米町通りの雪景 昭和戦前期・青森県史編さん資料
青森警察署から見た青森市街地。警察署は現在の県庁北棟の場所にあった。写真の奥が浜町、大町、米町(いずれも現本町)方面。左の茂みがあるところが善知鳥神社。1915(大正4)年・青森県史編さん資料

 ▽善知鳥村
 現在の青森市は、「昔むかし善知鳥村と呼ばれ、藩政時代にその地に新しい町づくりを行った際に『青森』と名づけられた」と一般に膾炙(かいしゃ)されている。すなわち、青森の旧称が「善知鳥村」であるというのである。
 ところが、この善知鳥(鳴呼(うとう))村という村落の存在証明がなされているかといえば、少々心もとないところがある。それは、善知鳥村に関する史料が決定的に足りないからである。史料解釈の上でも善知鳥村ではなく、近年では「鳴呼(うとう)安潟(やすかた)」という村落が沖館川河口部にあったという説もある(『浪岡町史』第2巻)。
 また、そもそも善知鳥村を青森の旧称であると説く叙述においても、善知鳥村と蜆(しじみ)貝村との中間に青森の町割がなされたというような、矛盾をはらんだ記述もみられる(『青森市の歴史』)。つまり、青森誕生に関わる歴史叙述においては、じっくりと検証すべき事柄が思いのほか多いのである。
 ▽実は誤解
 さて、善知鳥村が地名「青森」の旧称であったという、「青森の歴史」の1ページ目に記されるこの叙述は、実は誤解なのである。藩政時代から伝わる地名伝承は、蜆貝川(現平和公園通り)の河口部を核とした辺りに「青森」と呼ばれた小高い丘があり、これにちなんで新しい町の名前としたというものである。
 もちろん、若干の読み替えはあるが、伝承の基本骨格は変わることなく、「青森縁起」という名称で少なくとも明治30年代まではほぼそのままの姿で市井に伝えられていた。そこには、「善知鳥村」の文言はまったくないのであるすなわち青森の地名伝承には善知鳥村は無関係なのである。
 ▽青森市沿革史
 1909(明治42)年、初めて青森市の歴史を綴(つづ)った『青森市沿革史』が刊行された。編者は旧弘前藩士で藩校稽古館にて教鞭(きょうべん)を執った経験を持つ葛西音弥(かさいおとや)である。葛西は、青森の地名の由緒について「旧記」をよりどころに自説を展開した。
 ここでいう旧記とは、おそらく「青森縁起」であると目される。そして、葛西は「青森」が善知鳥村の湾頭にあると解釈し、それに絡めて善知鳥村が青森と改称されたと説いた。これこそが、善知鳥村が青森の旧称となり、藩政時代以来の地名伝承が書き換えられた瞬間であった。なお、葛西が「青森」の「森」は、木が鬱蒼(うっそう)と茂る私たちが広くイメージする森ではなく、津軽地域の方言から「小丘」と解釈したのは卓見である。
 ▽110年が経過
 こうして、「善知鳥村から青森に」という、歴史学的な根拠をほとんど持たない、書き換えられた伝承が定着することになり、約110年が経過した。善知鳥村そのものの問題はさておき、少なくとも地名青森と善知鳥村とは無縁なのである。また、本紙の昨年11月23日付「津軽の街と風景 37」で紹介した、地名の由緒である「青森」が、これとはやはり無関係の米町にあったという青森山に結びつけられ、まったく異なる場所が現在「『青森』発祥の地」とされている。
 このように、青森誕生にまつわる伝承は、その本来の姿が失われて伝えられ、これまでまったく顧みられないまま市民一般に定着してしまっているのである。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)