弘前公園の撮影スポットの代表といえば、どなたにも朱色の下乗橋から眺める白壁の天守と納得いただけましょう。
 でも明治時代だって、下乗橋は朱赤ではなかったし、親柱に下乗橋の名乗りを書いていた訳じゃぁないのであります。
 明治二十八(一八九五)年五月、弘前公園の開園にあたり、梁・桁材は旧藩のままながら、長さ八間、幅三間の敷板と欄干の取り替え後の絵葉書があります。
 このときの親柱は角柱で、手彩色の資料を見ても木肌地の仕上げで、擬宝珠も取り付けられていないんですね。
 同四十一(一九〇八)年九月には、公園の雅名である鷹揚園の名付け親になられた大正天皇がお出掛けされ、当時の絵葉書には、「皇太子殿下台覧 公園旧城天守閣」と誇らしげに添えられました。
 いまのように朱赤になって、丸柱に擬宝珠があるのは、大正四(一九一五)年四月の架け替えによるもの。九月には、かつての東宮殿下が大元帥陛下として、特別陸軍大演習の統監のために来弘されるから、思いっきり張り切っちゃった。
 下乗橋北側の近くには桜がまばらで、その奥の二の丸丑寅櫓の方には、紅白の幕が回されて賑わいを感じさせます。
 下乗橋の次の架け替えの写真は、昭和二〇(一九四五)年というのを持っていますが、ほかに工事をしたのかなぁ?