写真1 野砲兵第8連隊の営門。今も第三中学校の正面南側に門柱が残っている=明治末期~大正初期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスで閲覧可能)
写真2 富野町時代の旧弘前市立図書館。門前に今では殆ど見かけられなくなった行商人の姿がある=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真3 文京歩道橋から見た桝形の交差点。右上に富野町時代の旧弘前市立図書館が見える=1980(昭和55)年・藤田本太郎さん撮影弘前の散歩みち北方新社、1996年より転載
写真4 騎兵第8連隊の覆馬場を使用していた生活協同組合コープあおもり松原店=2013(平成25)年9月22日・筆者撮影
写真5 覆馬場の煉瓦塀と説明板=2019(令和元)年9月28日・筆者撮影

 ▽師団通り
 土手町から弘前大学、松原方面へ向かう県道127号は、桝形(ますがた)を境に北側が富田大通り、南側が松原通りと称している。しかし、戦前までは師団通りとも呼ばれていた。沿道に第8師団の関係施設が並んでいたからである。
 戦前まで第8師団の関連施設が集中し、軍都と称されてきた弘前市は、敗戦を経て弘前大学を中心に多数の学校が集まる学都として生まれ変わった。師団司令部の敷地は弘前大学農学部(現農学生命科学部)となり、他の師団関係施設も学校の敷地となった。
 桝形の南東に柴田学園高等学校と弘前市立第三中学校が東西に並ぶ。両校の敷地には戦前まで野砲兵第8連隊があった。対岸に位置する弘前市立文京小学校の敷地には、陸軍倉庫と衛戌(えいじゅ)監獄があった。そこから少し南の県立弘前実業高等学校の敷地には、戦前まで歩兵第31連隊があった。桝形の南方に集中する学校施設は、軍都から学都となった弘前市の歴史を象徴する場所なのである。
 第3中学校正門の南側に「野砲兵第八聯隊之跡」と題する石碑がある。1968(昭和43)年に、明治100年と弘前市制施行80年を記念して連隊関係者が建立したものだ。石碑の後ろには連隊時代の営門が残っている。軍都時代を物語る貴重な遺構である。
 ▽旧弘前市立図書館
 弘前大学理工学部と向かい合うように弘前富田郵便局がある。かつて郵便局裏側の住宅街には旧弘前市立図書館の建物があった。06(明治39)年に堀江佐吉の設計と斎藤主(つかさ)らの資金によって、当時の東奥義塾構内(現在の追手門広場)に建てられたものだ。
 図書館は日露戦争の戦勝記念として弘前市に寄付された。31(昭和6)年、東奥義塾校舎の拡張に伴い民間に払い下げられ、富野町に移された。移転に伴い図書館ではなくなったので、建物が実質的に図書館として利用されたのはわずか25年間である。
 富野町に移った旧図書館は、歴代の所有者が下宿や喫茶店として利用してきた。大幅に改築されず、ほぼ原形をとどめ続けてきたことは、この建物が大切にされてきたことを物語っていよう。
 『富野町会史』は旧図書館に関する項目を設け、所有者の思いや記憶を掲載している。旧図書館は富野町に60年近く建っていた。図書館時代の倍以上の時間である。戦前までは畑や空き地の多かった富野町で、3階建ての西洋風建築は大変目立ったと思う。富野町会が建物に相当な敬意を払っていたことは、町会史の記述からうかがえる。
 90(平成2)年、弘前市制施行100周年の記念事業に際し、旧図書館は現在地へと移築復元された。それから30年近く経過したが、現時点で図書館時代を合わせても富野町時代の方が長い。今後、富野町時代の記録を掘り起こす必要があるだろう。
 ▽桝形と文京歩道橋
 桝形は藩政時代の歴史的遺構の一つだが、弘前市内で地名として残され、最も有名なのが弘前大学の南側に位置する富田の桝形である。東西南北へと向かうロータリー的な役割を担っており、交通の要所である。
 67(昭和42)年12月、桝形のすぐ南側の交差点沿いに、第三中学校と文京小学校をつなぐ形で横断歩道橋が設けられた。文京歩道橋と称され、弘前市で最初の歩道橋である。
 文京歩道橋は、青森市の浦町小学校前や八戸市の八戸小学校前に設置された歩道橋と並び、県内では最も早い段階で設置された歩道橋の一つだった。ちなみに浦町小学校前の歩道橋は撤去されて今はない。八戸小学校前の歩道橋は「すずかけのはし」と称され現役だが、小学校自体は移転している。
 ▽遺構の維持活用
 実業高校の南側にも、かつて第8師団の施設があった。現在の生活協同組合コープあおもり松原店の場所にあった騎兵第8連隊である。ここには連隊時代の貴重な建物だった覆馬場(おおいばば)が最近まで残っていた。軍馬の訓練や乗馬の練習のために使われた施設で、煉瓦(れんが)塀の重厚な建物だった。
 建物は生協の松原店が実際に店舗として使用していたが、建築から100年以上が経過。老朽化のために2016(平成28)年に解体された。軍都時代の面影を残す建物が消えたことは非常に残念だが、老朽化した建物の維持には莫大(ばくだい)な費用がかかる。安全面の配慮も必要だ。個人資産の場合、権利関係などで非常に難しい問題も生じてくる。
 それでも生協と有志の協力により、煉瓦塀の一部が説明板と共に敷地内に保存された。看板には覆馬場時代の写真も掲載され、往時をしのぶことができる。新築された生協の松原店も、建物の外壁を煉瓦塀の色にするなど、貴重な遺構に相応の配慮をしている。
 文化財や歴史的遺構を残すには相応の費用と人員が必要である。限られた予算と人員の中でできることには、おのずと制限がある。歴史的遺構の維持や活用には、行政の関与だけでなく、関係者や地域住民の配慮と協力、そして互いに歩み寄る姿勢が求められよう。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)