語り伝える 戦後70年

 

2015/8/11 火曜日

 

 今年は戦後70年の節目の年。戦場はおろか国内外さまざまな場所で、多くの国民が筆舌に尽くしがたい苦痛を受けた。戦争の「語り部」が年々減少する中、体験者や平和の思いを伝えようと活動する人の声を通じ「平和とは」「戦後70年とは」―それが何かを考えたい。

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青森空襲を体験した佐藤きむさん

 

「戦争の当事者に、一方的な被害者は存在しない」と強調する佐藤さん

 終戦間近の1945年7月28日、米軍のB―29爆撃機が青森市上空から大量の焼夷(しょうい)弾を投下。市内は一面の焼け野原となり、大量の死傷者が出た。当時、青森高等女学校の1年生で、堤川近くの自宅で空襲に遭った佐藤きむさん(82)=弘前市在住=は、その時の様子をこう振り返る。
 「月曜の夜、飛行機が飛んできたかと思うと、瞬く間に火の海になった。私たちは隣組のリーダーから『ここは危ない』と言われ、川をぬれながら歩いて山手の方に逃げていった」。焼夷弾の影響で川の水は熱く、三つ上の姉が右足をやけどしたが「一度だけ行った臨時救護所は重症者優先。迷惑になるので、あとは毎日水で洗って治るのを待った」。幸い、姉はその後回復した。
 犠牲者1018人を出した惨劇。佐藤さんの小学校時代の級友2人も落命した。「防空壕(ごう)の効果を信用し、中で蒸し焼きになってしまった人が多かったようだ。ドイツによる(英国本土の)空襲は普通の爆弾で行われたので、英国では防空壕が有効だったのだろうが、米軍は焼夷弾で日本の木造建築を焼き払ったのだから、意味をなさなかった」。空襲後、女学校の日課で畑仕事に行く途中に「道ばたで埋もれた何かを掘っている人から『スコップを貸せ』と言われたこともある」という。こうした記憶は夜、時に悪夢となって頭の中で再生され、30代で生活と仕事が充実する時期まで続いた。
 つらい体験が多かった中、教員から女学生への一種の配慮らしきものもあった。「か弱い子を働かせることがためらわれたらしく、農作業の昼休みはたっぷりとあった。学校への小説の持ち込みは『軟弱だ』と禁止されていたが、山では自由。休み時間に兄や姉が買ってくれた芥川龍之介、菊池寛などを読んでいた」貴重な娯楽の時間だった。水田地帯に囲まれた青森市のためか、東京方面より食糧事情には恵まれ、外米や麦入りながら、おにぎりを食べることができた「おいしくはなかったが東京よりましだった。今思えば大変な暮らしなのだが、当時は惨めと感じなかった」と回顧する。
 自分のことよりも、戦場を体験した元兵員を思いやる気持ちが強いという。「焼夷弾を落とした人は戦後、どうしていたのだろう。戦後になって米国で制作された映画で、米兵が復員後に苦労するという話があった。戦勝国の兵士でさえ戦争のひずみを背負った。復員した私の兄や親戚も表面上穏やかな人生を終えたが、戦争を引きずっていたのでは」と思っている。
 佐藤さんは「戦争をすまいと思えば、たいていのことなら我慢できる」と考えている。最近は戦争体験の語り部の一員として、小学生に記憶を伝える活動にも携わった。戦中派の高齢化が進行し、気掛かりなことがある。「もともと戦争に行った人は戦場の話をしたがらないものだし、世代交代でこのまま語り手の主体が当時の子どもに移れば、自分が被害を受けたという話ばかりが増えるだろう。戦争の当事者に、一方的な加害者・被害者など存在しない。日本が加害者の立場にもあったことを忘れてはいけない」。ひときわ、声に力を込めた。

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青森空襲を記録する会会長・今村修さん

2015/8/12 水曜日

 

