相内の虫送り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
子どもたちの太刀振り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
灯籠を持つ子どもたち 1669(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
五所川原市藻川の虫送り 2005(平成17)年6月5日・筆者撮影

 ▽無形民俗文化財
 毎年旧暦5月頃の津軽地方では田植え作業が終わり、サナブリといって集落全体で農作業を休む日を迎える。その日に行われてきた行事が虫送りである。これはワラで「ムシ」と呼ばれる蛇体のワラ人形を作り、それを掲げながら、太鼓、笛、鉦(かね)などのにぎやかな囃子(はやし)や、太刀振り踊り、荒馬など芸能も連れ添って集落内を練り歩くもので、最後には村はずれの大きな木や神社の鳥居にムシをかけて終わる行事である。
 虫送りは稲に付く害虫を払うための儀礼だとされてきた。そのルーツとして、近世中期までは藩が「虫除祈祷(むしよけきとう)」と「除札(よけふだ)」(虫除けの御札)を配っていた行事があり、近世後期になると、民衆が独自の虫送りを始め、現在のような習俗へつながっていったことが考えられる。近世の旅行家菅江真澄も、1796(寛政8)年に鯵ケ沢で虫送りの行事を目撃したことを記録している(県立郷土館『東日本の神送り行事』)。
 このような行事は「青森県津軽地方の虫送り」として、2010(平成22)年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。そのなかでも現在、大勢の人々が集まってにぎやかに開催されているのが五所川原市相内の虫送りである。現在の様子を紹介したい。
 ▽相内の虫送り
 相内の虫送りは、相内青年団によって開催されてきた。虫送りの準備として、事前に青年団長名で文書が配布され、団員が各戸を回ってお金と米を集める。毎年6月の第2土曜日がサナブリの時期であり、虫送りの日となる。
 当日は午前中から青年団が青年会館で、長さ5メートルのムシを作り、シトギなどを用意する。団員たちは各村境や用水堰(ぜき)、橋のたもとなどの五カ所に虫札と「倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) 昆虫退散 五穀成就」などと書いた紙の旗を立て、お神酒と灯明、身欠きニシン、菓子などを供えておく。
 午後1時頃、青年会館の準備が終わると祭壇を拝んでから、ムシを台車に乗せた行列が集落内の運行を開始する。ムシの後には荒馬や太刀振りの踊り、太鼓や笛、手平鉦(てひらがね)の囃子、1メートルほどの長さの小さいコムシ、ニシンの切り身やシトギを配る人などが付いてくる。
 途中、各家から酒や漬物、お菓子などが振る舞われると、そこで太刀振りや荒馬を踊る。やがて行列が神明宮に到達すると、ムシを台車から降ろし、境内の木にかける。ムシはこの木の上から一年間、田を見守っているものだという。その後、青年団員たちは神社境内のフキをとり、囃子にあわせて踊る。そして夕方頃まで行事が続く(県民俗文化財等保存活用委員会『津軽・南部の虫送り』)。
 かつてこの行事には、女性や子どもが参加できなかったといい、その代わりとして前夜祭で「ガク」と呼ばれる30センチ四方の灯籠にロウソクを灯(とも)したものを持って歩いたり、昭和40年代に地元小学校が学校行事として太刀振りに参加していたというが、これらの写真はその様子を写したものであろうか。なおこの行事は「相内の虫送り」として、2011(平成23)年に県無形民俗文化財に指定されている。
 ▽虫札を発行
 五所川原市の藻川集落でも虫送りが行われている。その行事の概要は相内のものと似ているが、興味深いのが代々、虫札を発行してきた家があることである。その家の先祖は、かつて夜に岩木川へ入って善光寺様という大石を拾ってきたカミサマ(民間宗教者)であり、虫札の版木を管理してきた(拙論「北五津軽地方における善光寺信仰」)。
 このような虫送りで虫札が配布されている地域として、五所川原市金木、中泊町芦野、旧中里町上高根および深郷田、鶴田町鶴田および石野、旧木造町出精などが確認されている。これらの虫札は虫送りの歴史を考察するうえで貴重な文字史料である。
 しかしこれらの虫札に共通性はなく、それぞれ断片的な宗教的知識が変容したかたちで織り込まれており、それらを分析するにはまだまだ課題が多い。それでもこれらの虫札群は、18世紀半ばに各集落が独自に農耕儀礼を生み出していくなかで発生してきた存在ではないかと推測されている(福眞睦城「北五地域の虫札についての事例報告」)。
 なお五所川原市内では他にも、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などの各集落でもかつて虫送りが行われていたが、衰退したり失われたりしたという伝承があり、その一方で、近隣の虫送り行事の要素をまねして始めたのだ、と語っている地域もある。
 このように津軽地方の虫送りは必ずしも不変の行事ではなく、長い歴史のなかで、中断や再生を繰り返し、さまざまな変化と要素を取り込みながら、現在の習俗を形成してきた状況が考えられるのである。
(青森県史編さん執筆協力員・小山隆秀)