写真1 松前街道の面影を残す三厩地区の旧道。写真奥に見える案内標識周辺の建物が三厩本陣跡(現山田商店)。写真手前の空き地が脇本陣跡という=2015(平成27)年9月・筆者撮影
写真2 三厩湊現況。1998(平成10)年8月31日限りで休止された旧東日本フェリーの三厩―福島航路の看板が残る
写真3 「大日本国東山道陸奥州駅路図」から三厩村周辺=1800(寛政12)年作・1810(文化4)年写・青森県立図書館所蔵
写真4 武四郎が松前藩主一行と遭遇した現国道280号赤根沢周辺。道路は改修されたが、現在でも急坂が続く=写真1・3・4は、いずれも2015(平成27)年9月筆者撮影

 ▽松前藩主の参勤交代
 現在の国道280号、青森から三厩(現外ケ浜町)に至る道を、江戸時代は蝦夷地や松前(現北海道)に通じる道として松前街道と呼称した。主要街道である奥州街道や羽州街道(現国道4号・7号に相当)に比べると交通量は少なかったが、近世後期に蝦夷地近海に外国船が頻出するようになると、蝦夷地に向かう幕府や各藩の交通量が増え、重要度が増していった。
 この街道を参勤交代に使う唯一の大名が、現在の北海道にあった松前藩だった。一般的な大名は1年ごとに国元と江戸を往復(2年1勤)するが、遠隔地にあった松前藩は、時期により違いはあるが、3~6年1勤で、1727(享保12)年以降は5年1勤が定着した。松前藩主は津軽海峡を渡り三厩にまず1泊。その後、弘前藩領では平舘(現外ケ浜町)と青森に宿泊している。
 本県域の各街道は東海道などと比べると交通量が少なく、宿場町は発達しなかった。松前藩主が参勤交代する時は、専用の宿屋ではなく、有力町人や農民の家が宿泊所である「本陣」となった。また「脇本陣」と呼ばれる家老級が宿泊する家もあった。
 ▽三厩本陣山田家
 このような本陣役を務めた家で最も有名なのが、三厩の山田家で「松前屋」という屋号を持っていた。その出自や、いつから松前家の本陣を務めていたかははっきりしないが『三厩村史』によると、宝永から享保の頃(1704~35年)までに当地へ転住したのでないか、としている。
 三厩湊は蝦夷地への渡海地となる重要港湾であり、江戸後期には台場や御仮屋(おかりや)(弘前藩主の滞在施設)も置かれた。山田家は三厩湊に面した場所にあり、現在も御子孫が同地で商店を経営している。また、脇本陣は旧丸山旅館の場所にあったが、現在は更地となっている。
 三厩から松前に渡る際、順風待ちのため滞在が数日に及ぶこともあった。例えば、1822(文政5)年には5月21日から29日まで9日間滞在、山田家には藩主章広(あきひろ)親子や側近の藩士が宿泊し、脇本陣には御用人ら、そのほか202人の随行者が村内に分宿した。
 弘前藩も本陣前に「張番役所」を設け昼夜警備に当たった。宿代は家老が350文、一般の藩士は225文で、藩主からは本陣の主人や家族、さらに町奉行や湊目付など藩の役人にも進物をしている(『三厩村史』)。1877(明治10)年頃の三厩村の人口は577人程度だったから、松前藩主一行の宿泊は村を挙げてのイベントだったと言ってよい。
 松前藩主の参勤交代は街道沿いの村々にも大きな負担だった。村々には助郷役(すけごうやく)という人馬の徴発が課せられたが、1830(天保元)年の参勤交代では三厩から宇鉄(うてつ)(現外ケ浜町)の通行だけでも村人ら50人が徴発されている。しかし、外ケ浜一帯は村々の人口が少なく人馬徴発も困難で、農繁期には人手不足を生じるなど支障が生じていた。
 山田家は、このような負担の軽減を求めた外ケ浜の村々の願書を松前藩に取り次ぐなど、藩と村の間に立ち奔走している。当主は自費で松前に渡り交渉、願いは聞き届けられた(山田家文書)。しかし、その後も松前藩主のみならず蝦夷地に渡海する幕府の役人の数が増え、三厩や周辺の村々の負担は増していった。
 北方探検家の松浦武四郎は、1844(弘化元)年に赤根沢(現今別町)周辺で、松前へ帰る松前藩主の一行に遭遇したときの様子を『東海沿海日誌』に記録している。難所のため藩主の駕篭を人足22人で担いでいたが、駄賃は3人分しか出ず、差額は村の持ち出しになっていたという。その後、松前藩主の側室が通過した際は、海岸部の7カ村の男たちが皆人足に出たことを記し、多額の負担を村人に強いることを批判している。
 ▽本陣役と松前家
 三厩以外では、青森は時期により本陣になる家は変遷があり一定しないが、佐藤理右衛門家や滝屋善右衛門家ら町年寄や名主クラスの有力商人が務めていた。盛岡藩領では幕末期には七戸町の浜中幾治郎家などが務めている。
 弘前藩の本陣役の家は、いずれも松前藩との関係が密だったが、近世中期に青森での本陣役を務めた村本四郎左衛門は、松前藩の求めに応じて御用物の買い入れをしたり、弘前城米の松前移送の仲介をしたりしている。また、息子への交代についても松前藩主の同意を得るなど、松前藩の意向は無視できなかった(『新青森市史 通史編二』)。
 三厩の山田家は、1766(明和3)年の大地震で居宅や本陣が破壊された時は、援助米の拝借を松前藩に願い出ている。米の拝借は天保大飢饉(ききん)の際も見られる。このような財政支援は、平舘の岡村五郎兵衛家や青森の村林平兵衛家なども受けている。
 村林家は1845(弘化2)年の青森大火で類焼し、再建費用を松前藩から借用し5年後までに何とか再建することができた。同家はその返礼として松前築城に際して、石垣用の石を献上することを願い出ている(『新青森市史 資料編近世三』)。
 維新期になると、青森から箱館(現函館市)へ直行する蒸気船が運航されるようになり、三厩の繁栄は次第に失われていった。しかし、山田家の古文書は県立郷土館や県立図書館で所蔵され、本陣経営を知る貴重な資料となっている。また、松前藩主の書状も多数所有している。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹・中野渡一耕)