「戦争の悲惨さ、人間の生きる力を知ってほしい」と語る今村さん

 東北で最大規模となった青森空襲を風化させないため、資料収集や証言集発行などを続ける「青森空襲を記録する会」空襲から70年の節目を迎え、会長の今村修さん(73)は「空襲体験者は高齢化が進んでいる。戦争を二度と繰り返さないために10年後20年後にどう語り継いでいくかが最大の課題」と話す。
 同会は1980年7月28日、空襲の記録収集、体験者の証言集作成、空襲展開催などを目的に発足。最初の空襲展に向け、米大使館に協力を求めたところ、ワシントンで見つかった写真5枚が米軍三沢基地経由で送られてきた。その後、米国日本大使館に依頼した際は女性職員が個人的に協力してくれたといい、「勤務時間外に米国立公文書館で当時の写真を探してくれた」と振り返る。
 その後も国内外で資料収集を続け、同会が寄贈した資料を受け、青森市は中央市民センター内にある青森空襲資料常設展示室を開設。写真パネルのほか、焼夷(しょうい)弾当時の生活用品などが並び、「青森空襲を知る拠点になってくれればという思いはある。分かりやすい説明資料、説明できるボランティアスタッフの配置など、会として協力できることも考えていきたい」とする。
 もう一つの活動の中心である体験者の証言集は今年、第24号を発行した。「空襲体験者がいる限り発行を続けたい」とする一方、「当事者は年々減っている。今年も何とか発行できたが、体験者の中には『10年後は無理』と話す人も多い。当時小学生だった人も80歳を超え、これからは戦災の記憶がない人が伝えることになる。どう語り継いでいくか、今後10年で考えなければならない」と力を込める。
 現在の会員は約40人で、大半が空襲体験者だ。今村さん自身は当時3歳で記憶にないが、「二度と繰り返さないためには、なぜ戦争が起きたかを知らなければならない」と思いを語る。情報を発信し続ける重要性を指摘し、「子どもたちに伝える工夫も必要。絵本や紙芝居などを作ることも考えているが、人手が足りない面はある」という。
 11日からさくら野青森店で始まった空襲展では、復興していく街並みを記録した写真も数多く並ぶ。「戦争の悲惨さだけでなく、人間の『生きる力』も学んでほしい。戦後の苦しい生活の中、焼け野原から短期間で復興した。若い人たちには街の原点、先人たちの歩みを知り、反省や検証を繰り返しながら青森市が将来進むべき方向を導き出してほしい」と願った。

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軍医見習いだった品川信良さん

2015/8/13 木曜日

 

政府の安保関連法案に反対する集会に参加した品川さん(中央の背広の男性)=7月18日、弘前市内

 関東大震災の起きた1923年に生まれた品川信良さん(92)=弘前市在住=は、青春時代の大半が満州事変以降の「15年戦争」期と重なった。終戦間際には軍医見習いとしての業務で傷痍(しょうい)軍人たちと接した経験があり、当時の世相もつぶさに記憶している。
 出身地である東京の小学校で学んだ品川さんはその後、秋田県に移り、旧制角館中学校に入学。都会との空気の違いを「東京では満州事変に反対する勢力もあったが、軍都だった秋田では政府に疑問を持つ人はまずいなかった」と記憶している。その後、品川さんは医道を志し旧制山形高校から東北帝国大学(宮城県、現東北大)医学部に進んだ。
 41年12月8日、日本は電撃的に真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まった。品川さんは大変なことになったと感じつつも「いかに手打ちをするのだろうかとは思ったが、あんなに長く戦争をやると思わなかった」という。近衛文麿首相の時代、対米戦の展望について海軍の大物・山本五十六大将が「やれと言われれば半年や1年は暴れてみせる。2年、3年となれば全く確信は持てぬ」と近衛に言ったことは有名だが、品川さんは「軍人でもそう言った人がいるほどだから、国民もそのように思っていた」という。
 戦時体制の下では生活全般が統制され「物資が配給制になり、食料や衣類を自由に買えず、どんどん物が足りなくなった。ヤミ(闇取引)で横流し物資が取引された」。靴下1本も粗末にできず、母親が夜に破れた部分を繕っていた。
 戦争末期、医学生は繰り上げ卒業扱いで軍医見習いに従事。品川さんは空襲を逃れるため宮城県鳴子町(当時)の旅館に設置された診療施設にいた。この頃には日本の勝利に疑問を抱いていた。「大本営は勝ってるかのような発表をしていたが、攻め込んでいたのが押し返され、やがて沖縄まで来られたのだからおかしい。それに軍医の仕事をしていると、生粋の軍人は何も言わないが、軍隊の経理担当や軍医との話で大変な状況が分かった」
 45年8月15日、玉音放送に「来るべきものが来た。今晩から空襲が無くなるのか」と安心した。ただ、心から平穏な日々はすぐには訪れなかった。「米軍に特殊な技術を持つ人が連れ去られ、大卒者は戦争犯罪者として去勢されるという流言飛語があった」からだ。やがて、医学生に戻ったが「自分の学年から米国式のインターン制度を導入することになった。住居が確保され小遣いも出るのが本来のインターンだが、自腹で下宿から通わされた。過渡期に当たった人間はひどい目に遭う」と思いが残る。
 今年7月、政府の安全保障関連法案に反対する諸団体の集会に参加した品川さん。雨の中で何十分も立ち続け、参加者のリレートークに力強くこぶしを振り上げ賛意を示した。「今の日本はおかしくなっているよ。戦争前夜もこんなものだった。このままでは死ねない」との一念に突き動かされている。

