可動橋と桟橋があった小湊港「第六青函丸」の着岸試験を行っているところ。1948(昭和23)年10月10日・川村英明さん提供
明治末期の双子島 青森県史編さん資料
現在の双子島 2010(平成22)年6月5日・中園裕撮影

 ▽三つの平内村
 藩政時代の平内町域全体は黒石藩の飛び地であった。それが1889(明治22)年の市制町村制により、東平内・西平内・中平内の三村に分割された。
 東平内村の狩場沢には、盛岡藩と弘前藩(後に黒石藩)の境界を示す藩境塚がある。かつては南部と津軽の対立関係を象徴するような場所だった。しかし、現在そのような対立感情を持つ住民は少ない。むしろ藩境塚は平内町にとっても貴重な史跡である。
 西平内村には1939(昭和14)年開業の西平内駅がある。この駅は、同じ年に施設が完成し、翌年開設する傷痍軍人青森療養所のために造られたものだ。療養所は戦争で負傷した将兵たちを療養する施設だった。夏泊半島の豊かな自然と、浅虫温泉に近いことが立地条件に適ったのだろう。
 戦後、療養所は久栗坂の臨浦園(りんぽえん)と統合され閉鎖された。現在、跡地には社会福祉法人青森県すこやか福祉事業団の障害者総合福祉センターなつどまりが建っている。
 中平内村の小湊は、藩政時代に代官所が置かれたところだ。1891(明治24)年に小湊駅が開業。平内三村で最も人口が多く、流通の拠点だった。昭和天皇の即位記念事業を機会に、1928(昭和3)年10月1日付で町制施行し、小湊町と改称した。
 その後、1955(昭和30)年3月31日、小湊町と東・西平内村が合併し、新たに平内町が誕生した。「三平内」と呼ばれ、歴史的に関係の深い町村の合併交渉は、新町名を小湊町か平内町とするかで論争があった以外、大きな紛糾もなく進められた。
 ▽県都青森の代替地
 1891(明治24)年、日本鉄道(後に国鉄東北本線)が上野と青森の間に全通した。その少し前、青森駅の位置をめぐって、青森町(現青森市)で大論争があった。しびれを切らした日本鉄道会社は、小湊港付近を最終駅にすると主張した。このため青森町長の柿崎忠兵衛は、青森町の安方に駅を設置するとして、何とか論争を収拾させた。
 1943(昭和18)年12月、運輸省が小湊・函館間の貨車航送を実現しようと、関係施設の建設に着手した。青森港や青函航路が空襲で破壊された際の補助航路にするためである。工事は突貫工事で行われ、敗戦後も占領軍の意向で継続された。
 1946(昭和21)年7月1日、仮設の桟橋が完成して小湊・函館間の航路が実現した。8月1日、小湊町民は小湊開港記念と称し、港まつりを開催して大いに喜んだ。2年後には可動橋も建設され、第一貨車航送岸壁が完成。連絡船「第六青函丸」の着岸試験も成功した。
 ところが1949(昭和24)年7月15日、小湊航路は中止となった。この背景には、国鉄が同年6月に独立採算制をとる公共企業体の「日本国有鉄道」となり、運輸省の管轄を離れた事情があった。期待された貨物輸送が伸びず、罹災から復旧した青森港が整備されたため、小湊航路は採算がとれない、と国鉄は判断したのである。
 町民は築港の継続を陳情し続けたが、工事は再開されなかった。既に小湊駅から浅所桟橋駅を経て可動橋のあった埠頭まで引き込み線ができていた。浜子(はまご)地区には小湊操車場も造られていた。けれども、これらの施設は実用化されずに次々と撤去されていった。
 小湊の駅や港は、常に県都青森の代替地として位置づけられ国策に翻弄されてきた。だが、築港が実現しなかったために浅所松島の景観は残された。今では平内町の大切な観光資源になっている。小湊港もホタテの養殖基地に生まれ変わり、町民の生活経済を支え続けている。築港の中止は平内町にとって大きな痛手だったが、結果的に青函連絡船が廃止されて久しい現在、今日の平内町を支える契機になったと言えるだろう。
 ▽浅虫と夏泊半島
 明治期半ば以降、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に基づき各地で景勝地選びが流行した。「三平内」地区でも、雷電宮の松島、白砂(しらす)の秋月(しゅうげつ)、田沢の椿山、大島の漁舟(ぎょしゅう)、双子島の釣磯(つりいそ)、童山の華滝が平内六景に選ばれている。華滝以外はすべて夏泊半島沿岸にある。
 浅虫温泉でも、浅虫八景が選ばれている。八景の内、権現島(鴎島(ごめじま))の浮鴎(うきかもめ)と、双子島の朝霞(あさがすみ)は西平内村の管内にあった。しかし、なぜか浅虫の絵葉書で紹介されることが多かった。浅虫を訪れる温泉客は、温泉街を巡るだけでなく、小さな遊覧船で湯ノ島や茂浦(もうら)島などを巡り、夏泊半島までの海上遊覧を楽しんだのである。
 浅虫の人々と、土屋や茂浦など西平内村の人々は、行政区域を超えて交流が深かった。この関係は今も変わらない。1953(昭和28)年、浅虫夏泊県立公園(後に県立自然公園)が誕生した。行政区域の異なる浅虫温泉と夏泊半島が同じ公園に編成されたことは、歴史的な経緯をふまえれば自然な流れだったのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)