彫刻という言葉が芸術(アート)として捉えられるようになったのは明治以降のことで、それ以前は文字通り「彫り刻む技術」を意味するものだった。では、彫刻は「芸術(アート)である」というイメージはどのようにつくられてきたのだろうか。以下、ざっくりと見てみよう。
 1876(明治9)年に工部美術学校が開設され、そこに彫刻学という学科がつくられた。ここにおいて教育機関として彫刻という文言が初めて出てきたが、その言葉の意味は、彫刻をつくる技術を指していた。西洋化を図るべく、所謂(いわゆる)銅像などをつくる技術を教えることが主な目的だったのである。その後、西洋一辺倒への反動から日本美術への回帰を唱えるフェノロサと岡倉天心によって82(明治15)年東京美術学校が開校された。当初は木彫科しか無かったが、やがて98(明治31)年に洋風彫塑が実技に加えられた。その後、高村光太郎や荻原守衛などの近代の作家がロダンの影響のもとに具象彫刻の概念を築き上げてきた(ただし高村光太郎は日本の伝統的な木彫も並行して制作しており、日本の彫刻の在りようを模索していたようにも見える)。
 やがて、抽象的な表現(これも西洋から入ってきた)が出てきて野外彫刻などの公共の場へとその活動の場が広がり、彫刻という概念に空間造形的なニュアンスも加わった。また近代以降の前衛芸術の中の立体作品や身体表現、形がない概念的なものなども彫刻と呼ばれ得るようになり、その捉え方は広がっていった。
 現代でもアーティストがつくった立体造形物であればあえて〝彫刻〟といったりすることがある。これらは以前であれば〝オブジェ〟などと表現されたりしたのであるが、〝オブジェ〟より〝彫刻〟の方が重厚なイメージがあるし、何と言っても芸術の香りがし、蘊蓄(うんちく)もある。これらは先人たちが築き上げてきた〝彫刻は芸術である〟というイメージを(意識的、または無意識的に)拠(よ)り所とし、これは芸術作品である、と主張しているようにも見える。
 以上、彫刻という言葉の持つ意味・イメージの変容を大雑把(おおざっぱ)に見てきた。彫刻の概念は時代とともに広がって(というより曖昧(あいまい)になって)捉えるのが難しくなった。ただ使われている意味はいろいろだが、彫刻という言葉だけに限って言えば、今のところアートの範疇(はんちゅう)に収まっていることは確かであるようだ。
 かこさとしの子ども向け美術入門書「すばらしい彫刻」というすばらしい絵本がある。その冒頭に彫刻家のことを「にんげんは 大むかしから 石を つみあげたり いわを きざんだりして いろいろな かたちや すがたを つくってきました。それを つくるひとを 彫刻家とよびます。」と定義している。彫刻家の仕事は、これで十分なのかもしれない。
(弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)