がただ」といううわさを耳にし、難関の陸軍幼年学校を13歳で受けて合格した。
 幼年学校や士官学校の教育を通じ、勝雄さんは軍人としての意識を深めた。士官学校の校長は強固な尊皇思想の持ち主で、決起将校に影響を与えたとされる真崎甚三郎だった。
 入校後も妹らには優しく、冬休みの帰省時に「奉書で“ひねくれるな、今が辛抱”という意味の歌を渡してくれた」というが、一方で「軍人とは死ぬことなり」の思想が育まれた。父親は長男を失いたくない本音と、身内の戦死を喜ぶべきとする建前のギャップに苦しみ、酒を飲むと荒れた。
 軍人となった勝雄さんは、軍規に厳しいが部下思いだった。「50人を戦地で率い、お金は出すから人数分の栄養のある食料や物資を送ってくれという手紙が届いた。戦死者の実家に香典を贈り、給料は残らなかった」という。部下の大多数は岩手県の農漁村出身。東北では貧しさのために娘が売られた時代に、境遇の近い部下の心に寄り添っていた。
 その兄が2・26事件に参画した。報道管制が敷かれ、波多江さんは「事件直後に新聞に書かれた後は一切情報が出ず、7月7日の号外で死刑と知った。5日間だけ面会を許された」。銃殺刑の後、気持ちの整理がつかない中、頭部に包帯が厚く巻かれた穏やかな顔のまだ温かい遺体と再会した。
 その後、遺族は反乱分子の家族として監視下に置かれた。一般市民との接触も妨げられたが「近所の人たちがいろいろな理由をつけて実家に来て、こっそり励ましてくれたのはありがたかった」。戦後もひっそりと慰霊を続けたが、勝雄さんの思いを後世にとどめたいと、夫らの協力を得て、遺稿などの記録集「邦刀遺文」を24年前に自費出版した。
 決起の背景について波多江さんは「派閥事情で銃を持った人もいると思うが、兄の場合は士官学校から政治の裏側を見て、部下の実家の生活事情も知り、我慢できなくなった」とみる。クーデターの企図は間違いだったと思うが、軍の政争という面が強調されるのにも拒否感が残る。
 戦後70年を経ても、プロレタリア作家の弾圧に反戦演説の糾弾と自由が制限された時代の記憶は鮮明といい、再びそうならないためには人づくりが大切と語る。「教育勅語があって国のために死んでも仕方ないという時代、兄は13歳から軍の空気しか知らず、陛下と国のためにという考えにのめり込んだ。そういう教育は恐ろしい。中学校辺りからの教育は、本当に大切なことだと思う」。

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戦艦「長門」乗組員の故佐々木武美さん

2015/8/20 木曜日

 

佐々木さんが海軍志願兵に合格したことを示す「横須賀鎮守府」の証書
旧日本海軍での壮絶な体験を書き残した故・佐々木武美さん(写真は60代ごろ)

 終戦から70年が経過し、軍隊経験者の多くが鬼籍に入り語り手が減る中、存命中に体験記を残していた人がいる。旧日本海軍を代表する戦艦「長門」の乗員だった藤崎町の佐々木武美さん(2013年、85歳で死去)は、亡くなる3年ほど前に「わが思い出の戦争期」を執筆し、戦地での壮絶な体験を克明に記していた。
 海軍志願の佐々木さんは1943年夏、家族や住民の見送りを背に北常盤駅をたった。横須賀第一海兵団(神奈川県)で訓練を受けた後、海軍通信学校(同)で当時の先端だったレーダー技術を修得した。44年5月、学友と「今度会う時は靖国(神社)で」と誓い合い卒業。敵艦の位置を探る電探(レーダー)を担当する通信兵として長門に乗り込み、南洋へと向かった。
 10月にフィリピン・レイテ沖海戦への出撃が決まった。前夜、灯火管制により暗い艦内で宴(うたげ)が開かれた。上官が「今夜は上官もなにもない。遠慮なくやってくれ。長い間この俺によく仕えてくれた」と言うと、すすり泣きが聞こえた。一同は故郷や家族を思いつつ軍歌や「ラバウル小唄」を歌い、悲しみを抑えて持ち場に戻った。
 勇んで戦闘に臨んだものの、味方艦が次々と沈没・大破。長門も爆撃を受け52人が戦死した。多くの損害を出した揚げ句、指揮官の栗田健男中将が作戦続行を断念し、艦隊は引き返した。
 佐々木さんは夜、南十字星を眺め「何故(なにゆえ)二十(はたち)前に海の藻屑(もくず)と消えなければならないのか。国のため天皇陛下のため、死んで靖国の軍神とは何んだのか」と自問した。遺体は「ばらばらの胴体に適宜見つかった手足を併(あわ)せて一人の屍(しかばね)らしくして」水葬された。
 同年暮れ、艦長から「何時(いつ)死んでもいいように」と3日間の臨時上陸を許された。最後の機会と思いながら家族や友人と交流。青森駅のホームで別れ際に父親の姿を見詰め「先に死ぬ親不孝を許してくれ」と心で泣いた。
 翌45年、戦局は厳しさを増した。決戦場の沖縄県に長門が向かう案もあったが、燃料不足で中止。呉(広島県)から戦艦「大和」が代わりに出撃し、その途上で撃沈された。
 7月、米軍機の編隊が横須賀港を強襲。猛攻を受けた長門は爆音と揺れで「この世のものとは思えない状態」に。電探室では外の様子が分からず、司令室とも連絡がつかなかった。空襲が途切れた後、煙とガスの中で事切れた上官を見つけ「鉄板が頭の肉片に焼付き血に染まっており静かにその鉄板をとって安置所に運んだ」。
 8月15日、甲板に整列して玉音放送を聴いた。乗員の前に歩み出た副長が「皆はそれぞれ職責を立派に果たしてきたが、我が国は遂(つい)に敗れた。(中略)泰然自若として全ての事態に対応しよう」と言ったのに胸を打たれ「生きる喜びが涌(わ)いた」。幾度の死線をくぐり抜けた佐々木さんは「日本復興を故郷で誓う」と、戦後は農業の指導員に転身。農協や種苗会社に勤めスイカ・メロンやニンニクの普及に尽くした。
 最晩年に体験記が残されたことについて長男の孝尚さん(50)=藤崎町=は「父は晩年まで『俺は海軍軍人』と長門乗員だったことを誇りとしていたが、戦争には反対。戦地のきつい話も控えていたが、元気なうちに記憶を残したいと思ったのでは」とみる。そして「全国各地で同じように、第2の人生を故郷復興に尽くした人がいたから、今の日本がある」と確信している。

