「斗南藩士族よりの頼書」(弘前市立弘前図書館蔵)
『青森新聞』350~355号(当館蔵)
沖津醇の肖像(葛西富夫『斗南藩史』より転載)

 ▽弘前藩に援助頼んだ斗南藩
 明治元年(1868)9月、会津戦争が終結した。会津藩には、藩主松平容保(かたもり)の隠居・養子喜徳(よしのり)の謹慎、家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)の切腹など厳しい処分が下ったが、それでも翌年9月に家名再興が許され、容保の実子慶三郎(容大(かたはる))が数え2歳で新藩主となった。
 藩政を主導する山川大蔵(おおくら=浩)・広沢富次郎(安任)らは新天地への移住を主張し、陸奥国3郡と蝦夷地4郡の計3万石を新政府から与えられた。斗南(となみ)藩の誕生である。藩庁は初め五戸(ごのへ)に置かれ、明治4年2月に田名部(現むつ市)の円通寺に移転した。正確な数は判然としないが、のちに弘前県大参事となった野田豁通(ひろみち)は、明治3年春から閏10月にかけ、17327人が移ったと大蔵省へ報告している(旧『青森県史』6)。
 斗南藩は新政府から米3万石と金17万両を扶助されたが、2万人近い人間を遠距離移動させ、生活の面倒を見るには全く不足だった。明治4年2月29日、山川は農具の購入資金を融通してくれるよう、弘前藩に依頼した。山川は「農具までは手が回らず、汗顔の至りだ」と伝えたが、現実には、その日に食べる米にも窮していたのである。奥羽越列藩同盟からの脱退で会津藩と敵対する立場に回った弘前藩だが、同情心は失っておらず、金1000両と鋤(すき)・鍬(くわ)各1000丁を贈ってこれに応えた。
 ▽辛苦きわめた下北での生活
 下北方面に移った人びとの困窮ぶりは、目を覆うばかりだった。山野草を採り、乾燥させ粉状にした海藻(押布(おしめ))を鍋に入れて量をかせぎ、飼料用大豆や松木の白皮まで食料にした。のちに陸軍大将となった柴五郎は、犬肉に辟易(へきえき)したと述懐している(石光真人編『ある明治人の記録』)。吹き込む隙間風で室内は凍てつき、栄養失調による死者・病人が続出した。
 山川らは、田名部町東部の斗南ヶ丘開拓に乗り出した。妙見平に一番町から六番町まで屋敷割りし、井戸を掘り、約200戸を建てる計画だったが、資金不足と明治4年7月の廃藩置県で頓挫した。苦しさに堪えかねて逃げ出す者は後を絶たず、残った者も、自活の道を探らねばならなかった。
 ▽県教育界への多大な影響
 それでも、斗南藩の人びとは教育の大切さを忘れなかった。司教局(のち学校掛)を設置し、会津藩時代の藩校日新館の蔵書のほとんどを田名部へ運んだ。斗南藩からは、のちに帝国大学総長となった物理学者山川健次郎(山川浩の弟)を筆頭に、三渕忠彦(最高裁長官)南摩綱紀(東京高等師範学教授)広沢弁二(東京獣医学校長)広沢春彦(東京高等獣医学校相談役)根橋禎二(大阪大学工学部教授)などが出た。
 地元に残った人びとの中からも、教育者・言論人が出た。三戸の斗南学校、五戸の中ノ沢塾、鰺ヶ沢の会津塾など、斗南藩の人びとが関わった学校・私塾は多い。北斗新聞・青森新聞・青森新報を発刊して明治期の政治・言論・教育など多方面に影響を与えた小川渉(おがわわたる)は、晩年、青森で漢学・書道の私塾を開いた。
 青森県立師範学校長などを務めた沖津醇(おきつじゅん)は明治19年、学費困窮者のための私塾青湾学舎(せいわんがくしゃ・青森市松森)を開いた。生徒のなかには、板柳町出身の水彩画家松山忠三(明治31年に夜間部入学)などがいる。経営は楽でなかったが、沖津は会津人らしい粘り強さを発揮し、12年間にわたり塾を維持した。明治32年、沖津が健康上の理由で閉塾を決めると、青森市教育委員会は新町小学校で送別会を開き、その功に報いた(旧『青森市史』1教育編)。
 歴史は人によりつくられ、記録される。「北方史の中の津軽」の執筆陣は、そうした記録を丹念に読み進め、歴史の実像に迫ろうと努力してきた。6年間の連載の成果が後世の道標のひとつになるのであれば、これに勝る喜びはない。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)