写真 弘前放送局。弘前市大字馬喰町9番地(弘前刑務所跡地)に置かれた。鉄筋コンクリート平屋建。アンテナ鉄塔の高さは35メートル。
図1 全国放送網建設計画(1926年)。数字は送信出力(単位kW)。円は鉱石検波器による可聴予定範囲。ほぼ全国でラジオが聞こえることになるが、実測するとその範囲は図よりも狭かった(日本放送史・上をもとに筆者作成)
図2 放送局の分布(『日本放送史』年表より筆者作成)
図3 JORG受信機感度地図。電界強度を800kHzに換算したもので、聴取者が受信機を選ぶ参考資料。電界強度が弱いほど高性能の受信機が必要だった。単位mV/m(ミリボルト・メートル)(ラヂオ年鑑1938年版より筆者作成地名は当時のもの)
図4 青森県の受信加入者(実数)
図5 受信加入者数の増。1937年度末を100とした指数。放送局の開局が加入者数を増加させていることがわかる(図4・5は各年の『ラヂオ年鑑』などにより筆者作成)

 ▽全国放送網の建設
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年。東京放送局(コールサインJOAK)が開局し、同年中に大阪(JOBK)・名古屋(JOCK)も開局した。翌年には3局が合同して社団法人日本放送協会(以下協会。NHKの前身)となった。
 当初の受信機(ラジオ)は電源不要でレシーバーで聴く鉱石受信機が多かったが、次第に家族そろってスピーカーで聴ける真空管式が普及した。真空管式には電源となる乾電池か蓄電池が必要だったが、やがて電灯線を電源とする交流式が主流となった。いずれにしても受信するにはアンテナが必要だった。
 協会は全国放送網建設計画を決定した。広島・熊本・仙台・札幌・長野に10キロワット放送局、金沢・弘前・野付牛(のつけうし)(北見)に3キロワット放送局、京都・福岡・青森に演奏所(スタジオ)を建設し、ネットワーク放送を実現しようとするものだった=図1=。
 28(昭和3)年11月、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本間全国中継放送が開始された。しかし、同年3月の金融恐慌による経済悪化で、目標とした30(昭和5)年までの計画達成は困難となった。弘前・野付牛放送局、青森演奏所、一部の中継回線などの建設は中止された。弘前局の開設は29(昭和4)年の第2期全国放送網建設計画に持ち越された。
 ▽弘前放送局の開局
 本県で初めて放送電波が発信されたのは36(昭和11)年5月、青森県電気局(県電)主催の「電気知識普及展覧会」での試験放送だ。会場の青森市公会堂に協会が持ち込んだ35ワット移動放送機を使い、会期中の18日から22日まで実施された。
 開局準備を進めていた弘前放送局は37(昭和12)年10月16日から5日間、県電弘前営業所で「ラヂオ知識普及展覧会」を開催した。展覧会では放送用真空管、擬音(ぎおん)機、透光写真、図表、マイクロホンなどを展示してラジオを宣伝した。青森と同じく、35ワット移動放送機を使った試験放送も公開した。市内では明瞭な放送が受信できたという。
 県電は県人口の9割の地域に電気を供給する公営企業だった。一般家庭では電灯1灯ごとに定額を払う定額制が多く、電化製品を使う家庭は使用料を従量制によって支払った。県電は電気の利用拡大を図るため、交流式ラジオの普及を進めた。ラジオ用電灯料金は昼夜間で月額95銭、夜間のみなら47銭。ちなみに電灯は10ワットで月額52銭、60ワットで1円47銭だった(弘前営業所の場合)=35(昭和10)年9月現在=。
 ▽本放送の開始
 38(昭和13)年2月21日、弘前放送局(JORG。以下RG)が開局し本放送が開始された。午後6時、アナウンサーの「JORG、JORG。みなさまこんばんは。弘前放送局もいよいよ今日から開局します」のコールサインが流れた。市内女学校生徒の国歌斉唱、朝陽小学校児童の独唱、合唱へと番組は進行し、6時55分に終了した。
 周波数は中波の840キロ㌹(当時の単位はキロサイクル)、出力は送信機の完成が遅れたため50ワットで開始。5月29日から300ワットとなり聴取可能地域が広がった=図3=。
 放送時間は4月から10月までは午前6時から午後10時まで、11月から翌年3月までは放送開始が6時30分だった。放送の内容は、(1)報道(気象通報、天気予報、時報、物価・経済市況、ニュースなど)(2)教養(講演、講座、子供の時間、料理献立、ラジオ体操など)(3)慰安・娯楽(和洋音楽、演芸、演劇など)―で、バラエティーに富んでいた。多くは東京・大阪制作の番組で、一部は仙台中央放送局(JOHK)制作の番組だった。RG独自の番組は少なかった。
 ▽受信機(ラジオ)使用は許可制
 ラジオ放送を聴くには、日本放送協会との受信契約と、逓信(ていしん)局の施設許可が必要だった。聴取者は受信機の代金に加え、協会には聴取料、逓信局には許可料を支払う必要があった。
 それでもラジオへの関心は高く、RG開局翌年の39(昭和14)年3月末の弘前市内の百世帯当たり加入数(契約数)は32・1件で、市民の3分の1がラジオを聴くことができた。RGから遠い地域では、感度の良い高価な受信機が必要だった。
 ▽青森放送局の開局
 41(昭和16)年4月17日、青森放送局(JOTG)が開局した。1050キロ㌹、出力は100ワットで、放送時間はRGと同じだった。日中戦争は長期戦となり、政府は国民の戦意昂揚(こうよう)にラジオを利用した。青森市公会堂で行われた記念実演会には流行歌手の岡晴夫と横山郁子が招かれた。横山は「軍国の乙女」「銃後の手」「母と征く」を歌った。題名だけでも時代の雰囲気がうかがえる。
 女学生、児童の合唱で始まったRG開局当時とは社会は大きく変化していた。RG開局の頃は第8師団が中国山西省で優勢に戦いを進めていた。しかし、TGの開局する頃には中国戦線は膠着(こうちゃく)状態となり、国家総動員体制が推進され社会の閉塞感が強まっていた。
 ▽戦争がラジオの普及を促した
 本県で受信機が急速に普及したのは、41(昭和16)年12月のアジア・太平洋戦争開戦後である。42(昭和17)年3月末には弘前市では3分の2、青森市では半数の世帯が受信機を持つようになった。「勝ち戦(いくさ)」の戦果を「大本営発表」で聞きたいという欲求もさることながら、戦争の拡大により日常化した空襲情報を早く知りたいとの思いもあったと思われる。
 普及が進まなかった八戸市や県南地方では、戦時情報・警報伝達のために42(昭和17)年に八戸臨時放送所(出力50ワット)が設置されてから加入数が急速に増加した。
 戦後、50(昭和25)年6月1日の放送法施行に伴い、社団法人日本放送協会は解散し、特殊法人日本放送協会が一切の権利義務を継承した。88(昭和63)年には弘前放送局は弘前放送支局となった。現在はJORGのコールサインは使われていない。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)