津軽信政画像(新井寒竹筆、高照神社蔵)
 信政愛用の衝立(佐々木玄龍筆、高照神社蔵)
信政の言行録の数々(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽「中興の英主」津軽信政
 弘前藩4代藩主津軽信(のぶ)政(まさ)は、初代藩主為(ため)信(のぶ)とともに、歴代藩主の中で特に顕彰された人物である。しかし、「藩祖」為信が戦国の世を勝ち抜き、津軽家および弘前藩の基礎を打ち立てた点を称えられるのに対し、信政は、55年に及ぶ治世下で弘前藩の政治的土台を作りあげた点が評価される。「中興の英主」と呼ばれる理由である。
 ▽信政の仕事
 信政は、正保3年(1646)、弘前城で誕生した。明暦2年(1656)、3代藩主の父津軽信(のぶ)義(よし)の死去により、11歳で藩主となった。若年のうちは叔父津軽信(のぶ)英(ふさ)(黒石津軽家)を後(こう)見(けん)役(やく)にしていたが、成年後は、領内支配の確立や藩経済の立て直し、あるいは幕府から課される公役負担への対応などの問題に直面することになった。
 信政は天和・貞享期(1681~87)に領内統一検地を実施し、藩財政の基礎を固めた。また、津軽平野の開拓と新田開発により米の増産を推進した。さらに人材登用と新技術の導入をはかり、養(よう)蚕(さん)や製紙などの産業振興、土(ど)淵(えん)堰(ぜき)の開(かい)削(さく)や屏(びょう)風(ぶ)山(さん)の植林といった土木治水にも意を用いた。幕府との関係では、蝦(え)夷(ぞ)地(ち)でのアイヌ蜂(ほう)起(き)への出兵、幕府領の検地、日光東照宮の普(ふ)請(しん)などを請け負い、責任を全うした(長谷川成一『弘前藩』)。
 ▽名君像の成立
 江戸時代初期から中期にかけ、各地に「名君」が登場したが、多くは、儒学の仁(じん)徳(とく)思想に基づいた「仁(じん)政(せい)」を行ったとされる人物が挙げられていて、信政もその一人である。
 信政は居室に「畏天命」(てんめいをおそる)「畏大人」(たいじんをおそる)と記した衝(つい)立(たて)を用いていた。家臣はどちらをどの向きにして立てるべきかいつも迷っていたが、ある時、信政は苦笑いしながら、自分の側に「畏天命」(君主であることを天命とする自戒)を、家臣の側に「畏大人」(君臣の節度の戒め)を向けよと、教え諭したという。信政の言(げん)行(こう)録(ろく)「高(たか)岡(おか)公(こう)明(めい)訓(くん)録(ろく)」にみえるエピソードだが、ここから、その政治信条が読み取れよう。
 信政は宝永7年(1710)に没するまで、儒学・兵学・神道・武芸の習得に励み、深い教養によって自らを律した。また、諸法令を整備して君臣の別を明らかにし、君主としてあるべき姿を追求した。結果、当時からすでに「名君」と評価され、元禄期の大名「七(しち)傑(けつ)」に数えられるほどであった(角田九華「近世人鏡録」)。
 ▽幕府隠密の評
 一方、元禄期の幕府隠(おん)密(みつ)による諸大名の人物批評「土(ど)芥(かい)寇(こう)讎(しゅう)記(き)」は、信政について「文武を好み、知力・才能に秀(ひい)でるが、奸(かん)智(ち)に長(た)け、利欲を求め、自己の鍛錬も外面を飾るためである」とか、「武道や家来の登用も計略を第一とし、計略により事を運ぼうとする」などと述べ、その人格を「信無シ」「偽(いつわり)多シ」「学者ニ似タル不学者也」と報告している。
 また、信政が三男政(まさ)直(なお)(那(な)須(す)資(すけ)徳(のり))を那須家(「扇の的」で有名な那須与一の子孫)の養子としたことに端を発する烏(からす)山(やま)騒(そう)動(どう)で処分された点を、知恵が働くために那須家を断絶させ、自身も閉門にされた、と酷評している(本田伸『弘前藩』)。
 元禄8年(1695)の飢饉以降、弘前藩の財政はしだいに逼(ひっ)迫(ぱく)した。信政は家臣のリストラや農村荒廃への対応に追われ、家中でも、譜代の家臣と信政に登用された側近との間で対立が生じた。「土芥寇讎記」の辛(しん)辣(らつ)な信政観には、こうした藩政の混乱が影響しているのであろう。
 しかし、信政に関する言行録は、「高岡公明訓録」以外にも「鎮宮一貫記」「信政公様御意記」などがあり、歴代藩主とくらべても数が多い。現代もなお「高岡様」と尊崇される信政は、津軽に生きる人びとにとって、紛れもない「名君」と映じてきたのである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 市毛幹幸)

 

◆ひと口メモ 高照神社

 現在の高照神社で、信政を祀っている(明治以後、藩祖為信を合祀)。。当初は「高岡霊社」と号した。藩の精神的より所として重視され、改元や藩内の吉凶事、重要政策遂行の際、藩から同社に「御告書付(おつげのかきつけ)」で報告された。。