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中泊で「戦後70年」展を企画した齋藤さん

2015/8/14 金曜日

 

寄贈された戦争関連史料を手に「地域の博物館として地域のもの、情報、記憶を次代に継承していきたい」と語る齋藤さん

 戦後70年がたち戦争体験者の高齢化が進む中、肉声で体験談を聞く機会は少なくなっている。中泊町博物館の学芸員齋藤淳さん(48)=黒石市出身=はこの春、長い間遺族の心のよりどころとして大切に保管されてきた「戦地からの手紙」を中心に、町民から寄贈された、思いの詰まった戦争関連史料などを公開する「戦後70年―近現代の戦争と銃後の暮らし」展を企画した。齋藤さんは「70年余、大事に保管していた手紙に日の目を見せ、当時の中泊町の人たちのリアルタイムな思いを次代に伝えていきたい」と述べた。
 中泊地域の戦没者はフィリピン、中国、満州(中国東北部)など500人以上。その多くが1945年の終戦間際に亡くなった。国勢調査によれば、同町の人口は年々減少傾向が続き2010年までの20年間で約36%減少。高齢化や過疎が進む町で、戦争を語る人や戦争に関わる品を受け継ぐ子孫は少なくなってきている。
 展示品には同町宮野沢出身の陸軍大尉岩田嘉光氏が家族に送った9通の手紙がある。41年に北支(中国北部)派遣後戦地を転々とし大戦で最も無謀といわれた、インパール作戦での数少ない生き残りの一人となったものの、45年2月ビルマ(現ミャンマー)で戦死した。父宛ての手紙では、遠い南の地の暮らしぶりに加え「家で一日位のんびりビールを飲み、野菜を食ひたい心がします」と、故郷を懐かしみかなわぬ思いをつづった。同町の秋山清氏は父親を亡くした幼いおい宛ての手紙で「おとうさんのあとへつづくりつぱなひとになりなさい。おとうさんのかたきわ、おぢちゃんがとつてやります―」と全て平仮名で励ましの言葉を書いた。
 軍事郵便は年間数億通のやりとりがあったと言われている。齋藤さんは「映画など現実ではない世界でしか戦争を感じることのできない世代が増える中、軍事郵便は検閲制度はあるものの、個人のリアルタイムな気持ちを酌み取ることができる貴重な史料」とし、「現代の子どもたちにも読んでほしい。われわれと変わらない日常があり、われわれと変わらない人が戦地で戦い、命を落としている」と訴える。
 企画展では98年の開館以来、齋藤さんがさまざまな思いとともに受け取った戦争関連史料も公開された。
 満州の部隊にいた同町田茂木出身の佐野好忠さんは99年、博物館を一人で訪れ、汗が染みたタオルが入ったままの鉄兜(かぶと)を寄贈。終戦後にシベリアで強制労働した苦労を語った。
 2014年夏、岩手県在住の菊池義男さん=中泊町深郷田出身=は「高齢になったので故郷の博物館に」と、各年式の陸軍の軍服や兵士装備品など約70点にも及ぶコレクションの寄贈を申し出たが、それから約1カ月後、息を引き取った。
 日露戦争戦没者のうち、町内で最も位の高かった、同町深郷田出身の陸軍少尉山田昌男氏の遺品も貴重な品の一つだ。山田少尉は中里小弘前中学校陸軍士官学校を経て陸軍少尉に。日露戦争で中国に出征した。現在名古屋市に住む子孫が、企画展を機に、これまで大切に保管してきた陸軍少尉正装一式など遺品を博物館に託した。
 企画展は今年4月から約2カ月間にわたり、約1500点の史料を展示。小さな町の博物館に例年の倍となる600人が訪れた。町で唯一の学芸員として奮闘する齋藤さんは「当時の地元の暮らしを伝えられる人は数少ない。戦争の悲惨さはもちろんのことだが、地域の博物館として地域のもの、情報、記憶を次代に継承していきたい」と力を込めた。

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