馬場山から見た湯ノ島と浅虫駅(昭和戦前期・青森県史編さん資料)
亀甲浜と潮干狩り(大正中期~昭和戦前期・中園裕提供)
東北帝国大学の浅虫臨海実験所と附属水族館(昭和10年代・中園裕提供)
清遊館の庭園(昭和戦前期・青森県史編さん資料)

 ▽療養の温泉
 明治期の浅虫温泉は気候的に夏涼しく冬暖かいことや、目の前に海が広がり後背には山がある地形の特徴から、静岡県の熱海(あたみ)温泉に似ていると言われた。
 日露戦争後、浅虫温泉は県都青森市から近く、交通至便で転地療養に適した温泉地として紹介された。1909(明治42)年5月からは、第2師団(仙台に師団司令部が設置)と第8師団(弘前に師団司令部が設置)に所属する軍人のため、臨時の浅虫転地療養所が開設されるなど、民間以外にも利用された。
 こうした背景のもとに、浅虫温泉では温泉の効能や周辺の名所などを記載した案内誌を発行している。案内誌が刊行されたことは、浅虫温泉の宣伝にも大いに役立ったと考えられる。
 ▽浅虫八景
 浅虫温泉の宣伝の一つに「浅虫八景」の選定がある。1911(明治44)年、地元新聞社の記者が浅虫を代表する八つの風景を選んだ。夏泊半島を含む八つの風景を題材に、俳句や漢詩が新聞紙面で紹介され、絵葉書も発行された。
 浅虫八景とは、(1)湯ノ島の秋月(しゅうげつ)、(2)稲荷山の夜雨(やう)、(3)夢宅寺(むたくじ)の晩鐘、(4)八幡山の晴嵐(せいらん)、(5)亀甲浜の汐干(しおひ)、(6)権現島の浮鷗(うきかもめ)、(7)双子島の朝霞(あさがすみ)、(8)善知鳥前(うとうまい)の躑躅(つつじ)である。
 浅虫温泉は八景という一組の風景として宣伝されたわけである。この中で「亀甲浜の汐干」でうたわれる潮干狩りは、旧暦三月三日を選んで行われた。弘前市や野辺地町などから多くの人々が訪れるなど、浅虫海岸での潮干狩りは春の風物詩だった。
 ▽水族館と清遊館
 1924(大正13)年7月、裸島の近くに東北帝国大学の浅虫臨海実験所と附属水族館が開設された。水族館は浅虫温泉を代表する文化施設となり、多くの人々が訪れた。浅虫温泉には海水浴場もあるので、夏の行楽でもにぎわった。
 1925(大正14)年、浅虫温泉株式会社が馬場山の東側に、遊興や接待のほか、集会や宴会に利用できる「清遊館(せいゆうかん)」を開業した。劇場の浅虫座を併設し、内湯や展望台をはじめ、大食堂や娯楽室などを備え、低料金で過ごせる施設だった。
 このため好評を博し、翌年には増築して新たに旅館部を設けた。清遊館の開業をうけて、増築や新築する旅館も増えたと言われた。清遊館が周辺に与えた影響は大きく、しだいに浅虫温泉は文化施設や娯楽施設を兼備する、県内でも有数の温泉地となっていった。
 ▽東北の熱海
 昭和戦前期の浅虫温泉は、春から秋にかけて水族館が開館し、春には潮干狩り、夏には海水浴場、秋には花火大会が行われ、冬にはスキー場が開いた。浅虫温泉は四季を通じて楽しめる温泉地となった。
 1936(昭和11)年、省営自動車の浅虫線が十和田国立公園の指定を受けて開通。文化や行楽施設のある浅虫温泉は、自然をめぐる十和田湖の観光周遊にはない魅力を付け足した。
 熱海温泉にも海水浴場があり、1925(大正14)年の熱海線開通や、1934(昭和9)年の丹那トンネルの開通を背景にして、飛躍的に客足が伸びた。旅館や歓楽施設が増加し、熱海温泉は有数の遊興地になっていった。
 浅虫温泉は戦後の高度経済成長期に「東北の熱海」と呼ばれ、全国的にも有名だった。しかし、実は戦前から「東北の熱海」と称されていた。明治期には気候や地形の類似性を指摘されていた浅虫温泉だが、昭和戦前期には遊興地である点が熱海温泉に似ていると言われたのだった。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)