「奥民図彙」(複製)より「嶺雪舟」(青森県立郷土館蔵)
 
雪が乗った亀甲門の鬼板(筆者提供)
 
辰巳櫓の台石垣(筆者提供)

 ▽本州最北の近世城郭
 青森県は全域が、豪雪地帯特別措置法に基づく豪雪地帯の指定を受けており、積雪によって、交通や経済など冬季の生活が大きく影響を受けている。それは、江戸時代も同じことであった。本州最北に位置する弘前藩にとって、積雪の影響を抑えることと活用することは、常態化した課題だった。
 弘前城の管理についても、寒冷地ならではの状況があり、弘前藩庁日記の「御国日記」(以下「国日記」)には、雪によって土(ど)居(い)や建物が破損したり、積雪を利用した「雪(そ)舟(り)」の活用などの記事が散見される。
 「雪舟」(雪船)は修(しゅ)羅(ら)ともいい、弘前藩では、冬季に石垣用の石材を運ぶ際などに用いられた。「国日記」享保4年(1719)10月21日条によると、石垣運搬用の「大雪船」に、長さ7尺(約2メートル)、幅9寸(約27センチ)、厚さ3寸(約9センチ)のイタヤの木を用いることが計画されている。
 ▽銅(どう)瓦(かわら)葺(ぶ)きの採用
 弘前城跡に現存する建造物の屋根は、天守と城門が銅瓦葺きである。城門は、もともと粘土瓦の本(ほん)瓦(かわら)葺きであったが、瓦が凍ることで破損し、雨漏りを引き起こすなど、寒冷地ならではの問題を抱えていた。
 その問題に対し、屋根瓦の修理にかかる費用の削減と、粘土瓦を超える耐久性を期待して、城門などの屋根を銅瓦葺きとする抜本的な対応が決定されたのは、宝暦4年(1754)のことであった(「国日記」同年3月2日条)。以後、城門はすべて銅瓦葺きとなった。さらに、文化7年(1810)に建造された天守には、当初から銅瓦葺きが採用された。弘前藩は、寒冷地における瓦材の問題を、銅瓦によって解決しようとしたのである。
 瓦のほかにも、雪への対策が見られる。二の丸の辰(たつ)巳(み)櫓(やぐら)と未(ひつじ)申(さる)櫓(やぐら)は台(だい)石(いし)垣(がき)を持っているが、これらは実は、当初からのものではない。辰巳櫓は文政4年(1821)に積まれ、未申櫓は嘉永5年(1852)に積み直しの工事が行われているが、台石垣はその際に積まれたのである。わざわざ台石垣を積んだ理由としては、積雪時に櫓の下部が埋没して維持管理が難しかったからだと考えられている(弘前市編『重要文化財弘前城修理工事報告書』昭和34年)。
 このように、本州最北の近世城郭である弘前城では、寒冷地ならではの整備が推し進められたのである。
 ▽「国日記」にみる城内の除排雪
 城内の通路や馬(ば)場(ば)などの除雪と、御殿などの建物の雪降(おろ)しには、多くの労働力が動員されていた。
 「国日記」には、城内の除雪作業に従事する人員確保に関する記事が頻(ひん)出(しゅつ)する。積雪の多い年は、通常の人員の配置では手が回らなくなるため、城内通路の除雪などに「町人足」を雇って対応した。また、馬場の除雪には、家中に人(にん)夫(ぷ)の供出を割りあてた。安永4年(1775)閏12月27日条によると、外馬場の除雪人夫は500~600人が適当とされていた。大規模な人員配備が必要だったことがわかる。
 城内の除雪は、正徳6年(1716)閏2月18日条にあるように、本丸・二の丸などは掃(そう)除(じ)小(こ)人(びと)が詰める掃(そう)除(じ)方(かた)の管轄で、三の丸については「屋敷奉行」と掃除方の管轄が入り組んでいたのを、掃除方に統括させたことが確認される。とはいえ、掃除方が城内全域をカバーしていた訳ではなかった。
 享保3年(1718)12月20日条によると、城門外の枡(ます)形(がた)については番所勤務の足軽が除雪しており、城門内の除雪は掃除方が担当することとなっている。しかし、人員は掃除方の方が多かったにもかかわらず、彼らが人員の少ない足軽の除雪を手伝うことはなかった。そこで吹雪の時などはそれを改めるよう、命じられている。
 建物などのハード面では、寒冷地に対応した城郭整備を進めた弘前藩だが、除雪作業などのソフト面については、担当部署間の協力態勢が問題で、各所の調整がスムーズに行っていたとは言いがたいようである。どちらにせよ、寒冷な気候に対する城郭維持の方策を模索し、実行することは、本州最北の近世城郭である弘前城に宿命付けられた課題だったのである。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◆ひと口メモ 枡(ます)形(がた)
 枡(ます) 形(がた) 城の入口につくられた防御施設。門・土塁・塀・櫓で囲まれた方形の空き地が枡の形に似ていること、戦時にはここに敵兵を溜める意図があることから、この名が付いたという。