三厩の厩石(筆者撮影)
 
善知鳥前桟道の図(県立郷土館蔵「津軽図譜」より)
 
今別の高野崎(筆者撮影)

 ▽紀行文の流行
 近世の紀行文は、古来の和歌を交えた和文ではなく、俗文で平明に書かれたものが多い。やがて、庶民の間で旅行が盛んになると、紀行文にはガイドブックとしての実用性も求められ、記録性や報道性、地誌的要素が重視された。各地の説話・奇談も記されるようになり、文体や構成は多様化した。
 江戸時代前期に東北地方へ向かい紀行文を残した旅人の多くは文人で、松尾芭蕉『奥の細道』のように、松島・平泉・象潟(きさかた)周辺の古戦場や旧跡など歌枕(うたまくら)をめぐる旅が中心であった。一方、江戸時代中・後期に北へ脚を延ばした人々の多くは、蝦夷地をめざしていた。ロシアの南下など外圧への対応に関心が集まると、現地に派遣された幕吏(ばくり)や学者による紀行文が残された。海防意識が高まり、来航する異国船や沿岸防備の状況を視察するためやって来る者もいた。
 ▽旅人が見た津軽外浜
 蝦夷地との往来のために津軽を通る旅人の多くは、公務や調査・探索を目的としていた。物見遊山(ものみゆさん)とは異なり緊張感を伴う旅ではあるが、陸奥湾沿岸の絶景に眼をとめ、津軽海峡の先に見る蝦夷地の山々にそれぞれの想いを抱いている。
 寛政11年(1799)に蝦夷地見分隊の一員となった遠山景晋(とおやまかげくに)(「金さん」として知られる江戸町奉行遠山景元の実父)は、平舘付近の景色を「すべての岩の形、天劃神鏤(てんかくしんる)の巧を尽し」と述べている(「未曽有記」)。同行した本草学者の渋江長伯(しぶえちょうはく)と写生係の谷元旦(たにぶんたん)(島田元旦)までもが「画にも尽しかたし」と褒めたたえ、海岸沿いに次々と現れる大きな奇石や岩屋観音、神造クゝリという大石の洞穴などを描いている。今別の舎利浜でメノウや舎利石(しゃりいし)を拾い、三厩(みんまや)(外ケ浜町)の厩石(うまやいし)や義経伝説に興味を示し、遙かな波間を行く江豚=イルカの群れも見ている。
 ▽厳しかった津軽路
 旅を取り巻く環境や設備が整いつつあったとはいえ、津軽領内の奥州街道や松前街道の状況は、依然として厳しかった。
 難所である浅虫の「とうまい」(善知鳥前)の桟道(さんどう)について、長伯らは「平蜘蛛(ひらぐも)が壁に取りつくようにして横歩きで6間(約11メートル)行く」「岩角へ渡るために丸太を2本渡してある」と述べているまた、高山彦九郎は、夜間は桟道の通行が危険なため、久栗坂(くぐりざか)から浅虫まで舟を利用している(「北行日記」)。
 文化2年(1805)に再び蝦夷地へ向かった遠山景晋は、蟹田から平舘までの道中で雨に降られ、馬一騎ずつしか通れない狭い道、急峻(きゅうしゅん)な坂道に難儀した(「未曽有後記」)水戸藩士木村謙次(けんじ)は蟹田から三厩まで砂と石の道を行き、海石の上を踏み歩き、絶壁の間に架かる丸木橋を渡るなどして、津軽路にはこのような危険な場所がたくさんあると述べ(「北行日録」)吉田松陰も小泊から平舘までの路はほとんど海浜の砂礫(されき)で、山が海にせまっていると記している(「東北遊日記」)。街道といっても道幅は狭く、かなりの悪路であった様がうかがえる。
 ▽波濤を越えて
 青森から渡海場である三厩までは、2~3日かかる。さらにここで良風を待つため、数日から数週間滞在することも稀(まれ)ではなかった。出帆までの間、旅人は龍馬山(現在の義経寺(ぎけいじ))や神宮に詣でるなどして過ごした。
 津軽海峡には竜飛の潮、中の潮、白神の潮という3筋の潮流がある。荒波越えのようすは、多くの旅日記に記されている。谷元旦は蝦夷地からの帰路、まず三厩を越えれば江戸の父母兄弟に逢えると安堵(あんど)し、木村謙次も三厩に着岸した際「死地を出て生路を得た」と、無事に生還したことを喜んでいる。
 蝦夷地という異域への出入り口でもある津軽は、往来する旅人の悲喜こもごもが入り交じる地でもあった。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 堀内久子)

 

◆一口メモ とうまいの梯
 青森市浅虫と久栗坂の間の善知鳥崎のこと。多宇末井之梯、善知鳥前桟ともいう。海に差し出た岩山の下の道で、文化年間に浅虫村の石工が桟道を広げ、明治9年(1876)の明治天皇巡幸の際に改修されて、牛馬の往還も可能な道になった。