 

◎戦艦「長門」
 1920年竣(しゅん)工の旧日本海軍の戦艦。現在では知名度の高い戦艦「大和」は、戦時中は存在が秘されており、開戦時、連合艦隊旗艦でもあった長門が一般に最も知られていた。日本の軍艦が次々と米軍に撃沈される中、終戦時まで航行能力を維持したが、戦後は米軍に接収されて原爆実験の標的となり、46年7月、マーシャル諸島・ビキニ環礁に沈んだ。

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山田野地区の戦後70年

2015/8/21 金曜日

 

旧陸軍山田野演習場で唯一現存する旧第9号兵舎。記憶の風化の防止に向けて、さまざまな取り組みが行われている

 鯵ケ沢町を中心とした岩木山麓にかつて広がっていた旧陸軍山田野演習場。北東北最大規模の演習場として知られたが、終戦後は開拓地として一般に解放された。軍事施設から開拓地域へと変貌を遂げた山田野地区。地区の歴史はそのまま「戦後70年」の道のりでもある。その山田野地区も農業を取り巻く環境の厳しさから近年は人口が減少、貴重な「戦争遺産」である旧兵舎も老朽化が進む。それでも新たなコミュニティーづくりや戦争遺産の記憶を風化させない動きが出るなど70年の“その先”に向けた歩みが始まっている。
 約5000ヘクタールという広大な旧演習場は、戦争末期に耕作地に転用され、戦後は元兵士や引き揚げ者などの入植者を受け入れ、開拓地として新たなスタートを切った。入植者は兵舎を住居とし、日中は開拓を行う毎日を過ごしたが、それは困難を極めた。
 戦後間もなく入植した奈良光昭さん(78)によると「土地は硬い石のようだった。くわもあまり良いのがない中、やっとの思いで開拓していた」という。道路は未舗装で、雨が降れば崩れて歩くのが困難になる。耐え切れず土地を去る人も多くいた。それでも耕運機などの導入により、だんだんと開拓も軌道に乗り、入植者が互いに助け合って現在の土地を作り上げてきた。
 1954年の鳴沢小学校山田野分校の建設には、各家庭から協力して資材を持ち寄り、建築を手伝ったという。このような逸話も開拓地区の団結力を物語っている。
 だが分校は2002年に閉校。閉校の話が象徴するように、近年は「農業では採算が取れない」と多くの人が土地を離れ、地区の高齢化も進む。子どものころから地区に住む島田松男さん(59)によると「多い時で100軒近くあった家が、現在は20軒ほど」と嘆く。
 現在、旧演習場の施設として唯一現存している旧第9号兵舎は、47年から東鳴沢中学校(60年統合済み)の校舎として使用され、その後、畜産の隆盛に伴って豚舎としても使われた。現在は農機具小屋になっている。
 時代の移り変わりとともに、用途を変え使われてきたものだが、柱が折れるなど老朽化が激しい。歴史を語り継ぐため、弘前大学や鯵ケ沢町教育委員会の専門家らによる資料収集や聞き取り調査が行われ、同大学出版会から書籍が出版されたほか、町教委と東北工業大学(仙台市)が協力し、昨年から兵舎の本格的な調査も実施。9月には町役場に調査を基にした模型も届くという。
 中田書矢総括学芸員は、「開拓の歴史70年そのものが戦後70年の歴史。風化しつつある地域の記憶を語り継ぐことが求められている」と話した。
 山田野町内会長の八木田正勝さん(68)は3年ほど前から新年会を開くなどして、地域交流の活性化に努めている。東鳴沢中の最後の入学生だけに土地への思い入れは深い。「親の世代が開拓してきた土地。何とか維持させなくては」と言葉に力を込めた。

 

語り伝える 戦後70年・完

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