木村荘助頌徳之碑(しょうとくのひ)(2014年9月29日・筆者撮影)木村荘助(しょうすけ)は水原の公園創設事業に対する最大の有志者である。西向きに配置されたのは、廃棄道を活用した公園創設の原点を振り返るためと考えられる
不老亭から眺めた公園(明治末期から大正初期・青森県史編さん資料)右側の大きな松が公園創設の拠点である「三誉(みよ)の松」。当時の公園が「松の公園」だったことがわかる
歓迎桜の碑(2014年9月29日・筆者撮影)裏面には「明治廿九年五月一日 留守歩兵第四旅団司令部将校下士」とある。1896(明治29)年5月に、公園内で招魂祭が挙行される際に、陸軍が桜を数株植えたという

 ▽水原衛作の青森公園
 合浦(がっぽ)公園は、青森市街地の東部沿岸に位置する市民の憩いの場である。また都市部には珍しい海の公園として有名である。
 公園は、1881(明治14)年に、もと弘前藩士の水原衛作(えいさく)が青森の豪商である木村荘助(しょうすけ)ら有志者と公園を創設しようとしたことに始まる。このとき認められた公園は、現合浦公園を東西に走る旧奥州街道の廃棄道だった。1873(明治6)年に公布された公園制度に見合う条件を満たさねばならなかったからだ。このため当初の公園は、形や規模が現在の公園とはだいぶ違っていた。
 廃棄道の半分以上が公園とされたが、廃棄道を利用しただけでは東西に長すぎる公園となってしまう。このため水原は公園の北側と南側に、公園よりもはるかに広い彼自身の所有地(後に公園附属地となる)を接続させた。公園として体裁のよい広さと形を確保しようとしたのだろう。
 だが当時の公園制度では、水原の所有地は私有地であるため、正式な公園とは認められなかった。そのため水原にとって、公園を創設するということは、彼の所有地を含めた造園を意味した。彼が造園を進めていた頃の公園の正門は、今日と異なり、青森町(現青森市)に近い公園の西端箇所にあった。現在、公園の正門は国道4号に通じる南側に置かれている。水原が公園を創設した当初とはだいぶ違っていたのである。
 ▽青森市の合浦公園
 水原は公園創設に命をかけるが、公園の完成を見ることなく、1885(明治18)年に亡くなった。翌年に、実弟の柿崎巳十郎(みじゅうろう)が兄の遺志を継承し造園に励んだ。
 しかし柿崎も、兄の水原と同様に協力者不足や資金難に苦しんだ。このため1890(明治23)年には、公園附属地(水原の所有地など)を青森町へ寄付する意向を見せた。これに対して青森町は、公園が町に必要であると考え、附属地を含む公園全体を町の公園とみなし、同年には公園を海浜側へ拡大しようと目論んでいた。
 1895(明治28)年、青森町が公園を拡大するにあたり、柿崎は正式に青森町へ公園附属地を寄付した。水原が描いた公園を完成させるためだった。事実、柿崎はその後も園丁として公園を整備する作業に関わり続けた。
 翌年、それまで青森公園と呼ばれていた公園が、青森町によって合浦公園と改称された。しかし、合浦公園の名称には創設者の水原が大いに関係していたと思う。彼は俳号「鬼笑」を持っていた。公園創設の拠点となった「三誉(みよ)の松」の近くには句碑も存在する。合浦の名称は俳諧集「合浦集」や「合浦舎利母石(がっぽしゃりもいし)」のほか、画集「合浦山水観」などの表題にも登場し、東津軽郡沿岸の呼称と言われていた。
 そして何よりも、彼は生前から遺書に相当する文書へ「合浦公園」と著していた。こうした背景から、水原が合浦公園の名称を考え、それが青森町(後に市制施行)の公園になっても継承されたわけである。
 しかし、青森公園から合浦公園と名称が変わったことは、同時に公園が水原の公園から青森市の公園として整備される始まりでもあった。1901(明治34)年、青森市は従来の公園面積では狭すぎるとして、公園の面積を海岸まで拡大した。合浦公園は津軽の海の公園と考えられるので、この時点で名実共に津軽の海の公園が誕生したことになろう。そして、これ以降も合浦公園の面積は拡大されていった。
 水原が造園を始めた頃の合浦公園は、松の公園と呼ばれるほど松が多かった。だが、戦争や皇室に関わる記念行事が開催される度に桜が植樹された。合浦公園保勝会が観桜会を主催するなど、合浦公園は桜の公園として市民に愛されていった。そして今もなお、合浦公園は青森市を代表する春まつりの会場として、また夏の海水浴場として市民に親しまれている。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)