「一粒金丹」の効能書(弘前市立弘前図書館蔵)
「一粒金丹」の包紙(『津軽医事文化史料集成 続』より転載)
「江戸買物独案内」にみえる万屋の広告(筆者提供)

 ▽「一粒金丹」とは
 弘前藩は、広く世間に知られた秘薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」を製造していた阿(あ)芙(ふ)蓉(よう)すなわちアヘン(阿片・鴉片)を主成分とする鎮痛・強壮剤である。藩医和田玄春の手になる寛政11年(1799)7月の効能書には「五(ご)労(ろう)七(しち)傷(しょう)男女諸般(なんにょすべて)の労(らう)症(せう)、痰(たん)或(あるい)ハ血(ち)を吐(は)き、形痩(かたちやせ)、色(いろ)青(あを)く、手足(てあし)倦怠(くたびれ)、飲食(しょくじ)味(あじはい)なく上(かみ)盛(おもく)下(しも)虚(かろく)自(あ)汗(せ)・盗(ね)汗(あせ)出(いつ)るもの」に対して処方し、砂糖湯にショウガ汁を加えたものと一緒に服用する、とある。アヘンには強烈な苦みがあるからだ。
 「一粒金丹」はかつて備中国岡山新田藩の秘法だったが、元禄2年(1689)5月、同藩の医官木村道(どう)磧(せき)(道石)から和田玄良(玄春の曾祖父)に伝授してもらったという(松木明知・花田要一編『津軽医事文化史料集成 続』)
 和田家は限られた関係者にしか製法を明かさなかったが、しだいに類似の不良品が出回ったようだ。玄春が効能書を板(はん)行(ぎょう)したのは、品質を保証し純正品であることを強調しようとの意図があったのだろう。もちろん藩の認可を得ていたため、効能書がないものは「一粒金丹」と認められなかった。
 ▽弘前藩とケシ栽培
 「一粒金丹」のルーツは、漢方にあり、中国の医書『医学入門』にその基本製法が出ている。成分はアヘンのほか、膃(おっ)肭(と)臍(せい)・龍(りゅう)脳(のう)・麝(じゃ)香(こう)・辰(しん)砂(しゃ)(硫化水銀)・原(げん)蚕(さん)蛾(が)・射(や)干(かん)(ヒオウギ)などとなっている(宗田一『日本の名薬』)
 アヘンの原料であるケシ(罌粟・芥子)を、弘前藩がいつ頃(ごろ)から栽培していたかは定かでない。貞享3年(1686)5月、中村道救・松山玄三が阿芙蓉採取を命じられ、数名の藩士がその手伝いをした(「御国日記」)「在々ニ而阿芙蓉取」と記されていることから、これは野生種のようだ。しかし、元禄13年5月、南袋・千年山・上野3カ所の薬園でケシの花が咲き終わったため、いつアヘンを取るかの伺いが出されている。その少し前の元禄11年8月にも、藩医佐々木宗寿・辻道益・松山玄三らが千年山に出かけており、藩公認による栽培は、この時期に始まったとみてよいのではなかろうか。
 今は動物の名になっているオットセイは、本来は「膃肭獣(おっとじゅう)」の臍(せい)、つまり「猛(たけ)り」(陰茎)の部分を指す名称だった。蝦夷地に近い弘前藩は、松前藩からオットセイを仕入れることができたし、領内のアイヌが狩猟した「膃肭獣」から手に入れることもできた。
 耳慣れないのは原蚕蛾(晩蚕蛾とも)で「御国日記」には、カイコの「夏子第二番目」とある。カイコは年に2~3回マユを取るが、「二番目」とは成長が遅いもののことであろうか。
 いずれにせよ、ケシ栽培の成功と、オットセイを確保できる地理的な優位性が「一粒金丹」の盛名につながったのだろう。
 ▽世間の評判
 寛政10年(1798)初演の並木(なみき)五瓶(ごへい)作「富岡(とみがおか)恋山開(こいのやまびらき)」に「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝(つ)手(て)を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞(せりふ)がある。庶民最大の娯楽である歌舞伎に取り上げられるほど「一粒金丹」は有名だった。
 江戸市中の商店案内として人気を博した「江戸買物独(ひとり)案内」を見ると、安永期(1772~80)には山崎屋利左衛門(神田)が、文政期(1818~29)には長崎屋平左衛門(常盤橋御門前本町一丁目川岸)と万(よろず)屋(や)徳兵衛(小石川春日町)が「一粒金丹」を販売していた。万屋が「売(うり)弘(ひろめ)所(じょ)」の謳(うた)い文句を掲げているのは、弘前藩公認を意味するのだろう。
 かつて「津軽」は、アヘンを意味する隠語だったという。しかし、幕末維新期には西日本に、さらに全国へとケシ栽培が広がり、アヘン産地としての津軽の地位は衰えた。それとともに、「一粒金丹」も、その役割を終えていった。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆ひと口メモ 龍(りゅう)脳(のう)と麝(じゃ)香(こう)
「龍脳」はインドネシア産の龍脳樹から採る香料で、防虫剤にも使われる。「麝香」はジャコウジカから採るもので、ムスク香として知られる。