師団通り。現在の中野・松原付近で、右側の建物は歩兵第52連隊の兵舎。明治末期~大正初期・青森県史編さん資料
弘前駅から出征する第5聯隊。1931(昭和6)年11月・青森県史編さん資料
満州からの凱旋。歩兵第31聯隊の凱旋を祝う百石町の人びと。1934(昭和9)年頃・高橋勝良さん提供
青森師範学校の校舎となった陸軍武器庫。弘前公園内にあった。1947(昭和22)年・片岡通夫さん提供

 ▽第8師団創設
 羽田空港から青森空港に向かう旅客機が着陸態勢に入るころ、運がよいと津軽平野にそびえる岩木山とその麓に広がる弘前の街を眺めることができる。郊外に街が拡大したとはいえ、弘前城を中心とした城下町の街割りが今でも見て取れる。藩政時代の街並みを残していた弘前市街地の景観を変えた最初の出来事が、1898(明治31)年の陸軍第8師団の創設であった。
 日清戦争に勝利した日本は、満州(中国東北部)の支配権をめぐってロシアと対立した。政府はロシアとの緊張関係を背景に、清国からの賠償金の約6割を軍備拡張費に充てて軍備拡張を進めた。陸軍はこれまでの6個師団(近衛師団を除く)に加え第7から第12までの6師団を増設することとした。その一つが弘前第8師団である。
 ▽軍都弘前の誕生
 陸軍師団は軍隊として必要な施設をすべて備え、単独で戦争を継続できる能力を持つ最小の戦略単位である。兵員は平時でも1万人を超え、戦時には2倍に増強される。第8師団は師団司令部、輜重(しちょう)兵第8大隊、衛戍(えいじゅ)病院・憲兵隊など主要な施設を弘前市富田町に、歩兵第31連隊を中津軽郡千年村(現弘前市)に置いた。ほかに歩兵第5連隊(青森市)や歩兵第17連隊(秋田)、騎兵第8連隊(盛岡)などが第8師団の指揮下にあった。兵士は青森・秋田・岩手の各県から徴兵された。
 弘前市内には富田町を中心に軍事施設、陸軍の納入業者や将兵を顧客とするさまざまな商人の街が形成され、新しい都市空間が出現した。商人の中には仙台市(第2師団所在地)から移ってきたものも少なくない。廃藩置県以来人口が減少していた弘前市は師団の経済力に依拠する「軍都」となり、にぎわいを取り戻した。出動する第8師団の歓送迎や年中行事となった歩兵第31連隊の軍旗祭などを通じて、市民は師団に親しみを抱き、やがて郷土師団と市民は一体化していった。
 ▽海外での戦闘
 第8師団の初陣は日露戦争である。1905(明治38)年1月、奉天(瀋陽)南方の黒溝台会戦でロシア軍と対峙(たいじ)した第8師団は、多大の犠牲を払いながらも東北健児の粘り強さでロシア軍を撃退、奉天会戦での勝利を導いた。その功績で第8師団は「国宝師団」と称されるようになった。第8師団は市民の熱狂的な見送りを受けて、シベリア出兵、満州事変などに出陣し、熱烈な歓迎の下に凱旋(がいせん)した。
 1937(昭和12)年、第8師団は満州に移駐した。これ以後、弘前市内には留守師団や補充部隊のみが配置された。日中戦争では増設師団として第108師団や第36師団が弘前市で編成され大陸に渡っていった
 アジア・太平洋戦争中の1944(昭和19)年8月、第8師団は満州からフィリピンに移動、ルソン島(歩兵第5連隊はレイテ島)でアメリカ軍と死闘を展開した。「永久抗戦」を命じられた将兵は栄養失調に苦しみ、餓死者を続出させながらも戦い続けた。師団長がアメリカ軍に降伏して事実上消滅したのは敗戦後の1945(昭和20)年9月8日のことである。わずかに残った将兵は捕虜収容所に収容された後、日本に復員した。
 ▽軍都から学都へ
 戦争末期になると弘前市には補充部隊が一部残留するのみとなっていた。本土防衛のため新設された第50軍司令部は青森市に置かれた。急造された本土決戦師団は、野辺地町から八戸市にかけての太平洋側に配備されていた。弘前市の軍事的重要性は低下していたのである。
 1945(昭和20)年6月、東京・大阪・名古屋の3大都市を焼き尽くしたアメリカ軍は空襲の対象を中小都市に移した。7月14、15日のアメリカ軍艦載機による空襲で青森市や八戸市、そして大湊町(現むつ市)などが被災し、青函連絡船は壊滅した。28日から29日にかけて、B29爆撃機による空襲で青森市は市街地の8割を焼失し、壊滅的な被害を受けた。
 青森県は空襲に備え弘前、八戸両市の建物強制疎開(撤去)と防火帯設置を決めた。弘前市は強制疎開の実施前に敗戦となり、空襲も受けなかったので、市内の伝統的な街並みや歴史的建造物は失われずにすんだ。
 青森空襲で校舎を失った官立青森師範学校と青森医学専門学校が弘前に移ってきた。青森師範学校は時敏・朝陽両国民学校の校舎を借用して授業を再開した後、弘前城内にあった旧第8師団武器庫に移転した。1949(昭和24)年5月、官立弘前高等学校・青森師範・青森医専を基盤として新制弘前大学が開学した。こうして「軍都」は「学都」に生まれ変わっていった。
 旧第8師団の施設の一部は弘前大学の校舎などに転用されて生き残り、戦後の「学都」を支えてきた。しかし、大学施設の整備が進むにしたがい旧陸軍の施設は次々に取り壊され、戦後70年を経てほとんどが姿を消してしまった。第8師団長官舎(弘前市役所敷地内に移築)、弘前偕行社(かいこうしゃ)(陸軍将校らの親睦・厚生施設。弘前厚生学院記念館・弘前市御幸町)は「軍都」の面影を伝える貴重な遺構である。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)