旧市庁舎と旧玉成校の解体を伝える本紙
久一土蔵の消失を報じる本紙

 昭和三十六年の夏といえば、弘前市内から特徴的な建物が姿を消した年といえる。
 まず六月には『姿消す久一の土蔵 寺の付属建物に』の見出し。久一とは、大正時代にかくは・かくみと並び称された三大呉服店。
 上和徳町に大正二年に建設された白壁まばゆい土蔵造りの店舗は、建坪が二百坪を超える間口二十九メートルもの巨大な二階建の豪華版で、四万円の工事費を費やしたという。
 大正十年には、誘客のために電気仕掛けのマネキン人形を先駆けて飾り、お盆や正月の大売り出しには、景品欲しさも相まって、長蛇の列。花嫁衣装の買い付けに訪れた馬車が列を作ったと、往時の語り草になった。
 やがて繁華街が土手町に移ると、下土手町に店舗を移転したが、配給制度によって昭和十九年に廃業。建物は弘前米穀株式会社で買収して利用していた。
 それが、このたび青森に運ばれて再利用されることになったと。
 翌月の紙上には『姿を消す二つの建物 市庁舎と旧玉成校』が。
 市庁舎は元寺町の緑地になっている場所に明治二十三年に建設されたから、この当時でも七十年以上親しまれてきたもの。
 昭和三十四年の旧弘前市の市制施行七十周年を記念して、市庁舎は白銀町に新築され、市立図書館、社会保険出張所、心配ごと相談所などが寄り合い所帯で利用してきた。
 木造のバルコニーが特徴的で、この材料は向かいの田中屋に再利用されているんだね。
 なお、市庁舎の新築に際しては、隣接する公会堂を解体して用地を確保した。公会堂の解体材がどう使われたのかというのもチャンと記事になっていて、さすが郷土の新聞社。
 なんと、六畳と八畳の二間を有する民家になっていたんだねぇ。旦那さんが出稼ぎに行って、行方知れずとなった子連れの家族を支援するため、町会の尽力で家をプレゼント。
 続く旧玉成校とは、明治三十二年に清水村など十一か村の組合が設置した「玉成尋常高等小学校」のこと。
 和徳中学校となり、同校が弘前第一中学校に統合されると、県立中央高等学校の校舎として使用された。
 中央高校のテニスコートの南西脇に、記念碑が建立され、面影を伝えておりまする。
 この一画は弘前藩の家老、大道寺の屋敷で、漢学尞が置かれたし、お向かいの文化センター敷地に、時敏小学校があったのを記憶される方も多いはず。県の合同庁舎はかつて市立女子高校があったからここは文教地区の歴史が長いんだねぇ。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)