高野崎(たかのざき)から見た袰月の入江(大きな岩の後方)=2009(平成21)年8月22日・筆者撮影
宇鉄川。国道の近くから上流を撮影したもの=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」
今別町大字奥平部(おくたいらへ)の鬼泊トンネル。奥平部もアイヌ語系地名。「へ」は「ぺ」または「ぺっ」で、川を意味する。事実、トンネルは平舘村(現外ケ浜町)との境界近くにあり、近くには鬼泊川が流れている=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」

 ▽「狄村」
 北奥地方の歴史的・文化的特質のひとつに、アイヌと和人(アイヌに対する日本人の呼称)との共存があげられる。それは、江戸時代の北奥に生きた本州アイヌと呼ばれる人々が、弘前・盛岡両藩に津軽アイヌ・下北アイヌとして支配され、彼らのアイヌコタン(集落)が津軽半島や夏泊半島、下北半島の各地に確認されていることにも示されている。
 津軽地方についてみると1645(正保2)年の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」の、津軽半島北端、三厩(みんまや)(外ケ浜町三厩)周辺のほか、日本海に面する半島北西端の小泊(中泊町小泊)周辺、陸奥湾に面する夏泊半島北端(平内町)に「狄村(えぞむら)」が記されており、江戸時代初期段階でのアイヌの居住が確認できる。しかし、「狄村」には他の村落と異なり、具体的な村名と村高(一村の生産高)が記されておらず、実体は定かでない。
 ▽津軽一統志
 「津軽一統志(つがるいっとうし)」には、1669(寛文9)年頃の津軽半島のアイヌ居住地と家数の状況として、宇田(うた)村・ほこ崎村(以上、外ケ浜町平舘)、五生塚(ごしょうづか)村・砂ケ森村・袰月(ほろづき)村・小泊(大泊(おおどまり))村・山派(やまはだち)(大川平(おおかわだい))村(以上、今別町)、松ケ崎村・六条間(ろくじょうま)村・藤嶋(ふじしま)村・釜野沢(かまのさわ)村・宇鉄(うてつ)村・竜飛村(以上、外ケ浜町三厩)などが書き上げられている。
 津軽半島北端の広い地域に、アイヌの居住集落が存在していたと理解できる。これらの集落名には、その地形や生活文化に由来して、居住したアイヌの人々の言語で付されたと考えられるものもあり、今もそうしたアイヌ語地名が残っている。そのいくつかを紹介してみよう。
 ▽平舘と今別
 平舘の「宇田」はアイヌ語の「オタ」(砂、砂浜)の訛音と考えられる。幕末の探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)もこの地を訪れた際に「歌村。定めてヲタ村なるべし。此処初めて砂を見る。」(「東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)」)と記している。
 今別の「袰月」は「ポロ・トゥキ」(大きい・坏(つき))であろう。アイヌの人々は和人との交易で「坏=トゥキ」を入手し、酒を入れた「トゥキ」(直径10センチ位の木製の椀)を高台にのせ、イクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))をその上に横たえて飲む独自の飲酒文化を築いた。現在の袰月の入江は半円形の湾であるが、まさに大きな坏に酒を注いだような景観を呈している。
 ▽三厩と宇鉄
 三厩の「六条間」は「ロクンデウ」(大船)に停泊港を意味する日本語の「間」を組み合わせた地名であろう。また、六条間から三厩よりに算用師(さんようし)峠があるが、ここは「サニ・ウシ」(坂のある処)の意であると考えられる。
 「宇鉄」はどうであろうか。宇鉄は江戸時代の津軽アイヌ居住地としてよく知られた地名である。弘前藩は1756(宝暦6)年と1809(文化6)年の2度、津軽アイヌの同化政策を推進したが、「東奥沿海日誌」からは宇鉄に居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込みながらも幕末に至るまで民族としての文化を保持し続けていたことが理解できる。ただし、宇鉄の地名由来は定かではない。「ウワテツ」(群がる)、「ウ・ラシ」(お互い・魚を捕る)、「オタ・エツ」(砂・出崎)、「ウトル・ペツ」(間の・川)のいずれかが日本語に転訛したものとされている(『角川地名大辞典』)。
 ▽山田秀三
 こうしたアイヌの人々の民族文化に由来する地名は、津軽海峡をはさむ北奥地方と北海道で共有されるものであった。戦前の国家官僚で、戦後はアイヌ語地名を追って各地をくまなく踏査した研究家の山田秀三は、津軽海峡をはさむ南北で同地名が多く、北側を歩いていると南側を歩いているような錯覚に陥ったという(『アイヌ語地名の研究』)。津軽海峡をはさむ北奥以北の地は、アイヌの人々にとって民族の一体的空間=アイヌモシリ(アイヌ〈人間〉の大地)であったのである。
(札幌大谷中学校・高等学校教諭 市毛幹幸)